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2022年6月22日水曜日

信原幸弘『情動の哲学入門』

 この4月以降、ブログを更新する時間がぜんぜんありません。…が、とにかく今日は1件記事をアップします。記事といってもとくに中身はなく、読書会のレジュメをアップしました、という報告です。

 信原幸弘(2017)『情動の哲学入門-価値・道徳・生きる意味』勁草書房,第一部

昨年度末にリクール『他者のような自己自身』を読み終えて、いまはこの本を同僚の村田憲郎氏と一緒に読書会で読んでいます。情動を「感じる」という身体的感受の経験のレベルで捉え直しつつ、それを道徳や物語と絡めて論じていて、いま私自身が取り組んでいるナラティブ・セルフの問題に直結する内容を扱ってくれています。

やっぱり、ミニマル・セルフとナラティブ・セルフを結ぶには、とくに身体性の観点を残したままそうするには、情動の問題を避けて通れないようです。このあたりはいずれ理論的にきっちり整理して論じます。

では、また。

2021年11月9日火曜日

途中経過

しばらく前に、認知科学の講座本に寄稿する予定の目次を記しておいた(「やっと少し時間がとれた」)。11月に学園祭期間で数日休みができたおかげで原稿を半分くらい実際に書くことができたので、今日はその経過報告。こんな感じで進んでいる。

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章題:「身体性に基づいた人間科学に向かって」
 
1節:心の科学と身体性の問題
 ・認知科学の始まりをふり返る
 ・行動主義と認知主義
 ・哲学的に整理すると…
 ・心身二元論がもたらした問題
 ・「私は考える」から「私はできる」の認知科学へ
 
2節:身体性認知とは何か
 ・認知は身体性に依存する
 ・ヘルドとハインの古典的実験
 ・概念化仮説
 ・置換仮説
 ・構成仮説
 ・4E認知

とりあえずここまで書いた。続きの節はこうなる見込み。
 
3節:これからの身体性認知を展望する
4節:来るべき人間科学のために

与えられた文字数が23000字なのだが、2節まで書いたところですでに14000字を超えている。このままで行くと3節まで書くとほぼ終わりになってしまうので、当初予定していた3節と4節はまとめて3節にして、あとは「結論」みたいな短い節にするほうがいいかもしれない。

前回も書いたけど、講座本に収録される原稿なのだから、きっちりと書くべき論点を整理して10年くらいは読むに堪えるものを書いておきたいと思っている。とくに、認知科学に関心のある人たち、研究をやってみたいなと思っている人たち向けに、しっかりした歴史的回顧と、魅力的な将来展望に満ちたものを書いておきたい。
 
そういう趣旨の文章を書くには、書き手の頭の中で哲学的な論点が整理できていなければならないのだが、書いてみてわかるのは、やはりメルロ゠ポンティが『知覚の現象学』でやろうとしていたプロジェクトが身体性認知科学を強く予見していたということ。加えて、今回改めて1節を書いていて気づいたのは、ギルバート・ライルが『心の概念』で試みていることは部分的にかなりメルロ゠ポンティの議論に近いということ。二人とも、スキルフルな身体的行為として実現されているものを「心的なもの」として理解しようとした先駆者だったのだ。

2021年7月17日土曜日

Philosophy & Cultural Embodiment

身体性に関心のある若手研究者の皆さん向け情報。科研費・新学術領域研究の「顔・身体学」のプロジェクトで欧文誌が新たに創刊されました。研究者の方ならどなたでも投稿できますので、ぜひ原稿をお寄せください。

Philosophy & Cultural Embodiment

文化について身体性の観点から考察したい方、逆に身体性について文化の観点から考察したい方、哲学分野に限らず投稿を受け付けています。編集長に立教の河野哲也先生、ボードメンバーにはアントニー・チェメロやショーン・ギャラガーの名前も並んでいますよ。

創刊準備号(Vol.1, No.1)

上のリンクから創刊準備号をご覧になることができます。田中も「Boyond the "body-in-the-brain"」というタイトルで寄稿しました。幻肢を脳内現象に還元する見方を批判して、中枢-末梢を統合する見方を追求しています。また、幻肢を動かせることの意味や、幻肢の形の知覚についても見解を提示してあります。

ぜひご覧ください。

2021年7月6日火曜日

オックスフォードから出版されました!

