2017年2月24日金曜日

論文2件

昨日発表が終わったので、次の仕事までの合間に論文を2件。

1件は査読。…なので詳細はここに書けないけど、なんだか散漫。このブログを読んでいる人の論文ではないはず(英文の、理論系のジャーナルから回ってきたものなので)。許容範囲でグチを書かせてもらうと、扱っているトピックはすごく興味深いのに、切り口も論旨も明晰さを欠いていて、読んでいて腑に落ちない。推敲が不十分で、書き散らかしたような印象を受ける。大量に論文書きまくっているタイプの著者じゃないか、と文体から判別できるものだった。こういう業績稼ぎの査読に付き合わされるのはつらい。依頼を引き受けなきゃ良かった。…我慢してちゃんとコメント書いて送ったけど。

もう1件は査読じゃなくて文面の確認。ドイツに来る直前に大学院生のEさんからインタビューを受けたのだが、自分の発言が収録された箇所に関する確認依頼。論文は、駒場の科学技術インタープリター養成プログラムの研究の一部で、内容は心理学における量的研究と質的研究・理論的研究に関するもの。某研究会でお世話になっているAさんと私と、二人が量的研究と理論研究のコラボの事例としてインタビューに登場している。あぁー、インタビューを丁寧に文章に書き起こされてしまうと自分の語りってこんなに不明瞭なのかー、とちょっと赤面する。でも論文自体はとてもよく書けていて、研究方法が異なる者が相互に連携する必要性と困難を、具体的な点までけっこうよく分かって書いてるんだなと感心する。「実際に連携を行う中でも、専門性が不十分な研究者同士の連携からは有意義な議論が生まれない」…ってEさんが書いていて、そうそうこれは本当にその通りなのだよ代弁してくれてありがとうインタビュー受けて良かったよAさんとやってる研究会ももっと結果出したいよな…なんてことを思う。


昨日の残響

Kitchen Seminar、楽しかったです。ドイツで私が行く研究会はどちらかというと開始までみんなやや緊張気味で静かにしているところが多いのですが、昨日は最初からわいわいしていました。研究会そのものが懇親会的、といえばいいんでしょうか。

議論のクオリティも低くなかったです。学際系の研究会はオーガナイズする人の知識と経験がその場の議論のクオリティに直結してしまうので、ダメな研究会はアカデミックな雑談に流れたり、的外れなディベートに終始したりすることが多いのですが(そうならないように私も自分の研究会では気をつけています)、ここはそういう意味では良くオーガナイズされていました。誰かが発言した後で、それに関連する過去の研究についてヴァルシナーさんが言及する場面が何度かあって、彼の博識が議論のクオリティを支えているのが伝わってきました。

場の作り方もユニークで、会場はラウンドテーブルで10人も座れば満席なのですが(昨日もちょうど10人でした)、オンライン・システムでどこからでも参加できるようになっていました。昨日もブラジルとアメリカの研究者が参加していました。画面の向こう側から議論に割って入るのは実際には難しそうですが、聴講する分には問題なくできるみたいです。議論の交通整理は、夏に日本に来てワークショップをやってくれたタテオ先生とマルシコ先生が主にやっていました。

とはいえ、基本的なアプローチの違いについて当面埋まりそうにない溝もはっきりしました。私のように身体性認知に立ち位置がある研究者は「知覚と行為」という一階の経験から始めますが、文化心理学は、心的過程が記号によって媒介されていることを前提として話を始めます(とくにヴァルシナーさんの立場はそうです)。昨日は離人症を題材に心身関係を考える話題だったのですが、文化心理学的には症状の「意味」のほうにダイレクトに関心が向かってしまい、身体経験の感覚・知覚レベルでの変異から始めて症状の核心に迫りたい私からすると、議論すればするほどアプローチの違いが浮き彫りになる印象でした。

それで、後になって思い出したのが2013年の札幌での心理学会です。文化心理学と生態心理学をテーマにしたシンポジウムが心理学会であって、あのときは、ギブソンの著作に出てくるポストの知覚をめぐって、「ポスト」という記号的意味に媒介された知覚が重要なのか、光学的流動を通じてポストの投函口のアフォーダンスが知覚できることが重要なのか、突っ込んだ議論になっていた記憶があります。企画に関わっていた先生たちも豪華で、かなり刺激的な議論を聞けました。

