2020年12月25日金曜日

対人恐怖症という名前の起源

週末に科研費の「顔・身体学」の領域会議があるのでその準備中。対人恐怖について話すので、しばらくぶりに関連資料を読み直していて、けっこう重要なことを発見した。

それは、森田正馬の著作のこと。以前、対人恐怖について森田が残した文献を調べようと思って、2011年に白揚社から刊行されている森田正馬『対人恐怖の治し方』に収録されている論文を読んだ。この本の最初に収められている「対人恐怖症(または赤面恐怖)とその治し方」という論文は、森田が最初1932年に発表した対人恐怖症の重要な基礎文献になっている。

対人恐怖は、人前で恥ずかしくて赤面するという自然な反応を、「赤面するまい」と思ったり「恥ずかしがりやと思われたくない」と過剰に制御しようとすることでかえって人前で自然に反応できなくなり、悪循環にはまってしまう状態である。また、人前で普通に振る舞えない自分を「こんなことではいけない」と強迫的にこだわって苦悩してしまう状態である…といった森田の考えがるる述べられている。

こういう森田の考えは今は置く。ここに記録しておきたいのは、2011年版の論文を昔の『森田正馬全集』に収録されている同じ論文と比べてみたら細部がかなり書き換えられているということだ。目立つところを拾ってみると、

 

1) タイトル

全集「赤面恐怖症(又は對人恐怖)と其療法」

新版「対人恐怖症(または赤面恐怖)とその治し方」

 

2)「対人恐怖」概念の由来

全集「故に廣くいへば、自ら人前で恥かしがる事を苦悩する症状であって、羞恥恐怖といふべく、赤面恐怖を其一種である。又周囲に對する對人関係で、種々の苦悩を起すものが多いから、近頃或人は之に對人恐怖と名付けた事がある。」

新版「ゆえに広くいえば、自ら人前で恥かしがることを苦悩する症状であって、いわば羞恥恐怖というべきものである。すなわち周囲に対する対人関係で種々の苦悩を起こすものが多いから、これを対人恐怖と名づけ、赤面恐怖はその一種であるというべきものである。」

 

他にも変更箇所がいろいろあるが、面倒なのでここには書かない。ここに記録しておこうと思ったのは、この改変がかなり意図的なものに見えるからだ。全集の文言をそのまま読むと「赤面恐怖」が中心になっていて、それを「対人恐怖」と名づけたのは森田自身ではないことが明らかにうかがえる。新版では、森田自身が「対人恐怖」と命名し、その下位分類として赤面恐怖を位置づけたように読める。

対人恐怖症は森田が概念化したと一般には思われているが、全集の記述を素直に読む限りそうではないらしい。もともと対人恐怖という命名は「或人」によると森田自身が書いている。一体誰なんだろう?

それに、「対人恐怖症」という概念の由来に言及するとき、参考文献にあげられるのはたいてい1932年に発表されたこの「赤面恐怖症(又は對人恐怖)と其療法」なのだが、これはこれでまずくないだろうか?


2020年12月20日日曜日

botができた経緯

「ツイッターを再開したんですか?」という質問をこのところ何度もされるので、「してませんけど、多少の経緯があって…」という話を書いておきます。

過去ログを調べてみたら、私自身は2017年7月の終わりにツイッターを使うのをやめていました。
>2017/7/31「しばらくの間、

当時ドイツでの在外研究を終えて帰国する直前で、思うところあってしばらくツイッターをやめてみたのでした。あれからもう3年以上使っていなかったんですね。

ですが、使わなくてもあまり困ることはないです(だから再開もしてません)。もちろん、研究者や出版社の界隈で発信されている情報にやや疎くはなりますが、自分にとって研究活動の核になるつながりはSNSがなくても維持されるので、とくに不便を感じることもありません。困ったのは、自分が主催するイベントを告知したいときぐらいでしょうか。他は、人間関係に絡むノイズのような情報が入ってこなくなって快適になった感じです。ソーシャルメディアって情報の発信と受信がその人の社会的な人間関係に絡んでなされるので、それが便利だったりありがたかったりすることがある反面、面倒だったりうっとうしかったりする場面も多いですよね。私の場合、後者に煩わされることがなくなったので快適になりました。

本題に戻りますが、12月の上旬にある友人がツイッター上に著作のbotを作ってくれました(アカウントは「@ikiraretawa_bot」だそうです。2017年に出版した『生きられた<私>をもとめて』の引用botです。「ツイッターを再開したんですか」と聞かれるのですが、さすがに自分で自分の著作を引用するbotは気恥ずかしくてできません。私だけではないと思いますが、自分が過去に出版したものを読み直すのって、けっこう恥ずかしいんですよ。その時に自分ができるレベルの限界で書いているので、後で読み返すと至らないところがたくさん目に付くんです。「一生懸命やったのにこの程度しかできませんでした」という自分に直面するのって、皆さんも気が進まないでしょう?

じゃあなんでbotができたのかといいますと。11月の下旬に出版元の北大路書房の編集者の方と別件でやりとりがあったんです。そこのメールに、出版から3年たって売上が伸びなくなってるんだけどどうにかならないですか?という趣旨のことが書いてあったので、販促を兼ねて一般読者向けに何かイベントを組めるといいなと思ったんです。それを私の周囲でもっとも熱心に著作を読んでくれたある友人に相談したら、彼がbotをやりましょうといって即座に形にしてくれた、という次第。引用文の選択はすべて彼の手によるものです。私も一度目を通しましたが、他人が引用してくれた後で読むのって、自分の文章なのに恥ずかしくなく、むしろちょっと素敵に見えました。あの感じは一体なんだったんでしょうか。

それはともかく、botを通じて一般読者に関心が広がれば、トークイベントのようなものを開催するかもしれません(「中の人」をやってくれている友人が司会をつとめてくれたりするとありがたいのですが)。とくにあの本は「自己」という問いに魅せられつつも苦しんでいる一般の読者に向けて書いたものなので、読者の背景を問わずそういう関心に沿った集まりを開ければ面白いかなと思います。botから入った方は引用を楽しんだ後で紙版の書籍を手にとっていただければ、著者としても幸甚です。