前回記事からもう1ヶ月以上過ぎてしまいました。前回はあっという間に6月になっていたのですが、6月は5月よりさらに学内業務に追われてあっという間に7月が来てしまいました。ご無沙汰していてすみません。

それで、近況をここにつらつら書く暇もないので端的にお知らせを。3年越しで盟友のY・アタリアとS・ギャラガーとともに編集に取り組んでいた「Body Schema & Body Image」がついにオックスフォード大学出版局から刊行されました!

Yochai Ataria, Shogo Tanaka, & Shaun Gallagher (Eds.), (2021). Body Schema & Body Image: New Directions. Oxford, UK: Oxford University Press.

自分の業績を過去3年ぐらい振り返ると、間違いなくこれが一番の目玉になる仕事だと思います。目指したのは、身体性に関連する分野の研究者、とくに身体図式または身体イメージに関連する仕事を手がける研究者にとって里程標になるような仕事です。今後、body schemaまたはbody imageというテーマで研究している人はこの書に収録されている関連論文を読まないと最前線には立てませんよ!ぐらいの内容を目指しました。本当にクオリティの高い原稿を集めたので、実際そういう内容になっています。若手で頑張っているみなさんは、ぜひこの書に収録されている諸々の論文を乗り越えて先に進んでください。本書を無視して身体図式や身体イメージをうんぬんする研究者は今後モグリ扱いですよ〜

世界の第一線で活躍する研究者の原稿に混じって、日本で研究している自分の仲間たちの原稿をこの本に収録できたことも、個人的にはとても誇りに思っています。もちろん、私自身も「Body schema and body image in motor learning」というタイトルで1章を寄稿しています。皆様ぜひ目次だけでもご覧ください。

OUPウェブサイトのTable of Contentsに進むと目次が見られます

お知らせを書く時間しか本当に取れないので、今日はこれにて。

2020年4月4日土曜日

新たな助成

これまで、当サイトおよびエンボディードアプローチ研究会は以下の公的資金の助成を受けて運営されてきました。

2015~2019年度,科研費・基盤研究(B)「Embodied Human Scienceの構想と展開」

2019年度で助成期間が終了しましたが、このたび、新たに以下の助成を受けることが内定しました。ここに記して感謝申し上げます。

・2020年度〜2023年度(予定),科研費・基盤研究(B)「身体化された自己:ミニマルからナラティヴへ」

前年度までは「Embodied Human Science(身体性人間科学)」を構想してきました。中心に据えてきたのは、いわゆるミニマル・セルフの問題です。不必要な要素をすべて取り払ってもなお残る自己とは何か。これを身体性の観点から明らかにしました。また、その延長で、身体行為にもとづいて自己と他者がどのように相互理解を発展させるのか、記述することを試みました。

今年度からは、ミニマル・セルフからナラティヴ・セルフ(物語的自己)に少しずつ研究の焦点を移していく予定です。身体行為にもとづく自己は、身体レベルで経験した出来事をどのようにものがたり、さらにその物語にもとづく自己アイデンティティを構築していくのか。こうした問題意識にもとづいて今後の研究を展開していきます。

今後も引き続き、当サイトおよびエンボディードアプローチ研究会をよろしくお願い致します。 
 

 

2020年3月14日土曜日

雑誌『体育の科学』に寄稿しました

昨年9月に久々に体育学会のシンポジウムに登壇する機会があったのですが、そのときにお話しした内容をもとに執筆した原稿が『体育の科学』に掲載されました。

体育の科学70巻3月号:特集「eスポーツを考える」(杏林書院)

特集には、当日シンポジウムでご一緒した秋吉遼子氏(東海大学)、佐藤晋太郎氏(早稲田大学)も寄稿されています。お二人ともわりと網羅的に論点をおさえているので、eスポーツに全般的に関心のある人には参考になる紙面構成になっていると思います。

私の寄稿分は以下のような構成です。

田中彰吾「身体性哲学からみたeスポーツ」
 1. eスポーツと他のスポーツとの共通点
 2. eスポーツに固有の特徴
  1) 身体図式の利用方法
  2) 仮想空間への適応
 3. スポーツの身体的経験と情報技術