このあたりのアプローチの違いは、昨日も議論していて思いましたが、心身問題にどのくらい重きを置いて心理学を見るか、という方法論的な違いと深く関係するので、簡単な答えはなさそうです。ですが、心理学方法論に関する大事な論点ではあるので、引き続き考えたいと思っています。



2017年2月17日金曜日

2/22 K-Seminar@Aalborg University

すでに来週に迫っていますが、デンマークのオールボー大学で話をしてきます。文化心理学研究センターの関係者がやっている「Kitchen Seminar」という研究会です。

Centre for Cultural Psychology / Kitchen Seminar

初めて参加する研究会なのでどういう趣旨の場なのかよく知らないのですが、もともとはヴァルシナーさんがアメリカのクラーク大学にいた頃に始めたらしいです。執筆中の論文のアイデアを持ち寄って自由に意見を出し合うのが慣例なんだとか。「キッチン」はそういう意味でのフランクな議論を象徴する場所なんでしょうか。日本語で言うと「井戸端会議」っぽいですね、なんとなく。しかし「井戸端会議」なんていう名称の研究会は端的に「ない」ですね。

私は書き上げたばっかりの離人症がらみの論文について話してきます。文化心理学の議論とは一見したところあまり関係がないので、問題意識を共有してもらうのに丁寧に時間を使うほうがよさそうです。



3月3-4日:シンポジウム「Civilization Dialogue」

来月3-4日、コペンハーゲン郊外にある東海大学ヨーロッパ学術センターで、以下のイベントがあります。

2nd Civilization Dialogue between Europe and Japan

リンクをたどるとプログラムの詳細が見られます。今回は、東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターの共催イベントにしていただきました(感謝です)。

プログラムは、3日が文化心理学系の議論が中心、4日が文明研究系の議論が中心です。4日は、平野葉一先生が文明研究所で推進している「超領域人文学」プロジェクトに関連する議論が中心です。

2015年11月に続いてこれが2度目なのですが、前回は初回なのに予想以上に議論がかみ合っていました。残念ながら関係者以外の一般の参加者の方々とほとんど話ができなかった(というか来賓の対応で手一杯だった)ので、どういう方がオーディエンスとして来ていたのか詳細はわからずじまいでした。しかし、的を得た質問は多く出ていたので、大学院生や研究者が多そうではありました。

今年はもうちょっと来場者の方々と交流してみたいと思っています。たぶん、日本語・日本文化に関心のある方が多いのだと思いますが、その関心をいい意味で打ち破りたいなと思っています。エキゾティシズムに乗っかるイベントってつまらないので。



2017年2月14日火曜日

青い読者に届きますように。

離人症関連の論文はあっさり第一稿を書き終わってしまいました。リライトまでしばらく原稿を寝かせておくことにして、次の仕事。単著の初校です。

出版社(今回は北大路書房さんから出ます)から縦書きに変換して送られてきたPDFファイルを読む。読みながら「あ〜自分の書いた文章だわー、これ」と再認識。横書きのものが縦書きになっても「自分っぽさ」はぜんぜん変わりませんね。むしろ縦書きではその印象が強まるようです。

何がか、というと… 全編を通じていろんなトピックに話が及ぶのですが、最後に必ず「いま・ここ・私」に問いが戻って来てしまうところが、なんとも「自分っぽい」のです。わたしの場合、研究を支える初発の動機が「実存」にあるところが昔から何も変わっていなくて、それが今回の著作でも随所に現れています。

もっとも、今回はそれを自覚して書いたものではあります。今回の著作のテーマは「自己アイデンティティ」ですからね。

ただし、アイデンティティ論といっても、従来の議論はすべてご破算にして書いてあります。エリクソンのような青年期の発達という観点もないですし、ジェンダーやエスニシティや階級のように、準拠集団との関係からアイデンティティを論じたものでもありません。近代的自己の話でもありません。そういうのはすべて脇にどかして、それでも残る「自己」に焦点を当てて書いてあります。

