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2018年10月8日月曜日

発売が始まりました

以前ここでも告知した文化心理学関連の以下の書籍、オンライン書店での発売が始まったようです。いわゆる比較文化的アプローチではなく、「そもそも文化とは」という視点を強調していること、過去の心理学のなかで文化を重視した論者を(ヴントの民族心理学も含めて)再発掘していることが本書の大きな特徴だと思います。
 
Gordana Jovanović, Lars Allolio-Näcke & Carl Ratner (Eds.). (2018). The Challenges of Cultural Psychology: Historical Legacies and Future Responsibilities. New York, NY: Routledge.



実物をまだ手にしていないのですが、カラフルでいい感じの装丁ですよね。ちなみに、私が分担したのは以下の章になります。

Shogo Tanaka
Chapter 17: The self in Japanese culture from an embodied perspective

身体化された自己の観点から、日本文化における自己の問題を論じています。出版社向けのプロポーザルに収録されたアブストラクトは出版された書籍のなかに収録されなかったようなので、ここに転載しておきます。いわゆる「西洋的自己-非西洋的自己」という二分法ではなく、身体的自己が文化的コンテクストによって個人主義的なものにも集合的なものにも生成しうる点を強調した論考です。内容に関心のある方はぜひ本書を手にとってみてください。
 
[Abstract]
The main aim of this paper is to consider the self in Japanese culture from an embodied perspective. Since early 1990’s, the discourses on the embodied mind have brought a radical change in the sciences of mind, including the notion of the self. In the following argument, first, I briefly describe the basic aspects of the embodied self, the notion of which was derived from the embodied mind paradigm. Then, I examine the discourse on the self in cross-cultural psychology that focuses on the differences in the self between the West and East, including Japanese culture. In the extant literature, it is widely acknowledged that the self in Eastern (or more widely, non-Western) cultures has the characteristics of being “interdependent” and “collective” in comparison with that in Western cultures. In addition to this, the self in Japanese culture has been described as “relationship dependent.” Finally, I give an account of the same characteristics from an embodied perspective in order to find a path to an understanding of the self beyond cultural dichotomies, such as “Western” and “Eastern.” If the self is inevitably embodied, such a self could be constituted as either “individual” or “collective,” “independent” or “interdependent,” regardless of the cultural background.
 

 

2018年5月20日日曜日

9月発売です-文化心理学関連

すっかり忘れていましたが、2017年1月にこんな記事を書いていました。
うれしい来客

その後複雑な経緯があって(…とジョヴァノビッチさんから裏話を聞いてます)編集が滞っていたらしいのですが、以下のタイトルでRoutledgeからようやく出版されるらしいです。

Gordana Jovanović, Lars Allolio-Naecke, Carl Ratner (eds.) 
The Challenges of Cultural Psychology: Historical Legacies and Future Responsibilities.
London, UK: Routledge.

文化心理学も近年わりと盛んではあるので、いろいろな研究がなされていますが、基本的にはいまだに比較文化的なアプローチが多いように思います。要は、文化を一種の独立変数として事象を説明するようなアプローチですね。

今回出る本は、いわゆる比較文化的なアプローチとは明確に違います。理論的背景を重視しながら「そもそも文化とは」という次元に哲学的あるいは歴史的な観点から切り込んだチャプターがたくさん配置されています。上のリンクから目次を見てもらえばわかると思いますが、第2部ではヴィーコ、ディルタイ、カッシーラーといった哲学者の仕事が取り上げられ、第4部ではロム・ハレやケネス・ガーゲンのような哲学的心理学に近いスタンスの人たちが寄稿しています。

私も「日本的自己」について初めてまとまった文章を書きました(17章に「The Self in Japanese Culture from an Embodied Perspective」のタイトルで入っています)。以前から「西洋的vs東洋的」という二分法に陥らないやり方で、身体性に基礎を置いて自己と文化の問題を考えてみたかったので、ちょうどいい考察の機会を与えていただきました(もう少し詳しいことは上記の「うれしい来客」で読めます)。
 
