2017年9月24日日曜日

研究会を再開します

2016年7月の研究会以降、田中のドイツ滞在のためしばらく開催できていなかったエンボディード・アプローチ研究会ですが、次回の開催予定が決まりました。

2017年11月11日(土)

です。心の科学の基礎論研究会と合同で開催することになりました。エンボディード研としては第6回、心の科学…研としては第81回となります。それにしても、どっちも研究会の名称が長いですね。思わず略してしまいました。
 
時間と場所は過去の開催例に準じて明治大学で13:30〜になると思われます(詳細は決まりしだいご報告します)。講演はいつも2名の方にお願いしていますが、次回は森岡正芳先生(立命館大学)と染谷昌義先生(高千穂大学)にお願いすることになりました。
 
詳細は10月中旬に再度ご連絡します。お楽しみに。

ところで、先日の日本心理学会ではシンポジウムでとても充実した議論を重ねることができました。内容に踏み込んで書く時間が今はないのですが、また追って何か関連記事を書ければと思っています。
 

 

2017年9月11日月曜日

今年の日心

あっという間に9月も中旬ですね。
来週は久留米シティプラザで日本心理学会が予定されています。
今年は、こんな企画でシンポジウムを組んでいます。
 
2017年9月22日(金),11:20-13:00,久留米シティプラザ(会場 4G/スタジオ2)
公募シンポジウム「行為から考える「私たち」」
企画:田中彰吾・片岡雅知,司会:田中彰吾,話題提供:片岡雅知,山本絵里子,高野裕治,高橋英之,指定討論:亀田達也
 
企画の趣旨はこんな感じです。
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人はしばしば「私」ではなく「私たち」という観点に立って行動する。ごく当たり前に集団で協力して行動するし,ときには自分を犠牲にして集団に尽くしたり,逆に同調圧力に負けて周囲に合わせてしまうこともある。そもそも,人は「私たち」の観点にどうやって到達するのだろうか。ひとつの方法は,「心の理論」のような推論能力を通じて互いの心を読み,理解を共有することだろう。だが,そうした能力を持たない子どもや動物も,「私たち」の観点から他者との協力や群れでの行動を遂行しているように見える。こうした「私たち」の観点は,推論以前に直接知覚できるもの,すなわち互いの「行為」にもとづいているのではないか。人や動物は,互いの行為を同期させたり相互に調節したりするなかで「私たち」の観点を獲得しているのではないか。本シンポジウムでは,この基本的なアイデアについて,人,動物,ロボットなどの観点から検討し,「私たち」に迫りたい。
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日心では2013年に「自己」、2015年に「他者感」をテーマにして議論したのですが、今年は「私たち」です。ジョイントアクション(共同行為)に注目すると、ひとは「私」ではなくて「私たち」というレベルで柔軟に行為しています。他者の行為の意図を理解し、それに合わせて自己の行為を調整し、自他で共同のゴールに向かって行為を進め、その過程をモニターし、うまくいかなければもう一度お互いに行為を調整してみる…
 
現象学的に「意識」に着目すると、意識はどこまでも「私」の意識経験でしかないですが、共同行為に着目すると「私たち」という観点にもとづく心的表象はいろいろと成立しているように見えます。加えて、「私たち」という観点が行為のレベルでいちど成立してしまうと、それは他者への期待や、自己の行為への義務のように、ある規範や倫理の次元を作り上げてしまう面もあります。今回のシンポジウムは、いうなれば、社会性へのミニマルなアプローチという意味合いを持つものになると思います。
 
学会に参加予定の皆さまは、ぜひ現地にてお会いしましょう。
 
 

2017年9月3日日曜日

こころの科学とエピステモロジー

このブログでもだいぶ前に紹介しましたが、心の科学の基礎論研究会を母体とする電子ジャーナルが創刊されました。研究会関係者のMLですでに告知が回っていますが、以下に転載しておきます。
 
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日頃、心の科学の基礎論研究会の活動にご賛同いただいて感謝しております。
 
さて、この8月20日、電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』誌の「創刊準備号」を発行いたしました。
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/
 
概要は上記サイトをご覧いただきたいと思いますが、ジャーナルの創刊は本研究会創設時からの懸案であり、このほど皆様のお力添えによって実現したことを、大変うれしく思っております。
 
年一回発行予定で、創刊号の原稿締め切りは来年2月頃を予定していますので、「投稿規定」をご覧の上、ご寄稿ご投稿をお考え戴ければ幸いです。
 
また、リーフレットを添付いたしました。御知り合いや関連のMLなどに散布していただき、寄稿・投稿を呼びかけていただければ大変ありがたく存じます。
 
これからもよろしくご指導ご鞭撻の程、お願いします。
 
2017年8月 心の科学の基礎論研究会世話人一同
  
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詳しくは、上記リンクをたどって創刊準備号をご覧ください。田中も編集委員のひとりとして参加しております。

よろしくお願いします。


 

2017年9月1日金曜日

帰国しました

先週開催されていたISTP 2017に合わせてドイツから帰国しました。学会中は座長2件、司会1件、自分の発表4件というなんとも大変な1週間でしたが、議論自体はとても面白くてあっという間に終わってしまいました。自分の発表は萌芽的な内容のものばかりだったので、これから論文になるところまで発展させたいと思っています。

ともあれ、1年間の在外研究もおしまい。これから日本での仕事に戻ります。ひとまず、ご報告まで。
 

 

2017年8月16日水曜日

現象学からはじめる書棚散策

今週から現象学関連本のブックフェアが始まっているそうです。植村玄輝・ 八重樫徹・吉川孝(編)『ワードマップ 現代現象学』(新曜社)の刊行記念とのこと。リンクしておきます。 
酒井泰斗プロデュース「いまこそ事象そのものへ! 現象学からはじめる書棚散策
 
刊行されたワードマップそのものも目次を見ると良質な現象学入門書の印象を強く受けますが、ブックフェアで列挙されている書籍リストもすごいです。分量的に通常のブックフェアをはるかに超えているのですが、それだけではなくて、選書されている書籍を眺めると、ある「ゲシュタルト」のようなものが見て取れます(そのような気がします)。
 
…こう言えばいいんでしょうか。現象学の初心者がすいすい読めてわかった気になるようなヤワな本はまったく選ばれていないように見受けられます。が、読むことを通じて現象学の深みに入っていけるような本が多い印象なのです。
 
ここで「現象学の深み」と言ってみたのは、現代の現象学が圧倒的な量のテクストとともに生み出している言説の文脈、という意味もありますが、それだけではありません。ブックフェアの趣旨文で酒井氏がこんな風に述べていますが、
 
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本書『ワードマップ』では、現象学が「経験の探究」として提示されていますが、ここでいう経験は、私たちが世界の中で様々な対象に出会い・様々なやり方で関わることを指しています。つまり、物事を経験の相において、経験される事柄 と 経験する者 を切り離さずに捉えることをとおして 哲学的課題に取り組む探究のプログラムとして、現象学が特徴づけられているわけです。
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ここに書かれている意味で、「経験の探求」にもっと深く入っていける導きになるような本がたくさん並んでいます。個人的にも、かつて大きな影響を受けた本や、いまだに大きな影響を感じ続けている本が多く並んでいて、感慨深いものがあります。
 
…いやいや、感慨にふけりたいのではなくて告知がしたかったのでした。選書されたもののなかに、田中も関係している書籍が3冊あります(選んでいただいて感謝です)。ブックフェアに行ってみようと思っている皆さま、この機会に書店で手を伸ばしてみていただけると幸いです。
 
ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待:理論から具体的技法まで』(田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳),新曜社,2016年(現象学に裏づけられた質的研究のガイドブックです。著者のラングドリッジさんは来週の国際理論心理学会で来日されます。8/22に基調講演、8/24にはシンポジウムで登壇をお願いしています。プログラムはここで確認できます
 
田中彰吾『生きられた〈私〉をもとめて: 身体・意識・他者 (心の科学のための哲学入門 4)』北大路書房,2017年(心の科学の近年の知見と現象学の古典を往復しながら、身体・意識・他者というテーマに沿って自己アイデンティティの根源に迫っています)
 
S・コイファー&A・チェメロ『現象学入門:新しい心の科学と哲学のために』(田中彰吾・宮原克典訳),勁草書房,未定
 
最後のものだけ未刊です、すみません。前にここのブログ記事で紹介したときは訳文作りが進行中でしたが、先日ようやく一通り終わりました。ただいま、2018年早めの刊行を目指して共訳者の宮原克典さんと奮闘中です。この本は、新しい心の科学を生み出すことが現象学の未完のプロジェクトである、という歴史的なパースペクティヴで書かれたユニークかつ注目の現象学入門書です。心の科学から現象学に入りたい人にとっても、逆に現象学から心の科学と哲学の未来を考えたい人にとっても、必須の入門書になるはず(?)です。
 
ブックフェアは紀伊国屋書店新宿本店3階で開催中とのことです。新宿にお立ち寄りのさいはお忘れなく。
 

 

2017年8月12日土曜日

シンポジウム:Focusing on the narrative self in human sciences

帰国後のISTPでの発表を準備しています。今日はとりあえず25日午前の以下のシンポジウムの準備。

8/25 11:00-12:30  Room A1203
[Symposium 34]
  Focusing on the narrative self in human sciences
[Organizer]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
[Presenters]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
  Masahiro Nochi (The University of Tokyo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
  Ken Nishi (Tokyo Medical University)

タイトルを日本語にすると「人間科学におけるナラティヴ・セルフを焦点化する」と、ちょっとぎこちなくなってしまいますが、趣旨はこういうことです。
 
心理・教育・福祉・看護など、対人支援領域での質的研究においてナラティヴ・アプローチは重要な位置を占めています。ただ、理論的には問題も多くあります。本人の語りを重視するといっても、インタビューを受ける側の研究参加者の観点はもともと研究者の観点とは異なりますから、研究者が理解できることにはおのずと制約があるかもしれません。一方、インタビューを深いものにしてナラティヴを分厚いものにすれば、その分だけ理解が深まったとしてもデータは参加者と研究者の共同作業の産物になり、妥当性の確保が難しくなっていきます(別の研究者が同じ題材に取り組んでも、まったく違う記述になる可能性があります)。また、ナラティヴが聞き手の前での語りだとすると、聞き手が変わると内容が変わってしまったり、聞き手の態度や関心によって語りの内容が変化したりといった問題もあります。
 
なので、エビデンス・ベースでないアプローチであることに由来するさまざまな理論的問題がナラティヴ・アプローチには内在しているのですが、それをポジティヴに解消する手立てとして「ナラティヴ・セルフ」というキーワードを立ててみてはどうか、というのが今回のシンポの趣旨です。ナラティヴだけではなく、研究参加者のナラティヴ・セルフまで迫ることができれば、研究者の側の恣意性を超えて、より一貫性と妥当性をもってナラティヴを理解する手がかりが得られるのでは、という提案になっています。(ちなみにエビデンス・ベースのアプローチにはそれ固有の理論的な問題点が多々ありますので、誤解なきよう)。
 
パネリストの植田先生と能智先生が事前に報告内容のレジュメを送ってくれたのですが、それを見ていて興味深いことに気づきました。お二人とも、ナラティヴの理解が研究者の側の主観に引きずられないよう、いかにして研究参加者を正確に理解できるかという問題意識を追求しているのですが、そのさい、参加者の身体、語りの裏にある沈黙、情動など、いわば「当事者の実存」に着目しているのです。
 
つまり、シンポはさしあたり「ナラティヴ・セルフ」を提案するものなのですが、二人ともそれを少し超える場所を指向しているようなのです。「ナラティヴ・セルフ」は、本人のライフストーリーを背景にして構成されているアイデンティティですから、基本的には「物語の形式で語られた自己」であり、「語りうる自己」です。対して、とくに能智先生は写真に映ったある男性の身体を時系列で追うことで「語り以前の語り」を読み解こうとしていて、まさに当人の実存に迫ろうとしています。
 
私もこのシンポの準備をしていて「ナラティヴ・セルフ」の概念の歴史をたどり直しながら考えたのですが、ライフストーリーとしてのナラティヴはある観点から人生を俯瞰したときに紡ぎ出される物語であって、「ある観点」それ自体は物語のなかに登場してきません。ここでいう「ある観点」とは、語りを紡ぎ出している現在の時点で、身体を通じて私が生きているところの、世界との関わりです。
 
これは、ハイデガー風に「気分」と言ってもいいかもしれませんし、ジェンドリンのように「フェルトセンス」と言ってもいいかもしれませんが、「暗にそう感じてしまっているもの」なので、語り全体を脚色するものでありながら、はっきりと言語化されて語りのなかに表出しません。いわば、語りを支える語り手そのもののスタンスなので、これが語りのなかに盛り込まれれば物語全体のフレームが変化してしまうはずのものです。実人生でそのようにナラティヴが変化すれば、当人の生き方そのものが変わってしまうことでしょう。
 
いずれにしても、ナラティヴを問うていくと、その向こう側にある語り手の実存を問う必要がありそうなのですが、三人ともそれぞれのしかたでそういう深い問題意識を共有しているようです。西先生の指定討論でどんなコメントが出てくるかも含めて、当日の議論を楽しみにしています。
 

 

2017年8月5日土曜日

北大路書房のレア本

知人が興味深い写真を送ってくれました。
都内某所のジュンク堂では、拙著はこういう感じで置かれているそうです。
 

画像を特大表示にしているのですが見えるでしょうか? ほとんど無理かもしれませんね(もちろん私はすぐに見つけられるのですが)。左から10冊目が拙著です。
 
収録されているシリーズが「心の科学のための哲学入門」なので、心理学の棚にはおかれていないのですね。この段はほぼすべて「心の哲学」の関連書で埋まっています。北大路書房の本で心理学の棚に置かれないのって、けっこうなレア本なんじゃないでしょうか?
  
