2018年1月9日火曜日

CFP: Body Schema and Body Image

3月末(24-25日)に東京で国際シンポジウムを開催します。「身体図式と身体イメージ」をテーマとする二日間のイベントです。
 
ただいま、発表を募集中です。詳しくは、学術系SNS「Academia」で公開しているシンポジウムの趣旨文をご覧ください。
 
同じ情報は、別のSNS「Researchgate」でも公開しています。こちらはプロジェクト形式で登録してあるので、プロジェクトをフォローすると、随時お知らせが届きます。
 
直前になってしまって恐縮ですが、いちおう今月24日が発表申し込みの公式締切日です。
 
なお、学際系のイベントですので、発表内容の分野に制限はありません。神経科学、心理学、精神医学、認知科学、スポーツ科学、社会学、哲学など、いろいろな分野から参加していただけます。ご関心のある方は、上記CFPをぜひご一読ください。シンポジウムで議論の焦点になる論点をあるていど整理してあります。
 
発表したいけど締切に間に合わないかも…という方は、ご相談ください。応募状況によっては何とかなる可能性もあります。また、その他のご質問等がある場合も、遠慮なくお問い合わせください。
 

2018年1月3日水曜日

地味に1周年

あけましておめでとうございます。2018年ですね。

このサイトも開設から1年を超えたことになります。とくに時間的な展望を持たずに始めたページなので1年たったからといって感慨もとくにありません(笑 ここは学術系の情報をシェアするためのページなので、イベントの告知とか企画とか、関連する論文や書籍の紹介とか、といったことで重要なコンテンツを集約し発信できればそれでいいかなと。

ただ、もうちょっとマメにブログを更新したいと思いつつ、なかなか難しい状況が続いているのが残念です。昨年出版した拙著のその後のことや、いま進行中の訳書のことなどもいろいろ書きたいとは思いながら、何もできずにいます。ドイツに滞在していた頃は大学の仕事から解放されていたのでブログにもっと時間が取れたのですが(だからこのサイトを開設するのに必要な最初の時間が作れました)、8月末に帰国してから慢性的に時間不足に悩まされています。

もちろん、主な理由は大学での仕事です。授業だけで相当な長時間なのに加えて、いわゆる学務にいろいろと時間を取られるので、何かとままなりません。こんな状態で管理職の仕事がそのうち回ってきたりすると、目も当てられない状態になりそうです。研究を続けるために大学にいるのに、いまどきの大学では研究の時間はろくに取れません。研究はほとんど余暇の域に追いやられているようにさえ見えます。

まあ、そんなこんなでブログの更新は滞る場面が多そうですが、論文と書籍を執筆する時間だけは涼しい顔してきっちり確保したいと思っています。今年もよろしくお願いします。
 

 

2017年12月28日木曜日

プロジェクションのことなど

以下、自分用メモ。
 
先日の認知科学会のシンポジウム(「プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」)のさい、全体での議論のときに少しコメントしたことを、文章として書きとめておきます。プロジェクション・サイエンスは、広い意味での内部モデルが世界に投射される過程に焦点を当てる科学的試み、という理解でここでは良いかと思います。詳しくは鈴木宏昭先生の以下のブログ記事を読んでみてください。
>「プロジェクション・サイエンスとは何か
 
というわけで、以下はメモです。

プロジェクションを考えるうえで、ラバーハンド錯覚は基幹的な重要性を持つ現象だろう。ゴムの手が「自分の手」であるかのように感じられるとすると、物体に身体所有感がプロジェクトされることを意味している。神経生理学的には、視覚と触覚の統合が、ゴムの手の位置との相関で生じていることが意味を持つ。

ゴムの手が多感覚統合を通じて「自分の手」として経験されうるということは、裏返して言うと、いつもは「自己の身体」として経験されている物理的身体そのものが、多感覚統合にもとづく脳内表象に過ぎない、という可能性を示唆していることになる。

とはいえ、身体それ自体は脳内表象には還元できない実在性を帯びている。それはたとえば、二重感覚のように、自己の身体上では生じるが、物体上では生じない現象があることを考えれば明らかだろう。自己の身体は、実在世界に定位している存在であると同時に、脳内で構成される表象でもある。

「表象=内部モデル」と「実在世界」の関係をプロジェクションという概念で読み解くうえで、身体は出発点として考慮すべき対象である。また、身体を通じて実在の世界へのアクセスが保たれているとすると、その世界が最初に開けてくる場面は、身体的な知覚と行為の循環的関係に即して理解する必要があるだろう。

ただし、ひとが行う行為の中には、「ふり遊び」「ごっこ遊び」のように、実在しない世界を行為によって描き出すものがある(発達的には2歳ごろ、言語の獲得が集中的に始まる時期に近い)。つまり、行為が文字通りの知覚対象を指示するだけでなく、知覚対象に想像上の対象が重ねて描かれるような場面がある。知覚とイメージを区別するものは、プロジェクトされる対象、プロジェクトされる世界との関係で考える必要がある。

