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2022年9月7日水曜日

学会イベント:心理学会シンポジウム① (9/8-10/11)

引き続きイベント案内です。こちらはオンデマンドで公開期間が長いので1ヶ月以上にわたっていつでもご参加いただけます。

日本心理学会第86回大会 (9/8-11, 延長公開9/12-10/11)

公募シンポジウム「SS-009 ナラティブ・セルフをどう研究するか?」

 企画:田中彰吾

 話題提供1:田中彰吾(東海大学)

 話題提供2:嶋田総太郎(明治大学)

 話題提供3:村田憲郎(東海大学)

 指定討論:宮崎美智子(大妻女子大学)


こちらはすでにメンバーのみのオンラインでシンポジウムを行い、録画した動画を大会サイトにアップしてあります。過去20年のあいだに蓄積されてきた身体性に基づくミニマル・セルフ研究の知見をもとに、どのようにそれを「ナラティブ・セルフ」研究へと拡張すればいいかということを議論しています。話題提供1〜3、指定討論までをご覧いただくと、すべての話題が有機的に噛み合っていることがわかっていただける内容になっていると思います。

ナラティブ・セルフをめぐって実験研究を模索している方にはぜひご覧いただきたい内容です。大会参加して、上記リンクのサイトにアクセスするとコメントを書き込めますので、ぜひ議論にご参加ください。


2022年6月22日水曜日

信原幸弘『情動の哲学入門』

 この4月以降、ブログを更新する時間がぜんぜんありません。…が、とにかく今日は1件記事をアップします。記事といってもとくに中身はなく、読書会のレジュメをアップしました、という報告です。

 信原幸弘(2017)『情動の哲学入門-価値・道徳・生きる意味』勁草書房,第一部

昨年度末にリクール『他者のような自己自身』を読み終えて、いまはこの本を同僚の村田憲郎氏と一緒に読書会で読んでいます。情動を「感じる」という身体的感受の経験のレベルで捉え直しつつ、それを道徳や物語と絡めて論じていて、いま私自身が取り組んでいるナラティブ・セルフの問題に直結する内容を扱ってくれています。

やっぱり、ミニマル・セルフとナラティブ・セルフを結ぶには、とくに身体性の観点を残したままそうするには、情動の問題を避けて通れないようです。このあたりはいずれ理論的にきっちり整理して論じます。

では、また。

2021年1月24日日曜日

『他者のような自己自身』第6研究

リクール読書会も第6研究まで終わりました。長大な著作の半分は読み終えたことになります。村田憲郎氏による充実したレジュメをいただいたのでシェアしておきます。

リクール『他者のような自己自身』第6研究

ナラティヴ・セルフについて考えるうえでは、第5研究とこの第6研究が中核的な箇所になりそうです。重要な箇所を引用してみます。

「人生の物語的統一という概念については、やはりそこに作話の働きと生きた経験との不安定な混合を見るべきである。現実の生のまさににげやすい性格のゆえに、われわれはその生を事後に回顧しながら編成するために、フィクションの助けを必要とするのであり…」(209ページ)

なにげなく経験されている日々の出来事はそれ自体としては不安定だとリクールは見るわけですね。(瞬間ごとに生成する「生きられた私」を肯定する田中としては必ずしもそう思いませんが、それはともかく)私が経験するさまざまな出来事に安定した意味を見出すには、フィクションの助けを借りてそこに「筋立て」を見出していく必要がある。それができると人生が安定した物語の流れのうえに位置づけられ、「私はどこから来て、どこへ行くのか」という人生の展望を持つことができる、というわけです。

コロナ禍で歴史の転換点にあるように感じられる現在も、さまざまな「筋立て」を借りて人類が自分たちの物語的=歴史的な展望を描こうとしているように見えます。私たちは、どこへ行こうとしているのでしょうか。ソーシャルディスタンスもテレワークも遠隔授業も、人と人との「距離」をめぐる物語になっているように思います。生活のさまざまな面で、この距離が人と人との「分断」を肯定する物語として機能し始めているようにも見えるので、近頃かなり危惧を感じるようになりました。