そして、上の段をみると右端にステレルニー、ソーバー、といった生物学の哲学者らしき人たちの本が。一番右の帯だけ見えてるのは…どうやら職場の同僚の松本俊吉さんの著作『進化という謎』では? この段は「生物学の哲学」関連の書籍が多いみたいです。
 
ということは、書棚が科学哲学のコーナーってことですね。ネット書店ではなくてリアル書店に行かれる方は、ぜひ科学哲学のコーナーに行ってみてください。それで、拙著を見かけたらぜひ手に取ってみてください。私のかけた魔法できっと買いたくなります(笑
 
そういえば、もうすぐ紀伊国屋新宿本店で「現象学ブックフェア」が始まるそうですね。『ワードマップ現代現象学』の刊行記念らしいですが、選書の中には田中の『生きられた〈私〉をもとめて』も入っていると風の便りでききました。日本ではマイナーな「現象学と認知科学(Phenomenology and the Cognitive Sciences)」の路線の本にまで気を配っていただいて嬉しい限りです。関係者の皆さん、ありがとうございます。帰国したらすぐに紀伊国屋に行かなくては。
 

 

2017年7月30日日曜日

しばらくの間、

ツイッターのアカウントを閉じることにしました。
 
もうすぐ帰国せねばならないせいか、ここ数日、帰国後の自分の生活が断片的に思い浮かぶことが増えています。それ自体はいいのですが、問題は中身。なぜかネガティブなシーンばかりなのです。長時間の会議にイラついている姿、授業のコマ数が多くて疲れている姿、問題学生への対応でうんざりしている姿、など。職場がらみの、いやな感じの場面が多いです(同僚に叱られそうですが…)。
 
こちらで過ごした時間がとにかく充実していたので、それとのコントラストでこの先の生活が思い浮かんでもポジティブな連想にならない、ということなんでしょう。心のはたらきはそういうものです。認知活動にもゲシュタルトがあって、ある背景のうえではじめて連想が図になって現れてきます。
 
それで、そういう場面のひとつとして、愚痴をツイートしている自分の姿が何度か浮かんできたので、そんなことに使うんだったらアカウントを閉じちゃってもいいのでは、と思いついた次第。研究会とか本の告知のこともあるので元に戻すかもしれませんが、それ専用に別アカウントを始める手もあるので、しばらくこの状態を試してみます。
 
なお、このページは今まで通りなのでよろしくお願いします。
 

 

2017年7月27日木曜日

国際理論心理学会での企画3

さらに前記事への追加です。
国際理論心理学会(ISTP 2017)の二日目、8/22夕方に下記のシンポジウムがあります。
 
8/22(火):17:15-19:15, Room A1203
[Symposium 22]
  Locating the bodily borders of individuality
[Organizer]
  Luca Tateo (Aalborg University)
[Presenters]
  Lívia Mathias Simão (University of São Paulo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
  Giuseppina Marsico (Aalborg University / University of Salerno)
  Jensine I. Nedergaard (Aalborg University)
  Zachary Beckstead (Brigham Young University-Hawaii)
[Discussant]
  Jaan Valsiner (Aalborg University)
 
この企画はデンマークのオールボー大学の先生方による企画です。自己と他者の境界、主観性と他者性の境界、個体性と集合性、こうしたものの起源として身体経験を理解する試みです。田中も見る-見られる、触れる-触れられる経験をもとに身体の間主観的次元について話そうと思っています。
 
このシンポ、内容もそうですが形式面で面白さがある企画かもしれません。枠が2時間でスピーカーは5人いるのですが、プレゼンは1人10分のみ、話題提供を1時間以内に抑え、あとは会場との討論に1時間を割くというタイムテーブルになっています。

オーガナイザーのタテオ先生はみんなで濃く議論する感じを狙っていて、話題提供者の理論的背景もけっこう散らしてあるので、混沌として結論の出ない流れになるかもしれません。ただ、その分、自分の考えをぶつけてフロアの議論に参加した人には、得るものも多い議論になると思われます。身体性に関心のある方はぜひ会場にお越しください。
 

 

2017年7月22日土曜日

国際理論心理学会での企画2

※8/5記:大会プログラムに変更があり、この企画は8月25日、13:30-15:00に変更になりました。
 
 
前記事への追加です。
国際理論心理学会(1STP 2017)、8/24日午後にはこんなワークショップがあります。

8/24 15:30-17:00 
8/25 13:30-15:00  Room A302
[Workshop 3]
  Alternative concepts of self, body and mind from contemporary Japanese perspectives
[Organizer]
  Tetsuya Kono (Rikkyo University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Presenter]
  Tetsuya Kono (Rikkyo University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
  Takayuki Ito (International Research Center for Japanese Studies)
  Yu Inutsuka (The University of Tokyo)
 
この企画は、現代(に必ずしも限りませんが)日本のパースペクティヴからオルタナティブな「自己」と「心身論」を議論する趣旨のものです。河野先生、伊東先生とは2015年の京都カンファレンス、2016年の国際心理学会議と、2年続きでアジア的な心身観から自己をとらえなおす議論を続けているので、これが3回目になります。
 
近代的な「自己」のとらえかたは、そのベースに独特の心身の見方(二元論)を持っていて、それが個人主義的な発想や独我論的な心観と緊密に連動しています。しかも、こうした観点は心理学の根っこにある仮説的な見方にもなっています。では、日本的な、あるいは東アジア的な観点を取ることで、こうした自己の見方を刷新できるのでしょうか。また、そうだとして、それは現代の心の見方にどのような貢献をなしうるのでしょうか。こういった論点を考えるワークショップです。
 

 

2017年7月14日金曜日

国際理論心理学会での企画

来月8月下旬に開催される国際理論心理学会(1STP 2017)で、下記2件のシンポジウムを開催します。大会は1日のみの参加も可能ですから、ぜひ足をお運びください。会場は、立教大学池袋キャンパスです。詳しい大会案内ページは以下です。

[The 17th Biennial Conference of The International Society for Theoretical Psychology]

<1>
8/24 11:00-12:30  Room A1202
[Symposium 26]
  Quest for new methods in phenomenological psychology
[Organizer]
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Presenters]
  Darren Langdridge (The Open University)
  Tsuneo Watanabe (Toho University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
   Masayoshi Morioka (Ritsumeikan University)

この企画は、現象学的心理学の新しい方法を考えるシンポジウムです。邦訳が刊行されている『現象学的心理学への招待』の著者、ラングドリッジさんをスピーカーに招いて議論します。インタビュー、当事者の記述、実験の持つ可能性を考察します。
 
<2> 
8/25 11:00-12:30  Room A1203
[Symposium 34]
  Focusing on the narrative self in human sciences
[Organizer]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
[Presenters]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
  Masahiro Nochi (The University of Tokyo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
  Ken Nishi (Tokyo Medical University)

こちらの企画は、2016年7月末に明治大学で開催した「現象学と人間科学」のワークショップの続編です。昨年議論したときに、ナラティヴ・アプローチの問題点が浮上してきたので、今回は「ナラティヴ・セルフ」を主題にして人間科学と質的研究の基礎を再考します。こちらは植田先生にオーガナイズをお願いしました。

ちなみに田中は上記2件以外にも、シンポジウム1件、ワークショップ1件、という感じで合計4回登壇します。果たして大会終了まで私の体は倒れないでもつんでしょうか(笑


 

2017年7月5日水曜日

第80回心の科学の基礎論研究会

MLで告知が回っていますので、以下に同じ案内を貼り付けておきます。いずれの発表も、文字通り「心の科学の基礎論」をめぐる重要な講演になるものと思われます。例によって田中は帰国前なので参加できませんが…


 

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「心の科学の基礎論」研究会( 第80回)のご案内
表記の研究会を下記の通り開催いたします。奮ってご参加下さい。

【日時】2017/7/22(土) 午後1:30~5:30(午後1時開場)
【場所】明治大学駿河台キャンパス研究棟2階第8会議室
 http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html

・趣旨 本研究会も80回目(21年目)を迎え、かつオープンアクセスジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」創刊を来年に控え、特集「心理学のエピステモロジー」と銘打って以下の企画を行います。
・司会 渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)

・講演1 加藤義信(名古屋芸術大学/発達心理学)
【題】アンリ・ワロンの発達論の独創性に学ぶ:現代発達心理学の批判的捉え直しのために
【要旨】心理学は人文・社会科学の中で最も自然科学化が進んだ領域であると見なされている。その一つの下位分野である発達心理学も例外ではない。/第一線で活躍する多くの発達研究者にとって、研究するとは、英語の学術誌に掲載された論文を読み、そこで共有されている問題意識を自らのものとした上で、「科学的」であると受容される方法の枠内でデータを収集し、それらを論文に(できれば英語で)仕上げて投稿し新知見のプライオリティ競争に参加することと、今や同義である。しかし、発達研究において、自然科学と同様のこうした学問の「制度化」、さらには「国際化」が、あたかもアメリカを中心に地球規模で成立していると、本当に考えてよいのだろうか。発達研究が当該研究者(及びその研究者の所属する階級・社会・文化)の発達観・子ども観・人間観に深く規定されて一定のバイアスのもとにしか成り立たない学問であるとすれば、この領域における「自然科学的な学問共同体」の存在を無自覚に想定するのは幻想に過ぎない。/自戒を込めて言えば、発表者がこれまで行ってきた認知発達の実験的研究も、こうした研究スタイルと無縁であったわけではない。ただ、上記のような問題意識だけは若い頃から持ち続けてきたので、一方で、今や時代遅れとみなされる20世紀前半のフランス語圏の二人の発達のグランド・セオリスト、ピアジェとワロンにずっとこだわりながら、英語圏を中心とする発達研究に欠けた視点をそこから学び取ろうとしてきた。特に最近は、ワロンの発達論に含まれる幾つかのアイデアが現代の発達心理学に新たな地平を切り開く可能性を有していることに注目してきた。今回は、この点を中心に話題提供することにしたい。

・講演2 山口裕之(徳島大学/哲学・エピステモロジー)
【題】心の科学のエピステモロジー:現代心理学が暗黙のうちに前提とするものを探る
【要旨】現代の心理学は、「心」を対象とする科学である。そこには、丸ごとの人間に介入して結果を質問票などで測るといった研究だけでなく、何か作業をしているときに使う脳の領域をfMRIなどで測定したり、神経細胞の電気的反応を調べたりといった「脳の研究」も含まれる。/しかし、そもそも「心」とは何だろうか。心理学において研究されている「知覚」「知能」「情動」「態度」などといった概念は、普遍的に妥当する概念なのであろうか。心は脳と単純に同一視してよいものであろうか。/少しばかり近代哲学を読んでみると、現代の
心理学とよく似た主題が扱われていることがすぐにわかる。知覚の研究はデカルトやロックなどに含まれているし、コンディヤックなどフランス啓蒙思想には人間の発達段階に対する体系的な考察が含まれている。しかし同時に気づくことは、そこで使われている言葉が、現代の心理学用語とは異なっていることである。mindではなくsoul(フランス語ではâme)が、emotionでなくpassionが、それぞれ一見すると前者と同じ意味で使われている。attitudeやmotivationなどという言葉は見かけず、volontéがそれらと重なりながら大幅にはみ出すような含意で使われる。intelligenceは、大文字で書けば「神」のことである。全般的に言って、当時の心(soulないしâme)の議論には、キリスト教的な色彩が濃い。/現代の心理学は、そうした近代哲学の議論を換骨奪胎することで、「科学」の一分野となったのである。そしてそのとき、「心」に対する特定の見方が、暗黙の前提として立てられることになった。今回の発表では、近代哲学から心理学へ、何が受け継がれ、何が変容したのかを考えることで、現代心理学の「暗黙の前提」を探りたい。
 
・誰でも参加できます。申し込み不要、原則無料です。
・注意!研究会はお互いに学び合う場です。自説を声高に一方的に主張し続けるような行為は迷惑行為に当たりますので御遠慮下さい。また、本研究会は哲学の研究会ではないので、こころの科学と直接関係のない哲学論議もお控え下さい。
・心の科学の基礎論研究会に関しては、以下のHPをご覧下さい。
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
・担当世話人:渡辺恒夫 東邦大学(psychotw[アットマーク]env.sci.toho-u.ac.jp


