2026年10月12日月曜日

身体は何を知っているのか--『Body of Wisdom』刊行のお知らせ

来月、2026年11月、私にとって初めての英語単著 Body of Wisdom: The Embodied Dimensions of Life が、ケンブリッジ大学出版局(Cambridge University Press)から刊行されることになりました。

本書は、私が長年にわたって取り組んできた、身体、心、自己、他者、そして人間が世界を経験することの意味をめぐる研究を、一冊の書物としてまとめたものです。哲学、とりわけ現象学の伝統と、現代の心理学・認知科学との対話を通じて、私たちが世界を知り、他者と関わり、自分自身として生きるということを、身体という視点から捉え直そうと試みました。

本書が刊行されることに、著者として大きな節目を感じています。

なお、本書はオープンアクセスとして出版されるため、オンラインで全文を無料で読むことができます。書籍版も刊行されますので、ぜひ手に取っていただければと思います。

書誌情報:

【内容紹介】

〜私たちの身体は、世界を知るための単なる道具なのだろうか〜

自転車に乗るとき、楽器を演奏するとき、あるいは熟練した職人が道具を扱うとき、私たちは一つひとつの動作を意識的に計算しているわけではありません。身体は、状況に応じて何をすべきかを知っているかのように、環境の変化に応じて動きます。

他者とのコミュニケーションにおいても、同様のことが起こっています。私たちは、相手の表情や声の調子、身振りや姿勢に応じて、自分の身体の構えや発話のタイミングを調整しています。そこでは、相手の意図を頭のなかで推論してから反応するという過程だけでは捉えきれない、身体を通じた相互的な調整が働いています。

こうした経験は、私たちが世界を知るということが、対象についての情報を頭のなかに蓄積することだけではないと示唆しています。知ることは、身体をもった存在として環境のなかに身を置き、状況に応じて行為し、他者に応答することと、深く結びついているのです。

では、身体は、すでに頭のなかで成立した知識を実行に移すための手段にすぎないのでしょうか。それとも、身体が世界と関わること自体が、私たちの「知ること」を成立させているのでしょうか。

本書の出発点にあるのは、この問いです。

近代以降の知識観には、知る主体と知られる対象とを区別し、知識を主体の内部に成立する表象や判断として捉える傾向がありました。この見方は、知識の論理的な構造を明らかにするうえで重要な役割を果たしてきました。しかし、私たちが実際に世界を経験し、そこに意味を見いだし、他者と関わりながら行為するということを理解するためには、知識が成立する以前の、身体と世界との具体的な関係にも目を向ける必要があります。

身体は、心が命令を送り込む対象でも、外界からの情報を受け取るだけの受動的な装置でもありません。身体は、環境のなかで行為することを通じて、何が可能であり、何が重要であり、何に応答すべきかということを、状況に即して開示していきます。世界は、あらかじめ意味のない情報の集まりとして与えられ、後から心によって解釈されるのではありません。私たちが身体を通じて世界に関わることのなかで、世界は意味あるものとして経験されるのです。

この意味で、身体は世界を知るための手段であるだけでなく、世界が私たちにとって意味をもつ仕方そのものに関わっています。

〜身体から、自己・他者・智慧へ〜

本書では、現象学の哲学的考察と、心理学・認知科学における身体性の研究とを交差させながら、身体的な経験が人間の生のさまざまな次元をどのように支えているのかを考察しています。

議論は、身体そのものの問題から出発し、自己の経験、他者との関係、身体間の相互性へと展開します。そして、こうした考察を踏まえ、知識とは何か、さらに人間が智慧をもって生きるとはどういうことなのかという問いへと進んでいきます。

身体と自己。 私たちは、自分自身を、内面を観察することによってのみ知るのではありません。身体を通じて世界に関わり、さまざまな状況を生きるなかで、自分に何ができるのか、何を望み、何に困難を感じるのかを経験します。自己とは、身体から切り離された内的な実体としてのみ理解できるものではなく、世界との関わりを生きるなかで形づくられる存在でもあります。

