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2022年9月7日水曜日

学会イベント:心理学会シンポジウム① (9/8-10/11)

引き続きイベント案内です。こちらはオンデマンドで公開期間が長いので1ヶ月以上にわたっていつでもご参加いただけます。

日本心理学会第86回大会 (9/8-11, 延長公開9/12-10/11)

公募シンポジウム「SS-009 ナラティブ・セルフをどう研究するか?

 企画:田中彰吾

 話題提供1:田中彰吾(東海大学)

 話題提供2:嶋田総太郎(明治大学)

 話題提供3:村田憲郎(東海大学)

 指定討論:宮崎美智子(大妻女子大学)


こちらはすでにメンバーのみのオンラインでシンポジウムを行い、録画した動画を大会サイトにアップしてあります。過去20年のあいだに蓄積されてきた身体性に基づくミニマル・セルフ研究の知見をもとに、どのようにそれを「ナラティブ・セルフ」研究へと拡張すればいいかということを議論しています。話題提供1〜3、指定討論までをご覧いただくと、すべての話題が有機的に噛み合っていることがわかっていただける内容になっていると思います。

ナラティブ・セルフをめぐって実験研究を模索している方にはぜひご覧いただきたい内容です。大会参加して、上記リンクのサイトにアクセスするとコメントを書き込めますので、ぜひ議論にご参加ください。


2021年9月18日土曜日

アイデア満載の論文

以前このブログで理化学研究所の入來篤史先生のラボを訪問したさいのことを書きました。

 「入来ラボを訪ねました」 

ご一緒した青山学院の鈴木宏昭先生も交えて、人類進化についていろいろと根源的な事柄を議論させてもらいました。その際の議論を入來先生が中心にまとめられた論文が出版されました。京都大学が発行している心理学の欧文誌「PSYCHOLOGIA」に掲載されています。J-STAGEからアクセスできます。 

THE SAPIENT PARADOX AND THE GREAT JOURNEY: INSIGHTS FROM COGNITIVE PSYCHOLOGY, NEUROBIOLOGY, AND PHENOMENOLOGY 

Atsushi IRIKI, Hiroaki SUZUKI, Shogo TANAKA, Rafael BRETAS VIEIRA, Yumiko YAMAZAKI 

副題に「認知心理学、神経生物学、現象学からの洞察」とある通り、人類進化をめぐって学際的な議論が展開されています。焦点は、ヒトはなぜアフリカを出て地球上の広範囲に生息地を広げたのか、さらには文明を各地で同時多発的に形成し始めたのか、という点にあります。 

「三元ニッチ構築」(神経ニッチ、認知ニッチ、環境ニッチが相互作用しつつ全体として進化する)という理論を入來先生は以前から展開されていますが、田中は「環境ニッチ」に対応する論考を分担しました。 

身体性認知から見ると、脳は「身体-環境」の相互作用の文脈に埋め込まれることでその機能を発揮しているように見えます。ヒトならではの「身体-環境」の相互作用には、直立二足歩行したこと、それにより前後軸-上下軸が分岐して「地平線」を発見したことがあります。 

直立して歩くには自己の立脚点を参照し、自己身体を世界空間内に明示的に位置づける必要があります。これは、自己身体を対象化し(身体イメージを作る)、さらに自己を世界に投射(プロジェクション)して位置付ける認知活動と密接に関わっていると思われます。つまり、身体認知、自己意識、世界内存在という一連の認知能力はすべて「直立二足歩行」という連環のなかにあるわけですね。 

こういう議論は、1980年代に活躍した身体論研究者の市川浩がすでに着想として持っていたのですが、人類進化という文脈に落とし込んで議論した現象学者は皆無だったと思います。 

詳細はぜひ上記論文をご覧ください。二次体性感覚野の神経科学研究、認知におけるプロジェクション科学の研究と連動して人類進化の問題が論じられています。これだけ文理融合的で豊かなアイデアを高いレベルで統合している論文はなかなか例がないだろうと思います。

