2020年12月25日金曜日

対人恐怖症という名前の起源

週末に科研費の「顔・身体学」の領域会議があるのでその準備中。対人恐怖について話すので、しばらくぶりに関連資料を読み直していて、けっこう重要なことを発見した。

それは、森田正馬の著作のこと。以前、対人恐怖について森田が残した文献を調べようと思って、2011年に白揚社から刊行されている森田正馬『対人恐怖の治し方』に収録されている論文を読んだ。この本の最初に収められている「対人恐怖症(または赤面恐怖)とその治し方」という論文は、森田が最初1932年に発表した対人恐怖症の重要な基礎文献になっている。

対人恐怖は、人前で恥ずかしくて赤面するという自然な反応を、「赤面するまい」と思ったり「恥ずかしがりやと思われたくない」と過剰に制御しようとすることでかえって人前で自然に反応できなくなり、悪循環にはまってしまう状態である。また、人前で普通に振る舞えない自分を「こんなことではいけない」と強迫的にこだわって苦悩してしまう状態である…といった森田の考えがるる述べられている。

こういう森田の考えは今は置く。ここに記録しておきたいのは、2011年版の論文を昔の『森田正馬全集』に収録されている同じ論文と比べてみたら細部がかなり書き換えられているということだ。目立つところを拾ってみると、

 

1) タイトル

全集「赤面恐怖症(又は對人恐怖)と其療法」

新版「対人恐怖症(または赤面恐怖)とその治し方」

 

2)「対人恐怖」概念の由来

全集「故に廣くいへば、自ら人前で恥かしがる事を苦悩する症状であって、羞恥恐怖といふべく、赤面恐怖を其一種である。又周囲に對する對人関係で、種々の苦悩を起すものが多いから、近頃或人は之に對人恐怖と名付けた事がある。」

新版「ゆえに広くいえば、自ら人前で恥かしがることを苦悩する症状であって、いわば羞恥恐怖というべきものである。すなわち周囲に対する対人関係で種々の苦悩を起こすものが多いから、これを対人恐怖と名づけ、赤面恐怖はその一種であるというべきものである。」

 

他にも変更箇所がいろいろあるが、面倒なのでここには書かない。ここに記録しておこうと思ったのは、この改変がかなり意図的なものに見えるからだ。全集の文言をそのまま読むと「赤面恐怖」が中心になっていて、それを「対人恐怖」と名づけたのは森田自身ではないことが明らかにうかがえる。新版では、森田自身が「対人恐怖」と命名し、その下位分類として赤面恐怖を位置づけたように読める。

対人恐怖症は森田が概念化したと一般には思われているが、全集の記述を素直に読む限りそうではないらしい。もともと対人恐怖という命名は「或人」によると森田自身が書いている。一体誰なんだろう?

それに、「対人恐怖症」という概念の由来に言及するとき、参考文献にあげられるのはたいてい1932年に発表されたこの「赤面恐怖症(又は對人恐怖)と其療法」なのだが、これはこれでまずくないだろうか?


2020年12月20日日曜日

botができた経緯

「ツイッターを再開したんですか?」という質問をこのところ何度もされるので、「してませんけど、多少の経緯があって…」という話を書いておきます。

過去ログを調べてみたら、私自身は2017年7月の終わりにツイッターを使うのをやめていました。
>2017/7/31「しばらくの間、

当時ドイツでの在外研究を終えて帰国する直前で、思うところあってしばらくツイッターをやめてみたのでした。あれからもう3年以上使っていなかったんですね。

ですが、使わなくてもあまり困ることはないです(だから再開もしてません)。もちろん、研究者や出版社の界隈で発信されている情報にやや疎くはなりますが、自分にとって研究活動の核になるつながりはSNSがなくても維持されるので、とくに不便を感じることもありません。困ったのは、自分が主催するイベントを告知したいときぐらいでしょうか。他は、人間関係に絡むノイズのような情報が入ってこなくなって快適になった感じです。ソーシャルメディアって情報の発信と受信がその人の社会的な人間関係に絡んでなされるので、それが便利だったりありがたかったりすることがある反面、面倒だったりうっとうしかったりする場面も多いですよね。私の場合、後者に煩わされることがなくなったので快適になりました。

本題に戻りますが、12月の上旬にある友人がツイッター上に著作のbotを作ってくれました(アカウントは「@ikiraretawa_bot」だそうです。2017年に出版した『生きられた<私>をもとめて』の引用botです。「ツイッターを再開したんですか」と聞かれるのですが、さすがに自分で自分の著作を引用するbotは気恥ずかしくてできません。私だけではないと思いますが、自分が過去に出版したものを読み直すのって、けっこう恥ずかしいんですよ。その時に自分ができるレベルの限界で書いているので、後で読み返すと至らないところがたくさん目に付くんです。「一生懸命やったのにこの程度しかできませんでした」という自分に直面するのって、皆さんも気が進まないでしょう?

じゃあなんでbotができたのかといいますと。11月の下旬に出版元の北大路書房の編集者の方と別件でやりとりがあったんです。そこのメールに、出版から3年たって売上が伸びなくなってるんだけどどうにかならないですか?という趣旨のことが書いてあったので、販促を兼ねて一般読者向けに何かイベントを組めるといいなと思ったんです。それを私の周囲でもっとも熱心に著作を読んでくれたある友人に相談したら、彼がbotをやりましょうといって即座に形にしてくれた、という次第。引用文の選択はすべて彼の手によるものです。私も一度目を通しましたが、他人が引用してくれた後で読むのって、自分の文章なのに恥ずかしくなく、むしろちょっと素敵に見えました。あの感じは一体なんだったんでしょうか。

それはともかく、botを通じて一般読者に関心が広がれば、トークイベントのようなものを開催するかもしれません(「中の人」をやってくれている友人が司会をつとめてくれたりするとありがたいのですが)。とくにあの本は「自己」という問いに魅せられつつも苦しんでいる一般の読者に向けて書いたものなので、読者の背景を問わずそういう関心に沿った集まりを開ければ面白いかなと思います。botから入った方は引用を楽しんだ後で紙版の書籍を手にとっていただければ、著者としても幸甚です。



2020年11月26日木曜日

ホームページができました

このたび、研究室兼個人ホームページができました。

田中彰吾研究室(東海大学・現代教養センター)

https://shogo-tanaka.jp/

これまで、このブログの独立ページとして設置していた「研究会・WS案内」と「過去の開催記録」は、以下のページに情報を移動しました。

研究会https://shogo-tanaka.jp/study-group.html

ブログページに設定されていたリンク等はこれから順次移転していきます。

よろしくお願いします。

 

 

2020年11月17日火曜日

入来ラボを訪ねました

9月に認知科学会で「プロジェクション・サイエンス」のシンポジウムがあり、そのときに神経科学者の入来篤史先生とパネリストとしてご一緒させていただきました。そのことがご縁で、シンポジウムを企画してくださった鈴木宏昭先生(青山学院大学)と一緒に神戸の理化学研究所にある入来先生のラボを訪問しました。