身体と他者。 他者との関係もまた、まず独立した個人が存在し、その後で互いの内面を推測し合うことによってのみ成立するわけではありません。私たちは、他者の身振りや表情、声、動きに身体的に応答しながら、その存在を経験しています。ここで問題となるのは、他者の心について何を推論できるかということだけではなく、他者がすでに私たちの経験のなかに現れ、私たちの行為や感情のあり方に影響を及ぼしているという事実です。

身体と知識。 私たちが何かを知るということには、命題として説明できる知識だけでなく、状況に応じて適切に行為する能力や、経験を通じて身につけられた理解も含まれています。しかし、これらを単純に「言葉で説明できる知識」と「身体に蓄えられた暗黙の知識」とに分けるだけでは、十分ではありません。身体的な実践のなかでは、明示的な理解と暗黙の能力とが相互に関わり合い、知ることのあり方そのものを形づくっているからです。

身体と智慧。 本書のタイトルにある Wisdom は、知識を多く蓄えていることや、優れた技能を身につけていることと同義ではありません。重要なのは、知ることが、どのように生きるかという問題と切り離せないという点です。私たちが身体を通じて世界に関わるとき、そこには自分の能力だけでなく、自分の限界や脆弱性、他者への依存や応答の可能性も現れます。智慧を考えることは、知識を所有することから、知ることを通じて存在のあり方そのものが変わっていくことへと、問いを深めることでもあります。

これらのテーマを通じて、本書が探究するのは、身体が人間の認知にどのような影響を与えるかという問題にとどまりません。むしろ、身体をもった存在として生きることから出発したとき、自己、他者、知識、そして人間の生の意味を、どのように理解し直すことができるのかという問題です。

〜なぜ「Body of Wisdom」なのか〜

Body of Wisdom というタイトルには、身体を単なる道具や知識の容器としてではなく、私たちが世界を知り、他者に応答し、生き方を形づくることに関わる存在として捉えたいという意図を込めています。

ここでいう身体の「知恵」は、身体が文字どおり考えたり判断したりするという意味ではありません。身体を通じた経験には、必ずしも明示的な判断や言語的な説明に還元できない理解が含まれています。私たちは、世界について何かを知っているから行為できるだけでなく、行為し、失敗し、環境や他者からの応答を受けることを通じて、世界についての理解を深めていきます。

その意味で、身体的な知は、頭のなかに蓄えられた知識とは異なる仕方で、私たちの存在そのものに関わっています。

本書では、この問題を、現象学の伝統が明らかにしてきた身体と世界との関係、および現代の心理学・認知科学が研究してきた身体性、運動、知覚、対人関係などの知見を手がかりに考察しています。異なる学問領域を単に並置するのではなく、それぞれが扱ってきた問題のあいだに、どのような接点や緊張関係があるのかを明らかにすることも、本書の重要な課題です。

身体を通じて知ることと、知識をもつこと。身体を通じて他者と関わることと、他者を理解すること。そして、何かを知ることと、その知によって自分の生き方が変わること。これらの関係を問い直すことによって、知識を人間の生から切り離して考える見方を乗り越えたいと考えています。

〜ブックカバー――Kat Austenの《Talisman》〜

本書の刊行にあたって、もうひとつ嬉しく、印象深いことがあります。表紙のアートワークを、友人のアーティストであるKat Austenが手がけてくれたことです。モチーフとなっているのは、彼女の作品《Talisman(タリスマン)》です。

《Talisman》の円環的なフォルムは、自らの尾を呑み込む蛇として知られる古代の象徴、ウロボロスを想起させます。そして表紙には、その作品をそっと包み込むように持つ手が写し出されています。

円環は、終わりと始まり、生成と再生、そして生命の循環を連想させます。しかし、この作品で私の目を引くのは、円環という形だけではありません。それを手で支え、触れ、包み込むという身体的な関わりです。

私たちは、世界をただ外側から眺め、対象についての知識を得るだけで生きているわけではありません。触れること、支えること、動かすこと、そして他者や環境からの応答を受けることを通じて、世界との関係を生きています。手は、対象を操作するための器官であると同時に、対象との距離や重さ、抵抗や脆さを感じ取り、そこに関わる仕方を可能にする身体の一部でもあります。