で、何が残るのかというと、「生きられたもの」としての自己です。学術的には「ミニマル・セルフ」です。自己を支える物語的な要素をすべて取り払ったとしてもまだ残る「自己」。それは、いまここで事実として生きられている自己に他なりません。

いつ、どこで、何をしているときであっても、ひとはそこに「私」が存在することを暗に感じています。どんな経験であれ、それは「私の経験」として生じてきますから。

これは「自分さがし」や「自己形成」という言葉で考えられている自己とは対極的です。その種の自己論は、自己を「探すべきもの」「作られるべきもの」として念頭に置いてしまいますが、ミニマル・セルフは最初からそこにあります。暗黙のうちに生きられているので、反省的な意識がそこに及びにくいだけのことです。

というわけで、今回の単著では、探したり作ったりする前にそもそも「生きられている自己」について、心の科学から関連する数多くのトピックを取り上げて考察しています。目次は固まっているので、以下、ご紹介。

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『生きられた<私>を求めて』

第1部:自己の身体性
 1章:身体と物体
 2章:自己の身体と他者の身体
 3章:鏡に映る身体
 問いと考察

第2部:意識と脳
 4章:意識・夢・現実
 5章:脳と機械を接続する
 6章:共感覚
 問いと考察

第3部:他者の心
 7章:問題としての他者
 8章:心の科学と他者問題
 9章:他者理解を身体化する
 問いと考察
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「自己」をめぐる議論って、ある面ではとても青くさい(青年期の発達課題として関心を持つ人がやっぱり多いテーマなので)のですが、それでもそういう議論って大事だよね、と思っている方々の元に届くよう願っています。いい意味で「青い」読者に届きますように。

ああ、でも…。こういう青さって、「厨二こじらせました」みたいなのと紙一重かもしれませんね(笑



2017年2月10日金曜日

3/5 シンポジウム「精神医学の哲学」

某MLでI先生(って別にイニシャルで書かなくてもいいのか、石原孝二先生です)から下記の情報が回ってきました。3月5日(日)、駒場でシンポジウムがあるとのこと。

シンポジウム「精神医学の哲学」2017年3月5日(日)9:30~17:30
東京大学駒場Iキャンパス18号館ホール

シリーズ『精神医学の哲学』の刊行記念イベントです。フックス先生の論文の訳者として私も企画に加えていただいたので、このイベント、日本にいれば参加したかったです。ちなみにフックス氏の論文は、シリーズ第1巻「精神医学の科学と哲学」に収められています(第4章「現象学と精神病理学」)。

いわゆる「現象学的精神病理学」の近年の成果をコンパクトにまとめた論文で、訳していてとても勉強になったのですが、やや気になったことがありました。

これは現象学的精神病理学の全体に当てはまる論点でもあるのでしょうけれど、患者の視点に沿って一人称的に症状や疾患を記述しているようでいて、どうしても記述が本質主義に流れそうな場面があります。

つまり、記述が行き届いているほど「統合失調症とは〜である」「自閉症とは〜である」という書き方で、症状の向こう側にあたかも「本質」があるかのように記述される部分があり、実際の症状の多様性がともすると見えない記述になってしまう欠点があるのですね(フックス氏本人はこの点の問題はよく自覚している方と思いますが)。

そもそも、精神疾患の症状は(同一の名称で診断される状態だとしても)きわめて多様で、本人にとってさえ言葉にするのは容易ではありません。このあたりの多様性を見ていくには、当事者と協力して語りの地平を拡大して記述を豊かにすることが必要でしょう。

また、それによって疾患の概念を考え直すこととか、日常的経験と精神疾患との連続性を見出していく、といった作業も大切だと思います。日常性とは断絶した「狂気」という本質があるかのような見方を取らないためにも、これは重要です。

現象学的には、精神病理学の知見は本来、「間主観性」の地平を日常性の側から外に向かって広げていくうえで大事なのであって、「狂気」という本質を向こう側に立てて日常性の側を維持することが大事なのではない、ということです(少なくとも私はそう思います)。