ニホンザルの実験環境を拝見した後でいろいろと議論させていただいたのですが、自己をめぐる本質的な論点が次から次へと出てきて大変刺激的でした。道具を使うと、身体図式が拡張するだけでなく身体イメージが一時的に崩れることで、道具を使う存在はかえって自己の身体を意識化・対象化する契機を持つこと;サルは座ることを始めたことで背骨が直立し、手が自由になって潜在的には道具を使えるようになっていること(実際タイのカニクイザルには道具を使うものがいるらしい);ヒトは直立歩行することで「上下」という座標軸と水平線、またそれに連動する「左右」という座標軸をかなり自覚的に分岐できるようになったであろうこと;二足歩行するとき周辺視野に両足が入っており、見えないとうまく歩けないが、それはある意味で空間内の「ここ」という位置を「ここ以外」という場所と潜在的に区別する意味を持つこと;自己身体を対象化し、自己の位置する「ここ」を自覚できることが、ヒトの自己意識をたんに前反省的な自己感から反省的な自己意識にしたということ;おそらくこれらすべての条件は、ホモ・サピエンスが地球上の広大な領域(「ここ」以外のどこか)を移動しつくしたことの前提条件になっていること…

どうでしょう? 自己意識の発達と進化をめぐって、ものすごく根源的で哲学的な論点をおさえていますよね? お二人ともサイエンスの根底にある哲学的な問いに取り組もうとされていることが伝わってきて、議論に熱中しているうちにあっという間に二日間の出張が過ぎ去ってしまいました。

 

2020年11月16日月曜日

研究会案内 (12/19 Zoom開催)

久しぶりにエンボディードアプローチ研究会を開催することになりました。コロナ禍で開催が滞っておりましたが、12月19日にZoomでの開催を予定しています。

------------------------------------ 

 <心の科学の基礎論研究会(第87回)&エンボディードプローチ研究会(第9回)・合同研究会>

日時:2020年12月12日(土),午後1:30〜5:30
Zoom開催
 
下記のフォームから参加をご登録ください。12月11日17時までにご登録いただければ、Zoomの会場をメールでご案内します。
 
【プログラム】
13:30〜13:40
「こころの科学とエピステモロジー奨励賞」授賞式
13:40〜15:30
講演1(受賞記念講演)「私小説の疑似客観性をめぐる転回に関するネオ・サイバネティクス的研究」
中村肇(東京大学大学院・博士課程)
【要旨】近代文学に於いて純粋な西欧の科学的客観信仰に基づいた形式論理と操作推論による情報処理パラダイム(ノイマン・パラダイム)を導入しようとした自然主義時代の文壇から田山花袋の『蒲団』や白樺派をはじめとする私小説が生まれたという逆説は,「見たものをありのままに描くことが出来る」という近代的な価値観に対する身体性(=生命情報)に基づく主観と客観の〈ねじれ〉をあらわしていた。では,こうした機械主義的かつサイバネティック・パラダイム的な主観と客観のねじれのなかで展開される我が国の現代文学は,凡そ百年前と現在との間でどのような異同がみられるのであろうか。本発表では上記の問題を,ネオ・サイバネティクスと総称される学際的研究分野の一領域である基礎情報学(FI:Fundamental Informatics)の観点から考察する。
15:40〜17:30
講演2「行為に基づく知覚の説明とその哲学的洞察」
國領佳樹(立教大学・兼任講師)
【要旨】知覚とは知識の主要な源泉の一つである。つまり、知覚は、世界に関する基礎的な信念を私たちにもたらし、それを正当化する役割を担っている。伝統的に、この基本的な考えに基づいて、「知覚と信念との関係とは何か」「知覚はどのように信念を正当化するのか」といった認識論的問題が、知覚の哲学を駆動させる主要な動機の一つとなっていた。
 しかし他方で、知覚は行為とも密接に結びつく。たとえば、私が横断歩道を渡るのは、信号が緑になったのを見たからであり、車が一時停止しているのを見たからである。つまり、知覚は信念を引き起こし、それを正当化するだけではなく、何らかの行為も引き起し、あるいは少なくとも、そうした何かを為す理由の一部を形成しうる。
 以上のように、知覚は認識論的な課題だけではなく、実践的な課題にも重要な仕方で結びつくのである。そして、後者の観点から、知覚とは何かを考える流れがある。ひろくこのような行為との関係を重視する見解を、「行為に基づく知覚の説明」(Action-Based Accounts of Perception)と呼ぶことにしよう。
 本発表の目的は、行為に基づく知覚の説明が、知覚の哲学にどのような洞察をもたらすのかを明らかにすることにある。まず知覚と行為に関する伝統的な見解を確認し、つぎに、行為に基づく知覚の説明のなかでも、その中心的な主張(行為が知覚と構成的関係にあるという主張)の内実を検討する。そのうえで、知覚の哲学における主要な議論(素朴実在論と表象説の対立など)のなかで、当該の主張の意義と問題点を明らかにしたい。
 
主催:
心の科学の基礎論研究会
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
エンボディードアプローチ研究会
http://embodiedapproachj.blogspot.com/p/blog-page.html

2020年11月14日土曜日

祝刊行:Time and Body

2018年からかかわっていた共著のプロジェクトがようやく出版までこぎつけました。以下の書籍です。

この本、2年前のハイデルベルクでのカンファレンスをきっかけに始まったプロジェクトでした。2018年の9月に、ハイデルベルクのフックス先生の還暦を祝う2日間の国際会議がありました(そのときのことは「旅の余韻」という記事に書きました)。ダン・ザハヴィ、マシュー・ラトクリフ、エゼキエル・ディ・パオロ、ハンネ・デ・イェーガー、ショーン・ギャラガー、ドロテ・ルグランなど、ヨーロッパの大物がみんな集まっていたので、きっと各講演をもとにした書籍が編集されるのだろうと思っていましたが、今回は、現象学的精神病理学の第一人者でフックスさんの盟友あるスタンゲリーニさんが一肌脱いで編集の労を取られたのでした。

私もお声がけいただき、大変光栄でした。結果的に、初めてCambridge University Pressから刊行される書籍に原稿を掲載することができました。2年前の講演では私は対人恐怖症について話したのですが、その後のやりとりで対人恐怖症のような日本ローカルな内容でまとめるより「社交不安」のようにより一般的なテーマでまとめるほうがいいのではないかという示唆をいただき、社交不安障害の現象学について初めて本格的な論考をまとめました。「赤面」の経験のように、自己の身体が他者に知覚される場面に、社会的な不安が現れる根源を読み取ろうとしたものです。

Chapter 8 (pp. 150-169)
Tanaka, S. (2020). Body-as-object in social situations: Toward a phenomenology of social anxiety.

以下にアブストラクトを掲載しておきます。ご関心のある方はどうぞお問い合わせください。
The aim of this chapter is to explicate the relationship among social anxiety, bodily experiences, and interpersonal contact with others. In so doing, I will first revisit the phenomenology of bodily experiences and confirm the difference between the body-as-subject and the body-as-object. Next, I will describe the experiences of one’s body-as-object for others, distinguishing them from those of one’s body-as-object for oneself. Among phenomenologists, it was Sartre (1943/1956) who emphasized the former aspect of bodily experiences as the “third ontological dimension of the body.” On the basis of this notion, I will try to develop a phenomenology of social anxiety as well as its disorder. In its most basic form, social anxiety can be described as a feeling of uncertainty of the other’s mind that becomes salient in social situations.
 

