2017年6月29日木曜日

何とか終えた…

昨日までの暑さのせいで準備が間に合わないかと思いましたが、なんとかかんとか午後4時過ぎに準備を終え、午後6時からハイデルベルクのコロキアムで話をしてきました。


テーマは、離人症における自己と身体。ハイデルベルクに来て進めてきた研究プロジェクトのまとめになる話をしてきました。離人症を経験する個人は、しばしば自己の感覚が身体から切り離され、あたかも身体の外側にあって身体で起きていることを観察している、ということを訴えます。これは、哲学史上の議論にひきつけて考えると、デカルト的な二元論を擁護する症状に見えるわけです。デカルトは身体から切り離された自己を徹底して擁護する議論をしていますから。

そして、デカルト的な二元論に反対するところから始まっている私の「身体化された自己」の議論にとっては、離人症における自己感覚は、デカルト的自己を擁護するのか、身体化された自己を擁護するのか、議論を決定づける試金石のような症状なのです。

この問題に関して私が最終的に注目していることのひとつは、エージェンシーの問題です。離人症を経験する個人は、しばしば自分の身体行為があたかもロボットのように自動化されているといいます。しかし、彼らの身体は麻痺しているわけではないのです。生活に必要な行為はすべてなすことができます。だとすると、エージェンシーの感覚は存在しないわけではなくて、少なくとも身体行為を開始する時点でははたらいているはずです。ロボットのように感じてしまうのは、エージェンシーではなくて、むしろ身体のオーナーシップが損傷しているからでしょう。彼らは、自分の意図したとおりに行為することができるのですが、固有感覚を通じて「私の身体が動いている」という感じを経験できないため、行為が自動的に生じているように感じてしまうのでしょう。

そして、そうだとすると、少なくとも行為開始時点でのエージェンシーの感覚だけは身体に由来するはずで、その一点においては、離人症に苦しむ個人も、やはり身体化されていると言えるのです。これはおそらく治療とも接点を持つでしょう。身体行為(もっというと身体を動かすエクササイズ)を通じて、少しずつ身体のオーナーシップを回復することができれば、症状も多少は緩和されるのではないかと思います。私は臨床家ではないので治療に関して踏み込んだことは言えませんが、具体的な運動を手掛かりに身体性を回復することができるなら、治療について希望が持てるのではないでしょうか。

ともあれ、無事に話し終えることができて良かったです。しかも、今日の講演は「カール・ヤスパース図書館」というレジェンドな場所で行うことができたのでした。光栄な一日でした。


 

2017年6月28日水曜日

暑い…仕事が終わらない…

6月の中旬くらいからドイツはものすごく暑い。ドイツだけではなくて、今年のヨーロッパは広い範囲が熱波に覆われているらしい。テレビのニュースでは山火事の映像をたびたび見かける。
 
これだけ暑いと昼間はほとんど仕事にならない。もともとヨーロッパは室内でクーラーを使わないし、今でもエアコンがきいているのは商業地だけで、普通のオフィスには扇風機さえ置いてない。私の研究室にもエアコンはない。仮住まいのアパートにもエアコンがない。
 
昼は暑すぎるので、もっぱら気温の下がる夜(…といっても日が暮れて涼しくなる午後9時ごろ)に研究を始めるのだけど、これはこれで具合が悪い。暑いから窓を開けっぱなしにしていると、室内の灯りを目指して小さな蚊が大量に入ってくる。ドイツの建物には網戸がない。
 
刺されないので実害はないのだが、デスクスペースを照らすライトの周囲を、おそらくは30匹をくだらないであろう数の小さな蚊がくるくると飛んでいる中で、本を開いてパソコンの画面に向かう。気が散ることこの上ない。
 
こういうのを4~5日経験したらうんざりしたので、たまらず扇風機を買った。小さくて、首の回転がいかにも洗練されていない、見るからに安物の扇風機。なのに50ユーロ。蚊には困らなくなったが、こんどはブンブンと音がやかましい。それに、閉めきった状態で扇風機をまわしても、生ぬるい空気が室内を循環するだけでそれほど涼しくならない。まったく… 
 
明日(というかもう日付が変わって28日なので今日なのだが)、こちらのコロキアムで講演を頼まれている。すでに午前1時。当然のようにまだ準備が終わらない。このままいくと間に合いそうにない。困った。
 

2017年6月21日水曜日

ソフィー・ペダーセン氏講演会

少し先ですが、下記の日程で、ソフィ―・ペダーセン氏の講演会が開催されます。

2017年
8月3日(木)
8月7日(月)
8月18日(金)
いずれも16時~18時、立教大学池袋キャンパス12号館2階ミーティングルームにて。


ペダーセン氏は、デンマークのコペンハーゲン大学心理学部で講師を務められているそうです。事前連絡は不要で、どなたでも参加できるそうですので、関心のある方はふるってご参加ください。問合せは立教大学の河野哲也先生まで(画像を拡大するとメールアドレスを確認できます)。
 