イメージはさらに、複数の身体が出会う場面で、ナラティヴを創造するだろう。たとえば、「ままごと」「戦いごっこ」として演じられる遊びは、想像上の世界に参入する他者の身体を含んで展開される。ある想像上の世界のなかで、一定の役割を分担して演技ができる身体が複数あることで、イメージはストーリーへと生成する。

イメージがストーリーへと生成する過程では、複数の身体が出会い、知覚的には現前しない世界との関係で、擬似的に行為の意図を発動させることが必要になる(たとえば、泥ダンゴをつかんで食べるふりをする)。このとき、身体は想像上の世界を間主観的に現出させる「道具」として機能している。

身体を、一次的な行為主体として経験するのではなく、想像上の世界を表現する二次的な道具として利用できることは、自己と他者とのあいだで共有される「ナラティヴ」の世界を創発させる鍵になっているように思われる。

複数の身体のあいだで共有されるナラティヴは、道徳的な行為規範のように一種のドミナント・ストーリーを生成する一方で、「自分だけの空想の世界」をプロジェクトする基盤にもなっているだろう。「妄想」に至るようなきわめて個人的なストーリーは、社会的に共有されているストーリーがなければ機能しないだろう。
 
…とまあこんな感じで、表象と実在の関係を「身体」から出発して考えると、「知覚/行為」〜「想像/イメージ」〜「ストーリー/ナラティヴ」…という順番で、プロジェクションの豊かさを理解できるのではないか、と思ったのでした。

個人的には、「ナラティヴ」は個体の身体だけからは決して生まれてこないだろうと思っています。複数の身体が集う場面でどのようにしてナラティヴが生成するのか、考えてみたいものです。


 

2017年12月9日土曜日

認知科学会のシンポジウム

来週、こんなイベントがあります。

日本認知科学会・2017年度冬のシンポジウム
「跳び出す心,拡がる身体:プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」

日時:12月16日(土) 10:00-18:00
場所:青山学院大学 青山キャンパス6号館621教室

午前中、「身体はどこまで拡がるか:身体とプロジェクション」というセッションが明治の嶋田先生のコーディネートで設けられていて、田中も短い話題提供をします。話の骨格はすでに決まっているのですが、そろそろ細かいことを考えなくちゃいけません。プロジェクションというコンセプトと自分の研究がどのあたりで接点を持つのか、当日までにもう少し詰めて考えたいと思っています。
 
そういえば、このブログは近ごろイベント告知用にしか使えていないですね(しかも直前になって)。なんとかしたいと思いつつ、日々押し寄せるの仕事の波に慌ただしく対応しているとあっという間に時間が過ぎ去っています。優雅にサーフィンできるようなスキルが欲しいものです。
 

 

2017年11月20日月曜日

PPP研究会でお話しします

いろいろと慌ただしくしているあいだにお知らせを忘れてました。
 
もう今週末ですが、26日(日)14時から、東大精神科の榊原英輔さんが中心になって開催されているPPP研究会でお話します。PPPは、Philosophy of Psychiatry and Psychologyの略です。精神医学と心理学について、その哲学的基盤に関係する深い議論をされている研究会です。
 
榊原さんのホームページはこちら。
Acrographia
http://www.acrographia.net/
 
いちおうクローズドな研究会だったと思いますので、参加には問い合わせが必要です。このブログを読んでくださっているくらい意識高い系?の方はまず問題なく参加していただけると思いますが…。開催場所は東大の駒場キャンパスですが、詳しく知りたいかたはお問合せください。
 
田中は帰国してから新しいことを勉強する時間を取れずにいるので、26日は以前ドイツ滞在時に話した離人症のことを中心にお話しします。以下、研究会で流してもらった抄録をここにも貼り付けておきます。
 


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「離人・現実感喪失における自己と身体」
田中彰吾(東海大学現代教養センター)

環境に向かって行為する、環境のなかの対象を知覚する、といった日常的な場面では、自己と不可分のものとして身体が経験される。身体は、自己がそれを通じて行為する媒体、あるいは、そこから知覚が生じる媒体として、暗黙に経験されている。ところが、離人・現実感喪失(Depersonalization/derealization disorder)として知られる病理的な状態では、自己が身体から遊離しているように感じられたり、「身体とともに行為する自己」と「それを観察する自己」とが分離して感じられたりする。たとえばある当事者は「私は、自分が空間中に浮遊する鈍くぼんやりした思考であるように感じ、自分に体があるということさえ時に奇妙に感じられた」(Bradshaw, 2016)と述べている。この経験は、デカルトの心身二元論のように、身体がなくても自己が自己でありうることを示唆しているように思われるが、理論的にはどのように考えることができるだろうか。この講演では、離人・現実感喪失において生じる自己と身体の分離の経験について、(1) 当事者の手記を参考にして経験の具体的な様相をとらえつつ、(2)シエラ(2009)が記述した離人症における身体経験の異常と照合しながら考察する。理論的な課題は、「最小の自己(minimal self)」が身体から分離した状態で成立しうるかどうか、検討することにある。ギャラガー(2000, 2012)によると、最小の自己は所有感(sense of ownership)と主体感(sense of agency)によって構成されるが、離人・現実感障害においては、所有感と主体感はともに日常的な状態から大きく逸脱している。はたしてこの点は、最小の自己が身体から分離した状態で成立しうることを意味するのだろうか。参考として、実験によって引き起こされる「フルボディ錯覚」と呼ばれる錯覚の経験と比較しながら、考察を進める。

