2021年12月28日火曜日

ソーシャル・コンストラクショニズムと対人支援の心理学

1件告知です。

能智正博先生と大橋靖史先生の編集による書籍『ソーシャル・コンストラクショニズムと対人支援の心理学』が新曜社からもうすぐ発売されます。編集を担当した大谷さんが送ってくれた見本の奥付には2021年12月31日の発行日が記されています。大晦日!の発行です。発行日が大晦日に設定されることもあるんですね、珍しい。

ちなみに、この本もコロナ禍でかなり編集に時間がかかった1冊になります。もともとは2018年3月に『ソーシャル・コンストラクショニズム』で知られるヴィヴィアン・バー氏が来日した際のシンポジウムから始まって企画されたものですが、書籍の企画と刊行に三年半以上かかっています。ただ、時間をかけただけのことはあって、執筆陣はシンポジウムのメンバーから大幅に増員されていますし、内容も幅広く充実したものになっています。

田中も、シンポジウム当日の議論を大幅に増補して以下の原稿を寄稿しました。

第2章「現象学的心理学の立場から-ソーシャル・コンストラクショニズムとの対話と直接経験を超える心理学」

今回初めて「直接経験を超える心理学」という言葉を使いました。現象学的心理学はもともと「生きられた経験」を捉えることを得意としているのですが、この種の「直接経験」にこだわるのはいいとしても、そのこだわりだけが強すぎると、目の前で起こっていないことをトータルに想像することで経験の構造を見抜く力が弱くなってしまいます。この点を補完する上で役立つのがソーシャル・コンストラクショニズムの発想である、という趣旨の原稿です。現象学もソーシャル・コンストラクショニズムも、知覚される世界が客観的に実在するという発想を拒否するところに共通点はありますから、両者の間で対話は十分に可能なはずです。その対話に成功しているかどうかは、読者の判断に委ねます。

…というわけで、ぜひ本書を手に取っていただければ幸いです。

2021年12月26日日曜日

年を越したい…

いつ頃からか、 「年を越す」という感じを持てないまま毎年元日を迎えるようになった。「年を越す」という言葉の含意もいろんな読み解き方がある気はするが、少なくとも自分にとっては「気持ちを新たにして新年を迎える」という感じをともなう言葉である。年内に片付けるべき仕事を終えて「仕事納め」のような気持ちの区切りになる場面がないと「年を越す」という感じにならないのだ。

40代になった頃からだろうか。年末年始に何かしらまとまった仕事を抱えるようになって(仕事をいただくこと自体はもちろんありがたいことではあれど)、仕事納めもできないまま元旦になってしまい、結局「あ〜、また年をまたいで仕事することになってしまった…」と何やら情けない気分(かつ同居する家族に申し訳ない気分)になるのである。気持ちに区切りをつけて「年を越す」ではなくて、仕事も気持ちも区切りがつかないままずるずる「年をまたぐ」という感じ。

で、今年はなんとか「年を越す」を味わいたいのである。今日、とりあえず年内最後のトークを研究会で行った(PPP研究会という精神医学の哲学関連の研究会だ)。で、今週はその準備と同時進行で研究室の引っ越しが勤務先であったため、その最低限の荷解きを明日はする。その後は、認知科学の講座本の原稿書き。あと10000字ぐらい詰め込めば書き終わる。なんとか28〜31日の4日間で片付けられれば「年を越す」を久々に味わえるのだけれど…

2021年12月22日水曜日

「環境と文明」シンポジウム

いつもお世話になっている東海大学新聞の記者、川島省子さんが、先日開かれた東海大学文明研究所のシンポジウムの模様を記事にしてくれました。

2021/12/22「文明研究所が「環境と文明」をテーマに「『文明間対話』サテライト・シンポジウム」を開催しました

記事の冒頭にこんな風にあります--「本研究所は、本学が建学の理想として掲げている「調和のとれた文明社会の建設」を実現するための基礎的研究の場として1959年に創設。」

東海大学はもともと理工系の大学として始まった関係で、発展する近代の科学技術が地球の資源を大量消費することで成立していることに、創立者の松前重義が早くから危機意識を持っていたと聞きます。なので、日本が高度成長期にあった1959年(昭和34年)に早くも「文明研究所」なる組織を設置して、「調和のとれた文明社会の建設」に資する研究を後押ししようとしたのですね。

