2020年11月26日木曜日

ホームページができました

このたび、研究室兼個人ホームページができました。

田中彰吾研究室(東海大学・現代教養センター)

https://shogo-tanaka.jp/

これまで、このブログの独立ページとして設置していた「研究会・WS案内」と「過去の開催記録」は、以下のページに情報を移動しました。

研究会https://shogo-tanaka.jp/study-group.html

ブログページに設定されていたリンク等はこれから順次移転していきます。

よろしくお願いします。

 

 

2020年11月17日火曜日

入来ラボを訪ねました

9月に認知科学会で「プロジェクション・サイエンス」のシンポジウムがあり、そのときに神経科学者の入来篤史先生とパネリストとしてご一緒させていただきました。そのことがご縁で、シンポジウムを企画してくださった鈴木宏昭先生(青山学院大学)と一緒に神戸の理化学研究所にある入来先生のラボを訪問しました。

ニホンザルの実験環境を拝見した後でいろいろと議論させていただいたのですが、自己をめぐる本質的な論点が次から次へと出てきて大変刺激的でした。道具を使うと、身体図式が拡張するだけでなく身体イメージが一時的に崩れることで、道具を使う存在はかえって自己の身体を意識化・対象化する契機を持つこと;サルは座ることを始めたことで背骨が直立し、手が自由になって潜在的には道具を使えるようになっていること(実際タイのカニクイザルには道具を使うものがいるらしい);ヒトは直立歩行することで「上下」という座標軸と水平線、またそれに連動する「左右」という座標軸をかなり自覚的に分岐できるようになったであろうこと;二足歩行するとき周辺視野に両足が入っており、見えないとうまく歩けないが、それはある意味で空間内の「ここ」という位置を「ここ以外」という場所と潜在的に区別する意味を持つこと;自己身体を対象化し、自己の位置する「ここ」を自覚できることが、ヒトの自己意識をたんに前反省的な自己感から反省的な自己意識にしたということ;おそらくこれらすべての条件は、ホモ・サピエンスが地球上の広大な領域(「ここ」以外のどこか)を移動しつくしたことの前提条件になっていること…

どうでしょう? 自己意識の発達と進化をめぐって、ものすごく根源的で哲学的な論点をおさえていますよね? お二人ともサイエンスの根底にある哲学的な問いに取り組もうとされていることが伝わってきて、議論に熱中しているうちにあっという間に二日間の出張が過ぎ去ってしまいました。

 

2020年11月16日月曜日

研究会案内 (12/19 Zoom開催)

久しぶりにエンボディードアプローチ研究会を開催することになりました。コロナ禍で開催が滞っておりましたが、12月19日にZoomでの開催を予定しています。

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 <心の科学の基礎論研究会(第87回)&エンボディードプローチ研究会(第9回)・合同研究会>

日時:2020年12月12日(土),午後1:30〜5:30
Zoom開催
 
下記のフォームから参加をご登録ください。12月11日17時までにご登録いただければ、Zoomの会場をメールでご案内します。
 
【プログラム】
13:30〜13:40
「こころの科学とエピステモロジー奨励賞」授賞式
13:40〜15:30
講演1(受賞記念講演)「私小説の疑似客観性をめぐる転回に関するネオ・サイバネティクス的研究」
中村肇(東京大学大学院・博士課程)
【要旨】近代文学に於いて純粋な西欧の科学的客観信仰に基づいた形式論理と操作推論による情報処理パラダイム(ノイマン・パラダイム)を導入しようとした自然主義時代の文壇から田山花袋の『蒲団』や白樺派をはじめとする私小説が生まれたという逆説は,「見たものをありのままに描くことが出来る」という近代的な価値観に対する身体性(=生命情報)に基づく主観と客観の〈ねじれ〉をあらわしていた。では,こうした機械主義的かつサイバネティック・パラダイム的な主観と客観のねじれのなかで展開される我が国の現代文学は,凡そ百年前と現在との間でどのような異同がみられるのであろうか。本発表では上記の問題を,ネオ・サイバネティクスと総称される学際的研究分野の一領域である基礎情報学(FI:Fundamental Informatics)の観点から考察する。
15:40〜17:30
講演2「行為に基づく知覚の説明とその哲学的洞察」
國領佳樹(立教大学・兼任講師)
【要旨】知覚とは知識の主要な源泉の一つである。つまり、知覚は、世界に関する基礎的な信念を私たちにもたらし、それを正当化する役割を担っている。伝統的に、この基本的な考えに基づいて、「知覚と信念との関係とは何か」「知覚はどのように信念を正当化するのか」といった認識論的問題が、知覚の哲学を駆動させる主要な動機の一つとなっていた。
 しかし他方で、知覚は行為とも密接に結びつく。たとえば、私が横断歩道を渡るのは、信号が緑になったのを見たからであり、車が一時停止しているのを見たからである。つまり、知覚は信念を引き起こし、それを正当化するだけではなく、何らかの行為も引き起し、あるいは少なくとも、そうした何かを為す理由の一部を形成しうる。
 以上のように、知覚は認識論的な課題だけではなく、実践的な課題にも重要な仕方で結びつくのである。そして、後者の観点から、知覚とは何かを考える流れがある。ひろくこのような行為との関係を重視する見解を、「行為に基づく知覚の説明」(Action-Based Accounts of Perception)と呼ぶことにしよう。
 本発表の目的は、行為に基づく知覚の説明が、知覚の哲学にどのような洞察をもたらすのかを明らかにすることにある。まず知覚と行為に関する伝統的な見解を確認し、つぎに、行為に基づく知覚の説明のなかでも、その中心的な主張(行為が知覚と構成的関係にあるという主張)の内実を検討する。そのうえで、知覚の哲学における主要な議論(素朴実在論と表象説の対立など)のなかで、当該の主張の意義と問題点を明らかにしたい。
 