2017年6月29日木曜日

何とか終えた…

昨日までの暑さのせいで準備が間に合わないかと思いましたが、なんとかかんとか午後4時過ぎに準備を終え、午後6時からハイデルベルクのコロキアムで話をしてきました。


テーマは、離人症における自己と身体。ハイデルベルクに来て進めてきた研究プロジェクトのまとめになる話をしてきました。離人症を経験する個人は、しばしば自己の感覚が身体から切り離され、あたかも身体の外側にあって身体で起きていることを観察している、ということを訴えます。これは、哲学史上の議論にひきつけて考えると、デカルト的な二元論を擁護する症状に見えるわけです。デカルトは身体から切り離された自己を徹底して擁護する議論をしていますから。

そして、デカルト的な二元論に反対するところから始まっている私の「身体化された自己」の議論にとっては、離人症における自己感覚は、デカルト的自己を擁護するのか、身体化された自己を擁護するのか、議論を決定づける試金石のような症状なのです。

この問題に関して私が最終的に注目していることのひとつは、エージェンシーの問題です。離人症を経験する個人は、しばしば自分の身体行為があたかもロボットのように自動化されているといいます。しかし、彼らの身体は麻痺しているわけではないのです。生活に必要な行為はすべてなすことができます。だとすると、エージェンシーの感覚は存在しないわけではなくて、少なくとも身体行為を開始する時点でははたらいているはずです。ロボットのように感じてしまうのは、エージェンシーではなくて、むしろ身体のオーナーシップが損傷しているからでしょう。彼らは、自分の意図したとおりに行為することができるのですが、固有感覚を通じて「私の身体が動いている」という感じを経験できないため、行為が自動的に生じているように感じてしまうのでしょう。

そして、そうだとすると、少なくとも行為開始時点でのエージェンシーの感覚だけは身体に由来するはずで、その一点においては、離人症に苦しむ個人も、やはり身体化されていると言えるのです。これはおそらく治療とも接点を持つでしょう。身体行為(もっというと身体を動かすエクササイズ)を通じて、少しずつ身体のオーナーシップを回復することができれば、症状も多少は緩和されるのではないかと思います。私は臨床家ではないので治療に関して踏み込んだことは言えませんが、具体的な運動を手掛かりに身体性を回復することができるなら、治療について希望が持てるのではないでしょうか。

ともあれ、無事に話し終えることができて良かったです。しかも、今日の講演は「カール・ヤスパース図書館」というレジェンドな場所で行うことができたのでした。光栄な一日でした。


 

2017年6月28日水曜日

暑い…仕事が終わらない…

6月の中旬くらいからドイツはものすごく暑い。ドイツだけではなくて、今年のヨーロッパは広い範囲が熱波に覆われているらしい。テレビのニュースでは山火事の映像をたびたび見かける。
 
これだけ暑いと昼間はほとんど仕事にならない。もともとヨーロッパは室内でクーラーを使わないし、今でもエアコンがきいているのは商業地だけで、普通のオフィスには扇風機さえ置いてない。私の研究室にもエアコンはない。仮住まいのアパートにもエアコンがない。
 
昼は暑すぎるので、もっぱら気温の下がる夜(…といっても日が暮れて涼しくなる午後9時ごろ)に研究を始めるのだけど、これはこれで具合が悪い。暑いから窓を開けっぱなしにしていると、室内の灯りを目指して小さな蚊が大量に入ってくる。ドイツの建物には網戸がない。
 
刺されないので実害はないのだが、デスクスペースを照らすライトの周囲を、おそらくは30匹をくだらないであろう数の小さな蚊がくるくると飛んでいる中で、本を開いてパソコンの画面に向かう。気が散ることこの上ない。
 
こういうのを4~5日経験したらうんざりしたので、たまらず扇風機を買った。小さくて、首の回転がいかにも洗練されていない、見るからに安物の扇風機。なのに50ユーロ。蚊には困らなくなったが、こんどはブンブンと音がやかましい。それに、閉めきった状態で扇風機をまわしても、生ぬるい空気が室内を循環するだけでそれほど涼しくならない。まったく… 
 
明日(というかもう日付が変わって28日なので今日なのだが)、こちらのコロキアムで講演を頼まれている。すでに午前1時。当然のようにまだ準備が終わらない。このままいくと間に合いそうにない。困った。
 

2017年6月21日水曜日

ソフィー・ペダーセン氏講演会

少し先ですが、下記の日程で、ソフィ―・ペダーセン氏の講演会が開催されます。

2017年
8月3日(木)
8月7日(月)
8月18日(金)
いずれも16時~18時、立教大学池袋キャンパス12号館2階ミーティングルームにて。


ペダーセン氏は、デンマークのコペンハーゲン大学心理学部で講師を務められているそうです。事前連絡は不要で、どなたでも参加できるそうですので、関心のある方はふるってご参加ください。問合せは立教大学の河野哲也先生まで(画像を拡大するとメールアドレスを確認できます)。
 
内容ですが、ポスターで予告されている概要はこんな感じです。
  • 3日:Disconnected Activities (working with mental illness from a perspective of activity theory and eco)
  • 7日:Historicizing Affordance (a rendez-vous between ecological psychology and cultural-historical theory)
  • 18日:The Human Eco-niche (exploration and theoretical considerations)
いずれも、生態心理学ベースで、人間と環境の相互作用という観点から心を考える企画になっているのが伺えます。
 
田中は参加したいのですが、まだ帰国前のため無理です…残念。とくに7日の内容は、生態心理学のように身体からボトムアップで心を考えるアプローチと、文化・社会的な観点からトップダウンで心を考えるアプローチの接点を話題にするようですので、個人的にもいろいろ質問してみたいところです。


 

2017年6月14日水曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』6-9章)

研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
  
  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第6-7章)新曜社

  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第8-9章)新曜社
  •   
    今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』、後半6~9章の要約です。
     
    5月の臨床心理学研究会(能智正博先生主催)では前半1~5章までが取り上げられましたが、今回は残りの後半部分の検討でした。レジュメ6~7章は松尾純子さんが、8~9章は佐藤文昭さんが担当されています。

    渡辺先生、植田先生、田中の訳者3人は前回に続いて参加しました。

    今回は、個人的に印象深い質問が二つありました。

    ひとつは、ラングドリッジさんのけっこう厳しい(しかしやや的外れな)フッサール批判を受けて、ラングドリッジさんの立場はいまだ「現象学」と呼びうるものにとどまっているのか、という質問(これは当日参加されていた山竹伸二先生からのものでした)。

    ラングドリッジさんの立場は、フッサールへの誤解を多少含んでいますが(このへんは田中が訳者あとがきで解説しています)、しかし現象学への独創的な貢献を含んでいます。とくに彼は、さまざまな社会理論を持ち込んで、人々の語る「ナラティヴを揺り動かす」という作業を加えるのですが、これはフッサール現象学で言う「想像的変更」や「形相的還元」をナラティヴ研究の文脈に大胆にもちこむ試みと言っていいと思います。

    もともと現象学では、事象の本質を見出すために、想像力を用いて知覚された事象を揺り動かし、それでも変化しないものをつかみ出す作業(これを「想像的変更」とか「形相的還元」と呼びます)があるのですが、ラングドリッジさんは心理学の、とくにナラティヴ研究の文脈でそれを実践しようとしているわけです。人々の語るナラティヴはしばしば、社会に流通する規範的なナラティヴ(ドミナント・ストーリー)によって支配されている面があるので、それに揺さぶりをかけることで、「他のやり方でも語りうるもの、語りうる自分」を見出そうと試みているのです。

    もうひとつの質問は、この点に関係して、8~9章のレジュメを担当された佐藤さんから聞かれたものでした。人々のナラティヴを揺さぶることが研究方法の重要なポイントになるのだとすると、実際にナラティヴを聞き取るインタビューの場面で、ラングドリッジさんの実践する「批判的ナラティヴ分析」の方法では質問を工夫するのだろうか。とくに、相手のナラティヴをゆさぶるような質問をどの程度踏み込んでするのか、という質問でした。
     
    こちらは、訳書のなかでは十分に触れられていません。トランスクリプトを読み込む場面で「ナラティヴをゆり動かす」ことは書かれてあるのですが、インタビューのやり方ではそのことには触れられていません。

    考えたのですが、インタビュー中、相手に質問するタイミングでそれに近いことをやろうとすると、相手の語りたくないことや、相手が無自覚なことに気づかせるような面が出てくるので、場合によっては倫理面で好ましくない影響が出かねません。もちろん、相手の語りの潜在的な可能性を解放する、という良い影響をもたらすかもしれないのですが、ここは両義的です。ラングドリッジさんが次に来日するときに、本人に直接確認してみたいと思っています。
     
    ちなみに、8月21~25日に立教大学で開催される国際理論心理学会(ISTP 2017)に合わせて彼の来日が予定されています。基調講演も依頼していますから、理論心理学、質的研究、ナラティヴ・アプローチなどに関心のある方は、ぜひ足を運んでください。
     

     

    2017年6月12日月曜日

    連絡は 忘れたころに やって来る

    ずいぶん前にこんな記事を書きました。日付を見るとほぼ5か月前ですね。

    「英文5000ワード」
    http://embodiedapproachj.blogspot.de/2017/01/5000.html

    原稿を送ってから3か月くらい「自分の原稿どうなってるんだろう…」と心の片隅でときどき思い出していましたが、その後はこの仕事のこと自体を忘れていました。そうしたら編者の先生から突然連絡が。

    あらら、当初予定していたBrillからの出版は契約が難航してダメになったんだとか。代わりにRoutledgeと話を進めるそうです。出版が先延ばしになるのは残念ですが、添付で送られてきた企画書を見たら、個人的にはRoutledgeの企画のほうが好感を持てました。というのも、理論心理学もののシリーズの一冊として出版できる見通しらしいのです。

    さっそくネットで確認してみました。たしかにこんなシリーズがありますね。
    Advances in Theoretical and Philosophical Psychology

    え~、でも大丈夫なのかなぁ、シリーズだけど1冊しか出てないよ…。 

    共著者としてはとにかく出版まで無事にたどりついてくれることを祈るばかりです。せっかく書いた原稿が没になることほどつらいこともないので。


     

    2017年6月7日水曜日

    地味にうれしい仕事…

    …をもらった。

    イギリスに本社がある某出版社の編集者から突然連絡があって、これから出版される予定の原稿のレビューを頼まれた。著者名や書籍のタイトルはもちろんここには書けない。著者のことは個人的に知っているし、論文も読んだことはあるが、著作を一冊通して読んだことはない。

    ちなみに、依頼されたレビューはいわゆる日本の「書評」ではない。論文の「査読」に近いタイプのレビューである。日本では学術書を出版するのに、事前に原稿を専門家に送って評価を聞く習慣がないが、洋書にはある。出版前に、専門分野が近い複数の専門家から意見をもらって、著者がリライトの参考にするのである。

    で、メールをもらって驚いたのだが、期間がかなり短い。3~4週間で読んでレビューを書いて欲しいとのことだった。初めてのことだったので嬉しくてさっそく承諾のメールを書いたのだが、日本で普通に勤めているタイミングでこの話をもらっていたら、まず断っていただろう。

    だいたい、日本の大学に勤めていると忙しすぎて洋書一冊を短期間で読み通すだけのまとまった研究時間が取れない。セメスター中は週4日必ず本務校で授業があり、プラス1日は非常勤で他の大学で授業がある(人によっては、だが)。その5日は講義の準備と学務で終わるので、残り2日しか研究に割けない。
     
    1日で英語の論文を1本きちんと読めるとしても、2日で2本。単著で10章ぐらいあるものだと、1日1章読んでも合計10日はかかる計算である。つまり、単純に見積もってもセメスター中に週末を5回つぶさないと洋書1冊をきちんと読む時間が取れないのである。休み期間に集中的に1冊読んでレビューを書いても、きっと1週間はかかるだろう。とてもじゃないが、日本にいるタイミングでその時間があるなら、他人の本のレビューじゃなくて自分の論文や著作を書く時間に費やすに決まっている。

    しかし、である。国外の研究者は3~4週間で自分に近い分野の研究者が書いた原稿を読んでレビューを書くことができるような環境にいるのだろうか(セメスター中であれ休み期間中であれ)。もし彼らがそういう環境にいるなら、日本の大学に所属する研究者はどう足掻いても研究の世界では勝てっこない。


     

    2017年6月3日土曜日

    論文読み読み

    昨日から大量の論文を読んでいます。自分の研究に直接関係ないものも多いのですが、某ジャーナルで特集号を組むことになっていて、その編集を引き受けているためです。
     
    で、いろんな人の書いた文章を読んでいると中には「ん?」と思うものも出てきます。引用符のなかに著者自身の書いた文章を何度も引用している論文を見つけたのです。
     
    " ............ " (Name, 20XX, p. ##)
     