「文明研究所」という名称だけを聞いてもいまいちピンと来ない人が多いかもしれません。が、現代社会のさまざまな問題を「文明批判」という観点で読み解く、という文脈で考えれば、こういう組織にも大きな役割があるような気がします。環境問題はそうした文脈の代表なのでしょうが、「グローバリゼーションとナショナリズム」「生命・情報テクノロジーと人間の未来」など、考えるべき問題の文脈は他にいくつもありますね。

当日は環境問題がテーマで、私は久しぶりに東北のランドスケープの話をしました。2015年に、東日本大震災後の東北のランドスケープが防潮堤の建設で大きく変わっていく可能性があることを論文で指摘したのですが、今回、準備のために東北の現状を調べてみると、やはり明らかに悪い方向にランドスケープが変わっているように見受けられます。

石巻市雄勝町がもっとも分かりやすい事例ですが、ランドスケープを写真で見る限りほぼ別の村に変貌しています。10m近い防潮堤を陸と海の間に張り巡らせるのですから、そりゃあそうですよね。人口も震災以前の1/3以下に減少しています。津波対策で安全になったから良かったとも言えますが、そもそも住む人がいなくなれば防潮堤にも存在意義がなくなるってもんでしょ? 防潮堤で変貌した三陸のランドスケープ、いずれ自分の目で確かめに行きたいと思っています。

2021年12月14日火曜日

再掲:人間科学研究会(12/18オンライン開催)

 今週末に以下の内容で研究会を開催します。ご関心のある方はどなたでも参加できますので、以下のフォームからお申し込みください。「人間科学研究会」は、現象学的な方法にもとづく質的研究を、心理学・教育学・看護学・社会福祉学など対人支援分野で実践することを支援する研究会です。現場での現象学の応用に関心がある方々への参加を広くお勧めします。

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第2回人間科学研究会(共催:第89回心の科学の基礎論研究会)

2021年12月18日(土),13:30〜17:30

オンライン開催(Zoom利用)

申込方法:以下のフォームより、12月17日18時までにお申込ください。ZoomのIDは登録されたメール宛にお送りします。

→申込フォーム:https://forms.gle/JTgHL65hKnsCgdnJ9

<プログラム>

13:30-13:40 開会の挨拶「人間科学研究会とIHSRC開催の経緯」 田中彰吾

13:40-15:15 講演1「直接経験を超える質的心理学に向けて」 田中彰吾(東海大学)

 現象学的な質的研究では、生活世界における「生きられた経験」について、当事者へのインタビューを通じて接近することが試みられる。そこでは一般に、(1)記述的方法:データを読み込みながら心理学的意義を特定し、一般化できるような経験の構造を抽出する、(2)解釈的方法:データに表出しているさまざまなテーマを特定し、テーマの相互関係から経験の意味を全体として理解する、等の方法が用いられる。これらの方法によって各種の「生きられた経験」が明らかにされれば、対人支援の現場で役立つ知見を提供することができるだろう。ただし、こうした作業だけでは、経験をトップダウンに構造化する社会的な作用(時代的要因、社会的権力、文化的背景など)との関係で、人々の「生きられた経験」に迫ることはできない。この報告では、イギリスの現象学的心理学者ラングドリッジによる「批判的ナラティブ分析」を参考にして、「生きられた経験」に影響を与える社会的作用を可視化する方法とその意義について考える。

15:15-15:30 休憩

15:30-17:30 講演2「生態学的現象学とポスト現象学」 河野哲也(立教大学)

 生態学的現象学は、現象学とJ・J・ギブソンの生態心理学を融合させた立場である。現象学は、経験がその当事者にとっていかなる意味を持って現れるのかを、一人称的な視点から記述しようとするものである。現象学では、経験の当事者とは身体的主体であり、主体を取り巻く世界は「私はできる」という運動志向性の相関項として現れる。それに対して、ギブソンの生態心理学は、動物を取り巻く環境をアフォーダンスに満ちたニッチとして捉える。私見では、運動志向性とアフォーダンスは対をなしており、これらの相関を分析することで環境と身体の相補性が理解でき、これを人間科学の基本的な方法論として考えることができる。さらに人間は、テクノロジーにより自らの身体性を拡張し、メディアにより人間関係を拡張する。テクノロジーにより拡張した主体を研究対象とする「ポスト現象学」(アイディ、ヴァービーク)と生態心理学が組み合わさることで、環境―技術―身体を分析できる人間科学の視座を獲得できるだろう。


