2017年3月30日木曜日

大文字の問い

単著の二度目の校正が終わりました。

いつも論文ばかり書いている関係でなかなか形にできていなかったのですが、今回の著作では意識して取り組んでみたことがあります。

それは、文献の裏付けが取れないポイントについても踏み込んで書くこと。ここ5年ぐらい固めの学術論文しか書いていなかったので、引用文献がないことは書くのを控える、みたいな保守的な書き方が習慣化していましたが、今回そういう「自主規制」は少し緩和しました。

原稿を書いている最中に架空の読者が頭に浮かんできて、「そうそう、読者がここで期待するのは〇〇が▲▲でこう言ってる」とか「〇〇の××年の論文にこういうデータがある」みたいなことじゃなくて、本文を読みながら考え始めた「大文字の問い」についてもっと踏み込んで考えるのを後押ししてくれる言葉なんだよな…と思って書き改めた箇所がいくつもありました。

(まあ、そうはいっても学術書なので一定の文献情報はちゃんとつけてあります--文献やデータをちゃんと調べずに書かれたいわゆる「アカデミック・エッセイ」は評価しないクチなので)。

それが一番色濃く出ているのが、各部の終わりに補足して書いた箇所です。今回の本は3部構成で各部3章ずつになっているのですが、それぞれの部の最後に「問いと考察」として、本文中での問いかけをもっと掘り下げる話を書いてあります。「問いと考察」の「考察」は出版されてから読んでいただくとして、「問い」だけここでご紹介すると、

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『生きられた<私>をもとめて』
(北大路書房・シリーズ「心の科学のための哲学入門」4・近刊)

第1部:自己の身体性
Q1-1) 身体のない自己というものを考えることはできるだろうか?
Q1-2) 身体を部分的に失うと、自己には何が起きるのだろうか?
Q1-3) 死ぬことで身体が失われると、自己はどうなるのだろうか?
 
第2部:意識と脳
Q2-1) 意識は、脳の活動から生じるのではないのか?
Q2-2) 心は脳に宿っているのではないのか?
 
第3部:他者の心
Q3-1) 他者理解の発達的な起源はどのようなものだろうか?
Q3-2) ミニマル・セルフの成立にとって他者は不必要か?
Q3-3) 他者と出会うことで自己はどのように変化するのか?
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どうでしょう。「大文字の問い」がたくさん並んでいますよね。各章を読んでいるうちに、おのずとこういう問いが気になって考えてしまうような構成にしてみたつもりです。以前ここで紹介した目次と並べて見てもらうと、この本がいかにこの種の深い問いに魅せられ、「答えがない」と思っていてもやっぱり考えてしまう「青い読者」に向けて書かれているかがわかってもらえるかと思います。

2017年3月26日日曜日

blooming, buzzing confusion

ウィリアム・ジェームズが『心理学原理』の中で「blooming, buzzing confusion」という言い方をしている箇所があるらしい。赤ちゃんの経験しているだろう知覚世界を引き合いに出して、感覚印象が多種多様でとりとめがない様を指してこう言っているとのこと。

日本語で何と訳すべきかよく分からず調べてみたのだが、英語ではよく引用される有名な表現らしい。こんなページが見つかった。いやぁ、恥ずかしながら知らなかった。
The "blooming, buzzing confusion" of William James

で、Principles of Psychologyの488ページにあることがわかったので、岩波文庫版の『心理学』で対応箇所を探してみたら…ない。うーん、こういうのは痛い。邦訳は1890年の『原理』ではなくて1892年に発表された『要録』なのでしょうがないといえばしょうがないが、ジェームズの残したフレーズとして英語では有名になっているものが日本語で参照できないのはまずいだろう。

と思ってもう少し調べてみたら、あったあった、仮訳してるページ。ひとつはこんなページ。「花盛りでガヤガヤした混沌」になってますな。もうひとつはこんなページ。「無茶苦茶な、騒々しい混乱」ですって。

どっちもイマイチしっくりこないので考えました田中訳。「ひどくやかましい混乱」でどうでしょう。「ひどく」のところはbloomingなので、花がいっせいに開花するようなイメージを持たせたもっといい訳ができそうですが。


2017年3月23日木曜日

もろもろ

もろもろ、仕事をこなした1日。

まずは朝イチで研究会に出る。といっても場所はスカイプ上で、画面の向こうは日本である。変な話だが、画面の向こうは日本なのに使っているのは英語である。メンバーはみんな日本語話者なんだが、身体性や自己について英語で出版された論文を紹介しあう集まりなので使用言語も英語にしてしまったのである。まあ、私以外のメンバーは実験ベースの研究者で、文献読むのも論文書くのもほぼ英語だろうから、使用言語を英語にしてしまうほうが研究上の効率も良いのかもしれない。だいたい、インプットもアウトプットも英語なんだったら、中間の情報処理だけ日本語でやるほうがかえって非効率だという見方もできる。…もっとも私自身は理論系なので、母国語のヘルプがないと仕事にならない。日本語で議論したって「かゆいところに手が届かない」場面はままあるのに、英語になるとなおさらである。脳の中のかゆい場所に手が伸ばせる孫の手が欲しいくらいだ。今日もそんな孫の手が欲しいなあと思いつつ議論。フルボディ錯覚に関するちょっと古い論文を紹介した。

午後から研究室へ。途中、きれいに咲いているアーモンドの花を見かける。桜によく似ていて美しい。そろそろ日本でも桜が開花し始めているのだろうか。研究室では論文の見直し。2月に書いた離人症の論文を読み直してみたら、それほど書き足さなくてもいい印象を受けたので、アブストラクトを書いてそのまま校正業者に送った。あとは戻ってくるのを待って投稿するのみ。投稿先、最初は「Phenomenology and the Cognitive Sciences」を考えていたのだけどやめることにした。ここに出すと、直接間接に知っている人に査読が回りそうなので。査読は少し距離のある人に読んでもらうほうが、良い意味で想定外のコメントが返ってくるので自分にとっても学びになる。