2020年4月4日土曜日

新たな助成

これまで、当サイトおよびエンボディードアプローチ研究会は以下の公的資金の助成を受けて運営されてきました。

・2015~2019年度,科研費・基盤研究(B)「Embodied Human Scienceの構想と展開」

2019年度で助成期間が終了しましたが、このたび、新たに以下の助成を受けることが内定しました。ここに記して感謝申し上げます。

・2020年度〜2023年度(予定),科研費・基盤研究(B)「身体化された自己:ミニマルからナラティヴへ」

前年度までは「Embodied Human Science(身体性人間科学)」を構想してきました。中心に据えてきたのは、いわゆるミニマル・セルフの問題です。不必要な要素をすべて取り払ってもなお残る自己とは何か。これを身体性の観点から明らかにしました。また、その延長で、身体行為にもとづいて自己と他者がどのように相互理解を発展させるのか、記述することを試みました。

今年度からは、ミニマル・セルフからナラティヴ・セルフ(物語的自己)に少しずつ研究の焦点を移していく予定です。身体行為にもとづく自己は、身体レベルで経験した出来事をどのようにものがたり、さらにその物語にもとづく自己アイデンティティを構築していくのか。こうした問題意識にもとづいて今後の研究を展開していきます。

今後も引き続き、当サイトおよびエンボディードアプローチ研究会をよろしくお願い致します。 
 
た
 

2019年11月18日月曜日

リクール『他者のような自己自身』を読む

大学院のゼミでポール・リクール『他者のような自己自身』を読むことにしました。

2年前に出版した単著では主にミニマル・セルフの問題を取り上げていたのですが、出版の前後からナラティヴ・セルフのことを考えるようになりました。このブログの過去記事を見ても、2017年の1月に「ナラティヴ・セルフと実存」というメモを書いていますね。

ギャラガーが2000年の論文で自己を論じた際、思い切ってミニマルとナラティヴの二種類に区別していますが、私としてはこの二つがどのように連続しているのかが気になっています。単純に理論的な問題としては、ミニマルは最小の時間幅で成立する自己で、現在の身体行為があればそれで十分です。身体行為にともなう主体感と所有感があれば自己が成立する、とされています。

他方、ナラティヴ・セルフは、時間的な広がりがないと成立しません。それは、自分について語られる各種の物語から構成されています(他者が私について語る物語も含みます)。ただ、このような説明をすると、どうしてもナラティヴ(物語)だけが焦点化され、身体性の問題が背景に退いてしまいます。

ナラティヴは他者との社会的関係のなかで言語的に語られることで成立します。しかしそれだけが解明すべき論点になると、いわゆる社会構築主義の枠組みだけで議論が終わってしまい、「語られる物語に応じて自己も構成される」という一種の相対主義に陥ります。こういう陥穽を避けるには、身体性から連続するものとしてナラティヴ・セルフを捉えなおす必要があります。

このあたりのことは、7月に開いたエンボディードアプローチ研究会でも議論しました。2018年11月の質的心理学会でも議論しましたし、2017年8月の国際理論心理学会でも議論しました。…が、まだ解明しきれないものがたくさん残っています。

リクールはナラティヴ・アイデンティティについて深く論じていますが、身体行為として成立する自己の次元を踏まえているので、ミニマルとナラティヴの連続性を理解しているように見えます。…そういう理由で、改めて時間をかけてきちんと読み込むことにしました。

ちなみに、ゼミは毎週木曜の夕方に開講しています。一緒に読んでみたい方は遊びに来てもいいですよ。ナラティヴに関連する研究をしているけど、どこか腑に落ちないものを感じている人にとってはうってつけの内容だと思います。
 
た
 

2018年11月15日木曜日

QOLを考える

少し前になりますが、11月1日号の東海大学新聞に記事を掲載していただきました。掲載していただいた、といいますかQOLについて夏頃に原稿依頼があったので、これも貴重な機会かなと思って寄稿しました。お題はQOLです。
 

「知の架け橋」というシリーズ記事で、今年は大学新聞に2ヶ月に1回のペースで「「QOL」を考える」というコラムが設定されています。ウェブ版の大学新聞でも同じ記事が収録されると思いますが、ちょうど来週の質的心理学会で議論するナラティヴの問題に絡めて書いたので、ここにも掲載しておきます。
 
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QOL。もちろんQuality of Lifeの略である。「生活の質」と訳される現代の重要なキーワードのひとつで、本学もまた「人々のQOL向上に資する大学」を目指している。もともと、英語の「Life」は生活、生命、人生など幅のある意味を持つ言葉なので、QOLという概念もそれが用いられる文脈に応じて多様な含意を持つ。ここでは、研究者としての筆者の立ち位置から見えるQOLのひとつの側面について、思うところを手短に述べてみる。

