2017年5月28日日曜日

生きられた<私>をもとめて-余談

拙著がそろえろ発売になるので、それに関する余談を。
 
先日某所で「今後の学術書は300部が基準」という話題が盛り上がっていました。盛り上がっていたというより、ベースラインで300部しか売れないという悲観的な観測への反響が大きかったというほうが正確でしょうか。この数字の根拠ですが、図書館の需要が約200、その分野の学会関係者の需要が100程度と見積もると、おおよそ300部ということのようです。
 
300部しか売れない可能性を最初から念頭に置いて内容と価格設定を考えざるを得ない、ということだとかなり深刻な話です。これは出版業界だけでなく、学術書を書く研究者にとってもそうです。というのは、300部基準で考えざるを得ないのなら、日本語で書くこと自体をやめていくことになるのではないかと思うのですよ。
 
先日イスラエルに出張したさい、イスラエルの研究者は文系でもヘブライ語で著作を書くことはまずないと聞きました。そもそも国内に大学が7つしかなくて、関連分野の研究者が全員読んだとしてもそれこそ300部に届かない世界らしいです。現象学をやっている友人に聞かれました――「母国語で書けるならそのほうがいいけど、100人ぐらいしか読者がいないものを書く気にならないでしょ?」。うーん、書く気になるかもしれませんが、ウェブ上で雑文として書けば話が済みそうですね。
 
日本でも学術書の市場がどんどん小さくなっていくと、長期的には同じような状況になってしまうかもしれません。とはいえ、日本語を使用する人口は相対的に見て多いですから、一般向けの書籍がそれなりに売れる状況が残っているあいだは、学術書を一般向けの書籍に近づけて出版を継続するという形態がメインになるんでしょうね。
 
しかし、これはこれで、学術をわかりやすくして限りなく一般書に近づけていく方向に見えます。今ふりかえると、この流れはずいぶん前から始まっていた気がします。新書の出版点数がおびただしく増えた時期があったと思いますが(2000年前後でしょうか)、書店にいくたびに「知のデフレ」のような事態が起きている印象を受けて嫌な気分になった記憶があります。
 
逆に、中身のしっかりした学術書はたいてい出版助成を受けていて、最初からかなり限定された読者宛に書かれているものが増えました。こちらは、クオリティが高いのはよいのですが、学問や研究の面白さを、専門外の世界にいる人に伝えるものにはならない場合が多い気がします。学術論文を読むのと印象があまり変わらないといいますか。
 
自分が著作を出すタイミングでなんだか暗い話を書いていますが、それなりに思うところがあってのことです。というのも、今回の著作はある水準の読者を想定してわかりやすく書くことにこだわっていますが、その一方で、話を単純化して知を安売りするような妥協は避けています。また、出版助成のバックアップをもらって実売部数を気にせず書いたものでもないですし、逆に、低価格が理由で売れるような本でもありません。論文でも新書でもできなさそうなことを模索してみました。
 
とくに今回は、「心の科学のための哲学入門」というシリーズの一冊として何ができるのか、そのつど手探りしながら書きました。心の科学の側から入りたい人にとっても、哲学の側から入りたい人にとっても、ある学術領域への入口になると同時に、その向こうへ知的探求を広げられるように配慮したつもりです。
 
もっというと、この本を取り巻く環境を想定して、そこで書けそうなことを最大限やってみた、ということになるでしょうか。この考え方じたい、実は本文で展開している自己論そのものです。与えられた環境のなかで持てるスキルを発揮して他者と相互作用をすること、その過程でそのつど成立しているのが自己である、というのが本書の基本的な発想ですので。
 
というわけで、今回は、読者に向けて書くというパフォーマンスにおいても、本文で主張していることをほぼそのまま実践しています。どういった読者にどのくらいの規模で本書が届くかによって、学術書という「身体」のうしろに広がる環境がどんな場所なのか見えてくるだろうと期待しています。日本語の学術書を取り巻く現状を測量する、というとちょっと大げさですが。
 
…著者目線で駄文を書き連ねてしまいましたが、ともあれ、本書は自己アイデンティティに関するものです。後書きでもここでも何度か書いている通り、「自己」という問いについて深く考えてみたい「青い読者」に広く届きますように。どんな知的背景をお持ちの方にも読んでいただけます。
 

 

2017年5月27日土曜日

アーカイブの資料追加(Haggard, 2017)

研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。

Haggard (2017). Sense of agency in the human brain. Nature Reviews Neuroscience. doi:10.1038/nrn.2017.14.