    読んだ時の違和感がうまく言葉にできなかったのですが、あえていうと「珍妙」な感じと言えばいいんでしょうか。説明するとこういうことになるんだと思います。

    論文で引用符をつけたり、段落として引用する場合、基本的には他者の文章を引用します。そもそも引用は、(A)他者の書いた文章について出典を明記して剽窃を避ける、という意味を持つ行為なので、それが他者の文章になるのは当然ですよね。これに加えて、批判するのであれ、論述にとっての傍証にするのであれ、引用することで、(B)過去の研究者のオリジナルな知見に一定の敬意を払う、という慣例的な意味もあると思います。
     
    ここで、他者の文章を自己の文章に置き換えて、自分の書いた文章をそのままカギ括弧をつけて引用すると、(A')自己剽窃していないことを明示する、というポジティヴ(?)な機能を持つ一方で、(B')自分の過去の研究に対して自分で敬意を払っている、という意味にも受け取れます。私が「珍妙」な印象を受けたのはこの二つが入り混じった印象を受けたからのように思います。もうちょっと言うと、「正確さを期した自画自賛」とでも言えばいいんでしょうか。
     
    もちろん、自分の書いた文章を自分で引用する例というのも、見かけることはあります。たとえば、ある分野で他の研究者が多く引用している著名な論文で、それが論争になっているような場合なら、自己引用をしてもういちど自分の主張を正確に伝えるという意味はあります。あるいは、自分の過去の主張を訂正するさい、 何を訂正するのか正確にするためにその箇所を引用するような場合。あとは、自分の代表的な業績をピンポイントで紹介する場合でしょうか(でもこれができるのは自分の業績に相当自信がある場合でしょう)。
     
    今回はどれにも当てはまらないので、なんとも珍妙な読後感でした。直接お会いする機会があればどういうつもりで書いたのか著者に確かめてみようと思っています。その前にエディターとして対応せねばなりませんが。
     

     

    2017年5月28日日曜日

    生きられた〈私〉をもとめて-余談

    拙著がそろそろ発売になるので、それに関する余談を。
     
    先日某所で「今後の学術書は300部が基準」という話題が盛り上がっていました。盛り上がっていたというより、ベースラインで300部しか売れないという悲観的な観測への反響が大きかったというほうが正確でしょうか。この数字の根拠ですが、図書館の需要が約200、その分野の学会関係者の需要が100程度と見積もると、おおよそ300部ということのようです。
     
    300部しか売れない可能性を最初から念頭に置いて内容と価格設定を考えざるを得ない、ということだとかなり深刻な話です。これは出版業界だけでなく、学術書を書く研究者にとってもそうです。というのは、300部基準で考えざるを得ないのなら、日本語で書くこと自体をやめていくことになるのではないかと思うのですよね。
     
    先日イスラエルに出張したさい、イスラエルの研究者は文系でもヘブライ語で著作を書くことはまずないと聞きました。そもそも国内に大学が7つしかなくて、関連分野の研究者が全員読んだとしてもそれこそ300部に届かない世界らしいです。現象学をやっている友人に聞かれました――「母国語で書けるならそのほうがいいけど、100人ぐらいしか読者がいないものを書く気にならないでしょ?」。うーん、書く気になるかもしれませんが、ウェブ上で雑文として書けば話が済みそうですね。
     
    日本でも学術書の市場がどんどん小さくなっていくと、長期的には同じような状況になってしまうかもしれません。とはいえ、日本語を使用する人口は相対的に見て多いですから、一般向けの書籍がそれなりに売れる状況が残っているあいだは、学術書を一般向けの書籍に近づけて出版を継続するという形態がメインになるんでしょうね。
     
    しかし、これはこれで、学術をわかりやすくして限りなく一般書に近づけていく方向に見えます。今ふりかえると、この流れはずいぶん前から始まっていた気がします。新書の出版点数がおびただしく増えた時期があったと思いますが(2000年前後でしょうか)、書店にいくたびに「知のデフレ」のような事態が起きている印象を受けて嫌な気分になった記憶があります。
     
    逆に、中身のしっかりした学術書はたいてい出版助成を受けていて、最初からかなり限定された読者宛に書かれているものが増えました。こちらは、クオリティが高いのはよいのですが、学問や研究の面白さを、専門外の世界にいる人に伝えるものにはならない場合が多い気がします。学術論文を読むのと印象があまり変わらないといいますか。
     
    自分が著作を出すタイミングでなんだか暗い話を書いていますが、それなりに思うところがあってのことです。というのも、今回の著作はある水準の読者を想定してわかりやすく書くことにこだわっていますが、その一方で、話を単純化して知を安売りするような妥協は避けています。また、出版助成のバックアップをもらって実売部数を気にせず書いたものでもないですし、逆に、低価格が理由で売れるような本でもありません。論文でも新書でもできなさそうなことを模索してみました。
     
    とくに今回は、「心の科学のための哲学入門」というシリーズの一冊として何ができるのか、そのつど手探りしながら書きました。心の科学の側から入りたい人にとっても、哲学の側から入りたい人にとっても、ある学術領域への入口になると同時に、その向こうへ知的探求を広げられるように配慮したつもりです。
     
    もっというと、この本を取り巻く環境を想定して、そこで書けそうなことを最大限やってみた、ということになるでしょうか。この考え方じたい、実は本文で展開している自己論そのものです。与えられた環境のなかで持てるスキルを発揮して他者と相互作用をすること、その過程でそのつど成立しているのが自己である、というのが本書の基本的な発想ですので。
     
    というわけで、今回は、読者に向けて書くというパフォーマンスにおいても、本文で主張していることをほぼそのまま実践しています。どういった読者にどのくらいの規模で本書が届くかによって、学術書という「身体」のうしろに広がる環境がどんな場所なのか見えてくるだろうと期待しています。日本語の学術書を取り巻く現状を測量する、というとちょっと大げさですが。
     
    …著者目線で駄文を書き連ねてしまいましたが、ともあれ、本書は自己アイデンティティに関するものです。後書きでもここでも何度か書いている通り、「自己」という問いについて深く考えてみたい「青い読者」に広く届きますように。どんな知的背景をお持ちの方にも読んでいただけます。
     

     

    2017年5月27日土曜日

    アーカイブの資料追加(Haggard, 2017)

    研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。

    Haggard (2017). Sense of agency in the human brain. Nature Reviews Neuroscience. doi:10.1038/nrn.2017.14.

    エージェンシー(主体感)研究の世界ではよく知られている研究者P・ハガードによるレビュー論文です。3月にオンラインで先行出版されたばかりです。

    時間知覚におけるインテンショナル・バインディング、感覚の減衰(sensory attenuation)、行為の自他帰属など、主体感に関係する過去の実験をそのつど参照しながら、重要な論点を比較的網羅的に扱っている印象でした。比較器モデルだけでは主体感は説明できないという点をきちっと述べているあたりはさすがです。

    エージェンシーについては、現象学的な議論と絡めてつっこんで考えてみたいと思っています。現状の実験でうまく扱えていないものの、実験で扱うべき重要な論点が隠れている気がするのです。このブログに掲載している以下の資料は、逆に現象学の側でエージェンシーをどう見ているかが分かるものになっています。
     
    S・ギャラガー,D・ザハヴィ (2008/2011). 「行為と行為者性」石原孝二・宮原克典・池田喬・朴嵩哲訳『現象学的な心』(第8章)勁草書房

    ちなみに、統合失調症の「させられ体験」については、実験系の研究者が取りがちな見方とは異なる見解を拙著『生きられた<私>をもとめて』の第2章でも少し述べておきました。興味のある方はご覧いただけると幸いです。

    では、また。



    2017年5月16日火曜日

    アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』1-5章)

    研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
      
    D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第1-4章)新曜社

    D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第5章)新曜社
     
    今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』の要約です。先日、能智正博先生が主催する臨床心理学研究会という集まりに初めて参加しました。この本を取り上げて読書会を実施するので、田中は訳者ということでお声がけいただいたのがきっかけでした。

    渡辺先生、植田先生、田中と、訳者3人はそろって参加したのですが、東大の会場まで足を運べたのは渡辺先生のみで、植田先生と田中はスカイプで加わりました。開始が14時だったのでドイツは朝7時(!)でした。いや、朝7時は普通に起きていることのほうが多いのですが、この日は前日に全編をもういちど読み通すという作業をやっていたら終わったのが深夜3時前で、実質3時間ぐらいしか寝ていなかったのでした。

    しかしこうして学び直すと得るものは多いです。参加できて幸いでした。というのは、訳者であっても、原著の理解に行き届かないところは残るのですよね。翻訳するときには原文をできるだけ明示的に理解するよう努めていますが――この場合の「明示的」は、著者の主張を日本語にして、さらにそれを自分の言葉で語り直すことができるくらい、というのが目安です――自分の得意でない分野を扱っている箇所はそこまでの明晰さがなかなか及びません。読書会で他の人のコメントを聞いたり、自分で説明を加えたりしながら、暗黙の理解にとどまっていたことが改めて明示的な理解に転換したポイントがいくつかありました。
     
    今回は、能智先生のご協力でレジュメを当サイトの資料としてご提供いただきました。当初の予定では読書会当日に最終章まで読み切ることになっていたそうですが、内容がなかなかハードなので、今回は前半5章までで終了しました。レジュメは、1~4章を能智先生が、5章を博士課程の横山さんが担当されています。

    次回は6月10日(土)だそうです。次回のみの参加も可とのことですので、ご関心のある方は田中までお問合せください。現象学に裏付けられた質的研究に関心のある皆さんにとっては、心理学を専門にしていてもいなくても、学ぶことがとても多い本だと思います。

    2017年5月10日水曜日

    意識とギャップ/意識のギャップ

    イスラエルで「From Body to Self in Virtual Reality」というシンポジウムに参加してきました。

    細々したことは省きますが、ヴァーチャル・リアリティに関する発表と離人症に関する発表をつづけて聞いているうちに、意識の問題にまつわる本質的なことを考えさせられました。自分自身の発表では意識の問題は正面から扱わなかったのですが、潜在的にはこのことを考えたかったのだなぁ、と気づかされました。

    離人症では、いわゆる「脱現実感(derealization)」がしばしば生じます。自己が世界から離脱して、まわりの世界を傍観している感じです。当事者は「世界に霧がかかっているような感じ」「世界にありありとした現実感がない」といった表現をよく使います。もう少し踏み込んでいうと、脱現実感は、自分が現実(リアリティ)にうまくフィットしていない感じ、自分がいつものように世界と(情動と身体を介して)触れ合っていない感じをともないます。
     
    ここには、ヴァーチャル・リアリティを考えるうえで大きなヒントがあります。ヴァーチャル・リアリティでは、ヘッドマウント・ディスプレイを使って、いつもとは違う現実にアクセスしますが、そこに強い没入感が生じます。脱現実感とはまったく逆に、自己が仮想現実に吸い込まれるような感覚が生じていて、離人症とは逆の事態が起きているように見えるわけです。
     
    かたや、現実から自己が分離して、現実が現実っぽさを失う経験。
    かたや、仮想現実に自己が没入して、非現実が現実っぽく感じられる経験。
     
    しかしながら、どちらも、意識のはたらきの本質にかかわる面があります。というのも、「意識があること」とは、いまここで私の前に世界(現実)が現れている経験に他ならないからです。「意識がない」状態と比べてみてください。私がいないだけでなく、世界も開けていませんよね。
     
    ところで、私の前に現実が現れてくるには――言い換えると、私が現実に気づくことができるためには――「私」と「現実」のあいだに「裂け目(ギャップ)」がなければなりません。意識が意識として(つまり、何かに気づいている作用として)はたらきはじめるには、ギャップが必要なのです。
     
    VRの場合、このギャップが予想される以上に小さいために没入感が生じるのでしょうし、逆に、離人症では普段以上にこのギャップが大きくなるので「何を経験しても自分のこととして感じられない」という事態になるのでしょう。VRは、離人症の治療に応用できる可能性が十分あるように思います。
     
    しかし、このギャップ、私と世界の「裂け目」(メルロ=ポンティ風に「裂開」と言ってもいいですが)は、どのように説明することができるのでしょうか。たんに抽象的な説明としてではなく、VRや離人症のような具体的経験に即して言語化するとすれば、どのような説明が可能なのでしょうか。かつて木村敏氏が「現実」をリアリティ(reality)とアクチュアリティ(actuality)、あるいは「もの」と「こと」という対概念で説明しようと試みています。ひとつの重要な手掛かりになるように思います。
     
    とはいえ、これだけでは技術、実験、治療といった具体的なレベルの問いにまだ落とし込めません。たとえば、オキュラス・リフトには加速度センサーが組み込まれていて、首の回転速度に対応して見えを変化させることで、没入感が強まる仕組みになっています。これは「ギャップ」を小さくする技術レベルの仕掛けと言えます。現実の現実感は、知覚を生じさせる身体の基礎的なメカニズムに深くかかわっています。
     
    …とりとめがないのでこのへんでやめます。ともあれ、深く考えさせられるシンポでした。関係者にこの場を借りてお礼を申し上げ…って書こうとしましたが、日本語を読める関係者は誰もいないのでした(笑
     

     