もともとQOLが論じられるようになった社会的背景のひとつに、医療現場の問題がある。20世紀後半は生命科学と医療技術が急速に発展し、先進国では人々の平均寿命が大幅に伸びただけでなく、がんのような難治性の疾患においても患者の生存率は着実に向上するようになった。単純に言うと、人々が生きていられる時間はそれだけ長くなったのである。このこと自体は喜ばしいが、問題は、生きている時間が長くなっても、その中身が豊かになっているとは必ずしも言えない場合もある、ということにある。だから、生きている時間の「質(quality)」が問われることになったのだ。

全身にチューブやセンサーが取り付けられ、意識不明の状態で延命が続いている重症患者を、その見た目から「スパゲティ症候群」と呼ぶことがある。このような状態でも家族は生きていて欲しいと願うかもしれないが、患者本人には生きていることの充実感を得るのは難しいだろう。生きている時間の量と質がこれほどくっきり分離して現れる状態は他にない。たんに生存が保たれている状態と、その人の生命や生活や人生が充実している状態を区別する何か、それがここで問われている「質」に他ならない。

じつは、QOLをめぐる議論が医療現場から一般社会へと広まりつつあった1980年代、心理学の世界では違った文脈で「質」が問われるようになっていた。数量化して測定できるデータをもとに人間の行動を解明することを心理学は伝統的に重視してきた(そして現在もそうである)が、数量化できない人間の主観的経験を解明しようとする「質的研究」と呼ばれる方法が勢いを持つようになったのである。質的研究にもいろいろな立場があるが、本人がみずからの経験について語る言葉をデータとして重視する傾向は共通している。とくに、重要な出来事や人生についての本人による語りは「ナラティヴ(narrative)」と呼ばれる。

たんに生きている状態と、本人がそこに何らかの積極的な意義を感じつつ生きている状態の違いを考えるうえで、ナラティヴは重要な観点を提供してくれる。フランスの哲学者リクール(1913-2005)も述べているが、人はみずからの人生を物語ることで、自己アイデンティティを見出す生き物だからである。あなたは、自分の人生について友人に語って聞かせるとしたら、どんな物語にして語るだろう。今まで生きてきた時間をどのように振り返り、今から生きる時間をどのように展望するだろう。きっとその物語は、あなた自身にとってQOLを考える大事な入口なのである。
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QOLはいろんな角度から論じることができそうですが、こうしてみるとナラティヴもQOLを考えるうえで意外に重要な切り口になりうることがわかっていただけるのではないでしょうか。
 
た
 

2018年11月12日月曜日

11/25 質的心理学会シンポジウム

ちょうど2週間後ですが、こういうシンポジウムに登壇します。

日本質的心理学会・第15回大会
11月24〜25日@名桜大学

シンポジウム「ナラティヴを通した他者理解―聞き手の視点と感性に注目しながら」
- 企画・司会:植田嘉好子(川崎医療福祉大学)
- 話題提供者:田中彰吾(東海大学),植田嘉好子(川崎医療福祉大学),能智正博(東京大学)
- 指定討論者:西研(東京医科大学)

 企画趣旨
 ナラティヴは生の出来事についての語りや物語を指し、心理、福祉、医療などの質的研究における重要な手がかりとされてきた。ブルーナーは人間の思考様式を「論理-科学的様式」と「物語的様式」とに分類し、人々の生活の社会文化的次元や個人的豊かさを理解するうえで「物語的様式」の重要性を強調した。また医療では科学的根拠を重視するエヴィデンス・ベイスト・メディスンに対して、患者の語りや対話に基づくナラティヴ・ベイスト・メディスンが提唱されている。
 ただ、こうしたナラティヴは真空のなかに生まれるものではなく、インタビュー等の対話のなかで生じるものであり、あるいはそのようななかで聞き手によって聞き取られるものである。患者やクライエントの語りを、あるいは語られないナラティヴを、他者である私たち研究者はどのように理解し、妥当な研究データとして活用することができるのか。
私たちはこれまでにも学会の場で「ナラティヴ・セルフ」について議論してきたが、前回の議論では、次のようなテーマが浮かび上がっている。
  ①ナラティヴにおける情動や欲望の次元、
  ②語り手と聞き手の関係や相互作用、および聞き手の感性の問題、
  ③ナラティヴ分析におけるパースペクティヴと妥当性の課題
 ナラティヴを用いる実践や研究では、クライエントや研究協力者等の「他者」に対する理解が前提であり重要な目的でもある。しかしそれがどのように聞き手において実現され、第三者へと普遍化されるのか。本シンポジウムでは、上記のテーマを意識しながら田中、植田、能智が話題提供を行い、それを踏まえて現象学者の西が指定討論を行って、人間的な経験の本質に迫るルートとしてのナラティヴに関する議論を深めていきたいと考えている。
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このメンバーでシンポジウムを組むのは2回目で、昨年8月の国際理論心理学会でのシンポジウム以来になります。もっと遡ると発端は2016年7月にエンボディードアプローチ研究会で開催した「人間科学と現象学―他者の経験にアプローチする」にあります。現象学を人間科学に応用するさいには、そもそも研究者がインタビュー対象者をどのように理解できるのかが問題になります。そのとき、インタビューの聴き手と語り手の関係性に依存する次元を超えて相手を理解するには、語り手の表面的なナラティヴを超えて、ナラティヴによって構成されているアイデンティティの次元にまで迫る必要があるんじゃないか、という議論になったのでした。今回の企画も、こうした議論の延長にあります。