内容ですが、ポスターで予告されている概要はこんな感じです。
  • 3日:Disconnected Activities (working with mental illness from a perspective of activity theory and eco)
  • 7日:Historicizing Affordance (a rendez-vous between ecological psychology and cultural-historical theory)
  • 18日:The Human Eco-niche (exploration and theoretical considerations)
いずれも、生態心理学ベースで、人間と環境の相互作用という観点から心を考える企画になっているのが伺えます。
 
田中は参加したいのですが、まだ帰国前のため無理です…残念。とくに7日の内容は、生態心理学のように身体からボトムアップで心を考えるアプローチと、文化・社会的な観点からトップダウンで心を考えるアプローチの接点を話題にするようですので、個人的にもいろいろ質問してみたいところです。


 

2017年6月14日水曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』6-9章)

研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
  
  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第6-7章)新曜社

  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第8-9章)新曜社
  •   
    今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』、後半6~9章の要約です。
     
    5月の臨床心理学研究会(能智正博先生主催)では前半1~5章までが取り上げられましたが、今回は残りの後半部分の検討でした。レジュメ6~7章は松尾純子さんが、8~9章は佐藤文昭さんが担当されています。

    渡辺先生、植田先生、田中の訳者3人は前回に続いて参加しました。

    今回は、個人的に印象深い質問が二つありました。

    ひとつは、ラングドリッジさんのけっこう厳しい(しかしやや的外れな)フッサール批判を受けて、ラングドリッジさんの立場はいまだ「現象学」と呼びうるものにとどまっているのか、という質問(これは当日参加されていた山竹伸二先生からのものでした)。

    ラングドリッジさんの立場は、フッサールへの誤解を多少含んでいますが(このへんは田中が訳者あとがきで解説しています)、しかし現象学への独創的な貢献を含んでいます。とくに彼は、さまざまな社会理論を持ち込んで、人々の語る「ナラティヴを揺り動かす」という作業を加えるのですが、これはフッサール現象学で言う「想像的変更」や「形相的還元」をナラティヴ研究の文脈に大胆にもちこむ試みと言っていいと思います。

    もともと現象学では、事象の本質を見出すために、想像力を用いて知覚された事象を揺り動かし、それでも変化しないものをつかみ出す作業(これを「想像的変更」とか「形相的還元」と呼びます)があるのですが、ラングドリッジさんは心理学の、とくにナラティヴ研究の文脈でそれを実践しようとしているわけです。人々の語るナラティヴはしばしば、社会に流通する規範的なナラティヴ(ドミナント・ストーリー)によって支配されている面があるので、それに揺さぶりをかけることで、「他のやり方でも語りうるもの、語りうる自分」を見出そうと試みているのです。

    もうひとつの質問は、この点に関係して、8~9章のレジュメを担当された佐藤さんから聞かれたものでした。人々のナラティヴを揺さぶることが研究方法の重要なポイントになるのだとすると、実際にナラティヴを聞き取るインタビューの場面で、ラングドリッジさんの実践する「批判的ナラティヴ分析」の方法では質問を工夫するのだろうか。とくに、相手のナラティヴをゆさぶるような質問をどの程度踏み込んでするのか、という質問でした。
     
    こちらは、訳書のなかでは十分に触れられていません。トランスクリプトを読み込む場面で「ナラティヴをゆり動かす」ことは書かれてあるのですが、インタビューのやり方ではそのことには触れられていません。

    考えたのですが、インタビュー中、相手に質問するタイミングでそれに近いことをやろうとすると、相手の語りたくないことや、相手が無自覚なことに気づかせるような面が出てくるので、場合によっては倫理面で好ましくない影響が出かねません。もちろん、相手の語りの潜在的な可能性を解放する、という良い影響をもたらすかもしれないのですが、ここは両義的です。ラングドリッジさんが次に来日するときに、本人に直接確認してみたいと思っています。
     
    ちなみに、8月21~25日に立教大学で開催される国際理論心理学会(ISTP 2017)に合わせて彼の来日が予定されています。基調講演も依頼していますから、理論心理学、質的研究、ナラティヴ・アプローチなどに関心のある方は、ぜひ足を運んでください。
     

     

    2017年6月12日月曜日

    連絡は 忘れたころに やって来る

    ずいぶん前にこんな記事を書きました。日付を見るとほぼ5か月前ですね。

    「英文5000ワード」
    http://embodiedapproachj.blogspot.de/2017/01/5000.html

    原稿を送ってから3か月くらい「自分の原稿どうなってるんだろう…」と心の片隅でときどき思い出していましたが、その後はこの仕事のこと自体を忘れていました。そうしたら編者の先生から突然連絡が。

    あらら、当初予定していたBrillからの出版は契約が難航してダメになったんだとか。代わりにRoutledgeと話を進めるそうです。出版が先延ばしになるのは残念ですが、添付で送られてきた企画書を見たら、個人的にはRoutledgeの企画のほうが好感を持てました。というのも、理論心理学もののシリーズの一冊として出版できる見通しらしいのです。