2020年11月17日火曜日

入来ラボを訪ねました

9月に認知科学会で「プロジェクション・サイエンス」のシンポジウムがあり、そのときに神経科学者の入来篤史先生とパネリストとしてご一緒させていただきました。そのことがご縁で、シンポジウムを企画してくださった鈴木宏昭先生(青山学院大学)と一緒に神戸の理化学研究所にある入来先生のラボを訪問しました。

ニホンザルの実験環境を拝見した後でいろいろと議論させていただいたのですが、自己をめぐる本質的な論点が次から次へと出てきて大変刺激的でした。道具を使うと、身体図式が拡張するだけでなく身体イメージが一時的に崩れることで、道具を使う存在はかえって自己の身体を意識化・対象化する契機を持つこと;サルは座ることを始めたことで背骨が直立し、手が自由になって潜在的には道具を使えるようになっていること(実際タイのカニクイザルには道具を使うものがいるらしい);ヒトは直立歩行することで「上下」という座標軸と水平線、またそれに連動する「左右」という座標軸をかなり自覚的に分岐できるようになったであろうこと;二足歩行するとき周辺視野に両足が入っており、見えないとうまく歩けないが、それはある意味で空間内の「ここ」という位置を「ここ以外」という場所と潜在的に区別する意味を持つこと;自己身体を対象化し、自己の位置する「ここ」を自覚できることが、ヒトの自己意識をたんに前反省的な自己感から反省的な自己意識にしたということ;おそらくこれらすべての条件は、ホモ・サピエンスが地球上の広大な領域(「ここ」以外のどこか)を移動しつくしたことの前提条件になっていること…

どうでしょう? 自己意識の発達と進化をめぐって、ものすごく根源的で哲学的な論点をおさえていますよね? お二人ともサイエンスの根底にある哲学的な問いに取り組もうとされていることが伝わってきて、議論に熱中しているうちにあっという間に二日間の出張が過ぎ去ってしまいました。

 

2020年11月14日土曜日

祝刊行:Time and Body

2018年からかかわっていた共著のプロジェクトがようやく出版までこぎつけました。以下の書籍です。

この本、2年前のハイデルベルクでのカンファレンスをきっかけに始まったプロジェクトでした。2018年の9月に、ハイデルベルクのフックス先生の還暦を祝う2日間の国際会議がありました(そのときのことは「旅の余韻」という記事に書きました)。ダン・ザハヴィ、マシュー・ラトクリフ、エゼキエル・ディ・パオロ、ハンネ・デ・イェーガー、ショーン・ギャラガー、ドロテ・ルグランなど、ヨーロッパの大物がみんな集まっていたので、きっと各講演をもとにした書籍が編集されるのだろうと思っていましたが、今回は、現象学的精神病理学の第一人者でフックスさんの盟友あるスタンゲリーニさんが一肌脱いで編集の労を取られたのでした。

私もお声がけいただき、大変光栄でした。結果的に、初めてCambridge University Pressから刊行される書籍に原稿を掲載することができました。2年前の講演では私は対人恐怖症について話したのですが、その後のやりとりで対人恐怖症のような日本ローカルな内容でまとめるより「社交不安」のようにより一般的なテーマでまとめるほうがいいのではないかという示唆をいただき、社交不安障害の現象学について初めて本格的な論考をまとめました。「赤面」の経験のように、自己の身体が他者に知覚される場面に、社会的な不安が現れる根源を読み取ろうとしたものです。

Chapter 8 (pp. 150-169)
Tanaka, S. (2020). Body-as-object in social situations: Toward a phenomenology of social anxiety.

以下にアブストラクトを掲載しておきます。ご関心のある方はどうぞお問い合わせください。
The aim of this chapter is to explicate the relationship among social anxiety, bodily experiences, and interpersonal contact with others. In so doing, I will first revisit the phenomenology of bodily experiences and confirm the difference between the body-as-subject and the body-as-object. Next, I will describe the experiences of one’s body-as-object for others, distinguishing them from those of one’s body-as-object for oneself. Among phenomenologists, it was Sartre (1943/1956) who emphasized the former aspect of bodily experiences as the “third ontological dimension of the body.” On the basis of this notion, I will try to develop a phenomenology of social anxiety as well as its disorder. In its most basic form, social anxiety can be described as a feeling of uncertainty of the other’s mind that becomes salient in social situations.
 