今回は会場が沖縄県名護市の名桜大学になります。沖縄に行くのは10年以上ぶりなので、ランドスケープの変化を目にするのも楽しみにしています。

た
 

2017年7月14日金曜日

国際理論心理学会での企画

来月8月下旬に開催される国際理論心理学会(1STP 2017)で、下記2件のシンポジウムを開催します。大会は1日のみの参加も可能ですから、ぜひ足をお運びください。会場は、立教大学池袋キャンパスです。詳しい大会案内ページは以下です。

[The 17th Biennial Conference of The International Society for Theoretical Psychology]

<1>
8/24 11:00-12:30  Room A1202
[Symposium 26]
  Quest for new methods in phenomenological psychology
[Organizer]
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Presenters]
  Darren Langdridge (The Open University)
  Tsuneo Watanabe (Toho University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
   Masayoshi Morioka (Ritsumeikan University)

この企画は、現象学的心理学の新しい方法を考えるシンポジウムです。邦訳が刊行されている『現象学的心理学への招待』の著者、ラングドリッジさんをスピーカーに招いて議論します。インタビュー、当事者の記述、実験の持つ可能性を考察します。
 
<2> 
8/25 11:00-12:30  Room A1203
[Symposium 34]
  Focusing on the narrative self in human sciences
[Organizer]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
[Presenters]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
  Masahiro Nochi (The University of Tokyo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
  Ken Nishi (Tokyo Medical University)

こちらの企画は、2016年7月末に明治大学で開催した「現象学と人間科学」のワークショップの続編です。昨年議論したときに、ナラティヴ・アプローチの問題点が浮上してきたので、今回は「ナラティヴ・セルフ」を主題にして人間科学と質的研究の基礎を再考します。こちらは植田先生にオーガナイズをお願いしました。

ちなみに田中は上記2件以外にも、シンポジウム1件、ワークショップ1件、という感じで合計4回登壇します。果たして大会終了まで私の体は倒れないでもつんでしょうか(笑

た
 

2017年6月14日水曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』6-9章)

研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
  
  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第6-7章)新曜社.

  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第8-9章)新曜社.
  •   
    今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』、後半6~9章の要約です。
     
    5月の臨床心理学研究会(能智正博先生主催)では前半1~5章までが取り上げられましたが、今回は残りの後半部分の検討でした。レジュメ6~7章は松尾純子さんが、8~9章は佐藤文昭さんが担当されています。

    渡辺先生、植田先生、田中の訳者3人は前回に続いて参加しました。

    今回は、個人的に印象深い質問が二つありました。

    ひとつは、ラングドリッジさんのけっこう厳しい(しかしやや的外れな)フッサール批判を受けて、ラングドリッジさんの立場はいまだ「現象学」と呼びうるものにとどまっているのか、という質問(これは当日参加されていた山竹伸二先生からのものでした)。

    ラングドリッジさんの立場は、フッサールへの誤解を多少含んでいますが(このへんは田中が訳者あとがきで解説しています)、しかし現象学への独創的な貢献を含んでいます。とくに彼は、さまざまな社会理論を持ち込んで、人々の語る「ナラティヴを揺り動かす」という作業を加えるのですが、これはフッサール現象学で言う「想像的変更」や「形相的還元」をナラティヴ研究の文脈に大胆にもちこむ試みと言っていいと思います。