この表紙は、私たちが世界を知るということが、世界から距離を取って情報を獲得することだけではなく、世界に触れ、世界に触れられながら、その関係のなかで生きることでもあるという、本書の問題意識と響き合っています。

《Talisman》とそれを持つ手との関係は、身体と世界、知ることと関わること、そして人間の生とその意味とを、あらためて考えるきっかけを与えてくれます。

〜身体から、人間の生を考える〜

本書は、哲学や心理学、認知科学を専門とする読者だけでなく、身体の動き、熟練した実践、他者とのコミュニケーション、自己の経験、そして生きることの意味に関心をもつ方々にも読んでいただければと思っています。

身体について考えることは、心や認知について考えることの一領域にとどまりません。それは、私たちが世界のなかにどのように存在し、他者とどのような関係を結び、何を知り、どのように生きていくのかという、より根本的な問いにつながっています。

身体は、私たちが所有するものの一つであるだけでなく、私たちが世界を経験し、他者と出会い、自分自身として生きることの条件でもあります。そして、身体を通じて世界を知るということは、世界についての理解を得ることにとどまらず、世界との関係のなかで自分自身のあり方を変えていくことでもあります。

Body of Wisdom が、身体と知識、自己と他者、そして知ることと生きることの関係について、読者の皆さんとともに考える機会になれば嬉しく思います。

2026年11月の刊行後には、オンラインで全文を無料で読むことができます。ぜひ手に取っていただければ幸いです。

2026年9月17日木曜日

デカルト・キャンパスで暮らす

しばらく前からリヨン大学高等研究所(Collegium de Lyon)でフェロー生活を送っています。

いま暮らしている研究者用のレジデンスは、エコール・ノルマル・シュペリウール・ド・リヨン(ENS de Lyon)の敷地内にあります。ENSリヨンは理系中心の「モノー・キャンパス」と、人文社会科学系の「デカルト・キャンパス」に分かれているのですが、私がいるレジデンスはデカルト・キャンパスの中に位置しています。

身体性認知を探求する私からすると、なんとも皮肉です。いわば、学問上の「最大の仮想敵」とも言える人物の名を冠したキャンパスのだだ中に、いま自分の身体を文字通り置いているわけですので。

ただ、一方で、これはとても光栄な巡り合わせでもあります。現代の身体論や身体性認知科学の文脈において、デカルトはしばしば「打倒されるべき悪役」のように単純化して語られがちです。ですが、方法的懐疑を突き詰め、その果てに近代的自我の輪郭を切り拓いた彼の思考の強靭さにには、見習うべきものが多々あります。彼がいなければフッサールの超越論的現象学も現れなかったでしょう。彼のような好敵手が存在したからこそ、現象学も身体性認知も、ここまで発展することができたのだと思います。

そう考えると、デカルトの名前が刻まれた広場を抜け、自室へと戻る日々の散歩道も、偉大な先人と無言の対話を交わしているような心地よい緊張感を帯びてきます。この無言の対話を通じて、いかにして身体のリアリティを紡ぎ出せるか。良い思索の場に恵まれたと感じています。

2026年8月31日月曜日

40年ぶりの通学路と「ジャメビュ」の迷宮

認知科学会の年次大会に参加するため、大阪府茨木市にある追手門学院大学を訪れている。

実は、このキャンパスの最寄駅であるJR総持寺駅の周辺は、私が中学生のころに暮らしていた街だ。学会会場へ向かうルートを確認して驚いた。駅から大学へと続く道が、かつて自分が毎日歩いていた通学路をちょうど「逆再生」するような配置になっていたのだ。

およそ40年ぶりの再訪である。歩き出す前は、淡いノスタルジーに浸る準備をしていた。「ああ、この角を曲がるとあいつの家があったな」といった、胸がじんわり熱くなるような感傷を予想していたのだ。

