2017年3月2日木曜日

オールボー滞在記

1週間強のオールボー滞在もほぼ終わり。明日はコペンハーゲンを経由してベズベックに移動します。

とにかく、フォーマルな場面でもインフォーマルな場面でも議論を重ねた1週間でした。キッチン・セミナーで自分が話すのに始まって、L・タテオ、P・マルシコの二人とは夏の理論心理学会の打合せを兼ねてずっと議論ともつかない議論をしていたし、ヴァルシナーさんのお宅を訪ねて研究に関する疑問をぶつけたりもしました。身体性から始める一階のアプローチが、概念や記号のような高階の認知と出会う場面を模索したくて、セミナーの続きをやった感じでした。

週が変わって27日になると、文化心理学研究センター主催のニールス・ボーア・レクチャーがあり、二日間、かなり豪華な顔ぶれの議論に触れることもできました。これ、レクチャーと銘打ってはいますが、実質的にはカンファレンスで、最初の基調講演のあとはいろんな人が登壇して最初の講演に対する指定討論を行うという、なかなか日本では見ないスタイルのものでした。私は自分の次のイベントの準備に追われて会場にフルでいられず、基調講演+αぐらいしか聞けなかったのが残念でした。
The Fifth Annual Niels Bohr Lecture in Cultural Psychology

基調講演はいわゆる「拡張した心」のパラダイムを記憶に持ち込む内容のもので、考えさせられました。「拡張した心」は、認知活動を「脳内」から「脳・身体・環境」というシステムに拡張して考えるのですが、しかしその場合、個別の認知活動のユニットをどこに見出すのかで議論が割れます。記憶の場合、「思い出す」という想起の活動に着目すると、環境に宿るというよりは「思い出す」過程を経験するエージェントが明確に存在するように思えます。しかし、人々の記憶がナラティヴとして保存されるアーカイブを念頭に置くと、身体よりは環境の側にアクセスすべき記憶が宿っているとも言えます。記憶はどの程度セッティングに依存するのか、そもそも記憶はどこかに保存される性質のものなのか、思い出す主体にどのくらい依存する認知活動なのかをめぐって、記憶を語る言語やナラティヴの役割はどう位置付けるべきか等々、指定討論の内容も分かれている様子でした。

ちなみに、レクチャーの会場では、日本から来ていた尾見先生とも話ができて面白かったです。日本の「部活」について研究されているそうで、部活をめぐっていろんな話を伺ったのですが、部活に流れるエートスを読み解くと「日本的なもの」の正体がかなり読み解けそうな面白さがありました。

ともあれ、そんなこんなであっという間に1週間。議論の合間にこの週末のベズベックでのイベントで話す準備をするというハードかつ楽しい日々が過ぎていきました。この間、日本にいる元教え子から具合の悪そうなメールが立て続けに入っていて心配になったのですが、彼は大丈夫なんだろうか...