2021年11月28日日曜日

訳者みずからレジュメ作り(4)

すっかり定着したこのシリーズ。今回は第6章。

コイファー&チェメロ『現象学入門』

第6章 ジャン゠ポール・サルトル――現象学的実存主義

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現象学的認知科学を目指す本書にとっては、サルトルを扱った6章はやや中途半端な作りになっているかもしれない。

ただ、1節で論じられる「無」の概念を追いかけていくと、サルトルの独特の立ち位置がよくわかると思う。サルトルは、私が現在なそうとしている行為と、過去の事実とのあいだにそのつど「無」の隔たりがあるという。だからひとは自由であると同時に、自分自身を絶えず作り直さねばならない。「無」の隔たりがとても大きいとき、ひとは自由であるとともに不安をおぼえる。

サルトルはメルロ゠ポンティのように、知覚と行為が緊密に連動する姿を重視しながらも、両者がやはり「無」によって隔てられていることを重く見ている。知覚は、アフォーダンスのように行為への誘引を感じさせるが、実際の行為そのものとは異なる。現実の行為は、本人の選択によって実現されねばならない。だから知覚と行為のあいだにもやはり「無」の隔たりがあるということになる。

行動の自由と、それにともなう決断を強調する点で、サルトルは言ってみればとても倫理的なのだと思う。が、これでは「習慣」のように知覚と行為が一体化して、身体が世界になじんで生活が進行していく次元は記述できない。それはサルトル風に言うと一種の「自己欺瞞」ということになってしまう。

こういう捉え方は、一般的な認知科学の枠組みより、精神医学的な症状の記述のほうが使えそうな気がする。現在の一瞬一瞬に「無」が滑り込むという時間意識は、言ってみれば離人症の時間意識に近く見える面もあるし。そのうちちゃんと考えてみたい。

2021年11月18日木曜日

人間科学研究会(12月18日オンライン開催)

以下の内容で研究会を開催することになりました。ご関心のある方はどなたでも参加できますので、以下のフォームからお申し込みください。「人間科学研究会」は、現象学的な方法にもとづく質的研究を、心理学・教育学・看護学・社会福祉学など対人支援分野で実践することを支援する研究会です。現場での現象学の応用に関心がある方々への参加を広くお勧めします。

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第2回人間科学研究会(共催:第89回心の科学の基礎論研究会)

2021年12月18日(土),13:30〜17:30

オンライン開催(Zoom利用)

申込方法:以下のフォームより、12月17日18時までにお申込ください。ZoomのIDは登録されたメール宛にお送りします。

→申込フォーム:https://forms.gle/JTgHL65hKnsCgdnJ9

<プログラム>

13:30-13:40 開会の挨拶「人間科学研究会とIHSRC開催の経緯」 田中彰吾

13:40-15:15 講演1「直接経験を超える質的心理学に向けて」 田中彰吾(東海大学)

 現象学的な質的研究では、生活世界における「生きられた経験」について、当事者へのインタビューを通じて接近することが試みられる。そこでは一般に、(1)記述的方法:データを読み込みながら心理学的意義を特定し、一般化できるような経験の構造を抽出する、(2)解釈的方法:データに表出しているさまざまなテーマを特定し、テーマの相互関係から経験の意味を全体として理解する、等の方法が用いられる。これらの方法によって各種の「生きられた経験」が明らかにされれば、対人支援の現場で役立つ知見を提供することができるだろう。ただし、こうした作業だけでは、経験をトップダウンに構造化する社会的な作用(時代的要因、社会的権力、文化的背景など)との関係で、人々の「生きられた経験」に迫ることはできない。この報告では、イギリスの現象学的心理学者ラングドリッジによる「批判的ナラティブ分析」を参考にして、「生きられた経験」に影響を与える社会的作用を可視化する方法とその意義について考える。

15:15-15:30 休憩

15:30-17:30 講演2「生態学的現象学とポスト現象学」 河野哲也(立教大学)

 生態学的現象学は、現象学とJ・J・ギブソンの生態心理学を融合させた立場である。現象学は、経験がその当事者にとっていかなる意味を持って現れるのかを、一人称的な視点から記述しようとするものである。現象学では、経験の当事者とは身体的主体であり、主体を取り巻く世界は「私はできる」という運動志向性の相関項として現れる。それに対して、ギブソンの生態心理学は、動物を取り巻く環境をアフォーダンスに満ちたニッチとして捉える。私見では、運動志向性とアフォーダンスは対をなしており、これらの相関を分析することで環境と身体の相補性が理解でき、これを人間科学の基本的な方法論として考えることができる。さらに人間は、テクノロジーにより自らの身体性を拡張し、メディアにより人間関係を拡張する。テクノロジーにより拡張した主体を研究対象とする「ポスト現象学」(アイディ、ヴァービーク)と生態心理学が組み合わさることで、環境―技術―身体を分析できる人間科学の視座を獲得できるだろう。