2020年4月4日土曜日

新たな助成

これまで、当サイトおよびエンボディードアプローチ研究会は以下の公的資金の助成を受けて運営されてきました。

2015~2019年度,科研費・基盤研究(B)「Embodied Human Scienceの構想と展開」

2019年度で助成期間が終了しましたが、このたび、新たに以下の助成を受けることが内定しました。ここに記して感謝申し上げます。

・2020年度〜2023年度(予定),科研費・基盤研究(B)「身体化された自己:ミニマルからナラティヴへ」

前年度までは「Embodied Human Science(身体性人間科学)」を構想してきました。中心に据えてきたのは、いわゆるミニマル・セルフの問題です。不必要な要素をすべて取り払ってもなお残る自己とは何か。これを身体性の観点から明らかにしました。また、その延長で、身体行為にもとづいて自己と他者がどのように相互理解を発展させるのか、記述することを試みました。

今年度からは、ミニマル・セルフからナラティヴ・セルフ(物語的自己)に少しずつ研究の焦点を移していく予定です。身体行為にもとづく自己は、身体レベルで経験した出来事をどのようにものがたり、さらにその物語にもとづく自己アイデンティティを構築していくのか。こうした問題意識にもとづいて今後の研究を展開していきます。

今後も引き続き、当サイトおよびエンボディードアプローチ研究会をよろしくお願い致します。 
 

 

2019年11月18日月曜日

リクール『他者のような自己自身』を読む

大学院のゼミでポール・リクール『他者のような自己自身』を読むことにしました。

2年前に出版した単著では主にミニマル・セルフの問題を取り上げていたのですが、出版の前後からナラティヴ・セルフのことを考えるようになりました。このブログの過去記事を見ても、2017年の1月に「ナラティヴ・セルフと実存」というメモを書いていますね。

ギャラガーが2000年の論文で自己を論じた際、思い切ってミニマルとナラティヴの二種類に区別していますが、私としてはこの二つがどのように連続しているのかが気になっています。単純に理論的な問題としては、ミニマルは最小の時間幅で成立する自己で、現在の身体行為があればそれで十分です。身体行為にともなう主体感と所有感があれば自己が成立する、とされています。

他方、ナラティヴ・セルフは、時間的な広がりがないと成立しません。それは、自分について語られる各種の物語から構成されています(他者が私について語る物語も含みます)。ただ、このような説明をすると、どうしてもナラティヴ(物語)だけが焦点化され、身体性の問題が背景に退いてしまいます。

ナラティヴは他者との社会的関係のなかで言語的に語られることで成立します。しかしそれだけが解明すべき論点になると、いわゆる社会構築主義の枠組みだけで議論が終わってしまい、「語られる物語に応じて自己も構成される」という一種の相対主義に陥ります。こういう陥穽を避けるには、身体性から連続するものとしてナラティヴ・セルフを捉えなおす必要があります。

このあたりのことは、7月に開いたエンボディードアプローチ研究会でも議論しました。2018年11月の質的心理学会でも議論しましたし、2017年8月の国際理論心理学会でも議論しました。…が、まだ解明しきれないものがたくさん残っています。

リクールはナラティヴ・アイデンティティについて深く論じていますが、身体行為として成立する自己の次元を踏まえているので、ミニマルとナラティヴの連続性を理解しているように見えます。…そういう理由で、改めて時間をかけてきちんと読み込むことにしました。

ちなみに、ゼミは毎週木曜の夕方に開講しています。一緒に読んでみたい方は遊びに来てもいいですよ。ナラティヴに関連する研究をしているけど、どこか腑に落ちないものを感じている人にとってはうってつけの内容だと思います。
 
 

2018年10月8日月曜日

発売が始まりました

以前ここでも告知した文化心理学関連の以下の書籍、オンライン書店での発売が始まったようです。いわゆる比較文化的アプローチではなく、「そもそも文化とは」という視点を強調していること、過去の心理学のなかで文化を重視した論者を(ヴントの民族心理学も含めて)再発掘していることが本書の大きな特徴だと思います。
 
Gordana Jovanović, Lars Allolio-Näcke & Carl Ratner (Eds.). (2018). The Challenges of Cultural Psychology: Historical Legacies and Future Responsibilities. New York, NY: Routledge.