もともとeスポーツの専門家ではないのでたいした内容は書けていないのですが、体育哲学的な論考としては日本では今のところあまり例がない考察になっているかと思います。

ちなみに、「eスポーツはスポーツじゃない」という主張は世間でもよく聞かれるところですが、それはeスポーツを考えるさいの問題ではありません。本当の問題は、情報技術の急速な進化とともに、ひとの身体経験そのものが劇的に変化しつつあることです。eスポーツを考えることは、情報化された未来の身体について考えることでもあります。今回の原稿では最後に少し触れただけですが、いずれこのことの意味を、VR技術やBMIなどとも合わせて、じっくり考えてみたいと思っています。
 




3.11から9年

早いもので東日本大震災から9年たちました。昨今コロナウイルスの関係で年度末・年度はじめの対応に追われているのですが、その慌ただしさが9年前と似ているせいで、改めて当時を思い出すことが多いです。

ウイルスとは直接関係ないのですが、先日震災関連で取材を1件お受けしました。かつてこんな論文を発表していたのですが、その内容について問い合わせがあったためです。

田中彰吾(2015)「復興のランドスケープ-東日本大震災後の防潮堤建設を再考する」『文明』第20号,81-90ページ

当時も今も東海大の文明研究所の所員を兼務しているのですが、当時は震災復興の研究プロジェクトに従事していて、心理学や身体論から貢献できるテーマとしてランドスケープ論を取り上げたのでした。とくに当時は巨大防潮堤建設が始まりつつあったので、主としてその問題を批判的に取り上げました。

当時気仙沼や陸前高田まで行って現地を歩いてみて感じましたが、この防潮堤建設は東北のランドスケープを一変させてしまうに違いないと予感しました。どうやら、その予感は本当になりつつあるようです。以下の記事を読んでいただけるとよくわかるかと思います。残念ながら読者限定記事なので会員でない方はアクセスできないようですが…。

読売新聞(2020年3月5日朝刊)
[震災9年]復興のゴールは<上>かさ上げ移転 薄らぐ絆
[震災9年]復興のゴールは<中>避難先に愛着 鈍る帰還
[震災9年]復興のゴールは<下>住民の輪で街づくり

田中のコメントは<上>に部分的に掲載されています。「復興後の街に共通するのは、現実感のなさだ」「人と風景がうまくつながっている感じがしない。人々のなりわいや暮らしになじむ街づくりを行う視点はあったか」というコメントを紹介していただきました。

ただ、防潮堤はじめ復興のあり方に批判的なことをいう前に、あの震災で命を落とされた方々につつしんで哀悼の意を表したく思います。私の拙い論文もその思いをもとに書いたものです。
 

 

2020年1月18日土曜日

出そうで出ない

今さらで恐縮ですが、明けましておめでとうございます。新年のご挨拶がたいへん遅くなりました。年末年始は、雑誌や共著や単著の原稿もろもろを3万字ぐらい書いて、その他の仕事の資料を読んだらあっという間に終わってしまいました。それが終わったら今度は大学のエンドレスな業務が始まってしまい、ブログの更新が滞っておりました。

ブログを更新していなかったのはもう一つ理由があります。共著で関わっていたとある書籍が1月には刊行されそうな話を聞いていたので、それを記事にすればいいかと思っていたのですが、刊行が延期になったようです。この本です。
 
Olga Louchakova-Schwartz (Ed.) The Problem of Religious Experience: Case Studies in Phenomenology, with Reflections and Commentaries. Springer.
  
https://www.amazon.co.jp/Problem-Religious-Experience-Phenomenology-Contributions/dp/3030215741/ref=pd_rhf_gw_p_img_7?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=RMN3Q2Q6K6FYHVRN7CEW

英文のブログではずいぶん前に「もうすぐ出ます」的な紹介をしました。そちらの記事が昨年の8月29日付で、当初予定では昨年11月に刊行される予定だったのです。田中は第2章を寄稿しました。自然発生的な宗教的経験において身体性が果たしている役割について書いています。

Shogo Tanaka "Reconnecting the Self to the Divine: The Body’s Role in Religious Experience"

