2017年10月14日土曜日

主体感を考える

先日、授業でいわゆる比較器にもとづく主体感のモデルについて説明していて、うまく説明しきれなかったのでもやもやしている。
 
主体感研究について手際よくまとめているハガード(2017)のレビュー論文では、運動行為を制御し、それによって外的事象の推移を制御する経験が「主体感」とされている(ハガード論文のまとめ研究アーカイブに掲載しておいた)。たとえば、手を伸ばしてコップを手に取る、スイッチを押してライトを点灯する、といった経験がわかりやすい例だろう。そして、主体感は、随意的な行為とその結果が一致するときに生成する。


 
図の①は、身体運動とその結果が比較照合され、一致するポイントとしての比較器である。運動指令が発せられ、その遠心性コピーが身体状態の予測を生じさせる一方、運動が実行されると身体末梢から感覚フィードバックが返ってくる。ハガードの説明では、両者の一致によって暗黙の主体感が生じ、自己や他者に明示的に帰属できる主体感は図の②で生じる、ということらしい。ただ、そうだとすると、主体感はつねに回顧的にのみ成立するのであって、「何かをしよう」と意図している段階では存在しないことになる(実際、比較器モデルに沿って主体感を説明する論者にはその種の主張はしばしば見られる)。
 
しかし一方で、行為についての時間的予測が主体感を左右することを示唆するデータもある。この点で、主体感はたんに回顧的なわけではなく、展望的な成分を含んでいるはずである。ハガードも、主体感がたんに回顧的な要因だけで成立しているわけではないことを示唆していて、主体感を回顧的な錯覚に還元する見方は避けているようである。
 
これに加えて、行為の意図や行為の選択の場面では、いまだ具体的な運動が始まっていないとしても、それが「私の行為である」(あるいは「私の意図である」)という認知はともなっているので、行為の所有感は最初から成立している。所有感は「ミニマル・セルフ」を支えるもうひとつの要因だが、こちらは、主体感が成立するよりも時間的に早く成立している。
 
だから、「自己」「他者」という属性を持たない中立的な主体が、ある身体行為を行なって、その後で回顧的に「私がその行為を引き起こした」という主体感を持つと考えるべきではない(ポストディクション的解釈はおそらく間違い)。その行為が「自己のもの」であるか「他者のもの」であるか、という所有感の判断は、運動開始以前から成立している。図の②のポイントで、所有感まで含めて自他の弁別が可能になっているわけではないだろう。
 
たとえば、統合失調症における主体感の障害は、ある行為について、自己の意図で行なっておきながらそれを自己に帰属させることに失敗することによる、という説明がしばしばなされるが、これは説得力がないように思う。行為の意図が発せられている時点で、そもそも「誰かの意図」でそれが始まっていると考えるほうが、「させられ体験」に見られるような主体感の不成立を説明するうえで適切であるように思える。
 

 

2017年10月12日木曜日

合同研究会案内(11/11)

先日告知した11月11日の研究会案内、詳細版です。
皆さまのご参加をお待ちしています。もちろん、どなたでも参加できます。
森岡先生も染谷先生も、心の科学の根幹に迫る内容を扱っておられますから、きっと面白くなると思いますよ!
 

------------------------------------------------------

【心の科学の基礎論研究会・第81回研究会】
第77回に続き、エンボディード・アプローチ研究会(第6回)との合同研究会になります。
 
日時:2017/11/11(土) 午後1:30~5:30(午後1時開場)
場所:明治大学駿河台キャンパス研究棟2階第8会議室
趣旨:オープンアクセスジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」創刊を来年に控え、以下の二講演を実施します。
司会:渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)
 