そういえば、論文ではなく書籍に英文で寄稿するのはけっこう久しぶりです。しかも今回はRoutledgeのようなメジャーな出版社なので、出版された本を手にするのを楽しみにしています。
 

 

2018年4月4日水曜日

新ジャーナル:Human Arenas

新年度ですね。

年度始めそうそう、「現代教養センター主任」というなんとも大変な辞令をいただいてしまいました。ぁぁあ、部署での立場や年齢を考えると管理職の業務が自分にも回ってくるのは致し方ないとはいえ、研究者として片づけねばならない仕事が山積している状況では、体が二つないと務まらないかも…と不安に感じている次第です。

ところで、辞令をもらったその同じ日に、嬉しいお知らせが届きました(あ、管理職の辞令が嬉しくないといっているわけではありません)。私も共同編集者(associate editor)として加わっている新ジャーナル「Human Arenas」のVolume 1, Issue 1がついに刊行されたそうです。
 
Human Arenas
Volume 1, Issue 1, March 2018


 
編集代表は、デンマーク、オールボー大学のルカ・タテオ氏と、イタリア、サレルノ大学のジュゼッピーナ・マルシコ氏のお二人です。私は文化心理学方面の仕事でお二人といろいろと仕事上の議論を共有しているうちに雑誌に参加することになりました。

このジャーナルは、かなり広めの読者と執筆者を念頭に置いて発行されています。発行元のSpringerのホームページでは「Cognitive Psychology」に分類されていますが、認知心理学だけではなくて、心理学の理論的基礎を扱う関係で、社会学、言語学、生物学、哲学など、隣接領域との議論もいろいろと扱っていくものになる見込みです。二人の後ろには博学なJaan Valsinerさんがアドバイザーとして控えているので、広角だけど芯はしっかりした雑誌になるのだろうと思います。

関心のある方は、ぜひ以下の原稿募集ページをご覧ください。学会ベースの一般的なジャーナルには見られない趣向が凝らされていることに気づかれると思います。

Call for articles and special sections
 
いろいろな趣旨の誌上特集にも柔軟に対応できるジャーナルなので、心理学の境界領域で特集を組んでみたい方なども、ぜひアイデアをお寄せください。

…というか、その前に次の特集号に自分の原稿を書かねばならないのですが、間に合うんでしょうか…



 

2017年7月28日金曜日

国際理論心理学会での企画3

さらに前記事への追加です。
国際理論心理学会(ISTP 2017)の二日目、8/22夕方に下記のシンポジウムがあります。
 
8/22(火):17:15-19:15, Room A1203
[Symposium 22]
  Locating the bodily borders of individuality
[Organizer]
  Luca Tateo (Aalborg University)
[Presenters]
  Lívia Mathias Simão (University of São Paulo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
  Giuseppina Marsico (Aalborg University / University of Salerno)
  Jensine I. Nedergaard (Aalborg University)
  Zachary Beckstead (Brigham Young University-Hawaii)
[Discussant]
  Jaan Valsiner (Aalborg University)
 
この企画はデンマークのオールボー大学の先生方による企画です。自己と他者の境界、主観性と他者性の境界、個体性と集合性、こうしたものの起源として身体経験を理解する試みです。田中も見る-見られる、触れる-触れられる経験をもとに身体の間主観的次元について話そうと思っています。
 
このシンポ、内容もそうですが形式面で面白さがある企画かもしれません。枠が2時間でスピーカーは5人いるのですが、プレゼンは1人10分のみ、話題提供を1時間以内に抑え、あとは会場との討論に1時間を割くというタイムテーブルになっています。

オーガナイザーのタテオ先生はみんなで濃く議論する感じを狙っていて、話題提供者の理論的背景もけっこう散らしてあるので、混沌として結論の出ない流れになるかもしれません。ただ、その分、自分の考えをぶつけてフロアの議論に参加した人には、得るものも多い議論になると思われます。身体性に関心のある方はぜひ会場にお越しください。
 

 

2017年3月20日月曜日

Civilization Dialogueの余波

前回の更新からなんとなく時間がたってしまいました。気づけば2週間以上更新していなかったんですね。

この間、もっぱら3-4日にコペンハーゲン郊外で開催した「2ND CIVILIZATION DIALOGUE BETWEEN EUROPE AND JAPAN」と、その余波であれこれ事務的な仕事をしていました。