リンク「心の科学の基礎論研究会」

https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro?authuser=0

本研究会の関連科研費:研究課題17H00903,20H04094,21K01989 

2021年12月13日月曜日

訳者みずからレジュメ作り(5)

今回はヒューバート・ドレイファスを扱った第8章。どうぞ。

ヒューバート・ドレイファスと認知主義への現象学的批判

ドレイファスが現象学の入門書に一章を占めるような時代になったのだなぁ。自分が院生だった頃はいまだ「現象学はドイツ語かフランス語で学ぶもの」という雰囲気が強くて、英語圏から入ってくる現象学の書はあまり信用されない傾向が残っていたように思う。当時『コンピュータには何ができないか』の翻訳もあったけど、現象学者としてのドレイファスが日本できちんと評価されているようには見えなかった。

私自身がドレイファスの書くものの価値を理解できるようになったのは、彼のスキル論の論文を読んでからだったと思う。ドレイファスの議論はメルロ゠ポンティの身体論を多く引用しているのだが、的確かつ一貫した読み方でメルロ゠ポンティを受容していて、ドレイファスの議論に頷くだけではなくて、メルロ゠ポンティの理解を深めるきっかけをもらった。

今となっては、ドレイファスから受け取った反表象主義的な身体と世界の見方からどうやって抜け出すかが自分の課題になってしまっているぐらいだ。

2021年12月8日水曜日

初校おわった!

気分がいい。単著の初校を220ページ分ぐらい日曜から三日間で一気にやり終えた。縦書きになって読むゲラは、自分で横書きで執筆しているときとはまた印象が変わる。著者の手を離れて少し距離ができると言えばいいだろうか。

あれこれ書く時間がないのでちょっとだけ頭出し。タイトルは『自己と他者-身体性のパースペクティヴから』。東京大学出版会から刊行される予定の「知の生態学の冒険」シリーズの1冊になる。遠からず出版会のホームページ等でシリーズ全9巻の執筆陣やタイトルなど告知が出るはず。その頃には目次など紹介できると思うので、お楽しみに。

2021年12月4日土曜日

息する身体

久しぶりに人体科学会の大会に参加中。10年ぶりぐらいかもしれない。いま博士課程で指導している院生の謝淇榕さんが呼吸について発表を行う予定があったからだ。

フロイトのヒステリー論に見られる心身論を「悪しき呼吸」の学習過程ととらえ、それを「良い呼吸」の学習へと転換する方法を探るというのが彼女の主なアイデア(私が指導した部分もあるので1/3ぐらいは私のアイデアでもある)。

発表の内容は以前から知っているので、彼女の発表を聴きながら、少し違うことを考えていた。呼吸は、自律神経が支配する不随意な過程であると同時に、体性神経の支配も受ける随意的な過程だ。

だとすると、一種の「運動」としてとらえていいことになる。普通の運動行為のように、何らかの対象に向かってはたらきかける(例えばコップをつかむように)、という契機がはっきりしないが、空気を取り入れて吐き出すという運動であるには違いない。

メルロ゠ポンティは、フッサールの志向性をインプリシットな行為の次元で捉え直して「運動志向性」を提唱しているが、もしかするとその延長で呼吸もまた運動志向性の一種として考えることができるのではないか。普通の運動志向性が、コップをつかむように、特定の対象へと向かっていく作用だとすると、呼吸の場合その対象は「空気」である。
 
この、呼吸が運動志向性を通じて向かっていく先の「空気」は、文脈に応じてさまざまな現れ方をするだろう。現象学的に言うと、それが「気」として感じられるものの正体ということになるかもしれない。呼吸を志向性として位置付けることで「気の現象学」を考えてみることができそうだ。