主催:
心の科学の基礎論研究会
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
エンボディードアプローチ研究会
http://embodiedapproachj.blogspot.com/p/blog-page.html

2020年11月14日土曜日

祝刊行:Time and Body

2018年からかかわっていた共著のプロジェクトがようやく出版までこぎつけました。以下の書籍です。

この本、2年前のハイデルベルクでのカンファレンスをきっかけに始まったプロジェクトでした。2018年の9月に、ハイデルベルクのフックス先生の還暦を祝う2日間の国際会議がありました(そのときのことは「旅の余韻」という記事に書きました)。ダン・ザハヴィ、マシュー・ラトクリフ、エゼキエル・ディ・パオロ、ハンネ・デ・イェーガー、ショーン・ギャラガー、ドロテ・ルグランなど、ヨーロッパの大物がみんな集まっていたので、きっと各講演をもとにした書籍が編集されるのだろうと思っていましたが、今回は、現象学的精神病理学の第一人者でフックスさんの盟友あるスタンゲリーニさんが一肌脱いで編集の労を取られたのでした。

私もお声がけいただき、大変光栄でした。結果的に、初めてCambridge University Pressから刊行される書籍に原稿を掲載することができました。2年前の講演では私は対人恐怖症について話したのですが、その後のやりとりで対人恐怖症のような日本ローカルな内容でまとめるより「社交不安」のようにより一般的なテーマでまとめるほうがいいのではないかという示唆をいただき、社交不安障害の現象学について初めて本格的な論考をまとめました。「赤面」の経験のように、自己の身体が他者に知覚される場面に、社会的な不安が現れる根源を読み取ろうとしたものです。

Chapter 8 (pp. 150-169)
Tanaka, S. (2020). Body-as-object in social situations: Toward a phenomenology of social anxiety.

以下にアブストラクトを掲載しておきます。ご関心のある方はどうぞお問い合わせください。
The aim of this chapter is to explicate the relationship among social anxiety, bodily experiences, and interpersonal contact with others. In so doing, I will first revisit the phenomenology of bodily experiences and confirm the difference between the body-as-subject and the body-as-object. Next, I will describe the experiences of one’s body-as-object for others, distinguishing them from those of one’s body-as-object for oneself. Among phenomenologists, it was Sartre (1943/1956) who emphasized the former aspect of bodily experiences as the “third ontological dimension of the body.” On the basis of this notion, I will try to develop a phenomenology of social anxiety as well as its disorder. In its most basic form, social anxiety can be described as a feeling of uncertainty of the other’s mind that becomes salient in social situations.
 

2020年11月8日日曜日

久々にジェームズ

 …の自己論を読み直しました。10年ぶりぐらいでしょうか。やっぱり面白いですね。ジェームズは哲学も心理学もわかっていた稀有な人だなと改めて思いました。自己を「主我(I)」と「客我(Me)」にわけて論じているのですが、客我のほうは経験的な自己をめぐる心理学的考察になっていて、主我のほうは超越論的自我に連なるような(実際にはそれを批判していますが)哲学的考察になっています。フッサールなら前者は現象学的心理学、後者は超越論的現象学というかたちで厳密に区別されてしまいそうですが、それを区別しながらも同じ章で論じられてしまうところにジェームズのジェームズらしさがよく現れているように感じました。

ああ、思い出した。2013年に日本心理学会で「自己へのエンボディード・アプローチ」というシンポジウムを企画したときに予習としてジェームズの自己論を読んだのでした。10年も経っていませんでしたね。歳をとったせいか、過去の出来事がいつ起こったのか、認知があいまいになっているようです。

というわけで以下レジュメへのリンクです。

W・ジェームズ (1892/1992).「自我」今田寛訳『心理学(上)』(第12章)岩波書店