ところが、実際に歩き始めて襲ってきたのは、懐かしさなどでは毛頭なく、猛烈なジャメビュ(未視感)だった。

地形や道路のカーブ、交差点の位置関係といった骨格は身体が覚えている。頭では「確かにこの道だ」と分かっているのに、視界に入ってくる風景がまるで馴染まない。立ち並ぶ店舗や建物は見事に総入れ替えされ、かつての目印は綺麗さっぱり消え去っている。知っているはずの空間なのに、親近感という情動のフックがどこにも引っかからないのだ。

「知っているのに、見知らぬ場所に放り出されたような奇妙な違和感」に包まれながら歩くうち、ふと認知科学的な連想が頭をよぎった。

認知症の方の「徘徊」の根底には、これと同じ感覚があるのではないか。

「徘徊」というと、目的もなく当てもなく歩き回っているように見られがちだ。しかし当人からすれば、頭の中にある「確かな記憶の地図」と「目の前の異様な風景」のズレを埋めようと必死なのかもしれない。「ここは知っているはずなのに、なぜか違う。あの馴染みのある景色はどこへ行ったのか」と、確信の持てる「本当の風景」を探し求めて歩き続けるうちに、いつの間にか迷子になってしまうのではないだろうか。

ノスタルジーに浸るはずが、図らずも生きた認知の実験場のような通学路体験となってしまった。学会の前に、すでに濃密なフィールドワークを一本終えたような気分で会場の門をくぐった…


2026年8月8日土曜日

リヨン大学高等研究所に滞在します

このたび、フランスのリヨン大学高等研究所(Institute for Advanced Study)の海外フェローに選出していただきました。東海大学のニュースでも取り上げていただいています。

9月から来年3月までリヨンに滞在し、「身体性と物語性から解明する脳卒中後の自己の回復過程」をテーマとした研究プロジェクトに取り組んでまいります。

この研究は、2023年からJST-CREST」の一環として、明治大学の嶋田総太郎先生とリヨン神経科学研究センターのイヴ・ロゼッティ先生を代表として推進している「ナラティブ・エンボディメント(https://narrabody.org/)」と連携しつつ、自己研究をさらに学際的・国際的に発展させるものです。哲学や心理学から、神経科学やリハビリテーション医学、VRなどの最新技術まで、領域の垣根を越えたチームで「脳卒中を経た人がいかにして自分らしさを再構成していくのか」という回復過程の解明を目指しています。

選考で評価されたのは、まさにこうした異なる学問分野を交差させる「融合研究」という点だったようです。現地には「リヨン神経科学研究センター」と並んで「エコール・ノルマル」も存在し、哲学から神経科学に至るトップクラスの研究機関が集積しています。世界各地から訪れる研究者と現地で密度の高いコラボレーションを展開できることを楽しみにしています。

2026年6月24日水曜日

Tanaka (2026) "Aidification of the Self"

このたび、新しい論文が出版されました。


近年、生成AIの発展によって、「AIに意識はあるのか」「AIは自己を持ちうるのか」という問いが盛んに議論されています。しかし、その多くは、人間の自己をモデルとして、機械の内部に自己や意識を探そうとする立場に立っています。本論文では、こうした見方に対して、別の視点を提案しています。

私たちの自己は、他者との相互作用を通じて形づくられ、世界との関係のなかで変化し続けています。とりわけ、自分の顔を直接見ることができないように、私たちは他者のまなざしを通じてはじめて、自分自身を知ることができます。機械(フィジカルAI)の自己もまた、機械の内部に閉じたものではなく、人間との関係のなかで生まれるのではないでしょうか。

本論文では、この考え方を 「Aidification(あいだ化)」 という造語で呼んでいます。Aidificationとは、人間とAIが相互作用を重ねるなかで、両者が共有する現実を形成し、その過程で新しい自己や知性が生み出されていくプロセスを意味します。

本論文で私が最も強調したかったのは、「自己は機械の内部にあるのではなく、人間と機械の「あいだ」に生まれる」ということです。人間とAIが互いに影響し合いながら、新しい自己、新しい知性、そして新しい世界を共につくっていく――そのような可能性を本論文では探究しています。

アイデアは萌芽的ですが、フィジカルAIの未来を考えるうえで重要な論文になってほしいという願いがこもった論文です。上記リンクからPDFをダウンロードできますので、ぜひご覧あれ。

