2018年11月14日水曜日

QOLを考える

少し前になりますが、11月1日号の東海大学新聞に記事を掲載していただきました。掲載していただいた、といいますかQOLについて夏頃に原稿依頼があったので、これも貴重な機会かなと思って寄稿しました。お題はQOLです。
 

「知の架け橋」というシリーズ記事で、今年は大学新聞に2ヶ月に1回のペースで「「QOL」を考える」というコラムが設定されています。ウェブ版の大学新聞でも同じ記事が収録されると思いますが、ちょうど来週の質的心理学会で議論するナラティヴの問題に絡めて書いたので、ここにも掲載しておきます。
 
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QOL。もちろんQuality of Lifeの略である。「生活の質」と訳される現代の重要なキーワードのひとつで、本学もまた「人々のQOL向上に資する大学」を目指している。もともと、英語の「Life」は生活、生命、人生など幅のある意味を持つ言葉なので、QOLという概念もそれが用いられる文脈に応じて多様な含意を持つ。ここでは、研究者としての筆者の立ち位置から見えるQOLのひとつの側面について、思うところを手短に述べてみる。

もともとQOLが論じられるようになった社会的背景のひとつに、医療現場の問題がある。20世紀後半は生命科学と医療技術が急速に発展し、先進国では人々の平均寿命が大幅に伸びただけでなく、がんのような難治性の疾患においても患者の生存率は着実に向上するようになった。単純に言うと、人々が生きていられる時間はそれだけ長くなったのである。このこと自体は喜ばしいが、問題は、生きている時間が長くなっても、その中身が豊かになっているとは必ずしも言えない場合もある、ということにある。だから、生きている時間の「質(quality)」が問われることになったのだ。

全身にチューブやセンサーが取り付けられ、意識不明の状態で延命が続いている重症患者を、その見た目から「スパゲティ症候群」と呼ぶことがある。このような状態でも家族は生きていて欲しいと願うかもしれないが、患者本人には生きていることの充実感を得るのは難しいだろう。生きている時間の量と質がこれほどくっきり分離して現れる状態は他にない。たんに生存が保たれている状態と、その人の生命や生活や人生が充実している状態を区別する何か、それがここで問われている「質」に他ならない。

じつは、QOLをめぐる議論が医療現場から一般社会へと広まりつつあった1980年代、心理学の世界では違った文脈で「質」が問われるようになっていた。数量化して測定できるデータをもとに人間の行動を解明することを心理学は伝統的に重視してきた(そして現在もそうである)が、数量化できない人間の主観的経験を解明しようとする「質的研究」と呼ばれる方法が勢いを持つようになったのである。質的研究にもいろいろな立場があるが、本人がみずからの経験について語る言葉をデータとして重視する傾向は共通している。とくに、重要な出来事や人生についての本人による語りは「ナラティヴ(narrative)」と呼ばれる。

たんに生きている状態と、本人がそこに何らかの積極的な意義を感じつつ生きている状態の違いを考えるうえで、ナラティヴは重要な観点を提供してくれる。フランスの哲学者リクール(1913-2005)も述べているが、人はみずからの人生を物語ることで、自己アイデンティティを見出す生き物だからである。あなたは、自分の人生について友人に語って聞かせるとしたら、どんな物語にして語るだろう。今まで生きてきた時間をどのように振り返り、今から生きる時間をどのように展望するだろう。きっとその物語は、あなた自身にとってQOLを考える大事な入口なのである。
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QOLはいろんな角度から論じることができそうですが、こうしてみるとナラティヴもQOLを考えるうえで意外に重要な切り口になりうることがわかっていただけるのではないでしょうか。
 

 

2018年11月11日日曜日

11/25 質的心理学会シンポジウム

ちょうど2週間後ですが、こういうシンポジウムに登壇します。

日本質的心理学会・第15回大会
11月24〜25日@名桜大学

シンポジウム「ナラティヴを通した他者理解―聞き手の視点と感性に注目しながら」
- 企画・司会:植田嘉好子(川崎医療福祉大学)
- 話題提供者:田中彰吾(東海大学),植田嘉好子(川崎医療福祉大学),能智正博(東京大学)
- 指定討論者:西研(東京医科大学)