2020年11月8日日曜日

久々にジェームズ

 …の自己論を読み直しました。10年ぶりぐらいでしょうか。やっぱり面白いですね。ジェームズは哲学も心理学もわかっていた稀有な人だなと改めて思いました。自己を「主我(I)」と「客我(Me)」にわけて論じているのですが、客我のほうは経験的な自己をめぐる心理学的考察になっていて、主我のほうは超越論的自我に連なるような(実際にはそれを批判していますが)哲学的考察になっています。フッサールなら前者は現象学的心理学、後者は超越論的現象学というかたちで厳密に区別されてしまいそうですが、それを区別しながらも同じ章で論じられてしまうところにジェームズのジェームズらしさがよく現れているように感じました。

ああ、思い出した。2013年に日本心理学会で「自己へのエンボディード・アプローチ」というシンポジウムを企画したときに予習としてジェームズの自己論を読んだのでした。10年も経っていませんでしたね。歳をとったせいか、過去の出来事がいつ起こったのか、認知があいまいになっているようです。

というわけで以下レジュメへのリンクです。

W・ジェームズ (1892/1992).「自我」今田寛訳『心理学(上)』(第12章)岩波書店

 

2020年10月21日水曜日

質的心理学会シンポジウム (10/25)

 直前で恐縮ですが、学会シンポジウムのご案内です。

日本質的心理学会・第17回全国大会

10/25 11:15-13:15 会員企画シンポジウム

「現象学的人間科学への招待-IHSRC 2022に向けて」

今年は大半の学会がオンライン開催に切り替わっていますが、質的心理学会も今回はZoomでの開催になります。今週の23日22時まで参加申し込みはできるようですので、ご関心のある方は下記のページにアクセスしてみてください。

質的心理学会第17回大会・参加登録

今回は、現象学的な方法を使って人間科学の各分野に取り組んでおられる先生方にお話しいただきます。植田嘉好子先生(社会福祉学)、村井尚子先生(教育学)、渡辺恒夫先生(心理学)です。また、指定討論には看護学分野でケアの現象学に取り組んでおられる西村ユミ先生にご登壇いただきます。

今回のシンポジウムは、2022年に開催予定のIHSRC(人間科学研究国際会議)の東京大会に向けての広報活動の一環を兼ねております。この分野に関心をお持ちの皆様のご参加をお待ちしております。

 

 

『他者のような自己自身』5章

 読書会の続きです。リクール『他者のような自己自身』その後もフッサーリアンの村田憲郎氏と読み続けています。今回は5章を読みました。要約を公開しておきます。

ポール・リクール『他者のような自己自身』 第5研究「人格的自己同一性と物語的自己同一性」

もともとこの読書会は私自身の研究プロジェクトで「ナラティヴ・セルフ」を主題としているために始まったものですが、本書の内容がようやくその主題に近づいてきました。とはいえ、ぐるぐると螺旋を描くように迂遠しながら進むリクールのこと。第5研究も「人格的自己同一性と物語的自己同一性」と題していながら、実際には人格的自己同一性の議論で話は終わります。

ただ、この章で「人格的自己同一性」の二つのモデルとして「性格」と「約束」について学べたのは個人的には大きな収穫でした。「性格」と自己同一性の関係をどう考えればいいのか以前から気になっていたのですが、リクールの説明は明快です。自己同一性には「自己性」の次元(selfhood)と同一性の次元(identity)があり、前者は「誰が」、後者は「何が」という主題に対応します。

性格は、ひとの身体に備わる習慣的な傾向性を基盤としています。つまり、習慣や好みのように「何が」の同一性が、あるひとの自己性(「誰が」)を包括するようなしかたで現象するときに性格になる、ということです。いわば、身体に備わる傾向性が、匿名的なしかたであるひとの振る舞い方を制御するようになると「性格」と呼ばれるものになる、というわけです。

続きを読むのが少し楽しみになってきました。

 

 

2020年9月30日水曜日

『他者のような自己自身』2章

8月に再開したポール・リクール『他者のような自己自身』の読書会、その後も2〜3週に1回のペースで開催しています。当初、序言>第3研究>第4研究と読み進めたのですが、再開以降、第1、第2に改めて取り組みました。今回は同僚の村田憲郎氏力作の第2研究のレジュメをアップしてあります。

 ポール・リクール『他者のような自己自身』 第2研究「言表行為と語る主体」

本書全体が分析哲学と現象学・解釈学の対話という論調を備えた著作なので、分析哲学の素養のない私には読むのに骨が折れる箇所も多々あるのですが、本書が書かれた1990年ごろの言説状況を考えると、当時のフランスのポストモダン系の議論ではなく分析哲学との対話を押し進めることで、リクールは「主体」や「自己」をめぐる議論を解体するのではなく再構築する方向で議論ができたのだろう、というのが所々でわかります。フーコーやドゥルーズが進んだのとは別の方向ですね。

ところで、昨日の読書会でたまたま年齢の話になりました(村田氏と私は同年です)。ともに40代が終わりに近づいているのですが、フッサールのように晩成型の代表のような哲学者でも前半の代表作である『論理学研究』は40過ぎですでにものにしているんですよね。40代の終わりに近づいても遅々として仕事がものにならない自分たちの境遇を省みて、二人して自己嫌悪に陥ったのでした…

 

 

2020年9月18日金曜日

認知科学会・論文賞をいただきました

 本日、日本認知科学会第37回大会にて、論文賞をいただきました。2019年度に学会誌『認知科学』に掲載された論文のなかで最優秀の論文に授かるとても名誉ある賞で、たいへん嬉しく思っております。受賞論文は、

田中彰吾 (2019)「プロジェクション科学における身体の役割-身体錯覚を再考する」『認知科学』26巻1号,pp. 140-151

です。上記リンクからアクセスできますので、ご覧いただければ幸いです。ラバーハンド錯覚とフルボディ錯覚を題材に、「自己感が身体の外部に離脱しうるか?」という問いについて哲学的に考察する内容になっております。

もともとこの論文は、当初そのアイデアを、2017年12月に開催された認知科学会の冬のシンポジウムで報告したものです。最初は萌芽的なアイデアにとどまっていましたが、当日のシンポジウムでの充実した議論、さらに、投稿後の査読者とのやり取りを経て、中身の充実した論文として仕上がっていった経緯があります。関係されたすべての先生方に、この場を借りて深くお礼申し上げます。

ありがとうございました!