上のリンクでアマゾンのページを見てもらうとわかりますが、現状では3月刊行に延期されています。ここまで何度か情報が更新されるたびに刊行が1ヶ月ずつずれていく感じできていたので、11月→12月→1月で打ち止めになって念頭には出版されているだろうと見込んでおり、それを新年の記事にしようと思っていたのですが、あてが外れました。

何が起こっているのやら。編者のOlgaさんからは延期の旨の簡単なメールしか来ていないので、よくわかりません。私が初稿を送ってからもう3年になります。いっそのこと、このまま出版されずに終わって「幻の名著」になってくれればそのほうがいいかもしれません(笑

それで、申し遅れましたが、今年もよろしくお願いします。本ブログも4年目になりました。記事の本数は相変わらず少ないですが、意外に続いているので、自分でも驚いている次第です。今年は、大学での事務作業の合間に更新できる技を身につけたいと思っています。今年はイベントの多い一年になるので、発信量は増えるかと思います。
 

 
 
2020/01/31:追記
今日編者のOlgaさんからメールがあって、無事に刊行されたそうです。アマゾンのページをチェックしたら1/29発売に表記が変更されていました。



2018年3月30日金曜日

お礼申し上げます

3/24-25に開催した国際シンポジウム「Bosy Schema and Body Image」は、盛況のうちに無事終了しました。ご来場いただいた方々、発表してくれた方々、運営を手伝ってくれた方々、皆さまありがとうございました。
 
個人的な感想を少し。使用言語を英語にして最初にワークショップを開催したのは2012年だったのですが、あれから5年半たって、オーガナイズもかなり公共性の高いものにできるようになったと思います。
 
今回は最初からアタリアさんと二人で話を進めて、フォーマルな「依頼講演」はショーン・ギャラガー氏以外にはお願いせず、残りは発表を公募し、普段から緊密に研究協力している人たちにお声がけしたり、あとは学術系SNSにCall for Papersを掲載したりしました(発表13件のうち4件は、私もまったく面識がない人たちによるものでした)。
  
依頼講演の件数が多くなると、どうしても議論にある種の遠慮が出てしまいます。今回のシンポジウムのように学際的な場での議論には、分野の違いについてのリスペクトはもちろん必要なのですが、遠慮なく互いに言い合える雰囲気を作ることがとても重要です。でないと、新しい知見に気づいたり、既存の事実についての理解を深めたりすることが可能になりません。
 
そういう意味では、今回はとてもいい議論ができたと思います。身体図式も身体イメージも、神経科学的に見ると脳の中の身体表象(body representation)という理解ができるのですが、現象学的に見ると必ずしもそういう理解は適切ではありません。身体は知覚と行為の主体として世界に埋め込まれています。
 
つまり、「body in the brain」という見方を取るのか、「body in the world」という見方を取るのか、認識論的な枠組みの違いが問題になります。また、どちらの見方に立っているかに応じて、身体図式と身体イメージをどう区別するかという理解の違いも生じてきます。これがさらに広がって、具体的な各種の現象について、説明のしかたの枠組みを作っていくことになります。今回も、幻肢、ラバーハンド錯覚、痛覚失認、PTSD、拒食症、運動学習など、さまざまな現象に沿って図式とイメージの差異と相互作用が問題にされていました。
 
簡単に結論が出るわけではないのですが、認識論的な違いまで論点を明確にできると、議論全体のマッピングが可能になるようなしかたで、問題の構図が見えてきます。一方が正しくて他方が間違っている、ではなくて、ある議論はある範囲において部分的に正しく、別の議論は別の範囲において部分的に正しい、という位置関係が相対的に見えるようなマップです。今回は、身体性の問題をめぐって、そうしたマップがだいぶ見えた印象を持ちました。このマップを手がかりに、成果を一冊の本として編集したいと思っています。
 
今回も思いましたが、いい意味で遠慮のない議論のなかで、新しい実験の着想が可能になったり、現場での観察から理論への示唆が可能になったり、といった知の創造が可能になるのだろうと思います。次はどのような形で開催するか未定ですが、実験・理論・臨床というコラボレーションでの議論の場は続けたいと考えています。
 