 企画趣旨
 ナラティヴは生の出来事についての語りや物語を指し、心理、福祉、医療などの質的研究における重要な手がかりとされてきた。ブルーナーは人間の思考様式を「論理-科学的様式」と「物語的様式」とに分類し、人々の生活の社会文化的次元や個人的豊かさを理解するうえで「物語的様式」の重要性を強調した。また医療では科学的根拠を重視するエヴィデンス・ベイスト・メディスンに対して、患者の語りや対話に基づくナラティヴ・ベイスト・メディスンが提唱されている。
 ただ、こうしたナラティヴは真空のなかに生まれるものではなく、インタビュー等の対話のなかで生じるものであり、あるいはそのようななかで聞き手によって聞き取られるものである。患者やクライエントの語りを、あるいは語られないナラティヴを、他者である私たち研究者はどのように理解し、妥当な研究データとして活用することができるのか。
私たちはこれまでにも学会の場で「ナラティヴ・セルフ」について議論してきたが、前回の議論では、次のようなテーマが浮かび上がっている。
  ①ナラティヴにおける情動や欲望の次元、
  ②語り手と聞き手の関係や相互作用、および聞き手の感性の問題、
  ③ナラティヴ分析におけるパースペクティヴと妥当性の課題
 ナラティヴを用いる実践や研究では、クライエントや研究協力者等の「他者」に対する理解が前提であり重要な目的でもある。しかしそれがどのように聞き手において実現され、第三者へと普遍化されるのか。本シンポジウムでは、上記のテーマを意識しながら田中、植田、能智が話題提供を行い、それを踏まえて現象学者の西が指定討論を行って、人間的な経験の本質に迫るルートとしてのナラティヴに関する議論を深めていきたいと考えている。
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このメンバーでシンポジウムを組むのは2回目で、昨年8月の国際理論心理学会でのシンポジウム以来になります。もっと遡ると発端は2016年7月にエンボディードアプローチ研究会で開催した「人間科学と現象学―他者の経験にアプローチする」にあります。現象学を人間科学に応用するさいには、そもそも研究者がインタビュー対象者をどのように理解できるのかが問題になります。そのとき、インタビューの聴き手と語り手の関係性に依存する次元を超えて相手を理解するには、語り手の表面的なナラティヴを超えて、ナラティヴによって構成されているアイデンティティの次元にまで迫る必要があるんじゃないか、という議論になったのでした。今回の企画も、こうした議論の延長にあります。

今回は会場が沖縄県名護市の名桜大学になります。沖縄に行くのは10年以上ぶりなので、ランドスケープの変化を目にするのも楽しみにしています。

 

2018年11月8日木曜日

10月の備忘録

前回の投稿からちょうど1ヶ月。ブログを更新できないまま場当たり的に仕事をやっつけ続ける日々が続いています。以下、とりあえずこの間にこなした仕事を備忘録として書いておきます。
 
・駒場で「学際科学概論」の講義:105分の講義を連続2コマで、終わったら声がかすれました。が、自身の研究に深くかかわる内容を講義できるいい機会でした。
・科研費の申請書作成:手元にリサイクルできる企画があったので、計画調書としてリライトして提出しました。枠が挑戦的研究なので、まあ、採択されないと思いますが。
・医学部の学士編入生を相手に「現代文明論」の講義:3年ぶりに担当したので思い切って内容を変えて「心の病は実在するか?」というタイトルにしました。精神医学の哲学がらみの講義。講義につづく学生のディスカッションでは、精神障害の命名と診断をめぐって、なかなか味わい深い意見が多々出ていました。
・身体図式と身体イメージに関する展望論文:自他研の面々で書いた論文のとりまとめ作業…作業が遅れてみんなに迷惑をかけていたのですが、ようやくエディット終了。
・リハビリテーション関連の議論:小脳病変に由来する運動障害の理学療法を専門としている菊地豊先生とディープな議論。小脳変性症の当事者の映像をいくつか拝見しましたが、触発されて考えることが多々ありました。今後も、運動障害と運動学習について、時間をかけて議論を深めていくことになりそうです。
・国際シンポジウムの準備:毎年3月にデンマークの東海大学ヨーロッパ学術センターで開催しているシンポジウムの事務的な準備がようやく始まりました。
・準備中の単著の執筆:進捗はまあまあです。
・フックス本の読書会:毎回議論が盛り上がるのでなかなか進みませんが、3章まで読み終わりました。

あれこれ迫り来る主任のお仕事(こちらは「お仕事」であって本来の「仕事」ではありません)の合間にこれだけ研究を進めたので、よしとします。
 
 

2018年10月8日月曜日

発売が始まりました

以前ここでも告知した文化心理学関連の以下の書籍、オンライン書店での発売が始まったようです。いわゆる比較文化的アプローチではなく、「そもそも文化とは」という視点を強調していること、過去の心理学のなかで文化を重視した論者を(ヴントの民族心理学も含めて)再発掘していることが本書の大きな特徴だと思います。
 
Gordana Jovanović, Lars Allolio-Näcke & Carl Ratner (Eds.). (2018). The Challenges of Cultural Psychology: Historical Legacies and Future Responsibilities. New York, NY: Routledge.