2026年6月17日水曜日

コイファー&チェメロ『現象学入門』第4刷のお知らせ

嬉しいお知らせです。宮原克典さんと共訳の『現象学入門』の第4刷になります。勁草書房さんからお送りいただいた原本が昨日届いたのですが、奥付けでは発行が6月20日となっています。今回も本文に変更はなく、巻末のプロフィールのみの変更です。

『現象学入門--新しい心の科学と哲学のために』勁草書房(初版2018年,原著初版2015年)

ステファン・コイファー,アントニー・チェメロ(著),田中彰吾,宮原克典(訳) 

2018年の初版刊行から年月が経ちますが、2026年の今なおこうして版を重ね、新しい読者のもとへ届き続けていることは、訳者の一人として嬉しい限りです。読者のみなさまと出版社の関係者のみなさまに感謝いたします。

本書(コイファーとチェメロの原著)が息長く読まれている理由は、本書が「フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティが何を言ったか」を解説するだけの哲学史の教科書ではないから、という理由が大きいと思います。本書は、現象学が認知科学や心身問題を解き明かすための、現在でもアクチュアルな思考のツールだということを明晰な論理で示しています。特に、身体性認知科学やエナクティビズムに関心を持つ方々にとって、本書は確かな見取り図を提供しています。

未見のみなさま、ぜひこの機に手に取っていただければ幸いです。

2026年5月18日月曜日

『神の生成』刊行と、担当章「身体科学からの神認知」

5月15日に京都大学学術出版会より『神の生成』が発売されました。

人類がアフリカ大陸(さらにはユーラシア大陸)を出て未知の領域へ広がっていくとき、世界を秩序づけるために必要とした「生存技法」――それが宗教であり、神の認知でした。本書はこの壮大なテーマに、考古学、人類学、そして認知科学のクロスオーバーで迫る刺激的な一冊です。

この中で私は、第2章「身体科学からの神認知」を担当しました。「神」という目に見えない存在を、私たちはなぜリアルに感じ、社会の基盤に据えることができたのか。私はその謎を、私たちの「身体」の仕組みから考えてみました。

ヒトの身体が持つユニークさ、そこから立ち上がる自己意識、そして「自己の中に最初から入り込んでいる他者」の存在――。身体性と間身体性のメカニズムを丁寧に追っていくことで、最終節ではサピエンス特有の「神の認知」へと論理がつながる構成になっています。

壮大なテーマなので書き切れてはいませんが、「神」について論文レベルで考えたのはこれが初めてです。身体性認知から解き明かすには自己意識との対で「神のような他者」を考えるしかないかな、というのが暫定的な結論になっています。

後半の章で語られる、日本、オセアニア、アンデスやマヤの生々しい祭祀や神々の姿を、「人間の身体のリアリティ」という補助線を持ちながら読み解くための架け橋となる章になっていれば幸いです。

ぜひご一読ください。

2026年5月1日金曜日

Tanaka, Shimada & Miyahara (2026) "Embodying the Narrative Self, Narrating the Embodied Self"

今日は嬉しいご報告です。

昨年6月、学術誌 Phenomenology and the Cognitive Sciences の編集委員になったお話をこちらでも書きました。それを機に執筆した論文が、正式に掲載されました(もちろん厳しい査読を受けてます)。

タイトル: "Embodying the narrative self, narrating the embodied self"
共著者: 嶋田総太郎先生、宮原克典先生

この論文は、日仏共同研究(JST-ANR)のプロジェクト「Narrative Embodiment」から生まれた成果です。「生きられる身体」と「物語としての自己」がどう関わり合っているのか、というテーマについて、プロジェクトでずっと温めてきた理論の全体像を概観したものになっています。

専門的な内容ではありますが、ご興味のある方はぜひチェックしてみてください。ここで展開した理論をいわゆる「前倒し(front-loaded)」にして用いることで、進行中のリハビリ現場でのインタビュー分析に活用することが次の目標になります。続きをお楽しみに。

