2021年12月4日土曜日

息する身体

久しぶりに人体科学会の大会に参加中。10年ぶりぐらいかもしれない。いま博士課程で指導している院生の謝淇榕さんが呼吸について発表を行う予定があったからだ。

フロイトのヒステリー論に見られる心身論を「悪しき呼吸」の学習過程ととらえ、それを「良い呼吸」の学習へと転換する方法を探るというのが彼女の主なアイデア(私が指導した部分もあるので1/3ぐらいは私のアイデアでもある)。

発表の内容は以前から知っているので、彼女の発表を聴きながら、少し違うことを考えていた。呼吸は、自律神経が支配する不随意な過程であると同時に、体性神経の支配も受ける随意的な過程だ。

だとすると、一種の「運動」としてとらえていいことになる。普通の運動行為のように、何らかの対象に向かってはたらきかける(例えばコップをつかむように)、という契機がはっきりしないが、空気を取り入れて吐き出すという運動であるには違いない。

メルロ゠ポンティは、フッサールの志向性をインプリシットな行為の次元で捉え直して「運動志向性」を提唱しているが、もしかするとその延長で呼吸もまた運動志向性の一種として考えることができるのではないか。普通の運動志向性が、コップをつかむように、特定の対象へと向かっていく作用だとすると、呼吸の場合その対象は「空気」である。
 
この、呼吸が運動志向性を通じて向かっていく先の「空気」は、文脈に応じてさまざまな現れ方をするだろう。現象学的に言うと、それが「気」として感じられるものの正体ということになるかもしれない。呼吸を志向性として位置付けることで「気の現象学」を考えてみることができそうだ。