余波のひとつは学術交流協定です。東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターとの間で近く正式な協定を結ぶことになりそうで、合意書の内容をあれこれ検討していました。2016年7月に東海大で開催した文化心理学ワークショップがかなり盛況だったのに続いて、今回のCivilization Dialogueも(参加者は少なかったですが)議論が活発で内容面でも噛み合っていたので、正式な協定を結んで研究上のやり取りをもっと増やすことになった次第。

もうひとつの余波は文明研究所の機関誌『文明』での特集です。当日の各自の発表内容をを論文にして特集号を組むことになったので、その原稿募集の段取り。〆切とかワード数とか執筆規定とか査読とか、もろもろ事務的なことを盛り込んだCall for Papersを作って皆さんにお送りしました。前回のCivilization Dialogueの後も『文明』で特集は組んだのですが(ここで読めます)、今回はかなり本格的に編集委員会を組むことになりました。Valsiner先生とTateo先生がゲストエディターとして加わってくれるという豪華さです。

この仕事、私にとっては個人的な研究上の関心を離れる面がだんだん大きくなってきているのですが(身体論や心理学と直接に関係のない議論も多いので)、学生さんや関係する若手のために人文系〜学際系の議論の場所を残しておきたいという気持ちでやっています(昨今人文系は予算がどんどん削減される一方で、活気のある組織が急激に少なくなっているので)。東海の文系大学院で学んでいる方、これから進学を考えている方は、ぜひCivilization Dialogueのイベントに加わってください。もちろん、他大の関係者も歓迎です。


 

2017年3月2日木曜日

オールボー滞在記

1週間強のオールボー滞在もほぼ終わり。明日はコペンハーゲンを経由してベズベックに移動します。

とにかく、フォーマルな場面でもインフォーマルな場面でも議論を重ねた1週間でした。キッチン・セミナーで自分が話すのに始まって、L・タテオ、P・マルシコの二人とは夏の理論心理学会の打合せを兼ねてずっと議論ともつかない議論をしていたし、ヴァルシナーさんのお宅を訪ねて研究に関する疑問をぶつけたりもしました。身体性から始める一階のアプローチが、概念や記号のような高階の認知と出会う場面を模索したくて、セミナーの続きをやった感じでした。

週が変わって27日になると、文化心理学研究センター主催のニールス・ボーア・レクチャーがあり、二日間、かなり豪華な顔ぶれの議論に触れることもできました。これ、レクチャーと銘打ってはいますが、実質的にはカンファレンスで、最初の基調講演のあとはいろんな人が登壇して最初の講演に対する指定討論を行うという、なかなか日本では見ないスタイルのものでした。私は自分の次のイベントの準備に追われて会場にフルでいられず、基調講演+αぐらいしか聞けなかったのが残念でした。
The Fifth Annual Niels Bohr Lecture in Cultural Psychology

基調講演はいわゆる「拡張した心」のパラダイムを記憶に持ち込む内容のもので、考えさせられました。「拡張した心」は、認知活動を「脳内」から「脳・身体・環境」というシステムに拡張して考えるのですが、しかしその場合、個別の認知活動のユニットをどこに見出すのかで議論が割れます。記憶の場合、「思い出す」という想起の活動に着目すると、環境に宿るというよりは「思い出す」過程を経験するエージェントが明確に存在するように思えます。しかし、人々の記憶がナラティヴとして保存されるアーカイブを念頭に置くと、身体よりは環境の側にアクセスすべき記憶が宿っているとも言えます。記憶はどの程度セッティングに依存するのか、そもそも記憶はどこかに保存される性質のものなのか、思い出す主体にどのくらい依存する認知活動なのかをめぐって、記憶を語る言語やナラティヴの役割はどう位置付けるべきか等々、指定討論の内容も分かれている様子でした。

ちなみに、レクチャーの会場では、日本から来ていた尾見先生とも話ができて面白かったです。日本の「部活」について研究されているそうで、部活をめぐっていろんな話を伺ったのですが、部活に流れるエートスを読み解くと「日本的なもの」の正体がかなり読み解けそうな面白さがありました。

ともあれ、そんなこんなであっという間に1週間。議論の合間にこの週末のベズベックでのイベントで話す準備をするというハードかつ楽しい日々が過ぎていきました。この間、日本にいる元教え子から具合の悪そうなメールが立て続けに入っていて心配になったのですが、彼は大丈夫なんだろうか...