 

2020年9月1日火曜日

リクール『他者のような自己自身』

今年の2月から中断していましたが、リクール『他者のような自己自身』の読書会を再開しました。序言→第3研究→第4研究と読んで中断していたので、途中とばしていた第1研究に戻って再開します。なお、先ほど第1研究のレジュメを追加しておきました。

第1研究:「人物」と同定的指示――意味論的アプローチ

当面のあいだ、隔週の火曜午後にzoomを使って開催を続けます(今日この後開催されるのに合わせてレジュメをアップしておきました)。ご関心のある方はお問い合わせください。



2020年8月29日土曜日

人間知×脳×AI研究教育センター

今週は北海道大学のCHAIN(人間知×脳×AI研究教育センター)でサマースクールがありました。月〜金まで大阪大学の朝倉暢彦先生と二人で講師を務め、心地よい疲労感の中でこの記事を書いています。

前半2日が田中のレクチャー中心、後半2日が朝倉先生のレクチャー中心、最後1日は学生の発表という構成でした。前半は哲学的な観点からの話題提供(社会的認知の話でした)、後半はデータ科学的な観点からの話題提供(社会的認知や視覚イメージのベイズ推定)。学生は両者の講義を受けて、実験を含め研究プロジェクトにつながるようなアイデアを発表せねばならないので、おのずと学際研究のトレーニングになっていました。

学際研究を売りや目的にしている場所は国内外にたくさんありますが、関係者がそれぞれの専門に棲み分けていて内実がともなっていないケースが実際には多いように思います。CHAINはそういう意味では、センター長の田口茂先生や、スタッフの吉田正俊・島崎秀昭・宮原克典の各先生が皆さんオープンで異分野から学ぼうとする姿勢に満ちていて、「意識」「自己」「社会性」「合理性」という大きな問いをめぐって高次元の知の融合が期待できる場所になっています。最終日の学生たちの発表を聞いていると、短時間でとてもよくまとまった研究アイデアを披露していたので、その印象を強くしました。こういう場所から次世代を担う優秀な研究者が巣立ってくれるといいなと思います。

それはそうと、今回は5日間の集中講義もやはりリモートでの実施なのでした。札幌に行くことを楽しみに引き受けた仕事でもあったので、とても残念でした…
 


2020年8月20日木曜日

プロジェクション・サイエンス

アマゾンに発売の案内が出たそうです。


新しい認知科学の可能性に関心がある方にとっては、面白い内容を多々含むものになっていると思います。サブタイトル「心と身体を世界につなぐ第三世代の認知科学」がそれを物語っていると思います。

ちなみにアマゾンの表示で編者の鈴木宏昭先生の名前が「宏招」と間違って表示されていますが、なぜなんでしょうか。

田中も分担して1章寄稿しました。
田中彰吾「ポスト身体性認知としてのプロジェクション概念」(2章)

他の章の多くは学会誌『認知科学』でプロジェクション・サイエンスの特集が組まれたときの原稿を増補したものですが、田中は書き下ろしで新たな原稿を寄稿しました。「プロジェクション」という概念に託して、身体性認知科学の未来について考えています。あえて「ポスト身体性認知科学」という言葉を使ってみました。

短期間で一気に書いたものなので雑な箇所も残っているかもしれませんが、従来の身体性認知科学が陥っている現状を超える手がかりについて、ストレートに考察する論考になっています。この原稿を出発点にして、今後もっと「ポスト身体性認知」に連なる研究を進められればと思います。

身体性の問題だけでなく、「プロジェクション・サイエンス」は意味や価値という従来の認知科学がうまく扱ってくることができなかった重要な問題を多々扱っています。今後の展開に期待が持てる分野になりそうですよ。
 


2020年8月1日土曜日

書評を寄稿しました

今週の図書新聞に書評を寄稿しています。

図書新聞
第3459号(2020年8月8日)

聞くところによると、前号に掲載されたとある社会学系の書籍の書評がSNSで炎上しているんだそうで(相当に酷評されていることに著者が反撃しているらしい)、それについての編集部の見解が新たにこの号に掲載されています。

そういう話題性に富む(?)書評に比べれば私のものはマイルドで普通の書評です。以下の書を取り上げました。

佐藤義之著『「心の哲学」批判序説』講談社(選書メチエ、2020年4月刊)
書評:「物質から意識を見るか、生命から意識を見るか--進化論を取り入れることで、物理主義に依拠する従来の心の哲学に対して根源的な批判を試みる」

有料ものなのでコンテンツはここで公開できないですが、ご関心のあるかたは上のリンクから読んでみてください。

同書は、心の哲学で主流になっている、いわゆる物理主義から意識を理解する立場(物理世界が因果的に閉じているという見方に立って、神経過程に還元して意識を理解する立場)に対する根源的な批判を試みています。きちんと読めば、物理主義の立場で意識を理解しようとするのがそもそも無謀な試みであることに納得がいくぐらい、よく整理された批判を重ねています。第二部では現象学的な意識の理解が試みられていますが、それよりも第一部の「心の哲学」批判の部分が良いですね。

個人的には、大学院生の頃に意識科学の議論に関心を持って調べ始めた頃から「ハードプロブレム」は疑似問題だよなぁ、という感じを持ち続けて今に至ります。なので心の哲学のように物理主義から意識を理解する試みそのものに乗れず、現象学から身体の問題を考えてきました。ポイントは、ハードプロブレムはやはり心身問題の焼き直しなので設定そのものを退ける必要があって、心身問題を「身身問題(body-body problem)」として再整理するところに現象学の役割がある、ということです。

このあたりの事情は、これも講談社選書メチエからいずれ出版される共著『心の哲学史(仮題)』の担当章に整理して書いておきました。共著といっても各章6〜7万字詰め込まれてますから、私の章も薄い書籍分ぐらいの分量はあります。お楽しみに。


 


2020年7月31日金曜日

後味の悪い話

後味の悪い話を耳にした。どこかで表出しないとこの後味の悪さを消化できそうにないので書いておく。

昨年末、同じセンターに所属する同僚が海外で立派な賞を受けたのだが、その報を聞いた学内のとある人物が「へぇ、○○センターの先生って暇なんだね〜」との感想を漏らしたのだとか。この人物、学内では誰もが知る大物である。そういう人物が「受賞するほど研究できるのは暇だから」という風にしか見ていないらしい。

別に噂話をあげつらって悪口を書きたいわけではない。ではなくて、大学の中枢で実務を担う中核的な人物が学術研究を「暇つぶし」程度にしか見ていない、という今の日本の大学に広がりつつある現実をここに記しておきたかったのである。

私の所属先だけではなく、今どきの大学にはこういう雰囲気は深く浸透しつつある。大学を「改革」する実務的な仕事をこなす「会社人」的な能力が強く求められる。大学教員は「教員」なのであとは教育だけをちゃんとやってくれればいい、研究は工学系のように産業に直結して「金になる」ものが中心、産業化や技術革新につながらない「虚学」はいらない。そういう雰囲気。

まぁ、こういう雰囲気が強くなると大学に限らず組織は必ずダメになる。「役に立つ」ということだけが優先されているからだ。就職の役に立つ教育、産業の役に立つ研究、社会の役に立つ大学、改革の役に立つ教員。あらゆる面で「目的」は先に決められていて、それを実現する手段に成り下がっている。そして、そもそもの「目的」を生み出すことは誰も考えない。

研究は、何をすべきか定まらないところから始まる。何のために行動するのか、という価値を創造するところに学術研究の根幹があるのであって、その行動を取り巻く環境や社会や歴史的文脈を読み解こうとするときに学術的な知性が必要になるのである。こう書くと「虚学」を擁護しすぎのように見えるかもしれないが、どんな分野の研究でもそれが研究として始まる場面では必ず虚学の要素を含み、そこに知的創造の最初の場面がある。

