2019年11月18日月曜日

リクール『他者のような自己自身』を読む

大学院のゼミでポール・リクール『他者のような自己自身』を読むことにしました。

2年前に出版した単著では主にミニマル・セルフの問題を取り上げていたのですが、出版の前後からナラティヴ・セルフのことを考えるようになりました。このブログの過去記事を見ても、2017年の1月に「ナラティヴ・セルフと実存」というメモを書いていますね。

ギャラガーが2000年の論文で自己を論じた際、思い切ってミニマルとナラティヴの二種類に区別していますが、私としてはこの二つがどのように連続しているのかが気になっています。単純に理論的な問題としては、ミニマルは最小の時間幅で成立する自己で、現在の身体行為があればそれで十分です。身体行為にともなう主体感と所有感があれば自己が成立する、とされています。

他方、ナラティヴ・セルフは、時間的な広がりがないと成立しません。それは、自分について語られる各種の物語から構成されています(他者が私について語る物語も含みます)。ただ、このような説明をすると、どうしてもナラティヴ(物語)だけが焦点化され、身体性の問題が背景に退いてしまいます。

ナラティヴは他者との社会的関係のなかで言語的に語られることで成立します。しかしそれだけが解明すべき論点になると、いわゆる社会構築主義の枠組みだけで議論が終わってしまい、「語られる物語に応じて自己も構成される」という一種の相対主義に陥ります。こういう陥穽を避けるには、身体性から連続するものとしてナラティヴ・セルフを捉えなおす必要があります。

このあたりのことは、7月に開いたエンボディードアプローチ研究会でも議論しました。2018年11月の質的心理学会でも議論しましたし、2017年8月の国際理論心理学会でも議論しました。…が、まだ解明しきれないものがたくさん残っています。

リクールはナラティヴ・アイデンティティについて深く論じていますが、身体行為として成立する自己の次元を踏まえているので、ミニマルとナラティヴの連続性を理解しているように見えます。…そういう理由で、改めて時間をかけてきちんと読み込むことにしました。

ちなみに、ゼミは毎週木曜の夕方に開講しています。一緒に読んでみたい方は遊びに来てもいいですよ。ナラティヴに関連する研究をしているけど、どこか腑に落ちないものを感じている人にとってはうってつけの内容だと思います。