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2018年6月10日日曜日

離人症論文(Tanaka 2018)とブックガイド

以前ここでもお伝えしましたが、2016〜17年にかけて科研費の助成を受けてハイデルベルク滞在中に主に取り組んでいた離人症についての研究が、ようやく論文になって刊行されました。


「身体から切り離されているとはどういうことか?」という刺激的なタイトルをつけてありますが、離人症の主な症状のひとつである「disembodiment feeling(脱身体感)」を追求したものです。

脱身体感とは、自分が身体から離れたところにいるように感じられる、そこから自分の行為を傍観している感じがする、という症状を指します。文字通りに受け止めると体外離脱的な状態のようにも聞こえますし、心身二元論を支持する経験的事実のように解釈できるかもしれません。…ですが、本当のところはどうなんだろう、そういう理解でよいのだろうか、という疑問に取り組んでいます。

なお、実験的に引き起こされる体外離脱として知られる「フルボディ・イリュージョン」の体験内容と何がどう違うのか比較しながら、解明を試みています。詳細は本文に譲りますが、行為場面での主体感(sense of agency)に着目すると、必ずしも自己と身体が明確に切り離されている状態ではなさそうだ、というのが私の理解です。脱身体感を引き起こしている主な原因は、身体の所有感(sense of ownership)が極度に低下していることに由来していると思われます(その背景には離人症に特有の感情鈍麻があります)。こういう基礎的な理解が、将来の治療のヒントになればと願っています。
 
ところで、離人症については、知人の芹場輝さんがブックガイドを以前作成してくれたので、研究アーカイブに約1年前から掲載していました。掲載当初、洋書の案内もいずれ追加する予定になっていましたが、このたび、大幅に加筆増補したリストができました。

 *離人症・関連書籍

ご覧いただけるとわかりますが、離人症の関連資料について、日本語で書かれたもっとも網羅的なガイドになっています(英語でもこれほど充実したものは見たことがないです)。今回は洋書だけでなく全編が改訂されて、「入門・概説・ルポ編」7冊、「記録編」15冊、「研究書・専門書編」19冊、「治療編」4冊、「文学編」9冊、「映画編」2件、全体で21ページという充実ぶりです(「研究書・専門書編」には恥ずかしながら拙著も含まれています)。これを読むだけでも、離人症がどのような症状をともなう病理であるかを理解できると同時に、その臨床像が決して一様ではないということも把握できる内容になっていると思います。

では、また。

た
 

2017年10月15日日曜日

主体感を考える

先日、授業でいわゆる比較器にもとづく主体感のモデルについて説明していて、うまく説明しきれなかったのでもやもやしている。
 
主体感研究について手際よくまとめているハガード(2017)のレビュー論文では、運動行為を制御し、それによって外的事象の推移を制御する経験が「主体感」とされている(ハガード論文のまとめは研究アーカイブに掲載しておいた)。たとえば、手を伸ばしてコップを手に取る、スイッチを押してライトを点灯する、といった経験がわかりやすい例だろう。そして、主体感は、随意的な行為とその結果が一致するときに生成する。


 
図の①は、身体運動とその結果が比較照合され、一致するポイントとしての比較器である。運動指令が発せられ、その遠心性コピーが身体状態の予測を生じさせる一方、運動が実行されると身体末梢から感覚フィードバックが返ってくる。ハガードの説明では、両者の一致によって暗黙の主体感が生じ、自己や他者に明示的に帰属できる主体感は図の②で生じる、ということらしい。ただ、そうだとすると、主体感はつねに回顧的にのみ成立するのであって、「何かをしよう」と意図している段階では存在しないことになる(実際、比較器モデルに沿って主体感を説明する論者にはその種の主張はしばしば見られる)。
 
しかし一方で、行為についての時間的予測が主体感を左右することを示唆するデータもある。この点で、主体感はたんに回顧的なわけではなく、展望的な成分を含んでいるはずである。ハガードも、主体感がたんに回顧的な要因だけで成立しているわけではないことを示唆していて、主体感を回顧的な錯覚に還元する見方は避けているようである。
 
これに加えて、行為の意図や行為の選択の場面では、いまだ具体的な運動が始まっていないとしても、それが「私の行為である」(あるいは「私の意図である」)という認知はともなっているので、行為の所有感は最初から成立している。所有感は「ミニマル・セルフ」を支えるもうひとつの要因だが、こちらは、主体感が成立するよりも時間的に早く成立している。
 
だから、「自己」「他者」という属性を持たない中立的な主体が、ある身体行為を行なって、その後で回顧的に「私がその行為を引き起こした」という主体感を持つと考えるべきではない(ポストディクション的解釈はおそらく間違い)。その行為が「自己のもの」であるか「他者のもの」であるか、という所有感の判断は、運動開始以前から成立している。図の②のポイントで、所有感まで含めて自他の弁別が可能になっているわけではないだろう。
 
たとえば、統合失調症における主体感の障害は、ある行為について、自己の意図で行なっておきながらそれを自己に帰属させることに失敗することによる、という説明がしばしばなされるが、これは説得力がないように思う。行為の意図が発せられている時点で、そもそも「誰かの意図」でそれが始まっていると考えるほうが、「させられ体験」に見られるような主体感の不成立を説明するうえで適切であるように思える。
 
た
 

2017年4月9日日曜日

アーカイブの資料追加(Ataria, 2015)

研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。

Ataria, Y. (2015). Dissociation during trauma: the ownership-agency tradeoff model. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 14, 1037-1053.