こういう活動が「暇」の産物に見えるのは、どっちに向かって走るべきかという「解」が決まっていると思い込めるだけの単純な知性しか持ち合わせていないからに違いない。
 
 

2020年7月18日土曜日

心理学ワールドに寄稿しました

表題のまんまです。先日発行された日本心理学会の機関誌「心理学ワールド」に拙論を掲載していただきました。

田中彰吾「自己と他者を区別する」
心理学ワールド,90号,pp. 13-16

ちなみに、特集「人を区別する」の一部です。もうすぐ(といってもコロナのせいでいつになるか不明です)『自己と他者』という単著が出るのですが、その原稿を書き終えて間もない頃に心理学ワールドから寄稿のお声がけをいただいたので、なんともタイムリーなお仕事でした。そのわりに単著で書いたこととほとんど重複していないのですが… 

ミラーニューロンの話から入って、させられ体験、Who-system、エージェンシーといった話題を扱っています。自己と他者は脳内では共通のしかたで表象されているかもしれないのに、自他を混同する経験が現実にはほとんど起こらないのはなぜでしょうね、という問いをめぐる論考です。

ちなみに、特集は他にも平井真洋先生や山口真美先生が寄稿されていてかなり面白いです。是非ご一読のほどを。以下のリンクからたどれます。

心理学ワールド 第90号
 

 

2020年7月8日水曜日

青くさい話

各国の情勢が激しく動いていますね。米国ではBLMとANTIFAが結びついてほとんど文化大革命のような様相を一部で呈していますし、香港では民主主義が死を迎えつつあるように見えますし、中国とインドの国境では紛争が起きていますし、尖閣や台湾周辺も緊迫しているようです。コロナ後の世界はほとんど一触即発のような綱渡り状態ですね。

こういう情勢なので政治と学問の関係をときどき考えるのですが、学術研究は政治的な自由がなければそもそも可能にならない部分が大きい一方で、逆に学術研究の成果が人々の自由に資するものでなければならないと強く思います。学術には知を生み出す役割があるわけですが、たんに政策的な目的にかなうだけの知は道具としての知であって、生きることそれ自体に役立つ価値創造的なものにはなりません。

デカルトは三十年戦争にみずから赴いてその中で考え抜いていますね。私はデカルト主義者ではありませんが、激変する政治情勢のなかに自分の身を置き、かつ自分だけに忠実に、自由にものを考え抜こうとした姿勢は立派です。デカルトが発見したコギトという自己は、近代社会が後に基盤に据えることになる自由な個人のプロトタイプだったのだと思います。現代ではむしろ、ポスト・デカルト的な「身体化された自己」を今後の社会を支える主体として政治的に位置付ける作業が必要なのだと思いますが。

大学という制度の中に巻き込まれて研究活動をしているので、私の考えることも自分の置かれた状況からそう自由なものになれないことは百も承知です。…が、歴史の変わり目に立ち会っているという感触が深くあるからこそ、ひとが生きることそれ自体に資するような研究をしたいと強く思います。

青くさい話に聞こえるかもしれません。でも、以前単著を出したときに書いた通り、自分の書くものに関してはいつまでも青くさくありたいと思っています。読後感として青草のにおいが読者の体に残るような著作を書きたいものです。
 


2020年6月21日日曜日

ひたすら書き続ける

もうすぐ6月も終わり。今年も半分が過ぎようとしています。結局、コロナ禍で2月末ごろから学会や研究会など人前で話す仕事がすべてキャンセルされたせいで、大学の仕事以外は書くことにひたすら専念した半年間でした。備忘録を兼ねて記録しておきます。

1月
・東大出版会「知の生態学」シリーズの1冊として予定されている単著の最終章を書く(約18000字)
・近代科学社「プロジェクション・サイエンス」の共著に寄稿する担当章を書く(約17000字)

2月
・協同医書出版「臨床の中の物語る力」(共著)に寄稿する担当章の残り2/3を書く(約27000字)
・講談社「心の哲学史」(共著)の担当章の冒頭1/5を書く(約13000字)

3月
・引き続き、「心の哲学史」担当章の続き1/5を書く(約13000字)
・共編著「Body Schema and Body Image」(Oxford U. P.)のイントロダクションをYochai Ataria、Shaun Gallagherの両氏と共同で書く(約4000ワード)
・立正大学紀要に収録される武内大氏の論文へのコメント論文を書く(約9000字)

4月
・日本心理学会「心理学ワールド」から依頼された特集原稿を書く(約5000字)
・引き続き、「Body Schema and Body Image」のイントロを共同で執筆する(約5000ワード)
・引き続き、「心の哲学史」担当章の続き2/5を書く(約26000字)

5月
・図書新聞から依頼された書評を書く(約2000字)
・昨年度で終了した科研費の最終報告書を書く(約9000字)
・米国の某大学院で引き受けている博士論文審査のレビューを書く(約1000ワード)

6月
・引き続き、「心の哲学史」担当章の最後1/5を書く(約13000字)

ざっとこんな感じです。4月は文字通りコロナ禍の対応で大学の業務がすごい量になっていましたから、われながらよく書いたと思います。どうも、大学の事務仕事がストレスになるときほど、その反動で意地になって何かしら書く傾向があるみたいです。逆に授業期間は教育現場にいるのが楽しいので執筆がおろそかになりがちです。遠隔授業でも学生と向き合ってはいますからね。
 
ところで、さすがにこれだけ書くと、以前とは心境が変わってくるようになりました。もともと一介の研究者として執筆してきたので、学術的な水準の高さや正確さにこだわってやってきました。ただ、この上半期のようにあれやこれやたくさん書くようになると、本当に自分の言葉が読者に届くのかどうか気になるといいますか、書いたものにどの程度のインパクトがあるのかすごく気になります。売れ行きだけで単純には測れないとしても、やっぱり一定数は商品としてきちんと売れるようにならないと、執筆活動も続かないだろうなと思います。

というわけで、出版されたらみなさんぜひ買ってください(笑

…なんておちゃらけている一方で、これだけ書いても、なにかを本当に書いた気になれない自分もいます。


 

2020年5月29日金曜日

F・ファノンについて (Ataria & Tanaka, 2020)

初めて、人種差別の問題に言及する論文を書きました。社会問題としての差別について言及しているというよりは、身体的経験として人種差別がどのように生きられているのか、ということを論じたものです。

フランツ・ファノンという黒人の精神科医の経験を主なテクストにして考えています。ファノンは現在はあまり読まれることのない思想家だと思いますが、フランス領マルチニーク出身の黒人としてフランスで教育を受けた人物で、自身の被差別の経験を生々しい文章で1950年代に残しています。

Ataria, Y., & Tanaka, S. (2020). When body image takes over the body schema: The case of Franz Fanon. Human Studies. (online first)

彼が生きた1950年代当時に比べれば、いまの世界にはこれほど激しい人種差別は見られなくなっていると思います。が、目立つものではない分、よりささやかな非言語的経験としてエスニシティにまつわる差別を経験することも現在では増えているようにも思います。視線や接触や言葉づかいのように。身体図式のレベルでの人種差別、とでも言えばいいでしょうか。