返ってきてから別の原稿のアブストラクトを書く。数日前にジョヴァノヴィッチさんから連絡があり、彼女が編集している本の出版社からの依頼で、すべての章にアブストラクトとORCID(オーキッド)のIDが必要になったとのこと。オーキッドは今までまったく使っていなかったので、新規にIDを取得。そもそも何の役に立つのかもよく分かっていないのだけど、このページを見るとそれなりに使い道のあるツールらしい。ちなみに私に割り振られたIDは「0000-0002-0016-4465」だった。
世界の研究者190万人が利用している「ORCID」って何? 研究者・学生もこれだけは知っておきたい基礎知識

というわけで、もろもろやった1日も終わり。
日付も変わったのでもう寝ます。
おやすみなさい。




2017年3月20日月曜日

Civilization Dialogueの余波

前回の更新からなんとなく時間がたってしまいました。気づけば2週間以上更新していなかったんですね。

この間、もっぱら3-4日にコペンハーゲン郊外で開催した「2ND CIVILIZATION DIALOGUE BETWEEN EUROPE AND JAPAN」と、その余波であれこれ事務的な仕事をしていました。

余波のひとつは学術交流協定です。東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターとの間で近く正式な協定を結ぶことになりそうで、合意書の内容をあれこれ検討していました。2016年7月に東海大で開催した文化心理学ワークショップがかなり盛況だったのに続いて、今回のCivilization Dialogueも(参加者は少なかったですが)議論が活発で内容面でも噛み合っていたので、正式な協定を結んで研究上のやり取りをもっと増やすことになった次第。

もうひとつの余波は文明研究所の機関誌『文明』での特集です。当日の各自の発表内容をを論文にして特集号を組むことになったので、その原稿募集の段取り。〆切とかワード数とか執筆規定とか査読とか、もろもろ事務的なことを盛り込んだCall for Papersを作って皆さんにお送りしました。前回のCivilization Dialogueの後も『文明』で特集は組んだのですが(ここで読めます)、今回はかなり本格的に編集委員会を組むことになりました。Valsiner先生とTateo先生がゲストエディターとして加わってくれるという豪華さです。

この仕事、私にとっては個人的な研究上の関心を離れる面がだんだん大きくなってきているのですが(身体論や心理学と直接に関係のない議論も多いので)、学生さんや関係する若手のために人文系〜学際系の議論の場所を残しておきたいという気持ちでやっています(昨今人文系は予算がどんどん削減される一方で、活気のある組織が急激に少なくなっているので)。東海の文系大学院で学んでいる方、これから進学を考えている方は、ぜひCivilization Dialogueのイベントに加わってください。もちろん、他大の関係者も歓迎です。


 

2017年3月1日水曜日

オールボー滞在記

1週間強のオールボー滞在もほぼ終わり。明日はコペンハーゲンを経由してベズベックに移動します。

とにかく、フォーマルな場面でもインフォーマルな場面でも議論を重ねた1週間でした。キッチン・セミナーで自分が話すのに始まって、L・タテオ、P・マルシコの二人とは夏の理論心理学会の打合せを兼ねてずっと議論ともつかない議論をしていたし、ヴァルシナーさんのお宅を訪ねて研究に関する疑問をぶつけたりもしました。身体性から始める一階のアプローチが、概念や記号のような高階の認知と出会う場面を模索したくて、セミナーの続きをやった感じでした。

週が変わって27日になると、文化心理学研究センター主催のニールス・ボーア・レクチャーがあり、二日間、かなり豪華な顔ぶれの議論に触れることもできました。これ、レクチャーと銘打ってはいますが、実質的にはカンファレンスで、最初の基調講演のあとはいろんな人が登壇して最初の講演に対する指定討論を行うという、なかなか日本では見ないスタイルのものでした。私は自分の次のイベントの準備に追われて会場にフルでいられず、基調講演+αぐらいしか聞けなかったのが残念でした。
The Fifth Annual Niels Bohr Lecture in Cultural Psychology

基調講演はいわゆる「拡張した心」のパラダイムを記憶に持ち込む内容のもので、考えさせられました。「拡張した心」は、認知活動を「脳内」から「脳・身体・環境」というシステムに拡張して考えるのですが、しかしその場合、個別の認知活動のユニットをどこに見出すのかで議論が割れます。記憶の場合、「思い出す」という想起の活動に着目すると、環境に宿るというよりは「思い出す」過程を経験するエージェントが明確に存在するように思えます。しかし、人々の記憶がナラティヴとして保存されるアーカイブを念頭に置くと、身体よりは環境の側にアクセスすべき記憶が宿っているとも言えます。記憶はどの程度セッティングに依存するのか、そもそも記憶はどこかに保存される性質のものなのか、思い出す主体にどのくらい依存する認知活動なのかをめぐって、記憶を語る言語やナラティヴの役割はどう位置付けるべきか等々、指定討論の内容も分かれている様子でした。

ちなみに、レクチャーの会場では、日本から来ていた尾見先生とも話ができて面白かったです。日本の「部活」について研究されているそうで、部活をめぐっていろんな話を伺ったのですが、部活に流れるエートスを読み解くと「日本的なもの」の正体がかなり読み解けそうな面白さがありました。

ともあれ、そんなこんなであっという間に1週間。議論の合間にこの週末のベズベックでのイベントで話す準備をするというハードかつ楽しい日々が過ぎていきました。この間、日本にいる元教え子から具合の悪そうなメールが立て続けに入っていて心配になったのですが、彼は大丈夫なんだろうか...