トラウマ周辺で生じる解離症状を探った文献です。イスラエルでテロの生存者にインタビューを実施し、そのナラティヴを分析しながら症状の身体性を探ったもの。引用されるインタビューの内容はかなり生々しいものがありますが、要約にはほとんど反映していません(その点に興味がある方は本文を読んでみてください)。

この論文のオリジナルな貢献は、その貴重なインタビュー内容もさることながら、副題にある「ownership-agency tradeoff model」です。トラウマ周辺の解離症状を探っていくと、身体の所有感と行為の主体感がトレードオフになっていて、主体感が強化されると所有感が下がり、所有感が強まると主体感が下がるという関係を明らかにしています。両者が均衡しているのが通常の身体の状態であると。

トラウマ的な事象に襲われると、身体から自己が分離したり、痛みを感じなくなったり、どうやら誰もが解離症状を経験するようで、それ自体、適応的な意味をもつようです。いわば、「この悲惨な状況を経験している自分は自分ではない」というやり方で自己を解離させてしまうことでその場を乗り切っているのですね。これは「防衛機制としての解離」と呼ばれます。

ただ、その一方で、激しい痛みを感じながらも身動きがとれず凍ったようにその場で固まってしまうように、あまり適応的な意味を持たないように見えるケース(それでも「頭の中が真っ白になる」というような解離は生じています)もあります。この場合、解離は防衛機制のように見えません。

結論で明確に述べられていないのですが、著者は、主体感と所有感のトレードオフ・モデルで、防衛機制としての解離と、そうでない解離をともに説明できると考えているようです。これは非常に興味深い着眼ですし、所有感と主体感の問題を(さらにはミニマル・セルフの問題を)、神経科学系の議論とはまた違ったしかたで考えさせてくれます。
 
た

2017年1月23日月曜日

アーカイブの資料追加(Blanke & Metzinger, 2010)

研究アーカイブに資料を追加しました。今回は以下の論文。

Blanke, O., and Metzinger, T. (2010). Full-body illusions and minimal phenomenal selfhood. In T. Fuchs, H. C. Sattel, P. Henningsen (Eds.), The embodied self: Dimensions, coherence and disorders (pp. 21-35). Stuttgart, Germany: Schattauer.

いわゆるミニマル・セルフ(最小限の自己)を扱った論文ですが、著者らはこれを「Minimal Phenomenal Selfhood(MPS)」と概念化して、(a)全身への同一化、(b)自己の位置、(c)弱い一人称視点、という3つの特徴から定義しています。

そのうえで、体外離脱体験のような神経病理や、実験的に誘発されるフルボディ錯覚において、MPSがどう変容するのかを論じています。

理論的に興味深いのは最後の部分でしょう。ギャラガーのミニマル・セルフの議論では「所有感」と「主体感」が構成要素として必ずあげられますが、本稿の著者ブランケらは「所有感」だけが自己の必要条件であって「主体感」は不要(正確には、自己の必要条件ではなく十分条件)だと言っています。

本当にそう言えるんでしょうか。直接経験から出発する限り、これは怪しい議論に見えます。一方、ラバーハンド錯覚のような実験状況から出発して考えると、そういう考え方もありかもしれません。また、直接経験といっても、自発的な行為ではなくて反射運動のようなケースを中心に考えると、所有感はあっても主体感は不要だと言える面はありますね。
 
それにしても今日のハイデルベルクは寒い。もう昼なのに外気はマイナス6度。霧が立ち込めています。

た

2017年1月20日金曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的な心』10章)

研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。


この本の10章、久々に読み返しました。現象学をベースに、心理学、神経科学、発達、精神病理との関連で自己に関する議論がコンパクトにまとまっています。ナラティヴ・セルフについて考える手がかりが欲しくて読み直しましたが、どちらかというとミニマル・セルフの問題のほうが中心ですね。

ちなみに、いま・ここで進行中の経験にともなう「わたし」という感じ(自己感)は、もうすぐ出版される私の著作のテーマでもあります。経験にともなう自己(生きられた自己)は、経験をふりかえって反省するととたんにつかまえどころがない感じがしてきますが、進行中の経験においては「主体感 sense of agency」や「所有感 sense of ownership」を通じてちゃんと成立しています。これは、そうそう簡単に壊れることのない(たぶん有機体のものすごく基礎的な次元が壊れない限り壊れることがない)、とても強靭な自己です。

た