リンク「心の科学の基礎論研究会」

https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro?authuser=0

本研究会の関連科研費:研究課題17H00903,20H04094,21K01989 

2021年11月15日月曜日

訳者みずからレジュメ作り(3)

コイファー&チェメロの『現象学入門』、今回はメルロ゠ポンティを扱った5章のレジュメ。

第5章 モーリス・メルロ゠ポンティ――身体と知覚

私自身がメルロ゠ポンティを研究しているので細かいところで本書の記述に言いたいことがないわけではないが(メルロ゠ポンティを紹介するのにハイデガーに寄せ過ぎではないかという点)、やはりハイデガーの章に続いて入門書としてはよく出来ていると思う。シュナイダー症例については、昔なら木田元『メルロ゠ポンティの思想』がメルロ゠ポンティ自身の著作に当たる前のいい入り口になってくれていたが、本書はさらにコンパクトでかつ分かりやすい。

疑問が残るのは最後の4節か。知覚の恒常性の向こうに垣間見えており、知覚主体を離れて存在しているように見える「自然的対象」もまた、身体から切り離されてそれ自体として存在しているのではない、とコイファー&チェメロは解説している。が、他方で、あらゆる経験の地平として統一された世界があり、それが自然的対象を理解可能なものにしている、との記述を与えている。どう理解すればいいか、読者自身で確かめてみていただきたい。

2021年11月9日火曜日

途中経過

しばらく前に、認知科学の講座本に寄稿する予定の目次を記しておいた(「やっと少し時間がとれた」)。11月に学園祭期間で数日休みができたおかげで原稿を半分くらい実際に書くことができたので、今日はその経過報告。こんな感じで進んでいる。

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章題:「身体性に基づいた人間科学に向かって」
 
1節:心の科学と身体性の問題
 ・認知科学の始まりをふり返る
 ・行動主義と認知主義
 ・哲学的に整理すると…
 ・心身二元論がもたらした問題
 ・「私は考える」から「私はできる」の認知科学へ
 
2節:身体性認知とは何か
 ・認知は身体性に依存する
 ・ヘルドとハインの古典的実験
 ・概念化仮説
 ・置換仮説
 ・構成仮説
 ・4E認知

とりあえずここまで書いた。続きの節はこうなる見込み。
 
3節:これからの身体性認知を展望する
4節:来るべき人間科学のために

与えられた文字数が23000字なのだが、2節まで書いたところですでに14000字を超えている。このままで行くと3節まで書くとほぼ終わりになってしまうので、当初予定していた3節と4節はまとめて3節にして、あとは「結論」みたいな短い節にするほうがいいかもしれない。

前回も書いたけど、講座本に収録される原稿なのだから、きっちりと書くべき論点を整理して10年くらいは読むに堪えるものを書いておきたいと思っている。とくに、認知科学に関心のある人たち、研究をやってみたいなと思っている人たち向けに、しっかりした歴史的回顧と、魅力的な将来展望に満ちたものを書いておきたい。
 
そういう趣旨の文章を書くには、書き手の頭の中で哲学的な論点が整理できていなければならないのだが、書いてみてわかるのは、やはりメルロ゠ポンティが『知覚の現象学』でやろうとしていたプロジェクトが身体性認知科学を強く予見していたということ。加えて、今回改めて1節を書いていて気づいたのは、ギルバート・ライルが『心の概念』で試みていることは部分的にかなりメルロ゠ポンティの議論に近いということ。二人とも、スキルフルな身体的行為として実現されているものを「心的なもの」として理解しようとした先駆者だったのだ。

2021年11月6日土曜日

シンクロする身体…

明日、同名のシンポジウムがあるのだが、連想して少し思うことがあるのでメモしておく。現代日本に生きる人々の多くは、個体にもなりきれていないし、他者とシンクロすることもままならない、じつに中途半端な身体を生きていると思う。

シンクロする身体というと、他者と同調するイメージだけが先行するが、現実には、他者の身体とシンクロできるのは他者と差別化された個としての身体を持ち合わせている場合だけである。個体として成立していない身体は、どこまでいっても自他が分化されない「群れ」として生きざるを得ない。

群れとして生きる身体ほど危ういものはない。なんとなくその場の空気に流され、楽しく盛り上がっていたかと思うと、異他的な存在を見つけて群れで攻撃行動に走ったりもする。そういえば、ドゥルーズとガタリが「群れ」、ネグリとハートが「マルチチュード」という概念を使っていたが、ああいう概念で現代の民主主義を語るのはとても危うい。

戦略的に群れを実践できる主体が存在するならともかく、現実には個体にもなりきれず他者との協調もできないまま事実上の「群れ」として生きざるを得ないところに追い込まれているのが現代人である。そんな現代人にとっては、動物化する「群れ」を肯定する思想より、改めて個体性を引き受ける実存主義のほうが大事なのである。