2020年7月8日水曜日

青くさい話

各国の情勢が激しく動いていますね。米国ではBLMとANTIFAが結びついてほとんど文化大革命のような様相を一部で呈していますし、香港では民主主義が死を迎えつつあるように見えますし、中国とインドの国境では紛争が起きていますし、尖閣や台湾周辺も緊迫しているようです。コロナ後の世界はほとんど一触即発のような綱渡り状態ですね。

こういう情勢なので政治と学問の関係をときどき考えるのですが、学術研究は政治的な自由がなければそもそも可能にならない部分が大きい一方で、逆に学術研究の成果が人々の自由に資するものでなければならないと強く思います。学術には知を生み出す役割があるわけですが、たんに政策的な目的にかなうだけの知は道具としての知であって、生きることそれ自体に役立つ価値創造的なものにはなりません。

デカルトは三十年戦争にみずから赴いてその中で考え抜いていますね。私はデカルト主義者ではありませんが、激変する政治情勢のなかに自分の身を置き、かつ自分だけに忠実に、自由にものを考え抜こうとした姿勢は立派です。デカルトが発見したコギトという自己は、近代社会が後に基盤に据えることになる自由な個人のプロトタイプだったのだと思います。現代ではむしろ、ポスト・デカルト的な「身体化された自己」を今後の社会を支える主体として政治的に位置付ける作業が必要なのだと思いますが。

大学という制度の中に巻き込まれて研究活動をしているので、私の考えることも自分の置かれた状況からそう自由なものになれないことは百も承知です。…が、歴史の変わり目に立ち会っているという感触が深くあるからこそ、ひとが生きることそれ自体に資するような研究をしたいと強く思います。

青くさい話に聞こえるかもしれません。でも、以前単著を出したときに書いた通り、自分の書くものに関してはいつまでも青くさくありたいと思っています。読後感として青草のにおいが読者の体に残るような著作を書きたいものです。