    2017年4月27日木曜日

    ミニマル♪

    拙著のカバーデザインができたそうです。
     

    シリーズものの一冊(「心の科学のための哲学入門」)なので基本になるデザインは既刊に合わせてあるそうなのですが、それにしても本文の内容にぴったりなデザインになってます。
     
    というのも、信原先生の的確な推薦文にもありますが「すべての外皮を剥ぎ取った根源の自己を開示」する書なので、余分な色がないほうが内容に見合っているのです。実際、帯も「剥ぎ取って」あげるとこんな感じになります。
     
    これ以上なくシンプルですよね。この、ほとんど寒々しいほどにミニマルな感じ、素晴らしいです。ミニマル・セルフを扱ったこの本にぴったりです。デザインしてくださった関係者に改めて感謝です。
     
    ところで、これを見ていて、博士論文を書いていたころの自分を思い出しました。私の博士論文はユングの共時性を扱ったものだったのですが(『<意味のある偶然の一致>の現象学』)、ユングの回りくどくてゴテゴテとした文体が苦手(というかはっきり言うと嫌い)で、そういうのを全部脱色して骨格だけを残すとどうなるのか、という思考の実践を書きながらずっと模索していました。
     
    当時、たまたま友人が貸してくれて耳にしたミニマルミュージックは、そういう思考にとてもよくフィットしました。スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーの音を小さい音でBGMにして流しながら深夜に博士論文を書く作業を何度も何度も何度も何度も何度も…繰り返した記憶があります。
     
    記憶の話をしていますが、当時を懐かしがっているわけではありません。そういうことではなくて、音楽であれ思考であれ、ミニマルなものの探求は、最小のユニットに全体を還元できるかどうかという方法論的探索を含むので、知の探求にとって重要だということです。理論的な観点において「要素主義」や「原子論」ではなく「ゲシュタルト」や「全体論」が重要なのは言うまでもないのですが、それは、還元的なやり方で全体をいちどバラしてみるからこそそう言えるわけです。
     
    ミニマルミュージックを聞いて文字通り感動するような人はあまりいないと思います。が、ミニマルな音の良さがわかる人はメロディやハーモニーの豊かさを格段によくわかるのではないかと思います。自己アイデンティティの問題もそれと同じで、ミニマルな自己までそぎ落として自己が理解できるとき、自己という現象の複雑さと豊かさが初めてわかるのではないでしょうか。「私」がいま・ここに存在することは、それじたいで驚異的なことです。
     

     

    2017年4月26日水曜日

    イスラエルに行ってきます

    もうすぐイスラエルに行くのでその準備。「From Body to Self in Virtual Reality」というなかなか刺激的なタイトルのシンポジウムに呼ばれたので行ってきます。

    主催のドロン・フリードマンという方がどんな仕事をしているのか知らなかったので調べてみたのですが、ブレイン-マシン・インタフェース(BMI)とかVRとか、ヴァーチャル・ボディ系(と言っていいのかな、まあ、考えることで外部機器やVRを操作する類の研究です)の方みたいです。その方面ではけっこう知られている方のようですね。シンポのタイトルが「From Body to Self」なのは、つまり、身体から切り離された自己が可能なら、その自己は外部機器やVRに接続しうる、という発想なのでしょう。

    私に声がかかったのは、いま離人症を研究しているためです(…と、思います)。離人症では変則的な身体経験がいろいろ生じますが、もっとも顕著なのは自分が身体から離れているように感じるという症状なのですね。少し離れたところからぼんやり自分を傍観しているような状態が生じることが多いと言われます。

    これは一方できわめて心身分離的な状態に見えます。他方で、BMIで探索されているのも、ある種の心身の分離と言える面があります(本当は違うように思われますが詳細はまたいつか)。身体が麻痺しても、脳の活動を外部機器に接続して、コンピュータやロボットを動かすことで人工身体を稼働させる研究ですからね。四肢麻痺状態の方でも脳と外部機器を接続して動かしている風景がもっと一般的になる時代もそう遠くないのだろうと思います。

    それで、先日ジャーナルに投稿した論文の内容を話すことにしました。離人症で生じる心身の分離体験と、フルボディ錯覚で生じる体外離脱的な体験が似ているのか否か、現象学的に検討しているので、たぶんシンポジウムの趣旨にも合致するんだろうと思います。身体所有感が低下して自己と身体の分離が生じる点は両者とも似ていますが、「どこ」に自分がいるかをはっきり感じられるか否かでは違っています。この「どこ感」まで突っ込んで議論できると、タイトル通りに刺激的なシンポになりそうです。



    2017年4月24日月曜日

    胸熱。

    出版社の配慮で、もうすぐ発売になる拙著『生きられた〈私〉をもとめて』に、推薦文入りで帯をつけていただけることになりました。アマゾンからそのまま引っ張りますが、こんな一文をいただいています。

    ◆推薦のことば
    すべての外皮を剥ぎ取った
    根源の自己を開示。
    表層的なアイデンティティ論を乗り越えた
    果敢な哲学の挑戦。
    信原 幸弘(東京大学大学院総合文化研究科教授)
     
    この本で書きたかったことの核心を、ごく限られた数行で、しかもかなり的確に凝縮していただきました。ありがとうございます、信原先生。

    個人的には「果敢な哲学の挑戦」というフレーズが、かなり胸熱です。このブログでも何度か「青い読者」に向けて書きました、という言い方をしていますが、その意を汲んでいただいたように感じています。心の科学の現在の知見を確認しながら「答えのない問い」をめぐって思考を展開することを試みた本ですから(もっとも、その裏側で、心の科学のさらなる進展を後押ししたくて書いている箇所もありますが)。

    なお、北大路書房のWさんとも相談しているのですが、この本の持っている熱に見合うイベントを何かやることになるかもしれません。それこそ「青い読者」に届きそうな場所で。
     

     

    2017年4月18日火曜日

    アーカイブの資料追加(離人症・書籍リスト)

    研究アーカイブに資料を追加しました。

     *離人症・関連書籍

    離人症に関して出版されている主な書籍のリストになっています(論文は多すぎるので収録していません)。この資料は、知人の芹場輝さんが主に作成し、田中が少し加筆したものです(ご協力ありがとうございました)。今後、芹場さんが各書籍について100字程度の簡単な要約をつけてくださる予定になっています。期待しましょう。
     
    書籍のタイトルをざっとみてもらえると何となくわかるかもしれませんが、この領域の研究は、精神科領域の方が書いたものと、当事者の手記によるものに大別できます。ただ、じっさいに読んでみると、両者のあいだにある種の「溝」のようなものがあることに気づきます。当事者側からすると、精神科医に症状がうまく伝わらないもどかしさがあるように見えますし、医療者側から見ると、客観的に症状がとらえづらく、当事者の言葉だけからすると他の病気と類似する面が多々あるように見えるのではないでしょうか(うつやPTSDや統合失調など)。現状では、症状を記述する言葉が依然として十分ではないように思います。

    ところで、このサイトでは今までこうした文献リストは作成していませんでしたが、これを機に取り組んでもいいかもしれませんね。作成したいトピックがある方は田中までご連絡ください。
     

     
     
    2017/4/27
    和書のリストについて、芹場さんが早速内容紹介を作ってくれたのでファイルを更新しておきました。書籍への手引きとしてとてもよい案内になっていると思います。離人症について理解を深めたい皆様、ぜひ手に取ってみてください。
     

    2017年4月15日土曜日

    拙著は5月末発売だそうです

    拙著のことで北大路書房のWさんから連絡。先月末に二校の校正が終了した原稿はその後ぶじに校了したとのこと。発行が5月中旬、発売は5月末になるそうです。個人的にお問い合わせいただいている皆さま、お待たせしていますがもう少しです。
     
    近刊情報が今日から確認できるとのことだったので、確認してみました。アマゾンのページよりは「版元ドットコム」のページのほうが見やすいですね。それに、目次情報が小見出しまで入っていて詳しいです。書影はまだ先になるんでしょうか。二つのサイトからコピペして情報をそのまんま引っぱりますが、こんな感じの紹介になってます。
     
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    (心の科学のための哲学入門4)
    『生きられた〈私〉をもとめて――身体・意識・他者』
    田中彰吾(著)
    ¥ 2,484
    単行本: 264ページ
    出版社: 北大路書房
    ISBN-10: 476282965X
    ISBN-13: 978-4762829659
    発売日: 2017/5/29
     
    <内容紹介>
    現象学的な立場から,アイデンティティを「私が私であること」と理解し,根源的な場面まで遡ってその根拠を考える。ラバーハンド・イリュージョン,離人症,ブレイン・マシン・インタフェース,心の理論など,読者の常識を揺さぶるような「心の科学」のトピックを織り交ぜながら,「自己とは何か」についての思考実験を行う。
     
    <目次>
     序文 自己アイデンティティをとらえなおす
     
    【第1部 自己の身体性】
    第1章 身体と物体
     ラバーハンド・イリュージョン
     実験のヴァリエーション
     離人症
     離人症の「特異な身体経験」
     身体は錯覚?
     身体の「ここ」性
     次章への移行
    第2章 自己の身体と他者の身体
     身体の麻痺
     身体パラフレニア
     失認と妄想
     させられ体験
     イメージと意図
     次章への移行
    第3章 鏡に映る身体
     身体イメージとは何か
     視点の問題
     チンパンジーの鏡像認知
     赤ちゃんの場合
     他者・自己・鏡
     反省的自己をめぐって
    ●問いと考察
    Q 1-1 身体のない自己というものを考えることはできるだろうか?
    Q 1-2 身体を部分的に失うと、自己には何が起きるのだろうか?
    Q 1-3 死ぬことで身体が失われると、自己はどうなるのだろうか?
     
    【第2部 意識と脳】
    第4章 意識・夢・現実
     意識があるということ
     「無・意識」
     意識と世界
     明晰夢
     現実
     夢見の身体性
     目覚めること
    第5章 脳と機械を接続する
     ロボラット
     ブレインゲート
     ニューラル・オペラント
     BMIと脳の可塑性
     意図とは何か
     身体イメージを技術化する
    第6章 共感覚
     共感覚について
     声に形を感じる
     共感覚の判定基準
     共感覚の位置づけ
     すべての知覚は共感覚である?
    ●問いと考察
    Q 2-1 意識は、脳の活動から生じるのではないのか?
    Q 2-2 心は脳に宿っているのではないのか?
     
    【第3部 他者の心】
    第7章 問題としての他者
     他者の心の問題
     再び意識について
     他者の心は存在しない?
     心の科学の出発点
     類推説の問題点
     次章への移行
    第8章 心の科学と他者問題
     初期の科学的心理学
     行動主義
     認知科学の成立と心の理論
     誤信念課題
     他者理解の豊かな回路
    第9章 他者理解を身体化する
     理論説とシミュレーション説
     二人称関係における他者
     エナクティヴな間主観性
     コミュニケーションの質と身体性
     他者理解の身体性と自己
    ●問いと考察
    Q 3-1 他者理解の発達的な起源はどのようなものだろうか?
    Q 3-2 ミニマル・セルフの成立にとって他者は不必要か?
    Q 3-3 他者と出会うことで自己はどのように変化するのか?
     
     あとがき
     参考文献
     索引
    ----------------------------------
     
    「自己とは何か?」という問いかけは非常に抽象的ですから、それを具体化する過程でいろいろな考え方、答え方ができるはずです。本書は「心の科学のための哲学入門」という趣旨なので、認知科学・神経科学・発達科学・精神医学などのさまざまなトピックを引き合いに出しながら、「心の科学」という文脈に沿って「自己とは何か?」という問いに答えようと試みています。それがどこまでうまくいっているかは読者の判断にゆだねるしかありません。科学側から入りたい方も、哲学側から入りたい方も、ぜひ手に取ってみてください。いや、きっと書店に行く人は少ないだろうからオンライン書店でポチってください(笑
     
    あ、ツイッター上で「悪漢と密偵‏ @BaddieBeagle」さんがさっそく情報を流してくれているのを見つけました。ありがとうございます。このかた、新刊情報いつもものすごく速いですよね〜






    2017年4月10日月曜日

    Intercorporeality and aida (Tanaka, 2017)

    今日は自分の論文の話題。けっこう時間がかかりましたが、間身体性と「あいだ」について考察した論文が出版されました。掲載誌は理論心理学系のジャーナル『Theory & Psychology』です。

    Intercorporeality and aida: Developing an interaction theory of social cognition
    Shogo Tanaka, First Published April 9, 2017

    アブストラクトはこんな感じです。

    The aim of this article is to develop an interaction theory (IT) of social cognition. The central issue in the field of social cognition has been theory of mind (ToM), and there has been debate regarding its nature as either theory-theory or as simulation theory. Insights from phenomenology have brought a second-person perspective based on embodied interactions into the debate, thereby forming a third position known as IT. In this article, I examine how IT can be further elaborated by drawing on two phenomenological notions—Merleau-Ponty’s intercorporeality and Kimura’s aida. Both of these notions emphasize the sensory-motor, perceptual, and non-conceptual aspects of social understanding and describe a process of interpersonal coordination in which embodied interaction gains autonomy as an emergent system. From this perspective, detailed and nuanced social understanding is made possible through the embodied skill of synchronizing with others.