ところで、今回は2017年度の秋学期に駒場の授業で教えていた学生さんたちが運営をいろいろと手伝ってくれたのですが、終わった後で彼らの目がきらきらと輝いていたのが印象的でした。次世代の人たちに何かが伝わると、やっぱりやって良かったな、と強く思います。
 



2018年2月14日水曜日

脳の生態学(Fuchs 2018)序文

研究アーカイブに下記のレジュメを加えておきました。

Fuchs, T. (2018). Ecology of the brain: The phenomenology and biology of the embodied mind. Oxford, UK: Oxford University Press.(序文のみ)

3ページの短い序文をさらに要約したものではありますが、本書の立場が比較的明瞭に書かれているように思います。脳は生命体に備わる一器官であり、器官として身体全体と関係し、身体-環境の相互作用を媒介し、自己-他者の相互作用を媒介する、「媒介する器官(mediating organ)」であることが端的に示されています。

ひとつ注目できるのは「feeling of being alive」と彼が述べている点でしょうか。意識の作用は脳から生み出されるものではなく、生命が宿る有機体としての身体に、最初から「生きている感じ」として備わっている、という仮説的な見通しを述べています。

この「生きているという感じ」、あえて脳との対応づけを考えると、おそらく島皮質の作用と相関しているように思います。感覚とも感情とも呼べるかもしれないが、そのどちらでもないような、全身に広がる漠然とした「感じ(feeling)」。離人症では島の機能が低下しているという報告がありますが、生きている感じがしないという当事者の言葉に対応しているように思います。

この本、3月終わりぐらいからオンライン読書会形式で読んでいく予定です。ご希望の方は田中までお問い合わせください。
 


2017年7月28日金曜日

国際理論心理学会での企画3

さらに前記事への追加です。
国際理論心理学会(ISTP 2017)の二日目、8/22夕方に下記のシンポジウムがあります。
 
8/22(火):17:15-19:15, Room A1203
[Symposium 22]
  Locating the bodily borders of individuality
[Organizer]
  Luca Tateo (Aalborg University)
[Presenters]
  Lívia Mathias Simão (University of São Paulo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
  Giuseppina Marsico (Aalborg University / University of Salerno)
  Jensine I. Nedergaard (Aalborg University)
  Zachary Beckstead (Brigham Young University-Hawaii)
[Discussant]
  Jaan Valsiner (Aalborg University)
 
この企画はデンマークのオールボー大学の先生方による企画です。自己と他者の境界、主観性と他者性の境界、個体性と集合性、こうしたものの起源として身体経験を理解する試みです。田中も見る-見られる、触れる-触れられる経験をもとに身体の間主観的次元について話そうと思っています。
 
このシンポ、内容もそうですが形式面で面白さがある企画かもしれません。枠が2時間でスピーカーは5人いるのですが、プレゼンは1人10分のみ、話題提供を1時間以内に抑え、あとは会場との討論に1時間を割くというタイムテーブルになっています。

オーガナイザーのタテオ先生はみんなで濃く議論する感じを狙っていて、話題提供者の理論的背景もけっこう散らしてあるので、混沌として結論の出ない流れになるかもしれません。ただ、その分、自分の考えをぶつけてフロアの議論に参加した人には、得るものも多い議論になると思われます。身体性に関心のある方はぜひ会場にお越しください。
 

 

2017年1月29日日曜日

コイファー&チェメロ『現象学入門』

しばらく前からこの本の翻訳に取り掛かっている。


面白い本だ。現象学の入門書としてはかなり思い切った構成になっている。上記リンクをたどるとアマゾンで「なか見検索」ができるので目次を見てみるといい。

フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトルの主要な仕事にそれぞれ1章ずつ割かれているが、それ以外の章立てが興味深い。1章「カントとヴント」、4章「ゲシュタルト心理学」、7章「ギブソンと生態学的心理学」、終章は「現象学的認知科学(phenomenological cognitive science)」である。

彼らは、フッサール以来の現象学の中心的なテーマが、近年の「身体性認知科学 embodied cognitive sceince」に最も強く受け継がれていると見ており、この歴史的なパースペクティヴに沿って上記の各章を配置しているのである。なお、終章の手前の8章はH・ドレイファスの人工知能批判に割かれている。

