2024年3月7日木曜日

一周忌

突然二人の仕事仲間を失ってほぼ一年になります。

一人は鈴木宏昭先生。認知科学会の会長も務められた先生でした。私は「プロジェクション・サイエンス」のシンポジウムで2017年にご一緒して以来、晩年の先生とはご一緒する機会が本当に多くありました。訃報が飛び込んできたのも、認知科学会でオーガナイズド・セッションを二人で企画してそれが採択された直後でした。あまりに突然だったので、以来いまだに先生がこの世を去られた実感がわかずにいます。もしかして先生もご自身が亡くなったことを実感していないのでは、などと思うことがときどきあります。

もう一人は、東海大の同僚だった元田州彦先生です。かつて東海大に総合教育センターという部署があった頃からの付き合いでした。昨年度、10年ぶりに一緒に演習科目を担当して、学生と一緒に毎週にぎやかな議論を重ねたところでした。2023年度まで勤めると定年退職される予定だったので、第二の人生の予定を折々にたくさん聴いていました。大学の管理職から離れて好きな研究に打ち込めることを心待ちにされていて、南方熊楠の足跡を熊野に訪ねることを楽しみにされていました。

付き合いの深い方が亡くなられると、日々のふとした瞬間にその方の存在感が私の生活世界の片隅に顔を出します。鈴木先生と議論を重ねた青山学院のとある会議室にいくと今でも鈴木先生が扉の向こうから顔を出しそうな気がすることがあります。元田先生の研究室から引き取ったゴッフマンやブルデューの著作を見ていると、いかにも彼がそこに立っていて本を開きながらこちらに向かって「この箇所どう思う?」と議論をしたがっていそうな面影が浮かんできます。

こういう経験は、いわば幻肢のようなものかもしれません。ひとは四肢の一部を突然失うと、その部位のありありとした実在感を失った後も感じます。腕がなくなってもコップに向かって腕が伸びる感じがしたり、ないはずの脚で立ちあがろうとしたり、といった「身体が覚えている」経験が起こります。亡くした腕や脚で行っていた行為が、環境の知覚とともに蘇り、幻肢の感覚を生むのです。

共に生きた他者の記憶も、亡くなった身体の一部と同じで、私にとっては「身体が覚えている」経験になっています。その人とよく交わした会話や議論は、繰り返された相互行為として私の身体の奥底に堆積され、環境の知覚とともに蘇り、「その人の存在感」をありありと感じさせます。

鈴木先生も元田先生ももうこの世界にはいません。そんなことは百も承知です。ですが、他者の記憶は、たんなるエピソードではなく、彼らとの対話=相互作用=相互行為の記憶として私の身体に刻み込まれています。そして、その相互行為が埋め込まれていた環境を知覚すると、相手の存在感としてその場に戻ってくることがあります。

私は墓参りという行為をあまりしないのですが、それは、墓の前に立っても相手の記憶と存在に出会い直すことができないからです(会ったことがない歴史上の人物は別ですが)。むしろ、相手と繰り返した相互作用が埋め込まれた場所や場面に不意に出くわすとき、相手の存在が一瞬この世界に姿を現わします。それを感じる瞬間、ひとがお墓の前で手を合わせるように、思わず心で合掌せずにはいられません。

ここに記して哀悼の意を表します。