    簡単に言うと、社会的認知は以前は「心の理論」を中心に議論がされていました(今もあまり変わっていません)。理論説とシミュレーション説の論争もありましたが、どちらも身体性が欠けている、という批判があります。では、身体性から出発して社会的認知や他者理解を論じるとどうなるのか、というと…説明するのがちょっと面倒になってきたので、そのうち紹介ページでも作ります。とりあえず、昔の研究会で使ったこんな資料を日本語でざっと見てもらうと、何が論点なのかつかんでもらえそうです。

    2011 年 2 月 26 日:2010 年度第三回身体知研究会(RMEK)資料
    他者理解の科学と現象学―心の理論から間身体性へ

    今回の論文は、メルロ=ポンティの間身体性に、木村敏氏の「あいだ」概念をつなげて、考察をさらに発展させたものになっています。身体的な相互行為をベースとして、自己と他者のあいだで創発する間主観性の領域がある、というのが主題です。

    …しっかし、長かったです。投稿したのが2016年の2月で掲載が昨日ですから、約14ヶ月かかっています。先日デンマークに出張した際にも、なんでこの雑誌は査読にこんなに時間がかかるのか、酒の席で話題になっていました(半年待たされてリジェクトされたからここには二度と投稿しない、という強烈な恨み節?も耳にしました)。

    たしかに、投稿してから掲載まで1年を超えるような雑誌だと、もらっている研究費の成果報告書に書けない場合も出てきますから書き手からすると不満です。自然科学系だとこんなに時間のかかるジャーナルは作れないでしょうね。出版されるころには内容が古くなっているでしょうし。

    ですが、個人的にはこの雑誌は気に入っています。査読がちゃんと機能していて、査読者が本文を読み込んでけっこう本気なコメントが帰ってきます。私は今回が2回目の投稿でしたが、前回も今回もコメントはかなりまともで、手続き的にも内容的にも、自分の至らない箇所をふみこんで指摘されました。怖いですねぇ〜(笑 
     
    ではありますが、こういう査読のおかげで自分の書くものが出版前に一定のクオリティを保てるわけですし、査読者もたいていの場合はボランティアで査読を引き受けてくれているわけなので、やはりありがたい話なのですよ。テキトーな査読者に原稿が当たらない限りは。




    2017/06/08
    本日、無事印刷バージョンが出版されました。ページ番号を含めて、論文情報をアップデートしておきます。以下のリンクからPDF版をダウンロードできますよ。
     
    Intercorporeality and aida: Developing an interaction theory of social cognition. Theory & Psychology, 27, 337-353.

    2017年4月9日日曜日

    アーカイブの資料追加(Ataria, 2015)

    研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。

    Ataria, Y. (2015). Dissociation during trauma: the ownership-agency tradeoff model. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 14, 1037-1053.

    トラウマ周辺で生じる解離症状を探った文献です。イスラエルでテロの生存者にインタビューを実施し、そのナラティヴを分析しながら症状の身体性を探ったもの。引用されるインタビューの内容はかなり生々しいものがありますが、要約にはほとんど反映していません(その点に興味がある方は本文を読んでみてください)。

    この論文のオリジナルな貢献は、その貴重なインタビュー内容もさることながら、副題にある「ownership-agency tradeoff model」です。トラウマ周辺の解離症状を探っていくと、身体の所有感と行為の主体感がトレードオフになっていて、主体感が強化されると所有感が下がり、所有感が強まると主体感が下がるという関係を明らかにしています。両者が均衡しているのが通常の身体の状態であると。

    トラウマ的な事象に襲われると、身体から自己が分離したり、痛みを感じなくなったり、どうやら誰もが解離症状を経験するようで、それ自体、適応的な意味をもつようです。いわば、「この悲惨な状況を経験している自分は自分ではない」というやり方で自己を解離させてしまうことでその場を乗り切っているのですね。これは「防衛機制としての解離」と呼ばれます。

    ただ、その一方で、激しい痛みを感じながらも身動きがとれず凍ったようにその場で固まってしまうように、あまり適応的な意味を持たないように見えるケース(それでも「頭の中が真っ白になる」というような解離は生じています)もあります。この場合、解離は防衛機制のように見えません。

    結論で明確に述べられていないのですが、著者は、主体感と所有感のトレードオフ・モデルで、防衛機制としての解離と、そうでない解離をともに説明できると考えているようです。これは非常に興味深い着眼ですし、所有感と主体感の問題を(さらにはミニマル・セルフの問題を)、神経科学系の議論とはまた違ったしかたで考えさせてくれます。
     


    2017年4月5日水曜日

    科研費のことなど

    年度始めですね。研究者にとっては科研費のシーズンです。前年度に申請した書類の採択・不採択の通知をもらう時期なので。周囲で「当たった」「外れた」という声に合わせて「宝くじかよ」というツッコミも聞こえてきます。今年の私は日本にいませんがそういう声が風に乗って聞こえてくるかのようです(笑

    それで、嬉しいお知らせを早速いただきました! 田中も研究分担者として加わっている課題が採択されたとのこと。代表は立教大学の河野哲也先生で、こんな企画です。

    基盤研究A(平成29~33年度予定):「生態学的現象学による個別事例学の哲学的基礎付けとアーカイブの構築」

    生態学的現象学は、河野先生が開拓されてきた理論的立場で、ギブソンの生態心理学とフッサール以降の現象学を架橋するものです。身体と環境の循環的な相互作用という観点から、認知を始めとする人間のさまざまな活動を理解する哲学的な試み、と要約してよいかと思います。

    このプロジェクトでは、生態学的現象学にもとづいて「個別事例学」の理論的な基礎付けを行うことと、加えて、さまざまな事例のアーカイブを構築することを予定しています。

    個別事例学…名称が少し固いですが、ひとが抱えているさまざまな課題や問題を解決している事例を検討し、それに理論的基礎付けを与えて「学」にしようという試みです。身体と環境との相互作用という観点に着目すると、ひとが自分の抱える問題を解決するときは、環境とのかかわり方を創造的に変化させています(逆上がりのできない子どもが踏み台を使うと簡単にできるようになったりしますが、この場面は文字通り環境とのかかわり方を変えて問題を解決していますよね)。

    生態心理学に「促進行為場(field of promoted action)」という概念があります。環境と自己の関係を問題解決に向けて適正化することで行為と学習が促進される場のことです。この「場」が、人々の現実の問題解決場面でどのように現れているのかに着目し、問題解決の事例ライブラリを構築する予定になっています。

    ライブラリを作ってどうするかというと…それを一般の人々に公開して利用できるようにしたいわけです。自分が抱えているのとよく似た課題がどのように解決されているかのヒントを、事例ライブラリから探ってもらえるようになれば、創造的なライブラリになりそうですよね。新しい教育・学習のモデルになりうるかもしれません。

    もっとも、どのような事例であれば他者にとっても問題解決のヒントになりうるのか、という点についての理論的な考察は必要です。他者の事例は、それを知ることで自分の問題の解決に向けて洞察を与えてくれる場合もあればそうでない場合もありえます。このプロジェクトで重視しているのは、誰にでも当てはまるような(でも実際には誰にも役立たないような)「法則性」ではなく、問題を抱えている当人にとって役立つような「当事者性」です。

    具体的なフィールドとして、「対話と思考」「発達」「身体動作・技能」「アート」「ソーシャルワーク」といった分野が想定されています。これからの展開にご期待ください。

    私自身も、身体性をベースに人間の活動をとらえなおす「Embodied Human Science」というプロジェクトを自分で進めているので、それを問題解決、学習、教育といったテーマに結び付けて考える良い機会をいただいたと思っています。
     

     

    2017年4月3日月曜日

    『心の科学史』とエンボディード・アプローチ

    昨年秋に講談社学術文庫版で再版された高橋澪子氏の『心の科学史』を読んでいて、次のような文章に出会いました。

    【自然への問いかけや仮説の検証手段としての現代的意味における実験が<心(ゼーレ)>そのものを対象にしておこなわれたことは、おそらく、かつて一度もなく、(自然科学におけるそれと同様の意味を持つ)近代的方法としての実験は、心理学にあっては、<心(ゼーレ)>そのものを追放したあとの「行動科学」においてのみ、はじめて可能となったのではないだろうか。むろん、この種の議論を(新行動主義者がしたように)”定義の問題”としてかわすことは簡単である。だが、ここでいう<心>とは、定義以前の、近代以降に生まれたわれわれの誰もが日常生活の中で”心得て”いる(暗黙のうちに了解し合っている)常識概念としての<心>、すなわち”内なる”(そして、さらにつけ加えて言えば”自律的な”)心であり、そのような<心>ないし<ゼーレ>を対象とする”実験”科学は、かつて一度も存在しなかった。】(第四章・第3節・4)

    ここで著者が言っているのはこういうことです。デカルトが物心二元論によって見出したような「われ思う」を基本にする私秘的(プライベート)な領域ーー日常的な言葉で言うと「内面」のことですーーが心理学の対象である限り、それは決して実験科学の対象にはなりえない、と。内面としての心は、直接知覚できませんし、観察対象になりませんから、心を対象にする科学というのは成り立たないわけです。古くは哲学者のカントが、『自然科学の形而上学的原理』のなかで、類似する議論にもとづいて心理学が不可能だと述べています。

    ただ、興味深いのは、だから心理学は実験をベースとする自然科学として成立しえないのだ、とは著者が必ずしも考えていない点です。巻末の解説で、渡辺恒夫氏もこう書いています。

    【ただし著者は、行動主義やその延長にある生物学的心理学だけが唯一の科学的心理学だと言っている訳ではない。物心二元論の枠組みをもう一度認識論的に乗り越えたところに、「『科学』ではあっても、もはや『近代科学』とはその意味をまったく異にする新しい心理学」が成立しなければならないと言う。】

    一体どのような心理学なんでしょうか?

    著者も認めるように簡単な答えはありませんが、「心理学の哲学」「理論心理学」「心理学基礎論」などの名前で呼ばれる領域では、さまざまな議論が繰り広げられています。私自身も、認知神経科学の研究成果を現象学的な観点から理論的に整理したり、実験以前の探索的研究に質的なアプローチで迫ったり、といった仕事をしています。基本的には、デカルトまでさかのぼって身体との関係から心をとらえ直し、「心=内面」という発想を取り外すことが、最も重要なアプローチだと考えています。このページの趣旨でもある「エンボディード・アプローチ」ということになりますね。

    いずれにしても、心理学はもともと、「何を心とするのか」「どのようにアプローチするのか」「他者の心は知りうるのか」といった方法論的に難しい課題を多く抱えているということです。なので、実験や臨床や質的研究に深く取り組もうとすればするほど、認識論的な根拠について考えることを求められる、ということなのです。
     

    2017年3月30日木曜日

    大文字の問い

    単著の二度目の校正が終わりました。

    いつも論文ばかり書いている関係でなかなか形にできていなかったのですが、今回の著作では意識して取り組んでみたことがあります。

    それは、文献の裏付けが取れないポイントについても踏み込んで書くこと。ここ5年ぐらい固めの学術論文しか書いていなかったので、引用文献がないことは書くのを控える、みたいな保守的な書き方が習慣化していましたが、今回そういう「自主規制」は少し緩和しました。

    原稿を書いている最中に架空の読者が頭に浮かんできて、「そうそう、読者がここで期待するのは〇〇が▲▲でこう言ってる」とか「〇〇の××年の論文にこういうデータがある」みたいなことじゃなくて、本文を読みながら考え始めた「大文字の問い」についてもっと踏み込んで考えるのを後押ししてくれる言葉なんだよな…と思って書き改めた箇所がいくつもありました。

    (まあ、そうはいっても学術書なので一定の文献情報はちゃんとつけてあります--文献やデータをちゃんと調べずに書かれたいわゆる「アカデミック・エッセイ」は評価しないクチなので)。

    それが一番色濃く出ているのが、各部の終わりに補足して書いた箇所です。今回の本は3部構成で各部3章ずつになっているのですが、それぞれの部の最後に「問いと考察」として、本文中での問いかけをもっと掘り下げる話を書いてあります。「問いと考察」の「考察」は出版されてから読んでいただくとして、「問い」だけここでご紹介すると、

    ----------------------------------------
    『生きられた<私>をもとめて』
    (北大路書房・シリーズ「心の科学のための哲学入門」4・近刊)

    第1部:自己の身体性
    Q1-1) 身体のない自己というものを考えることはできるだろうか?
    Q1-2) 身体を部分的に失うと、自己には何が起きるのだろうか?
    Q1-3) 死ぬことで身体が失われると、自己はどうなるのだろうか?
     
    第2部:意識と脳
    Q2-1) 意識は、脳の活動から生じるのではないのか?
    Q2-2) 心は脳に宿っているのではないのか?
     
