2020年7月31日金曜日

後味の悪い話

後味の悪い話を耳にした。どこかで表出しないとこの後味の悪さを消化できそうにないので書いておく。

昨年末、同じセンターに所属する同僚が海外で立派な賞を受けたのだが、その報を聞いた学内のとある人物が「へぇ、○○センターの先生って暇なんだね〜」との感想を漏らしたのだとか。この人物、学内では誰もが知る大物である。そういう人物が「受賞するほど研究できるのは暇だから」という風にしか見ていないらしい。

別に噂話をあげつらって悪口を書きたいわけではない。ではなくて、大学の中枢で実務を担う中核的な人物が学術研究を「暇つぶし」程度にしか見ていない、という今の日本の大学に広がりつつある現実をここに記しておきたかったのである。

私の所属先だけではなく、今どきの大学にはこういう雰囲気は深く浸透しつつある。大学を「改革」する実務的な仕事をこなす「会社人」的な能力が強く求められる。大学教員は「教員」なのであとは教育だけをちゃんとやってくれればいい、研究は工学系のように産業に直結して「金になる」ものが中心、産業化や技術革新につながらない「虚学」はいらない。そういう雰囲気。

まぁ、こういう雰囲気が強くなると大学に限らず組織は必ずダメになる。「役に立つ」ということだけが優先されているからだ。就職の役に立つ教育、産業の役に立つ研究、社会の役に立つ大学、改革の役に立つ教員。あらゆる面で「目的」は先に決められていて、それを実現する手段に成り下がっている。そして、そもそもの「目的」を生み出すことは誰も考えない。

研究は、何をすべきか定まらないところから始まる。何のために行動するのか、という価値を創造するところに学術研究の根幹があるのであって、その行動を取り巻く環境や社会や歴史的文脈を読み解こうとするときに学術的な知性が必要になるのである。こう書くと「虚学」を擁護しすぎのように見えるかもしれないが、どんな分野の研究でもそれが研究として始まる場面では必ず虚学の要素を含み、そこに知的創造の最初の場面がある。

こういう活動が「暇」の産物に見えるのは、どっちに向かって走るべきかという「解」が決まっていると思い込めるだけの単純な知性しか持ち合わせていないからに違いない。