2026年4月22日水曜日

アーカイブの閉鎖

以下、このサイトのコンテンツに関するご報告です。

先ほど、「アーカイブ」のページを閉鎖しました。アーカイブでは主に、(1)哲学、心理学、認知神経科学など、各分野で身体性について扱っている文献、(2)現象学と経験科学を結ぶ基礎的な方法論を扱っている文献、の要約を研究資料として公開していました。

閉鎖した背景には、近年の生成AIの飛躍的な進化があります。重要な文献を選び、その骨子を的確に要約して提示すること自体に以前は資料的価値がありましたが、現在では、こうした要約的資料をウェブ上の至る所で入手できますし、それらを踏まえたAIによる文献案内の機能がかなり充実してきました。

というわけで、ページの閉鎖に至った次第です。ご了承くださいませ。

AIに代替できない文章をここに記事としてアップできれば申し分ないのですが、さすがにそういう文章はブログ記事にはなりそうにありません。むしろ論文と著作に注力し、行間に思索が詰まった密度の高い文章を発表していきたいと思っています。

2026年4月2日木曜日

役職が増えました

ご報告です。
4月1日付で、東海大学大学院文学研究科長を拝命いたしました。

これまでも文明研究所の所長として管理職の業務をこなしてきましたが、今後はその範囲がさらに広がることになります。現状でもなかなかの業務量なのですが、ここからさらに大変になりそうなので、自分自身でも「大丈夫かなぁ」と心配しています。

とはいえ、私自身の研究活動に関してはこれまでと変わらず進めていきます。また、こうした役職をいただいたので、東海大学の文系研究が持つポテンシャルを、各方面と連携しながら外へと広げられればと考えています。

話は変わりますが、私のような東京工業大学の出身者が、文学研究科という「純・文系」組織の長を務めるケースはあまり例がないように思います。なんとも稀有な巡り合わせに不思議な感慨を抱いていますが、他方で、文理融合的な研究が広く社会に浸透した結果かもしれない、とも思っています。

しばらく慣れない職務に翻弄されそうですが、引き続きご声援いただければ幸いです。

2026年3月17日火曜日

シンポジウム「心と身体×過去と未来」動画公開

2026年1月11日に登壇させていただいた、科研費・学術変革領域「マテリアマインド」公開シンポジウム「心と身体×過去と未来」のアーカイブ動画が、YouTubeにて公開されました。

AIが進化する今、人間固有の知性とは何かを哲学と人工生命の視点から掘り下げています。私は「あいだの知性」をテーマに、身体と環境の相互作用から生まれる認知の仕組みを解説しました。人工生命研究の岡瑞起先生は、進化の鍵となる「ずれ」や「違和感」をテーマとする話題提供でした。フィジカルAIのAlterが鏡を認識し、ナイフを避けようとした、といった驚きのエピソードへの言及もあります。

後半のディスカッション部分は、「人間とAIの共進化」を考えるヒントがたくさん詰まっています。登壇者の先生方の知性が光るディスカッションでした(この場を借りてお礼申し上げます)。ぜひご覧ください!





2026年3月12日木曜日

武蔵とデカルト:17世紀の戦場が分けた「二つの身体」

本日、千葉県勝浦市の国際武道大学にお招きいただき、講演を行ってきました。私自身、長年「身体性の哲学」を専門としてきましたが、武道の世界の方々と本格的に対話をするのは今回が初めての経験です。

準備段階では、私の研究の柱であるメルロ=ポンティの身体論が、果たして武道の峻烈なリアリティに届くのかという一抹の不安もありました。しかし、いざ蓋を開けてみると、そこには驚くべき共鳴が待っていました。

講演のひとつの切口としたのは、メルロ=ポンティの「間身体性(intercorporéité)」です。
私の身体と他者の身体は、孤立した点ではなく、一つの知覚の場において重なり合っています。武道家が日常の修練で研ぎ澄ませている「気」や「間合い」は、まさにこの「身体と身体が浸透し合う場」そのものです。命をかけた技のやり取りとは、単なる物理的な衝突ではなく、互いの身体的基盤が交差する極限の対話である。ここまでは、現象学の言葉で十分に記述できる手応えがありました。