私のように、メルロ=ポンティの現象学的身体論を足場にして、それを経験科学的な研究とつなげることを模索してきた研究者からすると、まさに「待ってました!」という内容。こんな入門書を手にできるようになったと思うと、時代の変化を感じて感慨深い。

なお、2011年に邦訳されたギャラガーとザハヴィの『現象学的な心』(原著は2008年刊)も、方向性としては近い立ち位置にある。副題が「心の哲学と認知科学入門」であり、認知科学や神経科学の知見を大幅に取り入れた現象学の書になっている。ただ、「入門」と銘打ってはいても実際には入門書レベルの叙述になっておらず(邦訳はよくできていると思うが)、現象学や認知科学の予備知識のない読者にとって読み通すのはなかなか難しい。本書はその点でかなり読み易いものになっている。

それだけではない。方向性も『現象学的な心』とは違っている。認知科学の知見を現象学に取り入れるという方向性ではなく、現象学の知見を認知科学に取り入れ、未来の認知科学を書き換えることが目指されている。だから終章が「現象学的認知科学」と題されているのである。

こんな現象学入門書は、今まで見たことがない。早く出版にこぎつけたいものだ…が、なかなか思った通りにはかどらなくて気が重い(笑


2017年1月26日木曜日

うれしい来客

ベルリンに滞在中のG・ジョヴァノヴィッチさんがハイデルベルクまで来られました。彼女は普段セルビアのベオグラード大で教えているのですが、いまは短期滞在でベルリンにいて、今回はドイツの心理学史を再考するプロジェクトに関わっているそうです。ハイデルベルクは、ヴントについて調査するために立ち寄ったとのことでした(ヴントの最初の就職先はここハイデルベルクでした…ヘルムホルツの助手として採用されたのです)。

お会いするのは今回が2度目です。最初にお会いしたのも結構最近で、昨年7月に横浜で開かれた国際心理学会議(ICP 2016)でした。私が登壇したシンポジウムにたまたまオーディエンスとして来られていて、終わった後でお声がけいただきました。しかも、発表内容を論文にして書籍に寄稿してくれないかというお誘いでした。

とはいえ、ここまでならあまり喜びはしません。国際会議での発表経験がある方なら知っていると思いますが、発表がうまくいけば、終わった後で論文化のお誘いを受けることはそこそこあります。ただ、こういう誘いの大半はいわゆる「ハゲタカ・ジャーナル」から来るので、話に乗せられてしまうと、誰も読まない無名のジャーナルに原稿が掲載され、しかも「掲載料」と称してかなりの金額のお金を取られます。なので、単に誘われるだけだとたいてい身構えて、後で連絡を取ることもないのですよね。

ジョヴァノヴィッチさんからのお声がけが予想外にうれしかったのは、彼女が編集している書籍のプロポーザル(趣意書)を見せてもらったからです。執筆陣が豪華なんですよ、何といっても。哲学的心理学のロム・ハレ、文化心理学のヤーン・ヴァルシナー、社会構成主義のケネス・ガーゲン、(残念ながら企画後に亡くなられましたが)認知心理学の大家ジェローム・ブルーナーなどが名を連ねていました。

しかも、こういう大物たちに加えて、東欧、南米、アジアの執筆陣にもきちんと目を配っていて、たんに西洋中心の心理学にする気がないことも伝わってきました。むしろ、メインストリームの心理学に潜む西洋中心主義を乗り越えようとする意図が明白に読み取れます。こういう良心的な書籍を編集できる研究者は、なかなかいません。後日ジョヴァノヴィッチさんの仕事の幅広さを知るまで、なぜここまで広範囲の人々を結び付けられるのだろう、と不思議でした。

ともあれ、そういう事情なので私も喜んで寄稿しました。ちょうど「日本的自己」のあり方を批判的に考えていたタイミングだったので、書く作業を通じてしっかり考えてみたかったのです。1970〜90年代ぐらいまでのいわゆる「日本人論」の文脈では、日本的自己は西洋的自己との対比で、その特殊性やユニークさが強調されていますが、私はこれを批判的に考え直したいとつねづね思っていました。