2017年2月24日金曜日

昨日の残響

Kitchen Seminar、楽しかったです。ドイツで私が行く研究会はどちらかというと開始までみんなやや緊張気味で静かにしているところが多いのですが、昨日は最初からわいわいしていました。研究会そのものが懇親会的、といえばいいんでしょうか。

議論のクオリティも低くなかったです。学際系の研究会はオーガナイズする人の知識と経験がその場の議論のクオリティに直結してしまうので、ダメな研究会はアカデミックな雑談に流れたり、的外れなディベートに終始したりすることが多いのですが(そうならないように私も自分の研究会では気をつけています)、ここはそういう意味では良くオーガナイズされていました。誰かが発言した後で、それに関連する過去の研究についてヴァルシナーさんが言及する場面が何度かあって、彼の博識が議論のクオリティを支えているのが伝わってきました。

場の作り方もユニークで、会場はラウンドテーブルで10人も座れば満席なのですが(昨日もちょうど10人でした)、オンライン・システムでどこからでも参加できるようになっていました。昨日もブラジルとアメリカの研究者が参加していました。画面の向こう側から議論に割って入るのは実際には難しそうですが、聴講する分には問題なくできるみたいです。議論の交通整理は、夏に日本に来てワークショップをやってくれたタテオ先生とマルシコ先生が主にやっていました。

とはいえ、基本的なアプローチの違いについて当面埋まりそうにない溝もはっきりしました。私のように身体性認知に立ち位置がある研究者は「知覚と行為」という一階の経験から始めますが、文化心理学は、心的過程が記号によって媒介されていることを前提として話を始めます(とくにヴァルシナーさんの立場はそうです)。昨日は離人症を題材に心身関係を考える話題だったのですが、文化心理学的には症状の「意味」のほうにダイレクトに関心が向かってしまい、身体経験の感覚・知覚レベルでの変異から始めて症状の核心に迫りたい私からすると、議論すればするほどアプローチの違いが浮き彫りになる印象でした。

それで、後になって思い出したのが2013年の札幌での心理学会です。文化心理学と生態心理学をテーマにしたシンポジウムが心理学会であって、あのときは、ギブソンの著作に出てくるポストの知覚をめぐって、「ポスト」という記号的意味に媒介された知覚が重要なのか、光学的流動を通じてポストの投函口のアフォーダンスが知覚できることが重要なのか、突っ込んだ議論になっていた記憶があります。企画に関わっていた先生たちも豪華で、かなり刺激的な議論を聞けました。

このあたりのアプローチの違いは、昨日も議論していて思いましたが、心身問題にどのくらい重きを置いて心理学を見るか、という方法論的な違いと深く関係するので、簡単な答えはなさそうです。ですが、心理学方法論に関する大事な論点ではあるので、引き続き考えたいと思っています。



2017年2月17日金曜日

3月3-4日:シンポジウム「Civilization Dialogue」

来月3-4日、コペンハーゲン郊外にある東海大学ヨーロッパ学術センターで、以下のイベントがあります。

2nd Civilization Dialogue between Europe and Japan

リンクをたどるとプログラムの詳細が見られます。今回は、東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターの共催イベントにしていただきました(感謝です)。

プログラムは、3日が文化心理学系の議論が中心、4日が文明研究系の議論が中心です。4日は、平野葉一先生が文明研究所で推進している「超領域人文学」プロジェクトに関連する議論が中心です。

2015年11月に続いてこれが2度目なのですが、前回は初回なのに予想以上に議論がかみ合っていました。残念ながら関係者以外の一般の参加者の方々とほとんど話ができなかった(というか来賓の対応で手一杯だった)ので、どういう方がオーディエンスとして来ていたのか詳細はわからずじまいでした。しかし、的を得た質問は多く出ていたので、大学院生や研究者が多そうではありました。