実物をまだ手にしていないのですが、カラフルでいい感じの装丁ですよね。ちなみに、私が分担したのは以下の章になります。

Shogo Tanaka
Chapter 17: The self in Japanese culture from an embodied perspective

身体化された自己の観点から、日本文化における自己の問題を論じています。出版社向けのプロポーザルに収録されたアブストラクトは出版された書籍のなかに収録されなかったようなので、ここに転載しておきます。いわゆる「西洋的自己-非西洋的自己」という二分法ではなく、身体的自己が文化的コンテクストによって個人主義的なものにも集合的なものにも生成しうる点を強調した論考です。内容に関心のある方はぜひ本書を手にとってみてください。
 
[Abstract]
The main aim of this paper is to consider the self in Japanese culture from an embodied perspective. Since early 1990’s, the discourses on the embodied mind have brought a radical change in the sciences of mind, including the notion of the self. In the following argument, first, I briefly describe the basic aspects of the embodied self, the notion of which was derived from the embodied mind paradigm. Then, I examine the discourse on the self in cross-cultural psychology that focuses on the differences in the self between the West and East, including Japanese culture. In the extant literature, it is widely acknowledged that the self in Eastern (or more widely, non-Western) cultures has the characteristics of being “interdependent” and “collective” in comparison with that in Western cultures. In addition to this, the self in Japanese culture has been described as “relationship dependent.” Finally, I give an account of the same characteristics from an embodied perspective in order to find a path to an understanding of the self beyond cultural dichotomies, such as “Western” and “Eastern.” If the self is inevitably embodied, such a self could be constituted as either “individual” or “collective,” “independent” or “interdependent,” regardless of the cultural background.
 

 

2018年8月9日木曜日

自撮りを入れてみました(Tanaka 2018)

こんばんは。
 
今年、刊行が始まった新しいジャーナルで「Human Arenas」というのがあって、私もAssociate Editorとして参加しているという話を以前書きました。
新ジャーナル:Human Arenas

それで、去年、国際理論心理学会が東京であったときに、関係者と「Locating the bodily borders of individuality」という名称のシンポジウムを開いたのですが、その発表を論文にするようせっつかれていました。

…うーん、締め切りが4月末だし、他に優先順位の高い仕事いくつか抱えてるし書けないよな〜、ってほとんど諦めていたのですが、他の仕事の合間にところどころ浮いた時間で短い論文をなんとか書きました(自分で自分をほめてあげたい-笑。

ただいま、Online Firstの状態で雑誌のサイトで公開されています。以下のリンクをたどって右側にある「Download PDF」をクリックすると無料でダウンロードできます。

Tanaka, S. (2018). Bodily Basis of the Diverse Modes of the Self. Human Arenas, 1. https://doi.org/10.1007/s42087-018-0030-x

中身は一種のレビュー的な内容です。身体経験がいかにして多様な自己のあり方を支えているのか、現象学的な分析を短くまとめてあります。前反省的な自己、反省的な自己、自律的な自己、相互依存的な自己、それぞれ、身体経験が環境や他者との相互作用を通じてどのように焦点化されるかに応じて、構成される自己の様式も異なるという話です。
 
ところで、文章が短いので何か工夫できないかな〜と思って、自撮りの写真(顔ではなくて手だけですが)をいくつか入れてみました。(a)物に触れる、(b)自分で自分に触れる、(c)他者に触れられる、それぞれの場面で紙面を充実させるのに写真に一役買ってもらいました。手作り感がなんとも残念な感じに仕上がっていますのでぜひご覧ください(笑
 

