2017年2月10日金曜日

3/5 シンポジウム「精神医学の哲学」

某MLでI先生(って別にイニシャルで書かなくてもいいのか、石原孝二先生です)から下記の情報が回ってきました。3月5日(日)、駒場でシンポジウムがあるとのこと。

シンポジウム「精神医学の哲学」2017年3月5日(日)9:30~17:30
東京大学駒場Iキャンパス18号館ホール

シリーズ『精神医学の哲学』の刊行記念イベントです。フックス先生の論文の訳者として私も企画に加えていただいたので、このイベント、日本にいれば参加したかったです。ちなみにフックス氏の論文は、シリーズ第1巻「精神医学の科学と哲学」に収められています(第4章「現象学と精神病理学」)。

いわゆる「現象学的精神病理学」の近年の成果をコンパクトにまとめた論文で、訳していてとても勉強になったのですが、やや気になったことがありました。

これは現象学的精神病理学の全体に当てはまる論点でもあるのでしょうけれど、患者の視点に沿って一人称的に症状や疾患を記述しているようでいて、どうしても記述が本質主義に流れそうな場面があります。

つまり、記述が行き届いているほど「統合失調症とは〜である」「自閉症とは〜である」という書き方で、症状の向こう側にあたかも「本質」があるかのように記述される部分があり、実際の症状の多様性がともすると見えない記述になってしまう欠点があるのですね(フックス氏本人はこの点の問題はよく自覚している方と思いますが)。

そもそも、精神疾患の症状は(同一の名称で診断される状態だとしても)きわめて多様で、本人にとってさえ言葉にするのは容易ではありません。このあたりの多様性を見ていくには、当事者と協力して語りの地平を拡大して記述を豊かにすることが必要でしょう。

また、それによって疾患の概念を考え直すこととか、日常的経験と精神疾患との連続性を見出していく、といった作業も大切だと思います。日常性とは断絶した「狂気」という本質があるかのような見方を取らないためにも、これは重要です。

現象学的には、精神病理学の知見は本来、「間主観性」の地平を日常性の側から外に向かって広げていくうえで大事なのであって、「狂気」という本質を向こう側に立てて日常性の側を維持することが大事なのではない、ということです(少なくとも私はそう思います)。

…あ、精神科医でもない人間が口を出しすぎましたね。このへんでやめておきます。ともあれ、『精神医学の哲学』は、「当事者」という切り口も含めて、とても重要なシリーズになっていると思います。ご一読のほどを。東京大学出版会から出ています。