エージェンシー(主体感)研究の世界ではよく知られている研究者P・ハガードによるレビュー論文です。3月にオンラインで先行出版されたばかりです。

時間知覚におけるインテンショナル・バインディング、感覚の減衰(sensory attenuation)、行為の自他帰属など、主体感に関係する過去の実験をそのつど参照しながら、重要な論点を比較的網羅的に扱っている印象でした。比較器モデルだけでは主体感は説明できないという点をきちっと述べているあたりはさすがです。

エージェンシーについては、現象学的な議論と絡めてつっこんで考えてみたいと思っています。現状の実験でうまく扱えていないものの、実験で扱うべき重要な論点が隠れている気がするのです。このブログに掲載している以下の資料は、逆に現象学の側でエージェンシーをどう見ているかが分かるものになっています。
 
S・ギャラガー,D・ザハヴィ (2008/2011). 「行為と行為者性」石原孝二・宮原克典・池田喬・朴嵩哲訳『現象学的な心』(第8章)勁草書房

ちなみに、統合失調症の「させられ体験」については、実験系の研究者が取りがちな見方とは異なる見解を拙著『生きられた<私>をもとめて』の第2章でも少し述べておきました。興味のある方はご覧いただけると幸いです。

では、また。



2017年5月16日火曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』1-5章)

研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
  
D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第1-4章)新曜社

D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第5章)新曜社
 
今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』の要約です。先日、能智正博先生が主催する臨床心理学研究会という集まりに初めて参加しました。この本を取り上げて読書会を実施するので、田中は訳者ということでお声がけいただいたのがきっかけでした。

渡辺先生、植田先生、田中と、訳者3人はそろって参加したのですが、東大の会場まで足を運べたのは渡辺先生のみで、植田先生と田中はスカイプで加わりました。開始が14時だったのでドイツは朝7時(!)でした。いや、朝7時は普通に起きていることのほうが多いのですが、この日は前日に全編をもういちど読み通すという作業をやっていたら終わったのが深夜3時前で、実質3時間ぐらいしか寝ていなかったのでした。

しかしこうして学び直すと得るものは多いです。参加できて幸いでした。というのは、訳者であっても、原著の理解に行き届かないところは残るのですよね。翻訳するときには原文をできるだけ明示的に理解するよう努めていますが――この場合の「明示的」は、著者の主張を日本語にして、さらにそれを自分の言葉で語り直すことができるくらい、というのが目安です――自分の得意でない分野を扱っている箇所はそこまでの明晰さがなかなか及びません。読書会で他の人のコメントを聞いたり、自分で説明を加えたりしながら、暗黙の理解にとどまっていたことが改めて明示的な理解に転換したポイントがいくつかありました。
 
今回は、能智先生のご協力でレジュメを当サイトの資料としてご提供いただきました。当初の予定では読書会当日に最終章まで読み切ることになっていたそうですが、内容がなかなかハードなので、今回は前半5章までで終了しました。レジュメは、1~4章を能智先生が、5章を博士課程の横山さんが担当されています。

次回は6月10日(土)だそうです。次回のみの参加も可とのことですので、ご関心のある方は田中までお問合せください。現象学に裏付けられた質的研究に関心のある皆さんにとっては、心理学を専門にしていてもいなくても、学ぶことがとても多い本だと思います。

2017年5月10日水曜日

意識とギャップ/意識のギャップ

イスラエルで「From Body to Self in Virtual Reality」というシンポジウムに参加してきました。

細々したことは省きますが、ヴァーチャル・リアリティに関する発表と離人症に関する発表をつづけて聞いているうちに、意識の問題にまつわる本質的なことを考えさせられました。自分自身の発表では意識の問題は正面から扱わなかったのですが、潜在的にはこのことを考えたかったのだなぁ、と気づかされました。

離人症では、いわゆる「脱現実感(derealization)」がしばしば生じます。自己が世界から離脱して、まわりの世界を傍観している感じです。当事者は「世界に霧がかかっているような感じ」「世界にありありとした現実感がない」といった表現をよく使います。もう少し踏み込んでいうと、脱現実感は、自分が現実(リアリティ)にうまくフィットしていない感じ、自分がいつものように世界と(情動と身体を介して)触れ合っていない感じをともないます。
 