実物をまだ手にしていないのですが、カラフルでいい感じの装丁ですよね。ちなみに、私が分担したのは以下の章になります。

Shogo Tanaka
Chapter 17: The self in Japanese culture from an embodied perspective

身体化された自己の観点から、日本文化における自己の問題を論じています。出版社向けのプロポーザルに収録されたアブストラクトは出版された書籍のなかに収録されなかったようなので、ここに転載しておきます。いわゆる「西洋的自己-非西洋的自己」という二分法ではなく、身体的自己が文化的コンテクストによって個人主義的なものにも集合的なものにも生成しうる点を強調した論考です。内容に関心のある方はぜひ本書を手にとってみてください。
 
[Abstract]
The main aim of this paper is to consider the self in Japanese culture from an embodied perspective. Since early 1990’s, the discourses on the embodied mind have brought a radical change in the sciences of mind, including the notion of the self. In the following argument, first, I briefly describe the basic aspects of the embodied self, the notion of which was derived from the embodied mind paradigm. Then, I examine the discourse on the self in cross-cultural psychology that focuses on the differences in the self between the West and East, including Japanese culture. In the extant literature, it is widely acknowledged that the self in Eastern (or more widely, non-Western) cultures has the characteristics of being “interdependent” and “collective” in comparison with that in Western cultures. In addition to this, the self in Japanese culture has been described as “relationship dependent.” Finally, I give an account of the same characteristics from an embodied perspective in order to find a path to an understanding of the self beyond cultural dichotomies, such as “Western” and “Eastern.” If the self is inevitably embodied, such a self could be constituted as either “individual” or “collective,” “independent” or “interdependent,” regardless of the cultural background.
 

 

2018年9月30日日曜日

旅の余韻

出張続きの9月でした。いまもまだ余韻の中にいます。
 
9月中旬、ハイデルベルクで「Time, the Body, and the Other: Phenomenological and Psychopathological Approaches」というカンファレンスに参加。トーマス・フックス氏の年来の研究者仲間が集まるアットホームな雰囲気の会議でした。現象学と精神医学というサブタイトルがついていますが、名だたるエナクティヴィストもたくさん来ていて(Hanne De Jaegher, Ezequiel Di Paolo, Tom Froeseといった面々)、彼らのトークを聴きながら、動きと行為を出発点にして自己と世界をとらえることの意味を改めて考えました。私は少し違った文脈で対人恐怖症について話したのですが、そちらにもいろんな方からコメントをもらえて励みになりました。ちなみにショーン・ギャラガーの講演が行われたアルテ・アウラ(1886年に建てられた建学500周年の記念講堂)の雰囲気がとても良くて、束の間「学問の殿堂」にいる気分に浸りました。
 
下旬、日本心理学会で仙台へ。大会中日は大学を抜けられなかったので泣く泣く日帰り。しかも出番が二回あったので25日・27日と日帰り二回でした。今回の大会はいずれも心理学と哲学の中間領域に関係するシンポジウムで、一件は現象学と心理学史、もう一件は科研費のプロジェクトに関連する「個別事例学」の企画でした。初日は40人弱、3日目は立ち見の出る盛況で、「日心も変わったなぁ」と感じた大会でした。10年前なら、こんなに哲学寄りの企画ではこの半数くらししか人が集まらなかったと思います。質的研究が強くなったこと、再現性問題をきっかけに心理学の方法の問い直しが進んでいること、意識や自己といった研究領域では心理学と哲学の問題意識が重なること、等々、いろんな要因が背景にありそうですが、私のように心理学の哲学を手がけてきた研究者からするとこの変化は歓迎すべきものに感じます。この種の議論を通じて新たな知が生まれてくることを信じて、今後も議論を続けたいと思います。
 