 
[2018/8/11 追記]
先ほど上記リンクを確認したら、第1巻第3号にページを割り当てられていました。正確な書誌情報は以下になります。
Tanaka, S. (2018). Bodily basis of the diverse modes of the self. Human Arenas, 1, 223-230.
引き続き、リンクからたどってPDFファイルを無料でダウンロードできるようです。






2018年5月20日日曜日

9月発売です-文化心理学関連

すっかり忘れていましたが、2017年1月にこんな記事を書いていました。
うれしい来客

その後複雑な経緯があって(…とジョヴァノビッチさんから裏話を聞いてます)編集が滞っていたらしいのですが、以下のタイトルでRoutledgeからようやく出版されるらしいです。

Gordana Jovanović, Lars Allolio-Naecke, Carl Ratner (eds.) 
The Challenges of Cultural Psychology: Historical Legacies and Future Responsibilities.
London, UK: Routledge.

文化心理学も近年わりと盛んではあるので、いろいろな研究がなされていますが、基本的にはいまだに比較文化的なアプローチが多いように思います。要は、文化を一種の独立変数として事象を説明するようなアプローチですね。

今回出る本は、いわゆる比較文化的なアプローチとは明確に違います。理論的背景を重視しながら「そもそも文化とは」という次元に哲学的あるいは歴史的な観点から切り込んだチャプターがたくさん配置されています。上のリンクから目次を見てもらえばわかると思いますが、第2部ではヴィーコ、ディルタイ、カッシーラーといった哲学者の仕事が取り上げられ、第4部ではロム・ハレやケネス・ガーゲンのような哲学的心理学に近いスタンスの人たちが寄稿しています。

私も「日本的自己」について初めてまとまった文章を書きました(17章に「The Self in Japanese Culture from an Embodied Perspective」のタイトルで入っています)。以前から「西洋的vs東洋的」という二分法に陥らないやり方で、身体性に基礎を置いて自己と文化の問題を考えてみたかったので、ちょうどいい考察の機会を与えていただきました(もう少し詳しいことは上記の「うれしい来客」で読めます)。
 
そういえば、論文ではなく書籍に英文で寄稿するのはけっこう久しぶりです。しかも今回はRoutledgeのようなメジャーな出版社なので、出版された本を手にするのを楽しみにしています。
 

 

2017年7月28日金曜日

国際理論心理学会での企画3

さらに前記事への追加です。
国際理論心理学会(ISTP 2017)の二日目、8/22夕方に下記のシンポジウムがあります。
 
8/22(火):17:15-19:15, Room A1203
[Symposium 22]
  Locating the bodily borders of individuality
[Organizer]
  Luca Tateo (Aalborg University)
[Presenters]
  Lívia Mathias Simão (University of São Paulo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
  Giuseppina Marsico (Aalborg University / University of Salerno)
  Jensine I. Nedergaard (Aalborg University)
  Zachary Beckstead (Brigham Young University-Hawaii)
[Discussant]
  Jaan Valsiner (Aalborg University)
 
この企画はデンマークのオールボー大学の先生方による企画です。自己と他者の境界、主観性と他者性の境界、個体性と集合性、こうしたものの起源として身体経験を理解する試みです。田中も見る-見られる、触れる-触れられる経験をもとに身体の間主観的次元について話そうと思っています。
 
このシンポ、内容もそうですが形式面で面白さがある企画かもしれません。枠が2時間でスピーカーは5人いるのですが、プレゼンは1人10分のみ、話題提供を1時間以内に抑え、あとは会場との討論に1時間を割くというタイムテーブルになっています。

オーガナイザーのタテオ先生はみんなで濃く議論する感じを狙っていて、話題提供者の理論的背景もけっこう散らしてあるので、混沌として結論の出ない流れになるかもしれません。ただ、その分、自分の考えをぶつけてフロアの議論に参加した人には、得るものも多い議論になると思われます。身体性に関心のある方はぜひ会場にお越しください。
 

 