ここには、ヴァーチャル・リアリティを考えるうえで大きなヒントがあります。ヴァーチャル・リアリティでは、ヘッドマウント・ディスプレイを使って、いつもとは違う現実にアクセスしますが、そこに強い没入感が生じます。脱現実感とはまったく逆に、自己が仮想現実に吸い込まれるような感覚が生じていて、離人症とは逆の事態が起きているように見えるわけです。
 
かたや、現実から自己が分離して、現実が現実っぽさを失う経験。
かたや、仮想現実に自己が没入して、非現実が現実っぽく感じられる経験。
 
しかしながら、どちらも、意識のはたらきの本質にかかわる面があります。というのも、「意識があること」とは、いまここで私の前に世界(現実)が現れている経験に他ならないからです。「意識がない」状態と比べてみてください。私がいないだけでなく、世界も開けていませんよね。
 
ところで、私の前に現実が現れてくるには――言い換えると、私が現実に気づくことができるためには――「私」と「現実」のあいだに「裂け目(ギャップ)」がなければなりません。意識が意識として(つまり、何かに気づいている作用として)はたらきはじめるには、ギャップが必要なのです。
 
VRの場合、このギャップが予想される以上に小さいために没入感が生じるのでしょうし、逆に、離人症では普段以上にこのギャップが大きくなるので「何を経験しても自分のこととして感じられない」という事態になるのでしょう。VRは、離人症の治療に応用できる可能性が十分あるように思います。
 
しかし、このギャップ、私と世界の「裂け目」(メルロ=ポンティ風に「裂開」と言ってもいいですが)は、どのように説明することができるのでしょうか。たんに抽象的な説明としてではなく、VRや離人症のような具体的経験に即して言語化するとすれば、どのような説明が可能なのでしょうか。かつて木村敏氏が「現実」をリアリティ(reality)とアクチュアリティ(actuality)、あるいは「もの」と「こと」という対概念で説明しようと試みています。ひとつの重要な手掛かりになるように思います。
 
とはいえ、これだけでは技術、実験、治療といった具体的なレベルの問いにまだ落とし込めません。たとえば、オキュラス・リフトには加速度センサーが組み込まれていて、首の回転速度に対応して見えを変化させることで、没入感が強まる仕組みになっています。これは「ギャップ」を小さくする技術レベルの仕掛けと言えます。現実の現実感は、知覚を生じさせる身体の基礎的なメカニズムに深くかかわっています。
 
…とりとめがないのでこのへんでやめます。ともあれ、深く考えさせられるシンポでした。関係者にこの場を借りてお礼を申し上げ…って書こうとしましたが、日本語を読める関係者は誰もいないのでした(笑
 

 

2017年4月27日木曜日

ミニマル♪

拙著のカバーデザインができたそうです。
 

シリーズものの一冊(「心の科学のための哲学入門」)なので基本になるデザインは既刊に合わせてあるそうなのですが、それにしても本文の内容にぴったりなデザインになってます。
 
というのも、信原先生の的確な推薦文にもありますが「すべての外皮を剥ぎ取った根源の自己を開示」する書なので、余分な色がないほうが内容に見合っているのです。実際、帯も「剥ぎ取って」あげるとこんな感じになります。
 
これ以上なくシンプルですよね。この、ほとんど寒々しいほどにミニマルな感じ、素晴らしいです。ミニマル・セルフを扱ったこの本にぴったりです。デザインしてくださった関係者に改めて感謝です。
 
ところで、これを見ていて、博士論文を書いていたころの自分を思い出しました。私の博士論文はユングの共時性を扱ったものだったのですが(『<意味のある偶然の一致>の現象学』)、ユングの回りくどくてゴテゴテとした文体が苦手(というかはっきり言うと嫌い)で、そういうのを全部脱色して骨格だけを残すとどうなるのか、という思考の実践を書きながらずっと模索していました。
 
当時、たまたま友人が貸してくれて耳にしたミニマルミュージックは、そういう思考にとてもよくフィットしました。スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーの音を小さい音でBGMにして流しながら深夜に博士論文を書く作業を何度も何度も何度も何度も何度も…繰り返した記憶があります。
 