しかし、対話の中で浮上した驚きの発見は、その「先」にありました。それは、近代哲学の祖・デカルトと、日本の剣聖・宮本武蔵の対照性です。この二人が同時代人だったということを、その場でご指摘いただいたのです。しかも、共に17世紀初頭の「戦乱」という極限の状況に身を置いていました。

デカルト:オランダで軍隊に身を置き、三十年戦争に従軍。「われ思う、ゆえにわれあり」。
宮本武蔵:関ヶ原の戦いをはじめ、数々の死線を潜り抜け『五輪の書』を編纂。

同じ動乱の時代を生きながら、二人が導き出した「身体」の扱いは、驚くほど対照的でした。デカルトは、戦時中の冬、ストーブのある部屋に籠もり、徹底的な「方法的懐疑」を行いました。彼は、肉体さえも疑い得るものとして切り捨て、揺るぎない精神の拠点としての「我思う、ゆえに我あり(コギト)」に到達しました。ここでは、身体は精神から分離された「延長(物質)」に過ぎません。西洋近代を決定づけた「心身二元論」の誕生です。

一方、武蔵はどうだったか。彼は、死が隣り合わせの戦場において、身体を物質として突き放すのではなく、むしろ刀や環境、さらには相手の意図までをも自らの身体の一部として統合していく「心身一如」の境地を突き詰めました。『五輪の書』で語られる「空」の境地は、思考による分析ではなく、身体そのものが世界に開かれ、即応する究極の知覚状態を指しています。

一方は、静止した部屋の中で身体を「消去」することで真理を求め、一方は、動乱の渦中で身体を「極限まで拡張」することで真理を掴んだ。西洋近代哲学がデカルト的な「身体なき理性」を歩んできたのに対し、武道は「現象学的・身体的基盤」を、文字通り命懸けで保存してきた伝統と言えるのかもしれません。デカルトと対決してきた私自身が、武蔵という先人が生きた日本という場所に生まれていたことに、深い思いを馳せる帰り道でした。メルロ゠ポンティからデカルトを経由して、武蔵の生きた日本を再発見する。これは日本人としてなんとも感慨深いです。

2026年2月24日火曜日

第6回人間科学研究会 (3/21 オンライン)

来月オンライン研究会を開催します。現象学と質的研究を扱う国際会議「International Human Science Research Conference」を2023年に日本で開催したことをきっかけにして生まれた研究会です。参加ご希望の方は私までメールでご連絡ください。折り返しZoomのアドレスをお送りします。今年も2件の講演を予定していますが、どちらもかなり面白くなりそうです!
 
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●第6回人間科学研究会
2026年3月21日(土) 13:30-16:45,Zoom開催
(参加ご希望の方は、田中彰吾(東海大学 )までメール(shg.tanaka@gmail.com)にてご連絡ください。Zoom 参加情報をお送りします。)

13:30-15:00 講演1
「仏教からの現象学入門、その逆もまた然り:エポケーとしてのマンドフルネス瞑想」
田端健人(宮城教育大学)
「仏(buddha)」とは、古代インドのパーリ語で「覚醒した者」のことである。この覚醒への第一歩は、誰でもいつでもどこでもこの身このままで歩むことができる。その一つが、米国でストレス低減医療法として開発され成果をあげてきた、仏教由来のマインドフルネス呼吸瞑想である。本発表では、聴講者と共にこの瞑想の初歩を実践し、そこで生じる自我の二重化を経験してみる。次に、各自のこの生身の経験を現象学的に記述することで、この経験がフッサールのいうエポケー(判断中止)の一種であり、覚醒する新たな自我が超越論的主観性であることを確認し、現象学の核心を仏教的に実感をもって理解する。
その上でこの二重の自己の成長と「知の完成(般若波羅蜜多)」について、仏陀とフッサールの言葉をもとに考えてみたい。