日本的自己は西洋的自己のように確固とした境界を持った「個体」ではなく、関係依存的であるという指摘がよくなされます(それこそ、戦前の和辻哲郎やルース・ベネディクトの時代から一貫しています)。それはそれで間違いではないとしても、それが日本文化に特有の自己のあり方である、というところで考察が閉じてしまうと、現代においては大変まずいのです。たんに文化の違いを強調して終わりになってしまって、異文化との対話の通路を開く試みになりません。日本的自己の特徴を描くにしても、それが西洋的自己と共通のフォーマットの上で違っているという論じ方ができなければ、今日必要とされる日本文化論にはなりえません。

現象学的身体論から見れば、関係的であるか個体的であるかは、身体的経験の焦点づけの違いであって、本質的な違いではありません。「私の身体」には、自己にとって知覚的客体として現れる側面と、他者にとって知覚的客体として現れる側面があります。前者が焦点化されれば、身体は自己内関係で閉じるので、個体的経験として構成されます(I-me です)。後者が焦点化されれば、身体は自他関係でしか成立しないので、関係的経験として構成されることになります(I-me-othersですね)。とりあえずここまででもきちんと記述できれば、日本的自己は、たんに日本的な特殊性として描かれるだけでなく、他文化における自己と共通のフォーマットで語る端緒が得られます。

…と、そんなことを原稿に書かせてもらいました。出版が待ち遠しいのですが、今日伺った話だと今年中の出版は難しいみたいです。できるだけ早く出版されるといいのですが。Routledgeから刊行が予定されています。



2017年1月15日日曜日

なぜドイツ?

なぜドイツにいるのか、知り合いから質問されることがあります。

今回は科研費の「国際共同研究加速基金」というファンドの助成でこちらに来ていて、現在は主に「身体性と自己意識」について研究しています。が、寄せられる質問の意図はそういうことではありません。もともと身体論が専門でメルロ=ポンティを主に参照しているならフランスに行きそうなのになぜドイツなの?、という意味です。

以前こんな文章を某学会のニュースレターに書きました。前回、2013年〜14年にかけてドイツに滞在したときに書いたものです。いま同じ場所に来ているのも、前回滞在したときに充実した研究ができたという理由によります。

というわけで、以下再録です。次に同じ質問をされたらこのページのURLを教えることにします(笑


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 2013年10月から、独ハイデルベルク大学(社会精神医学センター・現象学セクション)にて在外研究中である。「身体論が専門でメルロ=ポンティを読んでいるのに、どうしてフランスではなくてドイツなのか?」――多くの知人からそう聞かれた。

 話せば長くなるが、ぐっと圧縮して書くと次のようになる――。私はもともと心理学方面から身体論を吸収してきた。「身体」という基盤から出発することで、種々の心の機能をどのように理解し直すことができるのか、また、心の概念を総体としてどう刷新することができるのか、そうした関心のもとで研究を進めてきた。いわゆる「身体性認知 embodied cognition」や「身体化された心 embodied mind」の領域にメルロ=ポンティ現象学からアプローチすること、これが私の研究である。

 しかしこの研究、分け入って探求を進めるほど、問題が心身関係だけに閉じていないこと、また閉ざすべきでないことがよく分かってくる。身体は心と関係しているだけでなく、外部の環境や他者の身体とも関係している。この点の延長線上に「他者の心はどう理解できるか」という問いが待ち受けている。これは心理学方法論にかかわる問いでもあるし、哲学で他我問題として論じられてきたことにもかかわる。現象学では間主観性の概念のもと、フッサール以来多くの議論が重ねられている。

 私の専門からはそれるが、脳神経科学も部分的にこれと並行して興味深い進展をたどっている。知覚や記憶といった心の機能(一人称)を脳の活動(三人称)と対応させて理解することが脳研究の基本的な枠組みだが、近年、ミラーニューロン研究の進歩とともに、問いの様相が一部でダイナミックに変化している。ミラーニューロンの説明は字数の関係で省略するが、重要な論点のひとつは、身体性と行為を媒介して複数の脳が共鳴するということ(二人称)が、さまざまな事象に沿って明らかにされつつある、ということだ。

 ミラーニューロン以外にも心の理論や自己・他者認知など個別のトピックは多々あるが、心理学・認知科学・神経科学といった心の諸科学では、二人称的観点や間主観性に深くかかわる社会的認知social cognitionが近年クローズアップされており、身体性の観点からこの問題にどう切り込んでいくかは、心の科学にとって重要な課題なのである。