    さっそくネットで確認してみました。たしかにこんなシリーズがありますね。
    Advances in Theoretical and Philosophical Psychology

    え~、でも大丈夫なのかなぁ、シリーズだけど1冊しか出てないよ…。 

    共著者としてはとにかく出版まで無事にたどりついてくれることを祈るばかりです。せっかく書いた原稿が没になることほどつらいこともないので。


     

    2017年6月7日水曜日

    地味にうれしい仕事…

    …をもらった。

    イギリスに本社がある某出版社の編集者から突然連絡があって、これから出版される予定の原稿のレビューを頼まれた。著者名や書籍のタイトルはもちろんここには書けない。著者のことは個人的に知っているし、論文も読んだことはあるが、著作を一冊通して読んだことはない。

    ちなみに、依頼されたレビューはいわゆる日本の「書評」ではない。論文の「査読」に近いタイプのレビューである。日本では学術書を出版するのに、事前に原稿を専門家に送って評価を聞く習慣がないが、洋書にはある。出版前に、専門分野が近い複数の専門家から意見をもらって、著者がリライトの参考にするのである。

    で、メールをもらって驚いたのだが、期間がかなり短い。3~4週間で読んでレビューを書いて欲しいとのことだった。初めてのことだったので嬉しくてさっそく承諾のメールを書いたのだが、日本で普通に勤めているタイミングでこの話をもらっていたら、まず断っていただろう。

    だいたい、日本の大学に勤めていると忙しすぎて洋書一冊を短期間で読み通すだけのまとまった研究時間が取れない。セメスター中は週4日必ず本務校で授業があり、プラス1日は非常勤で他の大学で授業がある(人によっては、だが)。その5日は講義の準備と学務で終わるので、残り2日しか研究に割けない。
     
    1日で英語の論文を1本きちんと読めるとしても、2日で2本。単著で10章ぐらいあるものだと、1日1章読んでも合計10日はかかる計算である。つまり、単純に見積もってもセメスター中に週末を5回つぶさないと洋書1冊をきちんと読む時間が取れないのである。休み期間に集中的に1冊読んでレビューを書いても、きっと1週間はかかるだろう。とてもじゃないが、日本にいるタイミングでその時間があるなら、他人の本のレビューじゃなくて自分の論文や著作を書く時間に費やすに決まっている。

    しかし、である。国外の研究者は3~4週間で自分に近い分野の研究者が書いた原稿を読んでレビューを書くことができるような環境にいるのだろうか(セメスター中であれ休み期間中であれ)。もし彼らがそういう環境にいるなら、日本の大学に所属する研究者はどう足掻いても研究の世界では勝てっこない。


     

    2017年6月3日土曜日

    論文読み読み

    昨日から大量の論文を読んでいます。自分の研究に直接関係ないものも多いのですが、某ジャーナルで特集号を組むことになっていて、その編集を引き受けているためです。
     
    で、いろんな人の書いた文章を読んでいると中には「ん?」と思うものも出てきます。引用符のなかに著者自身の書いた文章を何度も引用している論文を見つけたのです。
     
    " ............ " (Name, 20XX, p. ##)
     
    読んだ時の違和感がうまく言葉にできなかったのですが、あえていうと「珍妙」な感じと言えばいいんでしょうか。説明するとこういうことになるんだと思います。

    論文で引用符をつけたり、段落として引用する場合、基本的には他者の文章を引用します。そもそも引用は、(A)他者の書いた文章について出典を明記して剽窃を避ける、という意味を持つ行為なので、それが他者の文章になるのは当然ですよね。これに加えて、批判するのであれ、論述にとっての傍証にするのであれ、引用することで、(B)過去の研究者のオリジナルな知見に一定の敬意を払う、という慣例的な意味もあると思います。
     
    ここで、他者の文章を自己の文章に置き換えて、自分の書いた文章をそのままカギ括弧をつけて引用すると、(A')自己剽窃していないことを明示する、というポジティヴ(?)な機能を持つ一方で、(B')自分の過去の研究に対して自分で敬意を払っている、という意味にも受け取れます。私が「珍妙」な印象を受けたのはこの二つが入り混じった印象を受けたからのように思います。もうちょっと言うと、「正確さを期した自画自賛」とでも言えばいいんでしょうか。
     
    もちろん、自分の書いた文章を自分で引用する例というのも、見かけることはあります。たとえば、ある分野で他の研究者が多く引用している著名な論文で、それが論争になっているような場合なら、自己引用をしてもういちど自分の主張を正確に伝えるという意味はあります。あるいは、自分の過去の主張を訂正するさい、 何を訂正するのか正確にするためにその箇所を引用するような場合。あとは、自分の代表的な業績をピンポイントで紹介する場合でしょうか(でもこれができるのは自分の業績に相当自信がある場合でしょう)。
     
    今回はどれにも当てはまらないので、なんとも珍妙な読後感でした。直接お会いする機会があればどういうつもりで書いたのか著者に確かめてみようと思っています。その前にエディターとして対応せねばなりませんが。