15:15-16:45 講演2
「女子刑務所における不確かな身体感覚や感情の言語化過程」
宮崎あゆみ(日本女子大学・国際基督教大学)
刑務所は生きられた場の網目から断裂した場所 (Leder 2016) であり、女性受刑者たちは、過去の自己像から切り離される実存的危機に直面している。また受刑者の多くが、貧困や差別やパートナーからの暴力を経験し、摂食障害などの身体的精神的問題を抱え(仲野 2021)、子供と別れ、母親役割が果たせない恥や罪の意識や痛みを経験している。このような状況で、彼女たちが自らの身体や感情を感じることは至難の業である。本発表では、女子刑務所の窃盗再犯防止プログラムの観察とインタビューをもとに、女性受刑者たちの生きられた経験を明らかにし、どのように彼女たちが講師と共に言葉を紡ぐことで、自らの身体感覚や感情を取り戻しながら、立ち直り、癒されていくのかを考えたい。

2026年2月14日土曜日

行間をめぐる対話の記録

今週は光栄なことに私の著書を深く読み解いていただく機会が重なりました。いずれの場も、単なる内容の紹介に留まらず、著者の私自身が「そこまで読み込んでいただけたのか」と襟を正すような、濃密で幸福な時間でした。

1. 「シラス」でのオンライン対談

ひとつは、動画配信プラットフォーム「シラス」の番組への出演です。『身体と魂の思想史-「大きな理性」の行方』を軸に、多角的な視点から切り込んでいただきました。

https://shirasu.io/t/srs/c/srs/p/20260120140526

画面越しではありましたが、提示される問いの鋭さに、私自身が自分の思考を改めて掘り起こされるような感覚を覚えました。オンラインという場が、これほどまでに深い思索の共有地になり得るのだと再発見した次第です。

2. 能智先生・尾見先生主催の読書会

もうひとつは、東京大学の能智正博先生、山梨大学の尾見康博先生が主催される研究会にお招きいただいたことです。こちらでは、『自己と他者-身体性のパースペクティヴから』を題材に、読書会という形で議論を深めました。質的研究の最前線におられる両先生、そして熱心な参加者の皆様が、文字通り「行間まで」徹底的に読み込んでくださった上での質疑応答。著者が意図した細部、あるいは無意識に書き置いていた余白にまで光を当てていただき、対話を通じて理論がさらに血肉化されていくような、贅沢なひとときでした。

本を書くという作業は、ときに孤独な営みです。しかし、こうして丁寧に読み解かれ、真摯な問いを投げかけられることで、言葉は初めて社会の中に居場所を見つけるのだと感じます。貴重な機会をくださった皆様、番組をご視聴いただいた皆様、研究会にご参加くださった皆様に、この場を借りて深く感謝申し上げます。

いただいた多くの刺激を糧に、また次なる思索へと繋げていこうと意を新たにした1週間でした。

2026年2月13日金曜日

量子人文学特集

もうすぐ『認知科学』誌上で、入來篤史先生と私で編集した次の特集が公開される予定です。

『認知科学』第33巻1号
特集「人文学の新しい次元-量子論のメガネで覗く-」

かなりインパクトのある特集になっていると思います。本特集では、微小な物理現象を扱う量子力学そのものというより、その数理的・論理的枠組みをマクロな現象に応用する「汎量子モデル(Quantum-like Modelling)」に注目しています。非可換確率論や重ね合わせ、文脈依存性といった概念を用いることで、従来の古典論では「不合理」とされてきた人間の知覚、意思決定、美的認知などを、より精密かつ合理的に記述することを目指します。

特集では10本の論考を通じ、具体的な現象から理論的基盤までを網羅しています。
>現象論:人類学における観察構造、身体的知覚理論(私の担当分です)、美的認知の多義性、教育や臨床における不確定性、進化・文明史の因果論 、複雑系医学。
>本質論:アリストテレス哲学と因果論、量子測定のインストルメント理論、圏論による非可換確率論の再構成、量子シミュレータの活用。

量子コンピュータの実用化が迫る今、量子論的な認知フレームへの転換は、人文学を根本から刷新する可能性を秘めています。既存の学問領域を横断し、人間存在の複雑さに迫る特集になっていると思います。

文字面を見るだけで「難しそう…」という声が聞こえてきそうですね。まぁ、確かに難しい論文もありますが、実際に読んでみていただければ知的興奮に包まれるのではないかと思います。ご期待ください。