そして最後に大阪。認知神経リハビリテーション学会に参加してきました。とても得がたい経験でした(関係者の皆様にお礼申し上げます)。大会前日の28日夜に大阪入りして関係者の懇親会に参加したのですが、会長の宮本先生や重鎮の森岡先生、生理研から来られていた吉田先生とずっと議論をしていました。身体性をめぐって、意識の謎をめぐって。で、それはその日だけでは終わらず、大会1日目それぞれの講演の前後に楽屋でもずっと続くという感じで、長い長い座談会をやっていたような感じでした。レセプションでも若いPTやOTの皆さんから答えきれないくらい多くの質問をいただいて、ひたすら答えていたら何も食べる間も無く終わってしまいました。皆さん患者さんの身体に日々真摯に向き合っておられるからか、身体経験についての(哲学的な次元を背後に含む)深い質問ばかりでした。「病態を深化する」という大会テーマもこれには関係していたと思います。病態を深く理解することは、現象学的身体論とも響きあうテーマです。私も触発されて多くの問いと思考を持ち帰ってきたので、これから自分の言葉にしたいと思っています。
 
というわけで、旅の余韻が終わらないまま、10月に入ろうとしています。


 

2018年8月28日火曜日

9月の登壇予定(3)

その3。
9月29日〜30日、大阪の門真市文化会館ルミエールホールにて「第19回 認知神経リハビリテーション学会学術集会」が開催されます。

光栄なことに大会の特別講演者として話をさせていただきます。声をかけていただいたタイミングが身体図式・身体イメージの国際シンポを開催した直後で、ちょうどイアン・ウォーターマンのリハビリ過程に即して身体イメージについて考え直していたところでした。ウォーターマンは感染症に由来するニューロパシー(末梢の神経障害)に陥り、首から下の触覚と固有感覚を失ってしまった患者です。その患者が、身体を見つめて身体イメージを活用することで、日常生活のさまざまな行為を実行できるようになったのですが、ここには、リハビリテーションにおける運動イメージと身体イメージの持つ本質的な意義が隠れているように思うのです。当日はこの点を掘り下げて考えてみたいと思っています。

私の教え子のなかにも、リハビリテーションの現場で働いている卒業生がいるので、この分野の専門家とのコラボレーションを楽しみにしています。


 

9月の登壇予定(2)

その2。
9月25〜27日、仙台国際センターで日本心理学会第82回大会が開催されます。
田中も関係するシンポジウムで話します。

(1)
9/25 (火) 13:10-15:10 小会議室2
シンポジウム「もうひとつの心理学史を求めて-近代心理学と現象学」
企画代表:渡辺恒夫,話題提供:渡辺恒夫・田中彰吾・村田憲郎,指定討論:直江清隆・渡邊芳之,司会:渡辺恒夫

(2)
9/27 (木) 13:10-15:10 会議室3B
シンポジウム「事例研究はいかにして「客観的」たりえ、他者に利用可能たりうるか?」
企画代表:三嶋博之,話題提供:河野哲也・佐藤由紀・青山慶,指定討論:三嶋博之・田中彰吾,司会:染谷昌義

(1)のほうは「心の科学の基礎論研究会」の議論のスピンオフ企画のようなものです。ブレンターノ、ゲシュタルト心理学、フッサール現象学、という歴史的起源をたどりつつ、そこから発展する可能性のあった「もうひとつの心理学」を考えます。
 
(2)は、去年から進行中の科研費プロジェクト「生態学的現象学による個別事例学の哲学的基礎付けとアーカイブの構築」の企画です。「個別事例学」としていま議論を進めているものの経過報告という意味合いがありそうです。今回はとくに、一回しか生起しない出来事を事例研究として位置付けるにはどうすればいいのか、という論点を掘り下げることになりそうです。

心理学会に参加予定の方は会場でお会いしましょう。


 

9月の登壇予定(1)

これから登壇する予定をいくつか。
その1。

9月13日、ドイツ・ハイデルベルクで開かれるカンファレンス「Time, the Body, and the Other」で話します。


このカンファレンス、じつはハイデルベルクでヤスパース講座の主任をつとめてきたトーマス・フックス氏の60歳の誕生日祝いという隠れた意味があります。カンファレンス・ディナーは、彼にゆかりのある人たちが集まっての誕生パーティになるらしいです。これは盛り上がりそうで楽しみ。