今年はもうちょっと来場者の方々と交流してみたいと思っています。たぶん、日本語・日本文化に関心のある方が多いのだと思いますが、その関心をいい意味で打ち破りたいなと思っています。エキゾティシズムに乗っかるイベントってつまらないので。



2017年1月26日木曜日

うれしい来客

ベルリンに滞在中のG・ジョヴァノヴィッチさんがハイデルベルクまで来られました。彼女は普段セルビアのベオグラード大で教えているのですが、いまは短期滞在でベルリンにいて、今回はドイツの心理学史を再考するプロジェクトに関わっているそうです。ハイデルベルクは、ヴントについて調査するために立ち寄ったとのことでした(ヴントの最初の就職先はここハイデルベルクでした…ヘルムホルツの助手として採用されたのです)。

お会いするのは今回が2度目です。最初にお会いしたのも結構最近で、昨年7月に横浜で開かれた国際心理学会議(ICP 2016)でした。私が登壇したシンポジウムにたまたまオーディエンスとして来られていて、終わった後でお声がけいただきました。しかも、発表内容を論文にして書籍に寄稿してくれないかというお誘いでした。

とはいえ、ここまでならあまり喜びはしません。国際会議での発表経験がある方なら知っていると思いますが、発表がうまくいけば、終わった後で論文化のお誘いを受けることはそこそこあります。ただ、こういう誘いの大半はいわゆる「ハゲタカ・ジャーナル」から来るので、話に乗せられてしまうと、誰も読まない無名のジャーナルに原稿が掲載され、しかも「掲載料」と称してかなりの金額のお金を取られます。なので、単に誘われるだけだとたいてい身構えて、後で連絡を取ることもないのですよね。

ジョヴァノヴィッチさんからのお声がけが予想外にうれしかったのは、彼女が編集している書籍のプロポーザル(趣意書)を見せてもらったからです。執筆陣が豪華なんですよ、何といっても。哲学的心理学のロム・ハレ、文化心理学のヤーン・ヴァルシナー、社会構成主義のケネス・ガーゲン、(残念ながら企画後に亡くなられましたが)認知心理学の大家ジェローム・ブルーナーなどが名を連ねていました。

しかも、こういう大物たちに加えて、東欧、南米、アジアの執筆陣にもきちんと目を配っていて、たんに西洋中心の心理学にする気がないことも伝わってきました。むしろ、メインストリームの心理学に潜む西洋中心主義を乗り越えようとする意図が明白に読み取れます。こういう良心的な書籍を編集できる研究者は、なかなかいません。後日ジョヴァノヴィッチさんの仕事の幅広さを知るまで、なぜここまで広範囲の人々を結び付けられるのだろう、と不思議でした。

ともあれ、そういう事情なので私も喜んで寄稿しました。ちょうど「日本的自己」のあり方を批判的に考えていたタイミングだったので、書く作業を通じてしっかり考えてみたかったのです。1970〜90年代ぐらいまでのいわゆる「日本人論」の文脈では、日本的自己は西洋的自己との対比で、その特殊性やユニークさが強調されていますが、私はこれを批判的に考え直したいとつねづね思っていました。

日本的自己は西洋的自己のように確固とした境界を持った「個体」ではなく、関係依存的であるという指摘がよくなされます(それこそ、戦前の和辻哲郎やルース・ベネディクトの時代から一貫しています)。それはそれで間違いではないとしても、それが日本文化に特有の自己のあり方である、というところで考察が閉じてしまうと、現代においては大変まずいのです。たんに文化の違いを強調して終わりになってしまって、異文化との対話の通路を開く試みになりません。日本的自己の特徴を描くにしても、それが西洋的自己と共通のフォーマットの上で違っているという論じ方ができなければ、今日必要とされる日本文化論にはなりえません。