記憶の話をしていますが、当時を懐かしがっているわけではありません。そういうことではなくて、音楽であれ思考であれ、ミニマルなものの探求は、最小のユニットに全体を還元できるかどうかという方法論的探索を含むので、知の探求にとって重要だということです。理論的な観点において「要素主義」や「原子論」ではなく「ゲシュタルト」や「全体論」が重要なのは言うまでもないのですが、それは、還元的なやり方で全体をいちどバラしてみるからこそそう言えるわけです。
 
ミニマルミュージックを聞いて文字通り感動するような人はあまりいないと思います。が、ミニマルな音の良さがわかる人はメロディやハーモニーの豊かさを格段によくわかるのではないかと思います。自己アイデンティティの問題もそれと同じで、ミニマルな自己までそぎ落として自己が理解できるとき、自己という現象の複雑さと豊かさが初めてわかるのではないでしょうか。「私」がいま・ここに存在することは、それじたいで驚異的なことです。
 

 

2017年4月26日水曜日

イスラエルに行ってきます

もうすぐイスラエルに行くのでその準備。「From Body to Self in Virtual Reality」というなかなか刺激的なタイトルのシンポジウムに呼ばれたので行ってきます。

主催のドロン・フリードマンという方がどんな仕事をしているのか知らなかったので調べてみたのですが、ブレイン-マシン・インタフェース(BMI)とかVRとか、ヴァーチャル・ボディ系(と言っていいのかな、まあ、考えることで外部機器やVRを操作する類の研究です)の方みたいです。その方面ではけっこう知られている方のようですね。シンポのタイトルが「From Body to Self」なのは、つまり、身体から切り離された自己が可能なら、その自己は外部機器やVRに接続しうる、という発想なのでしょう。

私に声がかかったのは、いま離人症を研究しているためです(…と、思います)。離人症では変則的な身体経験がいろいろ生じますが、もっとも顕著なのは自分が身体から離れているように感じるという症状なのですね。少し離れたところからぼんやり自分を傍観しているような状態が生じることが多いと言われます。

これは一方できわめて心身分離的な状態に見えます。他方で、BMIで探索されているのも、ある種の心身の分離と言える面があります(本当は違うように思われますが詳細はまたいつか)。身体が麻痺しても、脳の活動を外部機器に接続して、コンピュータやロボットを動かすことで人工身体を稼働させる研究ですからね。四肢麻痺状態の方でも脳と外部機器を接続して動かしている風景がもっと一般的になる時代もそう遠くないのだろうと思います。

それで、先日ジャーナルに投稿した論文の内容を話すことにしました。離人症で生じる心身の分離体験と、フルボディ錯覚で生じる体外離脱的な体験が似ているのか否か、現象学的に検討しているので、たぶんシンポジウムの趣旨にも合致するんだろうと思います。身体所有感が低下して自己と身体の分離が生じる点は両者とも似ていますが、「どこ」に自分がいるかをはっきり感じられるか否かでは違っています。この「どこ感」まで突っ込んで議論できると、タイトル通りに刺激的なシンポになりそうです。



2017年4月24日月曜日

胸熱。

出版社の配慮で、もうすぐ発売になる拙著『生きられた〈私〉をもとめて』に、推薦文入りで帯をつけていただけることになりました。アマゾンからそのまま引っ張りますが、こんな一文をいただいています。

◆推薦のことば
すべての外皮を剥ぎ取った
根源の自己を開示。
表層的なアイデンティティ論を乗り越えた
果敢な哲学の挑戦。
信原 幸弘(東京大学大学院総合文化研究科教授)
 
この本で書きたかったことの核心を、ごく限られた数行で、しかもかなり的確に凝縮していただきました。ありがとうございます、信原先生。

個人的には「果敢な哲学の挑戦」というフレーズが、かなり胸熱です。このブログでも何度か「青い読者」に向けて書きました、という言い方をしていますが、その意を汲んでいただいたように感じています。心の科学の現在の知見を確認しながら「答えのない問い」をめぐって思考を展開することを試みた本ですから(もっとも、その裏側で、心の科学のさらなる進展を後押ししたくて書いている箇所もありますが)。

なお、北大路書房のWさんとも相談しているのですが、この本の持っている熱に見合うイベントを何かやることになるかもしれません。それこそ「青い読者」に届きそうな場所で。