    第3部:他者の心
    Q3-1) 他者理解の発達的な起源はどのようなものだろうか?
    Q3-2) ミニマル・セルフの成立にとって他者は不必要か?
    Q3-3) 他者と出会うことで自己はどのように変化するのか?
    ----------------------------------------

    どうでしょう。「大文字の問い」がたくさん並んでいますよね。各章を読んでいるうちに、おのずとこういう問いが気になって考えてしまうような構成にしてみたつもりです。以前ここで紹介した目次と並べて見てもらうと、この本がいかにこの種の深い問いに魅せられ、「答えがない」と思っていてもやっぱり考えてしまう「青い読者」に向けて書かれているかがわかってもらえるかと思います。

    2017年3月26日日曜日

    blooming, buzzing confusion

    ウィリアム・ジェームズが『心理学原理』の中で「blooming, buzzing confusion」という言い方をしている箇所があるらしい。赤ちゃんの経験しているだろう知覚世界を引き合いに出して、感覚印象が多種多様でとりとめがない様を指してこう言っているとのこと。

    日本語で何と訳すべきかよく分からず調べてみたのだが、英語ではよく引用される有名な表現らしい。こんなページが見つかった。いやぁ、恥ずかしながら知らなかった。
    The "blooming, buzzing confusion" of William James

    で、Principles of Psychologyの488ページにあることがわかったので、岩波文庫版の『心理学』で対応箇所を探してみたら…ない。うーん、こういうのは痛い。邦訳は1890年の『原理』ではなくて1892年に発表された『要録』なのでしょうがないといえばしょうがないが、ジェームズの残したフレーズとして英語では有名になっているものが日本語で参照できないのはまずいだろう。

    と思ってもう少し調べてみたら、あったあった、仮訳してるページ。ひとつはこんなページ。「花盛りでガヤガヤした混沌」になってますな。もうひとつはこんなページ。「無茶苦茶な、騒々しい混乱」ですって。

    どっちもイマイチしっくりこないので考えました田中訳。「ひどくやかましい混乱」でどうでしょう。「ひどく」のところはbloomingなので、花がいっせいに開花するようなイメージを持たせたもっといい訳ができそうですが。


    2017年3月20日月曜日

    Civilization Dialogueの余波

    前回の更新からなんとなく時間がたってしまいました。気づけば2週間以上更新していなかったんですね。

    この間、もっぱら3-4日にコペンハーゲン郊外で開催した「2ND CIVILIZATION DIALOGUE BETWEEN EUROPE AND JAPAN」と、その余波であれこれ事務的な仕事をしていました。

    余波のひとつは学術交流協定です。東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターとの間で近く正式な協定を結ぶことになりそうで、合意書の内容をあれこれ検討していました。2016年7月に東海大で開催した文化心理学ワークショップがかなり盛況だったのに続いて、今回のCivilization Dialogueも(参加者は少なかったですが)議論が活発で内容面でも噛み合っていたので、正式な協定を結んで研究上のやり取りをもっと増やすことになった次第。

    もうひとつの余波は文明研究所の機関誌『文明』での特集です。当日の各自の発表内容をを論文にして特集号を組むことになったので、その原稿募集の段取り。〆切とかワード数とか執筆規定とか査読とか、もろもろ事務的なことを盛り込んだCall for Papersを作って皆さんにお送りしました。前回のCivilization Dialogueの後も『文明』で特集は組んだのですが(ここで読めます)、今回はかなり本格的に編集委員会を組むことになりました。Valsiner先生とTateo先生がゲストエディターとして加わってくれるという豪華さです。

    この仕事、私にとっては個人的な研究上の関心を離れる面がだんだん大きくなってきているのですが(身体論や心理学と直接に関係のない議論も多いので)、学生さんや関係する若手のために人文系〜学際系の議論の場所を残しておきたいという気持ちでやっています(昨今人文系は予算がどんどん削減される一方で、活気のある組織が急激に少なくなっているので)。東海の文系大学院で学んでいる方、これから進学を考えている方は、ぜひCivilization Dialogueのイベントに加わってください。もちろん、他大の関係者も歓迎です。


     

    2017年3月1日水曜日

    オールボー滞在記

    1週間強のオールボー滞在もほぼ終わり。明日はコペンハーゲンを経由してベズベックに移動します。

    とにかく、フォーマルな場面でもインフォーマルな場面でも議論を重ねた1週間でした。キッチン・セミナーで自分が話すのに始まって、L・タテオ、P・マルシコの二人とは夏の理論心理学会の打合せを兼ねてずっと議論ともつかない議論をしていたし、ヴァルシナーさんのお宅を訪ねて研究に関する疑問をぶつけたりもしました。身体性から始める一階のアプローチが、概念や記号のような高階の認知と出会う場面を模索したくて、セミナーの続きをやった感じでした。

    週が変わって27日になると、文化心理学研究センター主催のニールス・ボーア・レクチャーがあり、二日間、かなり豪華な顔ぶれの議論に触れることもできました。これ、レクチャーと銘打ってはいますが、実質的にはカンファレンスで、最初の基調講演のあとはいろんな人が登壇して最初の講演に対する指定討論を行うという、なかなか日本では見ないスタイルのものでした。私は自分の次のイベントの準備に追われて会場にフルでいられず、基調講演+αぐらいしか聞けなかったのが残念でした。
    The Fifth Annual Niels Bohr Lecture in Cultural Psychology

    基調講演はいわゆる「拡張した心」のパラダイムを記憶に持ち込む内容のもので、考えさせられました。「拡張した心」は、認知活動を「脳内」から「脳・身体・環境」というシステムに拡張して考えるのですが、しかしその場合、個別の認知活動のユニットをどこに見出すのかで議論が割れます。記憶の場合、「思い出す」という想起の活動に着目すると、環境に宿るというよりは「思い出す」過程を経験するエージェントが明確に存在するように思えます。しかし、人々の記憶がナラティヴとして保存されるアーカイブを念頭に置くと、身体よりは環境の側にアクセスすべき記憶が宿っているとも言えます。記憶はどの程度セッティングに依存するのか、そもそも記憶はどこかに保存される性質のものなのか、思い出す主体にどのくらい依存する認知活動なのかをめぐって、記憶を語る言語やナラティヴの役割はどう位置付けるべきか等々、指定討論の内容も分かれている様子でした。

    ちなみに、レクチャーの会場では、日本から来ていた尾見先生とも話ができて面白かったです。日本の「部活」について研究されているそうで、部活をめぐっていろんな話を伺ったのですが、部活に流れるエートスを読み解くと「日本的なもの」の正体がかなり読み解けそうな面白さがありました。

    ともあれ、そんなこんなであっという間に1週間。議論の合間にこの週末のベズベックでのイベントで話す準備をするというハードかつ楽しい日々が過ぎていきました。この間、日本にいる元教え子から具合の悪そうなメールが立て続けに入っていて心配になったのですが、彼は大丈夫なんだろうか...



    2017年2月24日金曜日

    論文2件

    昨日発表が終わったので、次の仕事までの合間に論文を2件。

    1件は査読。…なので詳細はここに書けないけど、なんだか散漫。このブログを読んでいる人の論文ではないはず(英文の、理論系のジャーナルから回ってきたものなので)。許容範囲でグチを書かせてもらうと、扱っているトピックはすごく興味深いのに、切り口も論旨も明晰さを欠いていて、読んでいて腑に落ちない。推敲が不十分で、書き散らかしたような印象を受ける。大量に論文書きまくっているタイプの著者じゃないか、と文体から判別できるものだった。こういう業績稼ぎの査読に付き合わされるのはつらい。依頼を引き受けなきゃ良かった。…我慢してちゃんとコメント書いて送ったけど。

    もう1件は査読じゃなくて文面の確認。ドイツに来る直前に大学院生のEさんからインタビューを受けたのだが、自分の発言が収録された箇所に関する確認依頼。論文は、駒場の科学技術インタープリター養成プログラムの研究の一部で、内容は心理学における量的研究と質的研究・理論的研究に関するもの。某研究会でお世話になっているAさんと私と、二人が量的研究と理論研究のコラボの事例としてインタビューに登場している。あぁー、インタビューを丁寧に文章に書き起こされてしまうと自分の語りってこんなに不明瞭なのかー、とちょっと赤面する。でも論文自体はとてもよく書けていて、研究方法が異なる者が相互に連携する必要性と困難を、具体的な点までけっこうよく分かって書いてるんだなと感心する。「実際に連携を行う中でも、専門性が不十分な研究者同士の連携からは有意義な議論が生まれない」…ってEさんが書いていて、そうそうこれは本当にその通りなのだよ代弁してくれてありがとうインタビュー受けて良かったよAさんとやってる研究会ももっと結果出したいよな…なんてことを思う。


    2017年2月23日木曜日

    昨日の残響

    Kitchen Seminar、楽しかったです。ドイツで私が行く研究会はどちらかというと開始までみんなやや緊張気味で静かにしているところが多いのですが、昨日は最初からわいわいしていました。研究会そのものが懇親会的、といえばいいんでしょうか。

    議論のクオリティも低くなかったです。学際系の研究会はオーガナイズする人の知識と経験がその場の議論のクオリティに直結してしまうので、ダメな研究会はアカデミックな雑談に流れたり、的外れなディベートに終始したりすることが多いのですが(そうならないように私も自分の研究会では気をつけています)、ここはそういう意味では良くオーガナイズされていました。誰かが発言した後で、それに関連する過去の研究についてヴァルシナーさんが言及する場面が何度かあって、彼の博識が議論のクオリティを支えているのが伝わってきました。

    場の作り方もユニークで、会場はラウンドテーブルで10人も座れば満席なのですが(昨日もちょうど10人でした)、オンライン・システムでどこからでも参加できるようになっていました。昨日もブラジルとアメリカの研究者が参加していました。画面の向こう側から議論に割って入るのは実際には難しそうですが、聴講する分には問題なくできるみたいです。議論の交通整理は、夏に日本に来てワークショップをやってくれたタテオ先生とマルシコ先生が主にやっていました。

    とはいえ、基本的なアプローチの違いについて当面埋まりそうにない溝もはっきりしました。私のように身体性認知に立ち位置がある研究者は「知覚と行為」という一階の経験から始めますが、文化心理学は、心的過程が記号によって媒介されていることを前提として話を始めます(とくにヴァルシナーさんの立場はそうです)。昨日は離人症を題材に心身関係を考える話題だったのですが、文化心理学的には症状の「意味」のほうにダイレクトに関心が向かってしまい、身体経験の感覚・知覚レベルでの変異から始めて症状の核心に迫りたい私からすると、議論すればするほどアプローチの違いが浮き彫りになる印象でした。

    それで、後になって思い出したのが2013年の札幌での心理学会です。文化心理学と生態心理学をテーマにしたシンポジウムが心理学会であって、あのときは、ギブソンの著作に出てくるポストの知覚をめぐって、「ポスト」という記号的意味に媒介された知覚が重要なのか、光学的流動を通じてポストの投函口のアフォーダンスが知覚できることが重要なのか、突っ込んだ議論になっていた記憶があります。企画に関わっていた先生たちも豪華で、かなり刺激的な議論を聞けました。

    このあたりのアプローチの違いは、昨日も議論していて思いましたが、心身問題にどのくらい重きを置いて心理学を見るか、という方法論的な違いと深く関係するので、簡単な答えはなさそうです。ですが、心理学方法論に関する大事な論点ではあるので、引き続き考えたいと思っています。



    2017年2月17日金曜日

    2/22 K-Seminar@Aalborg University

    すでに来週に迫っていますが、デンマークのオールボー大学で話をしてきます。文化心理学研究センターの関係者がやっている「Kitchen Seminar」という研究会です。

    Centre for Cultural Psychology / Kitchen Seminar

    初めて参加する研究会なのでどういう趣旨の場なのかよく知らないのですが、もともとはヴァルシナーさんがアメリカのクラーク大学にいた頃に始めたらしいです。執筆中の論文のアイデアを持ち寄って自由に意見を出し合うのが慣例なんだとか。「キッチン」はそういう意味でのフランクな議論を象徴する場所なんでしょうか。日本語で言うと「井戸端会議」っぽいですね、なんとなく。しかし「井戸端会議」なんていう名称の研究会は端的に「ない」ですね。

    私は書き上げたばっかりの離人症がらみの論文について話してきます。文化心理学の議論とは一見したところあまり関係がないので、問題意識を共有してもらうのに丁寧に時間を使うほうがよさそうです。



    3月3-4日:シンポジウム「Civilization Dialogue」

    来月3-4日、コペンハーゲン郊外にある東海大学ヨーロッパ学術センターで、以下のイベントがあります。

    2nd Civilization Dialogue between Europe and Japan

    リンクをたどるとプログラムの詳細が見られます。今回は、東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターの共催イベントにしていただきました(感謝です)。

    プログラムは、3日が文化心理学系の議論が中心、4日が文明研究系の議論が中心です。4日は、平野葉一先生が文明研究所で推進している「超領域人文学」プロジェクトに関連する議論が中心です。