この論文、身体図式や身体イメージの観点からエスニシティを考えたい方にご覧いただけると幸いです。
 

 


2020年5月10日日曜日

『現象学入門』の書評が出ました

コイファーとチェメロによる『現象学入門』の翻訳は刊行からもうすぐ2年になります。現象学の入門書にもさまざまなものがありますが、本書は身体性認知科学とのつながりから現象学を歴史的に展望したものになっている点でとてもユニークで、わりと好評を得ております。

このたび、知人の芹場輝さんが『こころの科学とエピステモロジー』誌に本訳書の書評を寄せてくれました。


力作の書評です(力が入り過ぎててところどころ熟語や漢字の選択が硬くで読みづらいですが…)。とくに、「3.本書の内容紹介」は1ページ程度できわめて正確に本書を要約しているので、ここだけ読んでも本書がどういう構成なのかがよくわかります。

なお、最後の「言語の現象学」について触れているくだりは、私自身も課題にしているところですね。身体性の問題から現象学に接近すると、スキルや「身体化された自己」など、どちらかというと環境と身体の相互作用に関心が向かいがちになります。とくに、ダイナミカルシステム理論を使って現象を記述するアプローチになると、そもそも物理的次元の記述だけが問題にされ、「心」なるものについての独立した記述は不要になりますし。

このブログでも何度か書いてきましたが、身体性・行為・知覚から論じ始めながら、言語を使うことで派生するナラティブの次元をどのように理論に取り入れていくかはとても重要です。今年から科研費で取り組み始めたプロジェクトもこの論点にかかわっています。なので、私自身の仕事は、『現象学入門』の翻訳作業が完了した地点からもう一歩前に歩き始めているという感じではあります。遅々として進まないのがもどかしいですが。

ともあれ、コイファー&チェメロ『現象学入門』のファンの皆さん、あるいは買ったけど積読になっている皆さん、途中で投げ出している皆さん。上記書評を読んでみてください。
 
 

『こころの科学とエピステモロジー』第2号

田中も編集委員のひとりを務めている電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』の第2号が刊行されました。

こころの科学とエピステモロジー
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/

上記のサイトから全記事ダウンロードできます。今号のハイライトは、有名ながら日本語で読めなかった「ゲシュタルト質について」(エーレンフェルス、1890)の本邦初訳が収録されたことでしょう。

主な内容
・エディトリアル「手作りの科学としての夢研究」(編集委員長)
・原著論文「階層的自律コミュニケーション・システム(HACS)モデルを用いた
 小説の共同性付与メカニズムに関する基礎情報学的考察」(中村肇)
・翻訳論文 エーレンフェルス著「ゲシュタルト質について」(村田憲郎/訳・解題)
・創刊号「心的現前時間」(シュテルン)へのコメント特集
・高砂美樹/村田憲郎
・創刊号へのコメント論文(伊藤直樹)
書評・ノンフィクション部門
・コイファー&チェメロ著『現象学入門』(評:芹場輝)
・西研著『哲学は対話する』(評:渡辺恒夫)
書評・フィクション部門
・桜木紫乃著『緋の河』(評:渡辺恒夫)
・映像メディア時評「『人文死生学研究会番外編涼宮ハルヒ』+京都アニメーション
 お別れの会参列報告」(土居豊・渡辺恒夫・三浦俊彦)

また、田中彰吾・宮原克典訳の『現象学入門』にもついに初の書評が出ました。知人の芹場輝さんによるものです。これは心して読まねばなりませんね。後日コメントします。
 

 

2020年5月2日土曜日

禍いの4月

今年度の大学は一斉に遠隔授業を取り入れる方向で動いています。もちろん、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて。4月は結局その対応にふり回されて終わってしまいました。

教務関係の主任を今年も引き受けている関係で、この4月は、現在の所属先に着任して以来もっとも大学の校務が多かったのではないかと思います。まさに「コロナ禍」という言葉がぴったりでした。

記録をかねて、ふり返っておきます。

3月30日:所属先の現代教養センターの科目担当教員に連絡。この時点では授業開始が4/24に後ろ倒しになっただけで、通常通り教室で開講する予定でした。いわゆる「三密」を回避する授業運営を依頼。

4月3日:授業開始がさらに後ろ倒しになり、5月11日開始が決まりました。また、遠隔授業に変更になる可能性を初めて担当教員に通知しました。ただ、この時点ではまだ正式決定ではありませんでした。

4月9日:学内で6日に春学期授業をすべて遠隔にすることが決まり、それに合わせてセンターとしての対応方法をとりまとめ、メールを配信。使用するシステムについてはこの時点では決定できず、その前に、授業回数、定期試験、大人数クラスの履修制限など、大枠の対応について連絡。

4月17日:これまで学内で利用されてきたオンライン・システムを利用して遠隔授業を実施する方針でマニュアルを作成し、配信。この頃、他大から既存システムがダウンした話が複数入ってきており、学内でも調査が始まる。

4月22日:遠隔授業が決まって初の教授会。まぁ、ご多分にもれず授業運営方法についてあれこれ質問が出ました。教授会は3時間ぐらいの長丁場でした(見方によってはそれでも短かかったのかも)。教授会ももちろん遠隔ですが、この時点ですでに数十時間は教務関係者と遠隔で会議をこなしていたので、これといって新鮮味もなく。

4月25日:既存のシステムがアクセス過剰でダウンするだろうという学内の検討結果を受けて他のシステムを利用する方法を模索。マニュアルの改訂準備に着手。

4月28日:既存のシステムは利用時間に制限が加わるとの通知が学内で配信される。学生のアクセスは学部ごとに週2回に制限されるとのこと。

5月1日:既存システムに加えてMicrosoft Teams等の代替手段を確保するよう依頼する改訂版の遠隔授業マニュアルを配信。細々とした変更が多数あって、作るのに苦労しました。

主な日付を並べましたが、各日付のあいだに複数の打ち合わせ、会議、セミナーが随時Teamsで入る過密スケジュールの4月でした。

愚痴ですが、今月の私の月給は、時給に換算すると最低賃金をかなり下回ると思います。失職するよりはマシですが、労働時間が異常に長くて「社畜」という言葉が初めてわが口を突いて出てきた4月でした。優秀で事務処理能力もきわめて高い同僚の教務関係者たちに支えられても、このありさまですからね。

遠隔授業の導入でこれだけ振り回されると、さすがに3月以前の世界がはるか遠くに感じられます。それに、大学の現場もこれだけの変化を経験すると、コロナ以前の世界に単純に戻ることはないでしょう。今後、遠隔授業を実践しながら、変化の方向を見極めたいと思っています。

ところで、こんな渦中でも4月に共著の原稿を20000字くらい書き進めました。自分を褒めてやりたいと思います。



2020年4月4日土曜日

新たな助成

これまで、当サイトおよびエンボディードアプローチ研究会は以下の公的資金の助成を受けて運営されてきました。

2015~2019年度,科研費・基盤研究(B)「Embodied Human Scienceの構想と展開」

2019年度で助成期間が終了しましたが、このたび、新たに以下の助成を受けることが内定しました。ここに記して感謝申し上げます。

・2020年度〜2023年度(予定),科研費・基盤研究(B)「身体化された自己:ミニマルからナラティヴへ」

前年度までは「Embodied Human Science(身体性人間科学)」を構想してきました。中心に据えてきたのは、いわゆるミニマル・セルフの問題です。不必要な要素をすべて取り払ってもなお残る自己とは何か。これを身体性の観点から明らかにしました。また、その延長で、身体行為にもとづいて自己と他者がどのように相互理解を発展させるのか、記述することを試みました。

今年度からは、ミニマル・セルフからナラティヴ・セルフ(物語的自己)に少しずつ研究の焦点を移していく予定です。身体行為にもとづく自己は、身体レベルで経験した出来事をどのようにものがたり、さらにその物語にもとづく自己アイデンティティを構築していくのか。こうした問題意識にもとづいて今後の研究を展開していきます。

今後も引き続き、当サイトおよびエンボディードアプローチ研究会をよろしくお願い致します。 
 

 

2020年3月27日金曜日

間身体性療法が奏功した症例?