2017年7月22日土曜日

国際理論心理学会での企画2

※8/5記:大会プログラムに変更があり、この企画は8月25日、13:30-15:00に変更になりました。
 
 
前記事への追加です。
国際理論心理学会(1STP 2017)、8/24日午後にはこんなワークショップがあります。

8/24 15:30-17:00 
8/25 13:30-15:00  Room A302
[Workshop 3]
  Alternative concepts of self, body and mind from contemporary Japanese perspectives
[Organizer]
  Tetsuya Kono (Rikkyo University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Presenter]
  Tetsuya Kono (Rikkyo University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
  Takayuki Ito (International Research Center for Japanese Studies)
  Yu Inutsuka (The University of Tokyo)
 
この企画は、現代(に必ずしも限りませんが)日本のパースペクティヴからオルタナティブな「自己」と「心身論」を議論する趣旨のものです。河野先生、伊東先生とは2015年の京都カンファレンス、2016年の国際心理学会議と、2年続きでアジア的な心身観から自己をとらえなおす議論を続けているので、これが3回目になります。
 
近代的な「自己」のとらえかたは、そのベースに独特の心身の見方(二元論)を持っていて、それが個人主義的な発想や独我論的な心観と緊密に連動しています。しかも、こうした観点は心理学の根っこにある仮説的な見方にもなっています。では、日本的な、あるいは東アジア的な観点を取ることで、こうした自己の見方を刷新できるのでしょうか。また、そうだとして、それは現代の心の見方にどのような貢献をなしうるのでしょうか。こういった論点を考えるワークショップです。
 

 

2017年6月29日木曜日

何とか終えた…

昨日までの暑さのせいで準備が間に合わないかと思いましたが、なんとかかんとか午後4時過ぎに準備を終え、午後6時からハイデルベルクのコロキアムで話をしてきました。


テーマは、離人症における自己と身体。ハイデルベルクに来て進めてきた研究プロジェクトのまとめになる話をしてきました。離人症を経験する個人は、しばしば自己の感覚が身体から切り離され、あたかも身体の外側にあって身体で起きていることを観察している、ということを訴えます。これは、哲学史上の議論にひきつけて考えると、デカルト的な二元論を擁護する症状に見えるわけです。デカルトは身体から切り離された自己を徹底して擁護する議論をしていますから。

そして、デカルト的な二元論に反対するところから始まっている私の「身体化された自己」の議論にとっては、離人症における自己感覚は、デカルト的自己を擁護するのか、身体化された自己を擁護するのか、議論を決定づける試金石のような症状なのです。

この問題に関して私が最終的に注目していることのひとつは、エージェンシーの問題です。離人症を経験する個人は、しばしば自分の身体行為があたかもロボットのように自動化されているといいます。しかし、彼らの身体は麻痺しているわけではないのです。生活に必要な行為はすべてなすことができます。だとすると、エージェンシーの感覚は存在しないわけではなくて、少なくとも身体行為を開始する時点でははたらいているはずです。ロボットのように感じてしまうのは、エージェンシーではなくて、むしろ身体のオーナーシップが損傷しているからでしょう。彼らは、自分の意図したとおりに行為することができるのですが、固有感覚を通じて「私の身体が動いている」という感じを経験できないため、行為が自動的に生じているように感じてしまうのでしょう。

そして、そうだとすると、少なくとも行為開始時点でのエージェンシーの感覚だけは身体に由来するはずで、その一点においては、離人症に苦しむ個人も、やはり身体化されていると言えるのです。これはおそらく治療とも接点を持つでしょう。身体行為(もっというと身体を動かすエクササイズ)を通じて、少しずつ身体のオーナーシップを回復することができれば、症状も多少は緩和されるのではないかと思います。私は臨床家ではないので治療に関して踏み込んだことは言えませんが、具体的な運動を手掛かりに身体性を回復することができるなら、治療について希望が持てるのではないでしょうか。

ともあれ、無事に話し終えることができて良かったです。しかも、今日の講演は「カール・ヤスパース図書館」というレジェンドな場所で行うことができたのでした。光栄な一日でした。