 さて、ハイデルベルクである。現在ヨーロッパでは、5カ国8大学(フランスには提携機関がない)を結ぶ学際的研究プロジェクト「Towards an Embodied Science of Intersubjectivity(略称TESIS,間主観性の身体化された科学に向かって)」が進行している。上に述べた課題をまさに追究しているプロジェクトなのだが、その中心的拠点がここハイデルベルク大学に置かれている。TESISはきわめて学際的で、現象学を理論的基盤として重視しながらも、神経科学、発達心理学、認知科学、精神病理学といった心の諸科学と密接に連携して研究が進められている(ここはもともと現象学的精神病理学の世界的拠点である)。

 ともあれ、身体性・間主観性・社会的認知を結ぶ研究を進めるべく、私はここハイデルベルクに滞在している、というわけなのである。
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2017年1月3日火曜日

仕事はじめ

今日は2日でした(時計の上ではすでに日付が変わって3日です)。

ドイツでは普通に仕事はじめの人もけっこう見かけます(クリスマスは国民的休暇ですが)。私も昼から普通に仕事。年末にいちど書き上げた依頼原稿の手直しでした。所属先の研究所が発行している『文明』という雑誌の依頼原稿です。昨年7月に「文化心理学ワークショップ」というイベントを開催したので、その報告。以下、その一部です。
 
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 「文化心理学」という名称を最初に聞くと、多くの方は「異文化との出会い」や「文化の違い」といったイメージを持たれるのではないかと思う。グローバル化が進展しつつある社会においては、「文化」という言葉や概念そのものが、異文化に接触する経験と、そこから反省される自文化のあり方、というしかたで焦点化されやすい。心理学でもこうした発想にもとづく研究は「比較文化心理学(cross-cultural psychology)」と呼ばれる分野でなされている。特定の心理作用について、異なる文化的背景を持つ研究参加者のデータを収集・比較し、文化が心のはたらきに与える影響を明らかにしようとする研究である。
 しかし、文化心理学はこうした見方に立つものではない。比較文化心理学は、「文化」がその内部にいるメンバーに対して均質に作用し、その外部のメンバーに対しては異質に作用することを前提としている(詳しくは次を参照:J・ヴァルシナー『新しい文化心理学の構築』サトウタツヤ監訳,新曜社,2013年)。ところが、全メンバーの均質性を想定できるほど現代社会は単純ではない。各メンバーが多様な組織・集団・制度にまたがって生活を送る複雑な社会である。そうした社会で、過度に一般的な「●●文化」というラベルのもとで集団間の比較を行っても、得られる知見の信頼性にはおのずと限界がある。
 ただし、人間の生にとって、また、それと切り離せない心のはたらきにとって、文化は無視できない重要な要因である。そこで文化心理学が着目するのが「記号」である。記号は、交通信号から呪術的な象徴まで、それ自身とは別の何かをあらわす。ヴァルシナー氏の著作には、哲学者パースの記号論の引用に続いて、次の印象的な一文が登場する——「記号は心によって作られ、心は記号を通じてはたらく」(p. 29)。私たちの心は、意味を伝える存在としての記号を生み出すとともに、その記号を通じて記憶や想像や思考といった高次の機能を実現している。文化は、心の外側にあって人々の行動を型にはめる鋳型のようなものではなく、むしろ、心に内在して心の機能そのものを可能にする記号の総体である。
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ヤーン・ヴァルシナーの仕事は、日本ではあまり良く知られていないと思います。邦訳が2013年に出て少しずつ知られてきているところでしょうか。恥ずかしながら私もそれほど深く知らなかったりします。が、英語圏、とくに理論心理学の界隈ではけっこうな大物感がある人物です。関心のある方は彼の上記著作に触れてみてください。

私自身は、自分が文化心理学をやっているとは思っていませんが、身体性と文化について考える必要があるとこの1〜2年ぐらい強く思っています。比較文化的なアプローチではなく、ひとが文化を身体化する過程を考えてみたいのです。道具が身体化されるというのは身体論の世界では常識ですが、道具の延長で言語と記号がどう身体化されるのか、具体的なトピックを題材にして読み解く作業が必要だと思っています。