2017年2月24日金曜日

昨日の残響

Kitchen Seminar、楽しかったです。ドイツで私が行く研究会はどちらかというと開始までみんなやや緊張気味で静かにしているところが多いのですが、昨日は最初からわいわいしていました。研究会そのものが懇親会的、といえばいいんでしょうか。

議論のクオリティも低くなかったです。学際系の研究会はオーガナイズする人の知識と経験がその場の議論のクオリティに直結してしまうので、ダメな研究会はアカデミックな雑談に流れたり、的外れなディベートに終始したりすることが多いのですが(そうならないように私も自分の研究会では気をつけています)、ここはそういう意味では良くオーガナイズされていました。誰かが発言した後で、それに関連する過去の研究についてヴァルシナーさんが言及する場面が何度かあって、彼の博識が議論のクオリティを支えているのが伝わってきました。

場の作り方もユニークで、会場はラウンドテーブルで10人も座れば満席なのですが(昨日もちょうど10人でした)、オンライン・システムでどこからでも参加できるようになっていました。昨日もブラジルとアメリカの研究者が参加していました。画面の向こう側から議論に割って入るのは実際には難しそうですが、聴講する分には問題なくできるみたいです。議論の交通整理は、夏に日本に来てワークショップをやってくれたタテオ先生とマルシコ先生が主にやっていました。

とはいえ、基本的なアプローチの違いについて当面埋まりそうにない溝もはっきりしました。私のように身体性認知に立ち位置がある研究者は「知覚と行為」という一階の経験から始めますが、文化心理学は、心的過程が記号によって媒介されていることを前提として話を始めます(とくにヴァルシナーさんの立場はそうです)。昨日は離人症を題材に心身関係を考える話題だったのですが、文化心理学的には症状の「意味」のほうにダイレクトに関心が向かってしまい、身体経験の感覚・知覚レベルでの変異から始めて症状の核心に迫りたい私からすると、議論すればするほどアプローチの違いが浮き彫りになる印象でした。

それで、後になって思い出したのが2013年の札幌での心理学会です。文化心理学と生態心理学をテーマにしたシンポジウムが心理学会であって、あのときは、ギブソンの著作に出てくるポストの知覚をめぐって、「ポスト」という記号的意味に媒介された知覚が重要なのか、光学的流動を通じてポストの投函口のアフォーダンスが知覚できることが重要なのか、突っ込んだ議論になっていた記憶があります。企画に関わっていた先生たちも豪華で、かなり刺激的な議論を聞けました。

このあたりのアプローチの違いは、昨日も議論していて思いましたが、心身問題にどのくらい重きを置いて心理学を見るか、という方法論的な違いと深く関係するので、簡単な答えはなさそうです。ですが、心理学方法論に関する大事な論点ではあるので、引き続き考えたいと思っています。