カンファレンスのタイトルを見て、私は当初、鏡像、身体イメージ、反省的自己の話をしようと思っていたのですが、準備をするうちに気が変わりました。今回は対人恐怖症の話をしてきます。対人恐怖症は、他者の視線に出会った瞬間を契機として、私の身体がいつもどおりのあり方を失って、赤面したりどもったりし始めるという点で、「Time, the Body, and the Other」というテーマをうまく反映している主題だと思います。

2018年8月26日日曜日

8月の備忘録

たまたまTVをつけたら日テレで24時間テレビをやっていて「えっ、もう8月終わっちゃうの?」と何とも言えない脱力感におそわれた田中ですこんにちは。

とりあえず、8月に進めた主な仕事を備忘録的に記しておきます。

  • 同僚のO先生と来年の職場の時間割原案の作成(ひたすらむなしく頭を使う時間だった…)
  • 友人と共著で書いている論文の執筆(今まで読んだことのなかったフランツ・ファノンを初めて本格的に読んで人種差別や植民地的経験についていろいろ思うところあり)
  • 11月に質的心理学会で登壇するシンポジウムの準備(ナラティヴについて考えます)
  • 8月中旬に北京で開かれた世界哲学会の準備(河野先生と企画したラウンドテーブル1件、自分の研究発表1件。どっちも盛況でありがたかった。ちなみに初北京で食事は満喫したのですが、途中からアレルギー性?の鼻炎がひどくなってまいりました)
  • 8/24に立教で開かれたヘレン・ンゴ『人種差別の習慣』合評会で司会(司会を依頼されたタイミングでたまたまファノンを読んでいて人種差別について考えを深めたくて依頼を受けたのですが、ンゴさんやレビュアーの発表を聞いていて考えることがいろいろあり。おそらく、身体イメージのレベルでのネガティヴな経験が身体図式へと織り込まれ図式がうまく機能しなくなる点に差別される経験の身体性の核心があると思う。他にも多々刺激を受けた)

  • 某出版社から予定している次の単著の企画書を作成
  • 来月末の日本心理学会で登壇するシンポジウム「もうひとつの心理学史を求めて」の発表準備(ただいま進行中)
という感じで、あっという間に8月がもうすぐ終わります。
 


2018年8月8日水曜日

自撮りを入れてみました(Tanaka, 2018)

こんばんは。
 
今年、刊行が始まった新しいジャーナルで「Human Arenas」というのがあって、私もAssociate Editorとして参加しているという話を以前書きました。
新ジャーナル:Human Arenas

それで、去年、国際理論心理学会が東京であったときに、関係者と「Locating the bodily borders of individuality」という名称のシンポジウムを開いたのですが、その発表を論文にするようせっつかれていました。

…うーん、締め切りが4月末だし、他に優先順位の高い仕事いくつか抱えてるし書けないよな〜、ってほとんど諦めていたのですが、他の仕事の合間にところどころ浮いた時間で短い論文をなんとか書きました(自分で自分をほめてあげたい-笑。

ただいま、Online Firstの状態で雑誌のサイトで公開されています。以下のリンクをたどって右側にある「Download PDF」をクリックすると無料でダウンロードできます。

Tanaka, S. (2018). Bodily Basis of the Diverse Modes of the Self. Human Arenas, 1. https://doi.org/10.1007/s42087-018-0030-x

中身は一種のレビュー的な内容です。身体経験がいかにして多様な自己のあり方を支えているのか、現象学的な分析を短くまとめてあります。前反省的な自己、反省的な自己、自律的な自己、相互依存的な自己、それぞれ、身体経験が環境や他者との相互作用を通じてどのように焦点化されるかに応じて、構成される自己の様式も異なるという話です。
 
ところで、文章が短いので何か工夫できないかな〜と思って、自撮りの写真(顔ではなくて手だけですが)をいくつか入れてみました。(a)物に触れる、(b)自分で自分に触れる、(c)他者に触れられる、それぞれの場面で紙面を充実させるのに写真に一役買ってもらいました。手作り感がなんとも残念な感じに仕上がっていますのでぜひご覧ください(笑
 

 
[2018/8/11 追記]
先ほど上記リンクを確認したら、第1巻第3号にページを割り当てられていました。正確な書誌情報は以下になります。
Tanaka, S. (2018). Bodily basis of the diverse modes of the self. Human Arenas, 1, 223-230.
引き続き、リンクからたどってPDFファイルを無料でダウンロードできるようです。