    もともと現象学では、事象の本質を見出すために、想像力を用いて知覚された事象を揺り動かし、それでも変化しないものをつかみ出す作業(これを「想像的変更」とか「形相的還元」と呼びます)があるのですが、ラングドリッジさんは心理学の、とくにナラティヴ研究の文脈でそれを実践しようとしているわけです。人々の語るナラティヴはしばしば、社会に流通する規範的なナラティヴ(ドミナント・ストーリー)によって支配されている面があるので、それに揺さぶりをかけることで、「他のやり方でも語りうるもの、語りうる自分」を見出そうと試みているのです。

    もうひとつの質問は、この点に関係して、8~9章のレジュメを担当された佐藤さんから聞かれたものでした。人々のナラティヴを揺さぶることが研究方法の重要なポイントになるのだとすると、実際にナラティヴを聞き取るインタビューの場面で、ラングドリッジさんの実践する「批判的ナラティヴ分析」の方法では質問を工夫するのだろうか。とくに、相手のナラティヴをゆさぶるような質問をどの程度踏み込んでするのか、という質問でした。
     
    こちらは、訳書のなかでは十分に触れられていません。トランスクリプトを読み込む場面で「ナラティヴをゆり動かす」ことは書かれてあるのですが、インタビューのやり方ではそのことには触れられていません。

    考えたのですが、インタビュー中、相手に質問するタイミングでそれに近いことをやろうとすると、相手の語りたくないことや、相手が無自覚なことに気づかせるような面が出てくるので、場合によっては倫理面で好ましくない影響が出かねません。もちろん、相手の語りの潜在的な可能性を解放する、という良い影響をもたらすかもしれないのですが、ここは両義的です。ラングドリッジさんが次に来日するときに、本人に直接確認してみたいと思っています。
     
    ちなみに、8月21~25日に立教大学で開催される国際理論心理学会(ISTP 2017)に合わせて彼の来日が予定されています。基調講演も依頼していますから、理論心理学、質的研究、ナラティヴ・アプローチなどに関心のある方は、ぜひ足を運んでください。
     
    た
     

    2017年1月20日金曜日

    アーカイブの資料追加(『現象学的な心』10章)

    研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。


    この本の10章、久々に読み返しました。現象学をベースに、心理学、神経科学、発達、精神病理との関連で自己に関する議論がコンパクトにまとまっています。ナラティヴ・セルフについて考える手がかりが欲しくて読み直しましたが、どちらかというとミニマル・セルフの問題のほうが中心ですね。

    ちなみに、いま・ここで進行中の経験にともなう「わたし」という感じ(自己感)は、もうすぐ出版される私の著作のテーマでもあります。経験にともなう自己(生きられた自己)は、経験をふりかえって反省するととたんにつかまえどころがない感じがしてきますが、進行中の経験においては「主体感 sense of agency」や「所有感 sense of ownership」を通じてちゃんと成立しています。これは、そうそう簡単に壊れることのない(たぶん有機体のものすごく基礎的な次元が壊れない限り壊れることがない)、とても強靭な自己です。

    た

    2017年1月18日水曜日

    ナラティヴ・セルフと実存

    以下、メモ。
    ナラティヴ・セルフをめぐって、身体性の問題とどう絡めて論じるべきか思案中。

    • ブルーナー(1986)が人間の思考の様式を「論理・科学的様式」と「物語(ナラティヴ)的様式」とに区別して以来、ナラティヴは人間科学の重要な論点であり続けている。
    • ナラティヴは、さまざまな出来事を有機的な物語として結びつける点で、記憶にもとづく自己同一性の感覚を説明するのに応用されてきた(「ナラティヴ・アイデンティティ」)。→McAdams, 1993など。
    • 自己がナラティヴを通じて構成されるものだという議論に関して、次の2点を区別して考えるべきだろう。
    • 1)ナラティヴは「語り」であり、「語り手-聞き手」関係をそこに内包している(自己内の語りだとしても同様)。だとすると、ナラティヴが形成する自己(ナラティヴ・セルフ)は必ず「関係的 relational」である。「私」は、聞き手との関係において構成される存在である。→ガーゲン「Relational Self」,ハーマンス「Dialogical Self」
    • 2)ただし、ナラティヴ・セルフが「関係的」であることは、それが聞き手との関係のみに依存して作られることを意味しない。人生には、誕生・病・死のように、「語り尽くせない出来事」が含まれる。また、それらをめぐって、人はみずからの「実存的感覚 existential feeling」を保持している。→ラトクリフ「existential feeling」
    • 実存的感覚は語り尽くせず、ナラティヴにそのすべてが反映されるわけでもない。にもかかわらず、人はそれについて語るよう差し向けられている。「ナラティヴ・セルフ」を個的実存まで掘り下げて概念を拡大する必要がある。