友人から来たメールの件名が「間身体性療法が奏功した症例」となっていて、何のことだろうと思って本文を読んでみたら私のことが書いてありました。いわく、若い頃と違って私の笑顔が歪んでいないんだそうです。この写真のことです。

間身体性、ご存知の通りメルロ゠ポンティの概念です。自己の身体と他者の身体のあいだには潜在的に通じ合う関係があって、それはあくびの伝染や笑顔の連鎖のように、同調する身体表現として顕在化します。メールを送ってきた友人によると、若い頃の私は屈託のない笑顔を浮かべることがなく、いつも微妙に歪んでいたとのこと。もちろん、本人的にはそんな自覚はまったくなかったのですが。心外なこと甚だしい(笑

それはともかく、間身体性はコミュニケーション場面でもきわめて重要な要因を果たしています。新型コロナウィルスの感染拡大に応じてテレワークが盛んになりつつありますが、オフィスワークには身体性を共有できる良さと、それに由来する固有の意義があります。おそらく、テレワークが発達すればするほど、テレワークだから実現できることと、オフィスワークだから実現できること、両方の意味が別々に自覚されるようになるだろうと思います。

以下は、そんなことを考えるうえで参考にしていただけるであろうインタビュー記事です。


今回は、オフィスデザインを事業としている「フロンティアコンサルティング」社によるインタビューでした。インタビューはそれこそスカイプではなく私の研究室で同じ空間を共有しながら行ったものです。ウイルスの感染拡大が問題になる前の1月上旬に実施できたのは今思うと幸いでした。

わりと分かりやすい記事にまとめてくださっていると思います。身体性、空間デザイン、オフィス空間に関心のある方々ご覧いただければ幸いです。

 

2020年3月16日月曜日

研究会中止 (3/25 東海大学)

来週25日に予定されていたエンボディードアプローチ研究会、残念ながら中止することになりました。トム・フラインスさんがオランダから来日される予定だったのですが、先週あたりからヨーロッパでも新型コロナウイルスの影響が顕著で、大学閉鎖にともなって出張も許可されない状況になっているとのことです。

研究会を楽しみにされていた皆さまには申し訳ありません。時期を改めての開催を検討しておりますので、どうぞご容赦ください。


2020年3月14日土曜日

雑誌『体育の科学』に寄稿しました

昨年9月に久々に体育学会のシンポジウムに登壇する機会があったのですが、そのときにお話しした内容をもとに執筆した原稿が『体育の科学』に掲載されました。

体育の科学70巻3月号:特集「eスポーツを考える」(杏林書院)

特集には、当日シンポジウムでご一緒した秋吉遼子氏(東海大学)、佐藤晋太郎氏(早稲田大学)も寄稿されています。お二人ともわりと網羅的に論点をおさえているので、eスポーツに全般的に関心のある人には参考になる紙面構成になっていると思います。

私の寄稿分は以下のような構成です。

田中彰吾「身体性哲学からみたeスポーツ」
 1. eスポーツと他のスポーツとの共通点
 2. eスポーツに固有の特徴
  1) 身体図式の利用方法
  2) 仮想空間への適応
 3. スポーツの身体的経験と情報技術

もともとeスポーツの専門家ではないのでたいした内容は書けていないのですが、体育哲学的な論考としては日本では今のところあまり例がない考察になっているかと思います。

ちなみに、「eスポーツはスポーツじゃない」という主張は世間でもよく聞かれるところですが、それはeスポーツを考えるさいの問題ではありません。本当の問題は、情報技術の急速な進化とともに、ひとの身体経験そのものが劇的に変化しつつあることです。eスポーツを考えることは、情報化された未来の身体について考えることでもあります。今回の原稿では最後に少し触れただけですが、いずれこのことの意味を、VR技術やBMIなどとも合わせて、じっくり考えてみたいと思っています。
 




3.11から9年

早いもので東日本大震災から9年たちました。昨今コロナウイルスの関係で年度末・年度はじめの対応に追われているのですが、その慌ただしさが9年前と似ているせいで、改めて当時を思い出すことが多いです。

ウイルスとは直接関係ないのですが、先日震災関連で取材を1件お受けしました。かつてこんな論文を発表していたのですが、その内容について問い合わせがあったためです。

田中彰吾(2015)「復興のランドスケープ-東日本大震災後の防潮堤建設を再考する」『文明』第20号,81-90ページ

当時も今も東海大の文明研究所の所員を兼務しているのですが、当時は震災復興の研究プロジェクトに従事していて、心理学や身体論から貢献できるテーマとしてランドスケープ論を取り上げたのでした。とくに当時は巨大防潮堤建設が始まりつつあったので、主としてその問題を批判的に取り上げました。

当時気仙沼や陸前高田まで行って現地を歩いてみて感じましたが、この防潮堤建設は東北のランドスケープを一変させてしまうに違いないと予感しました。どうやら、その予感は本当になりつつあるようです。以下の記事を読んでいただけるとよくわかるかと思います。残念ながら読者限定記事なので会員でない方はアクセスできないようですが…。

読売新聞(2020年3月5日朝刊)
[震災9年]復興のゴールは<上>かさ上げ移転 薄らぐ絆
[震災9年]復興のゴールは<中>避難先に愛着 鈍る帰還
[震災9年]復興のゴールは<下>住民の輪で街づくり

田中のコメントは<上>に部分的に掲載されています。「復興後の街に共通するのは、現実感のなさだ」「人と風景がうまくつながっている感じがしない。人々のなりわいや暮らしになじむ街づくりを行う視点はあったか」というコメントを紹介していただきました。

ただ、防潮堤はじめ復興のあり方に批判的なことをいう前に、あの震災で命を落とされた方々につつしんで哀悼の意を表したく思います。私の拙い論文もその思いをもとに書いたものです。
 

 

2020年2月27日木曜日

レジュメ追加 (他者のような自己自身)

2019年度秋学期の大学院ゼミでポール・リクール 『他者のような自己自身』を読み始めました。リクール 、考えていることは面白いのですが、文体と思考がまわりくどく遅々として進んでいかないので、読むのに骨が折れます。途中から大学の同僚でフッサール研究者の村田憲郎先生が加わってくれて、一緒に議論しながら読み進めることで、だいぶ深く読み込めるようになってきました。