…あ、精神科医でもない人間が口を出しすぎましたね。このへんでやめておきます。ともあれ、『精神医学の哲学』は、「当事者」という切り口も含めて、とても重要なシリーズになっていると思います。ご一読のほどを。東京大学出版会から出ています。



2017年2月5日日曜日

編集作業の一日

や〜っと終わったよ〜

朝から編集作業。さっき日付が変わってしまったので、休憩時間をのぞいても結局12時間ぐらい作業してたことになるのか。あぁ、土曜日を丸一日事務作業に費やしてしまった。

何をしてたかというと、来月3-4日に東海大の文明研究所が主催する国際会議の予稿集の編集です。

1年前に初めて、コペンハーゲン郊外にある東海大のヨーロッパ学術センターで「日欧間の文明対話」と題する二日間のイベントを組んだのですが、学内外でけっこう反響があったので今年度もかの地で開催する運びになった次第。

それはいいのですが、予稿集を編集していて改めて気になったことが。

わたしは、所属先の大学の付属研究所である「文明研究所」で「所員」という任務を拝命して今年で3年目になるのですが、「文明」って自分にはいまだに難しいのですよね。なんというか、概念としてすっきり理解できないのです。

もちろん、文明に直結するイメージはあるのですよ。わたしの場合は「近代文明」というイメージが強くて、都市化、産業化、科学知と技術の進歩、人権や民主主義の思想、個人主義、政教が分離した近代国家、などなど。これらは、古代文明や地域文明よりも、自分の中ではずっと突出したイメージになっています。

ただ、こういうイメージの問題じゃなくて、そもそも「文明」ってどう定義できるの、というところですっきりした考えが持てないのです。

さしあたりの解答としていつも念頭に置いているのが、「文明」じゃなくて「Civilization」という英語。人間を「Civilize」するものが「Civilization」だとして、そもそも「Civil」って公共的な市民のことを言うんでしょうから、公共の場所で市民として生活を送れるような状態に人を変えていくさまざまな慣習、規範、制度、組織、権力などの集合をCivilizationと考えてみようと。

こういう見方を取ると、身体論的には多少すっきりします。要は、いまだ公共化されていない乳児(だけに限らず)の身体を、他者との関係のなかでCivilizeしていくものをCivilizationと見ればいい。すると、Civilizationとは、身体に内在して、公共的な身体として成立させているいろいろなコードや力として見えてきそうなのですよ。

衣服、性規範、テーブルマナー、しぐさ、などなど。肌をどう隠すかとか、誰とセックスするかとか、みんなで何を食べるかとか、そういうミクロな行為のなかに、人々がみずからの身体に内在化させた「文明」なるものを理解する手がかりが潜んでいそうですよね。身体論的には、「その行為」をすることで公共の一員になれる行為の集合=文明、とさしあたり言えるかもしれない。フーコーから学べるものがたくさんありそうですね。

予稿集を編集していて、そういう「さしあたりの解答」を改めて考えていました。

もちろん、原稿にはそれとは全然ちがったしかたで文明について「おっ」て思わせてくれる発表もいくつかあったので、当日が楽しみです。




2017年2月2日木曜日

真っ赤。

論文、書いてます。

ガチで書いてます。離人症の経験の意味について。
完全に「ギアが入った状態」と言えばいいんでしょうか。
今週は頭の中がほとんど「真っ赤」になった状態で書いてます。
「赤」…別に政治的な意味はありません。
「血まなこ」という「眼」のメタファーを「頭」に置き換えると「頭の中が真っ赤」という感じなのです。

しかし、こういうタイミングに限っていろいろ茶々が入るのですなぁ、不運なことに。
なぜだか、事務的な対応が必要な案件が次々やってきます。しかも日本から。
英語で論文書くのとは明らかに脳内の違う場所を使ってるのが体感できますな。
こういう事務作業、気分転換にうまく使えるようになるといいんですが。

論文とか著作を書くのが早い先生たちは、事務作業をうまく執筆の気分転換に使ってるんだろうなぁ。
K先生とか上手そうだもんなぁ、こういう作業の切り替え。
見習わねば。