2017年2月13日月曜日

青い読者に届きますように。

離人症関連の論文はあっさり第一稿を書き終わってしまいました。リライトまでしばらく原稿を寝かせておくことにして、次の仕事。単著の初校です。

出版社(今回は北大路書房さんから出ます)から縦書きに変換して送られてきたPDFファイルを読む。読みながら「あ〜自分の書いた文章だわー、これ」と再認識。横書きのものが縦書きになっても「自分っぽさ」はぜんぜん変わりませんね。むしろ縦書きではその印象が強まるようです。

何がか、というと… 全編を通じていろんなトピックに話が及ぶのですが、最後に必ず「いま・ここ・私」に問いが戻って来てしまうところが、なんとも「自分っぽい」のです。わたしの場合、研究を支える初発の動機が「実存」にあるところが昔から何も変わっていなくて、それが今回の著作でも随所に現れています。

もっとも、今回はそれを自覚して書いたものではあります。今回の著作のテーマは「自己アイデンティティ」ですからね。

ただし、アイデンティティ論といっても、従来の議論はすべてご破算にして書いてあります。エリクソンのような青年期の発達という観点もないですし、ジェンダーやエスニシティや階級のように、準拠集団との関係からアイデンティティを論じたものでもありません。近代的自己の話でもありません。そういうのはすべて脇にどかして、それでも残る「自己」に焦点を当てて書いてあります。

で、何が残るのかというと、「生きられたもの」としての自己です。学術的には「ミニマル・セルフ」です。自己を支える物語的な要素をすべて取り払ったとしてもまだ残る「自己」。それは、いまここで事実として生きられている自己に他なりません。

いつ、どこで、何をしているときであっても、ひとはそこに「私」が存在することを暗に感じています。どんな経験であれ、それは「私の経験」として生じてきますから。

これは「自分さがし」や「自己形成」という言葉で考えられている自己とは対極的です。その種の自己論は、自己を「探すべきもの」「作られるべきもの」として念頭に置いてしまいますが、ミニマル・セルフは最初からそこにあります。暗黙のうちに生きられているので、反省的な意識がそこに及びにくいだけのことです。

というわけで、今回の単著では、探したり作ったりする前にそもそも「生きられている自己」について、心の科学から関連する数多くのトピックを取り上げて考察しています。目次は固まっているので、以下、ご紹介。

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『生きられた<私>を求めて』

第1部:自己の身体性
 1章:身体と物体
 2章:自己の身体と他者の身体
 3章:鏡に映る身体
 問いと考察

第2部:意識と脳
 4章:意識・夢・現実
 5章:脳と機械を接続する
 6章:共感覚
 問いと考察

第3部:他者の心
 7章:問題としての他者
 8章:心の科学と他者問題
 9章:他者理解を身体化する
 問いと考察
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「自己」をめぐる議論って、ある面ではとても青くさい(青年期の発達課題として関心を持つ人がやっぱり多いテーマなので)のですが、それでもそういう議論って大事だよね、と思っている方々の元に届くよう願っています。いい意味で「青い」読者に届きますように。

ああ、でも…。こういう青さって、「厨二こじらせました」みたいなのと紙一重かもしれませんね(笑