研究アーカイブのページにここまでのレジュメをアップしてあります。
序言
第3研究
第4研究

ちなみに、村田先生と私のペアで現象学を学べる環境は、なかなか得難いかもしれません。現象学、エナクティヴィズム、ナラティヴ論など、リクールに触発されていつも議論が広がっていきます。メンバーが増えていくとかなり面白い議論の場になっていきそうです。次の学期も時間を取って続ける予定ですので、関心のある方は遊びにきてください。
 
た 


2020年2月25日火曜日

エンボディードアプローチ研究会 (3/25 東海大学)

新型コロナウィルスの関係で開催できるかどうか微妙ですが、来月25日に研究会を予定しています。オランダから社会心理学の若手研究者トム・フラインス(Tom Frijns)さんが来日されるので、それに合わせてエンボディードアプローチ研究会を開くことにしました。状況によって彼の来日が中止になれば、研究会も中止にせざるを得ないだろうと思います。

以下、ご案内です。無事に開催できるとよいのですが、どうなることやら…。
  
----------------
第9回エンボディードアプローチ研究会

第9回のエンボディードアプローチ研究会は、トム・フラインス氏(ユトレヒト大学講師・社会心理学)をゲストにお招きして実施します。テーマはシンクロニーです。二人以上のひとが集まって会話をはじめとする社会的相互作用を行うとき、そこでは、さまざまな同期が生じています。同期は、非言語行動のような身体的レベルのものから、脳活動の同期のように神経生理学的レベルのものまで、多元的に生じています。午前の部では、嶋田総太郎氏(明治大学・認知神経科学)のご講演を含め、シンクロニーについて概括的なレクチャーを行います。午後の部では、フラインス氏によるレクチャー+ワークショップを行います。

日時:2020年3月25日(水),10:30-17:00
場所:東海大学湘南キャンパス,19号館3階・307教室

プログラム
10:30-11:30
 Shogo Tanaka (Tokai University) 田中彰吾(東海大学)
 “Intercorporeality and social understanding”
11:30-12:30
 Sotaro Shimada (Meiji University) 嶋田総太郎(明治大学)
 “Inter-brain synchronization in social interaction”
12:30-14:00 LUNCH
14:00-15:30
 Tom Frijns (Utrecht University)
 Tom Frijns & Tom Sloetjes (Utrecht University)
 トム・フラインス&トム・スローティエス(ユトレヒト大学)
 “Active synchrony as a means of enhancing students’ willingness and ability to work together” 
 (combined presentation and workshop)
15:30-16:00 COFFEE
16:00-17:00
 Discussion:全体討論
 
問合せ先:田中彰吾(東海大学 body_of_knowledge@yahoo.co.jp)
----------------

 

2020年2月13日木曜日

電子書籍化『身体の知』

2015年に紙版で刊行された以下の書籍が電子化されたそうです。紙版3960円に比べてキンドルは2500円なのでけっこうお買い得かも。
 
田中も1章寄稿しています。
田中彰吾「心身問題と他者問題-湯浅泰雄が考え残したこと」(pp. 134-154)

湯浅先生は心身問題を他者問題と適切に関連させて考えることをしていなかったと思います。そのため、湯浅先生の他者論は、現在の「心の理論」が陥っているのと同じような理論的問題を含んでいます。この点を考え直すには「間身体性」を考える必要がありますよ、というのが拙論で指摘したことです。心身論と他者論どちらにも関心のある人向けの論考になっております。
 
 

2020年2月5日水曜日

研究会案内 (2/20 東海大学)

2019年度から本格的に始まった身体性リハビリテーション研究会ですが、次回は2月20日(木)に開催します。

第3回身体性リハビリテーション研究会
2020年2月20日(木) 14:00〜17:00
東海大学湘南キャンパスにて

密な議論を優先する形式でやっていますので、現状ではまだクローズドな方式で開催しています。基本的には、中枢神経系の各種の疾患にともなう運動障害を扱っている理学療法士さんたちが集まって議論することで、リハビリテーションの現場で遭遇する運動障害について、現象学的な理解を深めようという目標で開催しています。ご関心のあるセラピストさんはお問い合わせください。

ちなみに、ただいまリハビリテーション方面の専門家に向けて、ある出版社が企画する共著ものの企画にかかわっています。ようやく原稿を三分の二ぐらい書き終えたところです。順調に進めば今年刊行されるでしょう。
 

 
*2020/2/19 追記
新型コロナウイルスに関連する状況の変化を受けて、第3回研究会の開催は当面延期することになりました。新たな日程については、今後の状況の推移を見ながら関係者のあいだで調整します。

2020年1月18日土曜日

出そうで出ない

今さらで恐縮ですが、明けましておめでとうございます。新年のご挨拶がたいへん遅くなりました。年末年始は、雑誌や共著や単著の原稿もろもろを3万字ぐらい書いて、その他の仕事の資料を読んだらあっという間に終わってしまいました。それが終わったら今度は大学のエンドレスな業務が始まってしまい、ブログの更新が滞っておりました。

ブログを更新していなかったのはもう一つ理由があります。共著で関わっていたとある書籍が1月には刊行されそうな話を聞いていたので、それを記事にすればいいかと思っていたのですが、刊行が延期になったようです。この本です。
 
Olga Louchakova-Schwartz (Ed.) The Problem of Religious Experience: Case Studies in Phenomenology, with Reflections and Commentaries. Springer.
  
https://www.amazon.co.jp/Problem-Religious-Experience-Phenomenology-Contributions/dp/3030215741/ref=pd_rhf_gw_p_img_7?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=RMN3Q2Q6K6FYHVRN7CEW

英文のブログではずいぶん前に「もうすぐ出ます」的な紹介をしました。そちらの記事が昨年の8月29日付で、当初予定では昨年11月に刊行される予定だったのです。田中は第2章を寄稿しました。自然発生的な宗教的経験において身体性が果たしている役割について書いています。

Shogo Tanaka "Reconnecting the Self to the Divine: The Body’s Role in Religious Experience"

上のリンクでアマゾンのページを見てもらうとわかりますが、現状では3月刊行に延期されています。ここまで何度か情報が更新されるたびに刊行が1ヶ月ずつずれていく感じできていたので、11月→12月→1月で打ち止めになって念頭には出版されているだろうと見込んでおり、それを新年の記事にしようと思っていたのですが、あてが外れました。

何が起こっているのやら。編者のOlgaさんからは延期の旨の簡単なメールしか来ていないので、よくわかりません。私が初稿を送ってからもう3年になります。いっそのこと、このまま出版されずに終わって「幻の名著」になってくれればそのほうがいいかもしれません(笑

それで、申し遅れましたが、今年もよろしくお願いします。本ブログも4年目になりました。記事の本数は相変わらず少ないですが、意外に続いているので、自分でも驚いている次第です。今年は、大学での事務作業の合間に更新できる技を身につけたいと思っています。今年はイベントの多い一年になるので、発信量は増えるかと思います。
 

 
 
2020/01/31:追記
今日編者のOlgaさんからメールがあって、無事に刊行されたそうです。アマゾンのページをチェックしたら1/29発売に表記が変更されていました。