2021年1月24日日曜日

『他者のような自己自身』第6研究

リクール読書会も第6研究まで終わりました。長大な著作の半分は読み終えたことになります。村田憲郎氏による充実したレジュメをいただいたのでシェアしておきます。

リクール『他者のような自己自身』第6研究

ナラティヴ・セルフについて考えるうえでは、第5研究とこの第6研究が中核的な箇所になりそうです。重要な箇所を引用してみます。

「人生の物語的統一という概念については、やはりそこに作話の働きと生きた経験との不安定な混合を見るべきである。現実の生のまさににげやすい性格のゆえに、われわれはその生を事後に回顧しながら編成するために、フィクションの助けを必要とするのであり…」(209ページ)

なにげなく経験されている日々の出来事はそれ自体としては不安定だとリクールは見るわけですね。(瞬間ごとに生成する「生きられた私」を肯定する田中としては必ずしもそう思いませんが、それはともかく)私が経験するさまざまな出来事に安定した意味を見出すには、フィクションの助けを借りてそこに「筋立て」を見出していく必要がある。それができると人生が安定した物語の流れのうえに位置づけられ、「私はどこから来て、どこへ行くのか」という人生の展望を持つことができる、というわけです。

コロナ禍で歴史の転換点にあるように感じられる現在も、さまざまな「筋立て」を借りて人類が自分たちの物語的=歴史的な展望を描こうとしているように見えます。私たちは、どこへ行こうとしているのでしょうか。ソーシャルディスタンスもテレワークも遠隔授業も、人と人との「距離」をめぐる物語になっているように思います。生活のさまざまな面で、この距離が人と人との「分断」を肯定する物語として機能し始めているようにも見えるので、近頃かなり危惧を感じるようになりました。


2021年1月5日火曜日

明けましておめでとうございます

パンデミックに明け暮れた2020年がようやく終わりました。新型ウイルスの感染はまだ落ち着きませんが、ひとまず年が変わったことで鬱屈していた気持ちが少しは明るくなりました。

ところで、年始にたまたまこんな動画を見かけたのでその話題を。『サピエンス全史』で有名なユヴァル・ノア・ハラリの5年前のトークです。

New Religions of the 21st Century | Yuval Harari | Talks at Google

「21世紀の新しい宗教」と題されていますが、宗教というよりはテクノロジーの話でした。以下、話が面白くなってくる後半の要約です。

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近代に確立されたリベラリズムの価値観を打破するような宗教的価値観はあるだろうか。リベラリズムは政治や経済や倫理や教育など、社会のあらゆる面において、個人を価値の源泉とみなす考え方である。旧来型の宗教はリベラリズムに外側から修正を加えることはあっても内側から打破することはないだろう。

むしろ、個人を価値の源泉とみなすリベラリズムに対して、個人そのものを生化学的なアルゴリズムの集合に還元して理解するバイオテクノロジーの出現こそ、新しい宗教を準備するのではないか。産業革命の引き起こした変化に対抗して共産主義が新しい価値を打ち出したのと同じで、21世紀に新しい宗教があるなら、それはバイオテクノロジーの引き起こす革命に対応するものになるだろう。

バイオテクノロジーは個人の主観的な感情さえも生命科学的な法則性に還元し、個人の感じ方の正否を客観的に判定する。それはかつての宗教的権威が本人の行為の善悪を本人より良く判断できたのにも似ている。

たとえば、乳がんになるかどうかは今や遺伝子と確率の問題に還元されつつある。同様に、「何を読むべきか」「誰と結婚するか」といった個人的な判断は、本人の主観よりもデータベースと人工知能の判断に置き換えられつつある。つまり、「自分がどう感じるか」は自分自身の主観によるよりも、徐々に生命と情報のテクノロジーによって決定される方向に移行している。

ところで、生命はそもそも生化学的アルゴリズムの集合に還元できるのか。ハードプロブレムとして知られる問題は、生命の科学的法則がどのように主観的経験を生み出すのかを問うている。意識科学でハードプロブレムに答えが出されたわけではない。将来その答えに漸近するのかもしれないし、主観的経験は生化学的アルゴリズムに還元できないという結論に至るのかもしれない。

ただし一方で、宗教は、必ずしも真実を正しく伝える必要がないことも考慮するべきだろう。キリスト教の世界像は正しい世界像を伝えて来たわけではないが、正しい宗教として人々に信じられている時代があった。同様に、真実を正確に伝えるものになっていないとしても、生命と情報のテクノロジーが宗教のようなものになり、人々に信じられるることはあるのかもしれない。

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筋トレしながら聞いていたので必ずしも正確なまとめではないので悪しからず。ともあれ、ハラリは個人の主観にものごとの正否の判断をゆだねるリベラリズムの考え方に、生命と情報の科学・技術が挑戦することになる未来を予告しています。

しかし、生命と情報のテクノロジーが個人の主観に取って代わることにはならないでしょう。もちろん、個人の主観がだんだん外部のアルゴリズムに置き換えられる事態は進行するでしょうが、アルゴリズムの判断に沿って行為することで満足するかどうかというのは再び個人の主観の問題になるので、主観的判断と科学技術とのあいだでぐるぐると循環するループがどこまでも続きながら技術が進歩していくということにしかならないと思います。

むしろ恐ろしいのは、主観性と科学技術の循環するループが権力と結びつくときには簡単に全体主義的なディストピアが出現してしまいそうなことです。2021年の中国で起こっている個人情報の国家的管理はそういうディストピアに相当近づいているのではないでしょうか。