講演1 森岡正芳(立命館大学/臨床心理学)
【題】物語が腑に落ちるとは?—不可視の身体の働きをめぐって
【要旨】河合隼雄は物語(ナラティヴ)と心理療法の関連について,物語が「腑に落ちる」ということを強調している。論理的説明はそれがいくら正しくても,心に残らないことが往々にしてある。クライエントが「うん」と腑に落ちたときは後に続く。「その人が腑に落ちてもらうために自分で物語を発見していただく,それを助けるのが私の職業である」。このように河合は述べる。さてこの「うん」とは何か。人が変化を起こす納得とはどういうものだろう。そして、他者が介在することがどのような働きをなすのだろうか。一つには、物語が内感に沿い,しかも他者と共有可能な形を探ること。内感として物語がどのように自己と他者を触発し、実感をもって語り聴くかということが、「うん」に接 近できる手掛かりとなろう。
 他者の応答関係があって、その人の自己が動き出す。対話的交流は言語レベルのやり取りというより、全身的活動である。中井久夫は「精神科の治療とは不可視的なさまざまの身体の治療である」とするが、では「不可視の身体の働き」とは何か。他者との対話が可動する潜在空間を生み出し、意識はその空間の中で緊張が高まったり弛緩したり、たえず揺れ動いている。この遊動空間は、自らの身に生じた出来事が語りを通して再構成される場となる。体験が活き活きとした形像を伴って喚起される。時間の質も変化する。心理療法場面でのいくつかのエピソードをたどりながら検討してみたい。
【指定討論】田中彰吾(東海大学/理論心理学)
 
講演2 染谷昌義(高千穂大学/哲学・生態心理学)
【題】ギブソン革命の肝試し—受動する心のはたらきとアフォーダンスの存在論
【要旨】妖怪が心の科学のなかに出没している。エコロジカル・アプローチなる妖怪である。伝統の権化たる心の科学は、この妖怪を退治するために、神聖同盟を結んでいる。認知科学も知覚心理学も、生物学も脳科学も生理学も、そして心の哲学の急進派も4E*も。(*4Eとは、認知主義へのアンチテーゼとして心の科学・哲学に登場したeを頭文字とする潮流、embodied, embedded, enactive, extendedを指す)
 James J. Gibson(1904-1979)とは、1960年代、70年代をとおして、生き物の知覚と行動に対する「エコロジカル・アプローチ(生態心理学)」というリサーチプログラムを提起した、知覚心理学の実験家であり理論家である。生態光学、エコロジカル情報、情報抽出としての知覚、視覚性運動制御、自己知覚、知覚システム、アフォーダンス、姿勢と運動のネスティングなど、数々のアイディアを独自に練り上げ実験し、晩年にThe Ecological Approach to Visual Perception(1979, 邦題『生態学的視覚論』)を刊行した。それから約40年。今やギブソンの名はアフォーダンス概念とともに心の科学・哲学の世界ではそれなりに市民権を得ている。けれども、これら一連の思考の根底にある「ギブソン革命」の過激な意義と射程は十分に評価されていないかもしれない(と私は思っている)。
 本発表では、ギブソン革命の趣旨を、あえて以下のように規定し、この革命について来られない限り、ギブソンの二つの過激な主張、 すなわち、(1) 心のはたらきについての見方の転換(知覚は情報を受容し抽出する過程であり、行動は情報に制御される)、(2) 行動という生物プロセスを可能にするアォーダンスなる資源が生物存在とは独立に環境に潜在する、がうまく理解できないことを指摘し、いわば、ギブソン革命なる妖怪に怖がらずについて来られるかどうかの肝試しをしてみたい。
・染谷昌義(2017)『知覚経験の生態学 哲学へのエコロジカル・アプローチ』勁草書房(特に、序章、第1〜3章、第5章)
・染谷昌義(2016)「エコロジカルターンのゆくえ—生態学はある種の形而上学である」『東北哲学会年報』、 No. 32, pp. 83-113.
【指定討論】佐古仁志(立教大学/哲学)
  
担当世話人:田中彰吾(東海大学,body_of_knowledge[アットマーク]yahoo.co.jp)
 
電子ジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/
心の科学の基礎論研究会
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
エンボディード・アプローチ研究会
http://embodiedapproachj.blogspot.jp/p/blog-page.html