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2021年12月13日月曜日

訳者みずからレジュメ作り(5)

今回はヒューバート・ドレイファスを扱った第8章。どうぞ。

ヒューバート・ドレイファスと認知主義への現象学的批判

ドレイファスが現象学の入門書に一章を占めるような時代になったのだなぁ。自分が院生だった頃はいまだ「現象学はドイツ語かフランス語で学ぶもの」という雰囲気が強くて、英語圏から入ってくる現象学の書はあまり信用されない傾向が残っていたように思う。当時『コンピュータには何ができないか』の翻訳もあったけど、現象学者としてのドレイファスが日本できちんと評価されているようには見えなかった。

私自身がドレイファスの書くものの価値を理解できるようになったのは、彼のスキル論の論文を読んでからだったと思う。ドレイファスの議論はメルロ゠ポンティの身体論を多く引用しているのだが、的確かつ一貫した読み方でメルロ゠ポンティを受容していて、ドレイファスの議論に頷くだけではなくて、メルロ゠ポンティの理解を深めるきっかけをもらった。

今となっては、ドレイファスから受け取った反表象主義的な身体と世界の見方からどうやって抜け出すかが自分の課題になってしまっているぐらいだ。

2021年11月28日日曜日

訳者みずからレジュメ作り(4)

すっかり定着したこのシリーズ。今回は第6章。

コイファー&チェメロ『現象学入門』

第6章 ジャン゠ポール・サルトル――現象学的実存主義

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現象学的認知科学を目指す本書にとっては、サルトルを扱った6章はやや中途半端な作りになっているかもしれない。

ただ、1節で論じられる「無」の概念を追いかけていくと、サルトルの独特の立ち位置がよくわかると思う。サルトルは、私が現在なそうとしている行為と、過去の事実とのあいだにそのつど「無」の隔たりがあるという。だからひとは自由であると同時に、自分自身を絶えず作り直さねばならない。「無」の隔たりがとても大きいとき、ひとは自由であるとともに不安をおぼえる。

サルトルはメルロ゠ポンティのように、知覚と行為が緊密に連動する姿を重視しながらも、両者がやはり「無」によって隔てられていることを重く見ている。知覚は、アフォーダンスのように行為への誘引を感じさせるが、実際の行為そのものとは異なる。現実の行為は、本人の選択によって実現されねばならない。だから知覚と行為のあいだにもやはり「無」の隔たりがあるということになる。

行動の自由と、それにともなう決断を強調する点で、サルトルは言ってみればとても倫理的なのだと思う。が、これでは「習慣」のように知覚と行為が一体化して、身体が世界になじんで生活が進行していく次元は記述できない。それはサルトル風に言うと一種の「自己欺瞞」ということになってしまう。

こういう捉え方は、一般的な認知科学の枠組みより、精神医学的な症状の記述のほうが使えそうな気がする。現在の一瞬一瞬に「無」が滑り込むという時間意識は、言ってみれば離人症の時間意識に近く見える面もあるし。そのうちちゃんと考えてみたい。

2021年11月15日月曜日

訳者みずからレジュメ作り(3)

コイファー&チェメロの『現象学入門』、今回はメルロ゠ポンティを扱った5章のレジュメ。

第5章 モーリス・メルロ゠ポンティ――身体と知覚

私自身がメルロ゠ポンティを研究しているので細かいところで本書の記述に言いたいことがないわけではないが(メルロ゠ポンティを紹介するのにハイデガーに寄せ過ぎではないかという点)、やはりハイデガーの章に続いて入門書としてはよく出来ていると思う。シュナイダー症例については、昔なら木田元『メルロ゠ポンティの思想』がメルロ゠ポンティ自身の著作に当たる前のいい入り口になってくれていたが、本書はさらにコンパクトでかつ分かりやすい。

疑問が残るのは最後の4節か。知覚の恒常性の向こうに垣間見えており、知覚主体を離れて存在しているように見える「自然的対象」もまた、身体から切り離されてそれ自体として存在しているのではない、とコイファー&チェメロは解説している。が、他方で、あらゆる経験の地平として統一された世界があり、それが自然的対象を理解可能なものにしている、との記述を与えている。どう理解すればいいか、読者自身で確かめてみていただきたい。

2021年10月23日土曜日

訳者みずからレジュメ作り(2)

コイファー&チェメロの『現象学入門』、前回のフッサールに続いて今回はハイデガーを扱った3章のレジュメを作りました。

S・コイファー&A・チェメロ『現象学入門――新しい心の科学と哲学のために』

第3章 マルティン・ハイデガーと実存的現象学

本書のハイデガーの解説は出色だと思います。『存在と時間』の核になるアイデアをこれだけ分かりやすくかつ端的にまとめたものに私は出会ったことがありません。本文がわかりやすいので訳者の私があえてレジュメを作る必要はないのかもしれませんが、本文を読むお供にご利用ください。

それにしても、本文最後にも書いてありますが、技能を根幹に据えて哲学を展開したハイデガーが「身体」も「知覚」もほとんど論じていないのは不思議です。身体や知覚を主題にすると近代哲学の主観・客観の二元論の落とし穴にはまり込んでしまうように考えていたからかもしれませんね。

2021年10月8日金曜日

訳者みずからレジュメ作り

3年前に刊行したコイファー&チェメロの『現象学入門』ですが、今学期、某所で担当している大学院の授業で初めて教科書として使っています。教えるために自ら読み直す作業を行なっているのですが、その一環でみずからレジュメを作ってみました。
 
 
訳者みずからが作るレジュメですが、要約する過程で多少は中身を端折ってあります。ですが本書を初見の方にとっては、手元で参照しながら本文を読んでもらうと理解が早いのではないかなと思います。本文を読むお供にご利用ください。