2017年11月7日火曜日

読書会を開きます

アマゾンでは1ヶ月前ぐらいからページができていたのですが、もうすぐ、神経科学〜身体性認知〜現象学にまたがる学際領域で非常に重要な本が出版されます。トーマス・フックスによる『Ecology of the Brain(脳のエコロジー)』です。
 
 
アマゾンでは発売日が12月14日ということになっています。田中は一足お先にゲラを拝見しました。出発点になっているのは、人が知覚している世界を脳内の表象に還元する見方への批判です。身体を含む有機体全体の一部とし脳を位置づけると、身体と環境の相互作用、自己の身体と他者の身体の相互作用、人々が共有する文化的世界へのアクセスなど、脳は、生命体としての人と世界とを「媒介する器官(mediating organ)」として理解し直す必要がある、という主張が基調のようです。このような見方が、どの程度、現在の神経科学の個別の知見と整合的に、あるいはそれへの説得力のある批判とともに語られているのかが、本文の評価にかかわるポイントになりそうです。
 
いずれにしても重要な本なので、12月から月1回1章ずつぐらいのペースで、オンライン読書会を開いて読むつもりでいます。参加をご希望される方は、田中までお問い合わせください。
 
 

2017年10月14日土曜日

主体感を考える

先日、授業でいわゆる比較器にもとづく主体感のモデルについて説明していて、うまく説明しきれなかったのでもやもやしている。
 
主体感研究について手際よくまとめているハガード(2017)のレビュー論文では、運動行為を制御し、それによって外的事象の推移を制御する経験が「主体感」とされている(ハガード論文のまとめ研究アーカイブに掲載しておいた)。たとえば、手を伸ばしてコップを手に取る、スイッチを押してライトを点灯する、といった経験がわかりやすい例だろう。そして、主体感は、随意的な行為とその結果が一致するときに生成する。


 
図の①は、身体運動とその結果が比較照合され、一致するポイントとしての比較器である。運動指令が発せられ、その遠心性コピーが身体状態の予測を生じさせる一方、運動が実行されると身体末梢から感覚フィードバックが返ってくる。ハガードの説明では、両者の一致によって暗黙の主体感が生じ、自己や他者に明示的に帰属できる主体感は図の②で生じる、ということらしい。ただ、そうだとすると、主体感はつねに回顧的にのみ成立するのであって、「何かをしよう」と意図している段階では存在しないことになる(実際、比較器モデルに沿って主体感を説明する論者にはその種の主張はしばしば見られる)。
 
しかし一方で、行為についての時間的予測が主体感を左右することを示唆するデータもある。この点で、主体感はたんに回顧的なわけではなく、展望的な成分を含んでいるはずである。ハガードも、主体感がたんに回顧的な要因だけで成立しているわけではないことを示唆していて、主体感を回顧的な錯覚に還元する見方は避けているようである。
 
これに加えて、行為の意図や行為の選択の場面では、いまだ具体的な運動が始まっていないとしても、それが「私の行為である」(あるいは「私の意図である」)という認知はともなっているので、行為の所有感は最初から成立している。所有感は「ミニマル・セルフ」を支えるもうひとつの要因だが、こちらは、主体感が成立するよりも時間的に早く成立している。
 
だから、「自己」「他者」という属性を持たない中立的な主体が、ある身体行為を行なって、その後で回顧的に「私がその行為を引き起こした」という主体感を持つと考えるべきではない(ポストディクション的解釈はおそらく間違い)。その行為が「自己のもの」であるか「他者のもの」であるか、という所有感の判断は、運動開始以前から成立している。図の②のポイントで、所有感まで含めて自他の弁別が可能になっているわけではないだろう。
 
たとえば、統合失調症における主体感の障害は、ある行為について、自己の意図で行なっておきながらそれを自己に帰属させることに失敗することによる、という説明がしばしばなされるが、これは説得力がないように思う。行為の意図が発せられている時点で、そもそも「誰かの意図」でそれが始まっていると考えるほうが、「させられ体験」に見られるような主体感の不成立を説明するうえで適切であるように思える。