現象学的身体論から見れば、関係的であるか個体的であるかは、身体的経験の焦点づけの違いであって、本質的な違いではありません。「私の身体」には、自己にとって知覚的客体として現れる側面と、他者にとって知覚的客体として現れる側面があります。前者が焦点化されれば、身体は自己内関係で閉じるので、個体的経験として構成されます(I-me です)。後者が焦点化されれば、身体は自他関係でしか成立しないので、関係的経験として構成されることになります(I-me-othersですね)。とりあえずここまででもきちんと記述できれば、日本的自己は、たんに日本的な特殊性として描かれるだけでなく、他文化における自己と共通のフォーマットで語る端緒が得られます。

…と、そんなことを原稿に書かせてもらいました。出版が待ち遠しいのですが、今日伺った話だと今年中の出版は難しいみたいです。できるだけ早く出版されるといいのですが。Routledgeから刊行が予定されています。



2017年1月3日火曜日

仕事はじめ

今日は2日でした(時計の上ではすでに日付が変わって3日です)。

ドイツでは普通に仕事はじめの人もけっこう見かけます(クリスマスは国民的休暇ですが)。私も昼から普通に仕事。年末にいちど書き上げた依頼原稿の手直しでした。所属先の研究所が発行している『文明』という雑誌の依頼原稿です。昨年7月に「文化心理学ワークショップ」というイベントを開催したので、その報告。以下、その一部です。
 
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 「文化心理学」という名称を最初に聞くと、多くの方は「異文化との出会い」や「文化の違い」といったイメージを持たれるのではないかと思う。グローバル化が進展しつつある社会においては、「文化」という言葉や概念そのものが、異文化に接触する経験と、そこから反省される自文化のあり方、というしかたで焦点化されやすい。心理学でもこうした発想にもとづく研究は「比較文化心理学(cross-cultural psychology)」と呼ばれる分野でなされている。特定の心理作用について、異なる文化的背景を持つ研究参加者のデータを収集・比較し、文化が心のはたらきに与える影響を明らかにしようとする研究である。
 しかし、文化心理学はこうした見方に立つものではない。比較文化心理学は、「文化」がその内部にいるメンバーに対して均質に作用し、その外部のメンバーに対しては異質に作用することを前提としている(詳しくは次を参照:J・ヴァルシナー『新しい文化心理学の構築』サトウタツヤ監訳,新曜社,2013年)。ところが、全メンバーの均質性を想定できるほど現代社会は単純ではない。各メンバーが多様な組織・集団・制度にまたがって生活を送る複雑な社会である。そうした社会で、過度に一般的な「●●文化」というラベルのもとで集団間の比較を行っても、得られる知見の信頼性にはおのずと限界がある。
 ただし、人間の生にとって、また、それと切り離せない心のはたらきにとって、文化は無視できない重要な要因である。そこで文化心理学が着目するのが「記号」である。記号は、交通信号から呪術的な象徴まで、それ自身とは別の何かをあらわす。ヴァルシナー氏の著作には、哲学者パースの記号論の引用に続いて、次の印象的な一文が登場する——「記号は心によって作られ、心は記号を通じてはたらく」(p. 29)。私たちの心は、意味を伝える存在としての記号を生み出すとともに、その記号を通じて記憶や想像や思考といった高次の機能を実現している。文化は、心の外側にあって人々の行動を型にはめる鋳型のようなものではなく、むしろ、心に内在して心の機能そのものを可能にする記号の総体である。
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ヤーン・ヴァルシナーの仕事は、日本ではあまり良く知られていないと思います。邦訳が2013年に出て少しずつ知られてきているところでしょうか。恥ずかしながら私もそれほど深く知らなかったりします。が、英語圏、とくに理論心理学の界隈ではけっこうな大物感がある人物です。関心のある方は彼の上記著作に触れてみてください。

私自身は、自分が文化心理学をやっているとは思っていませんが、身体性と文化について考える必要があるとこの1〜2年ぐらい強く思っています。比較文化的なアプローチではなく、ひとが文化を身体化する過程を考えてみたいのです。道具が身体化されるというのは身体論の世界では常識ですが、道具の延長で言語と記号がどう身体化されるのか、具体的なトピックを題材にして読み解く作業が必要だと思っています。