    2015年11月に続いてこれが2度目なのですが、前回は初回なのに予想以上に議論がかみ合っていました。残念ながら関係者以外の一般の参加者の方々とほとんど話ができなかった(というか来賓の対応で手一杯だった)ので、どういう方がオーディエンスとして来ていたのか詳細はわからずじまいでした。しかし、的を得た質問は多く出ていたので、大学院生や研究者が多そうではありました。

    今年はもうちょっと来場者の方々と交流してみたいと思っています。たぶん、日本語・日本文化に関心のある方が多いのだと思いますが、その関心をいい意味で打ち破りたいなと思っています。エキゾティシズムに乗っかるイベントってつまらないので。



    2017年2月13日月曜日

    青い読者に届きますように。

    離人症関連の論文はあっさり第一稿を書き終わってしまいました。リライトまでしばらく原稿を寝かせておくことにして、次の仕事。単著の初校です。

    出版社(今回は北大路書房さんから出ます)から縦書きに変換して送られてきたPDFファイルを読む。読みながら「あ〜自分の書いた文章だわー、これ」と再認識。横書きのものが縦書きになっても「自分っぽさ」はぜんぜん変わりませんね。むしろ縦書きではその印象が強まるようです。

    何がか、というと… 全編を通じていろんなトピックに話が及ぶのですが、最後に必ず「いま・ここ・私」に問いが戻って来てしまうところが、なんとも「自分っぽい」のです。わたしの場合、研究を支える初発の動機が「実存」にあるところが昔から何も変わっていなくて、それが今回の著作でも随所に現れています。

    もっとも、今回はそれを自覚して書いたものではあります。今回の著作のテーマは「自己アイデンティティ」ですからね。

    ただし、アイデンティティ論といっても、従来の議論はすべてご破算にして書いてあります。エリクソンのような青年期の発達という観点もないですし、ジェンダーやエスニシティや階級のように、準拠集団との関係からアイデンティティを論じたものでもありません。近代的自己の話でもありません。そういうのはすべて脇にどかして、それでも残る「自己」に焦点を当てて書いてあります。

    で、何が残るのかというと、「生きられたもの」としての自己です。学術的には「ミニマル・セルフ」です。自己を支える物語的な要素をすべて取り払ったとしてもまだ残る「自己」。それは、いまここで事実として生きられている自己に他なりません。

    いつ、どこで、何をしているときであっても、ひとはそこに「私」が存在することを暗に感じています。どんな経験であれ、それは「私の経験」として生じてきますから。

    これは「自分さがし」や「自己形成」という言葉で考えられている自己とは対極的です。その種の自己論は、自己を「探すべきもの」「作られるべきもの」として念頭に置いてしまいますが、ミニマル・セルフは最初からそこにあります。暗黙のうちに生きられているので、反省的な意識がそこに及びにくいだけのことです。

    というわけで、今回の単著では、探したり作ったりする前にそもそも「生きられている自己」について、心の科学から関連する数多くのトピックを取り上げて考察しています。目次は固まっているので、以下、ご紹介。

    ---------------------------------------------------
    『生きられた<私>を求めて』

    第1部:自己の身体性
     1章:身体と物体
     2章:自己の身体と他者の身体
     3章:鏡に映る身体
     問いと考察

    第2部:意識と脳
     4章:意識・夢・現実
     5章:脳と機械を接続する
     6章:共感覚
     問いと考察

    第3部:他者の心
     7章:問題としての他者
     8章:心の科学と他者問題
     9章:他者理解を身体化する
     問いと考察
    ---------------------------------------------------

    「自己」をめぐる議論って、ある面ではとても青くさい(青年期の発達課題として関心を持つ人がやっぱり多いテーマなので)のですが、それでもそういう議論って大事だよね、と思っている方々の元に届くよう願っています。いい意味で「青い」読者に届きますように。

    ああ、でも…。こういう青さって、「厨二こじらせました」みたいなのと紙一重かもしれませんね(笑



    2017年2月9日木曜日

    3/5 シンポジウム「精神医学の哲学」

    某MLでI先生(って別にイニシャルで書かなくてもいいのか、石原孝二先生です)から下記の情報が回ってきました。3月5日(日)、駒場でシンポジウムがあるとのこと。

    シンポジウム「精神医学の哲学」2017年3月5日(日)9:30~17:30
    東京大学駒場Iキャンパス18号館ホール

    シリーズ『精神医学の哲学』の刊行記念イベントです。フックス先生の論文の訳者として私も企画に加えていただいたので、このイベント、日本にいれば参加したかったです。ちなみにフックス氏の論文は、シリーズ第1巻「精神医学の科学と哲学」に収められています(第4章「現象学と精神病理学」)。

    いわゆる「現象学的精神病理学」の近年の成果をコンパクトにまとめた論文で、訳していてとても勉強になったのですが、やや気になったことがありました。

    これは現象学的精神病理学の全体に当てはまる論点でもあるのでしょうけれど、患者の視点に沿って一人称的に症状や疾患を記述しているようでいて、どうしても記述が本質主義に流れそうな場面があります。

    つまり、記述が行き届いているほど「統合失調症とは〜である」「自閉症とは〜である」という書き方で、症状の向こう側にあたかも「本質」があるかのように記述される部分があり、実際の症状の多様性がともすると見えない記述になってしまう欠点があるのですね(フックス氏本人はこの点の問題はよく自覚している方と思いますが)。

    そもそも、精神疾患の症状は(同一の名称で診断される状態だとしても)きわめて多様で、本人にとってさえ言葉にするのは容易ではありません。このあたりの多様性を見ていくには、当事者と協力して語りの地平を拡大して記述を豊かにすることが必要でしょう。

    また、それによって疾患の概念を考え直すこととか、日常的経験と精神疾患との連続性を見出していく、といった作業も大切だと思います。日常性とは断絶した「狂気」という本質があるかのような見方を取らないためにも、これは重要です。

    現象学的には、精神病理学の知見は本来、「間主観性」の地平を日常性の側から外に向かって広げていくうえで大事なのであって、「狂気」という本質を向こう側に立てて日常性の側を維持することが大事なのではない、ということです(少なくとも私はそう思います)。

    …あ、精神科医でもない人間が口を出しすぎましたね。このへんでやめておきます。ともあれ、『精神医学の哲学』は、「当事者」という切り口も含めて、とても重要なシリーズになっていると思います。ご一読のほどを。東京大学出版会から出ています。



    2017年2月5日日曜日

    編集作業の一日

    や〜っと終わったよ〜

    朝から編集作業。さっき日付が変わってしまったので、休憩時間をのぞいても結局12時間ぐらい作業してたことになるのか。あぁ、土曜日を丸一日事務作業に費やしてしまった。

    何をしてたかというと、来月3-4日に東海大の文明研究所が主催する国際会議の予稿集の編集です。

    1年前に初めて、コペンハーゲン郊外にある東海大のヨーロッパ学術センターで「日欧間の文明対話」と題する二日間のイベントを組んだのですが、学内外でけっこう反響があったので今年度もかの地で開催する運びになった次第。

    それはいいのですが、予稿集を編集していて改めて気になったことが。

    わたしは、所属先の大学の付属研究所である「文明研究所」で「所員」という任務を拝命して今年で3年目になるのですが、「文明」って自分にはいまだに難しいのですよね。なんというか、概念としてすっきり理解できないのです。

    もちろん、文明に直結するイメージはあるのですよ。わたしの場合は「近代文明」というイメージが強くて、都市化、産業化、科学知と技術の進歩、人権や民主主義の思想、個人主義、政教が分離した近代国家、などなど。これらは、古代文明や地域文明よりも、自分の中ではずっと突出したイメージになっています。

    ただ、こういうイメージの問題じゃなくて、そもそも「文明」ってどう定義できるの、というところですっきりした考えが持てないのです。

    さしあたりの解答としていつも念頭に置いているのが、「文明」じゃなくて「Civilization」という英語。人間を「Civilize」するものが「Civilization」だとして、そもそも「Civil」って公共的な市民のことを言うんでしょうから、公共の場所で市民として生活を送れるような状態に人を変えていくさまざまな慣習、規範、制度、組織、権力などの集合をCivilizationと考えてみようと。

    こういう見方を取ると、身体論的には多少すっきりします。要は、いまだ公共化されていない乳児(だけに限らず)の身体を、他者との関係のなかでCivilizeしていくものをCivilizationと見ればいい。すると、Civilizationとは、身体に内在して、公共的な身体として成立させているいろいろなコードや力として見えてきそうなのですよ。

    衣服、性規範、テーブルマナー、しぐさ、などなど。肌をどう隠すかとか、誰とセックスするかとか、みんなで何を食べるかとか、そういうミクロな行為のなかに、人々がみずからの身体に内在化させた「文明」なるものを理解する手がかりが潜んでいそうですよね。身体論的には、「その行為」をすることで公共の一員になれる行為の集合=文明、とさしあたり言えるかもしれない。フーコーから学べるものがたくさんありそうですね。

    予稿集を編集していて、そういう「さしあたりの解答」を改めて考えていました。

    もちろん、原稿にはそれとは全然ちがったしかたで文明について「おっ」て思わせてくれる発表もいくつかあったので、当日が楽しみです。




    2017年2月2日木曜日

    真っ赤。

    論文、書いてます。

    ガチで書いてます。離人症の経験の意味について。
    完全に「ギアが入った状態」と言えばいいんでしょうか。
    今週は頭の中がほとんど「真っ赤」になった状態で書いてます。
    「赤」…別に政治的な意味はありません。
    「血まなこ」という「眼」のメタファーを「頭」に置き換えると「頭の中が真っ赤」という感じなのです。

    しかし、こういうタイミングに限っていろいろ茶々が入るのですなぁ、不運なことに。
    なぜだか、事務的な対応が必要な案件が次々やってきます。しかも日本から。
    英語で論文書くのとは明らかに脳内の違う場所を使ってるのが体感できますな。
    こういう事務作業、気分転換にうまく使えるようになるといいんですが。

    論文とか著作を書くのが早い先生たちは、事務作業をうまく執筆の気分転換に使ってるんだろうなぁ。
    K先生とか上手そうだもんなぁ、こういう作業の切り替え。
    見習わねば。



    2017年1月29日日曜日

    コイファー&チェメロ『現象学入門』

    しばらく前からこの本の翻訳に取り掛かっている。


    面白い本だ。現象学の入門書としてはかなり思い切った構成になっている。上記リンクをたどるとアマゾンで「なか見検索」ができるので目次を見てみるといい。

    フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトルの主要な仕事にそれぞれ1章ずつ割かれているが、それ以外の章立てが興味深い。1章「カントとヴント」、4章「ゲシュタルト心理学」、7章「ギブソンと生態学的心理学」、終章は「現象学的認知科学(phenomenological cognitive science)」である。

    彼らは、フッサール以来の現象学の中心的なテーマが、近年の「身体性認知科学 embodied cognitive sceince」に最も強く受け継がれていると見ており、この歴史的なパースペクティヴに沿って上記の各章を配置しているのである。なお、終章の手前の8章はH・ドレイファスの人工知能批判に割かれている。

    私のように、メルロ=ポンティの現象学的身体論を足場にして、それを経験科学的な研究とつなげることを模索してきた研究者からすると、まさに「待ってました!」という内容。こんな入門書を手にできるようになったと思うと、時代の変化を感じて感慨深い。

    なお、2011年に邦訳されたギャラガーとザハヴィの『現象学的な心』(原著は2008年刊)も、方向性としては近い立ち位置にある。副題が「心の哲学と認知科学入門」であり、認知科学や神経科学の知見を大幅に取り入れた現象学の書になっている。ただ、「入門」と銘打ってはいても実際には入門書レベルの叙述になっておらず(邦訳はよくできていると思うが)、現象学や認知科学の予備知識のない読者にとって読み通すのはなかなか難しい。本書はその点でかなり読み易いものになっている。

    それだけではない。方向性も『現象学的な心』とは違っている。認知科学の知見を現象学に取り入れるという方向性ではなく、現象学の知見を認知科学に取り入れ、未来の認知科学を書き換えることが目指されている。だから終章が「現象学的認知科学」と題されているのである。

    こんな現象学入門書は、今まで見たことがない。早く出版にこぎつけたいものだ…が、なかなか思った通りにはかどらなくて気が重い(笑


    2017年1月25日水曜日

    うれしい来客

    ベルリンに滞在中のG・ジョヴァノヴィッチさんがハイデルベルクまで来られました。彼女は普段セルビアのベオグラード大で教えているのですが、いまは短期滞在でベルリンにいて、今回はドイツの心理学史を再考するプロジェクトに関わっているそうです。ハイデルベルクは、ヴントについて調査するために立ち寄ったとのことでした(ヴントの最初の就職先はここハイデルベルクでした…ヘルムホルツの助手として採用されたのです)。

    お会いするのは今回が2度目です。最初にお会いしたのも結構最近で、昨年7月に横浜で開かれた国際心理学会議(ICP 2016)でした。私が登壇したシンポジウムにたまたまオーディエンスとして来られていて、終わった後でお声がけいただきました。しかも、発表内容を論文にして書籍に寄稿してくれないかというお誘いでした。

    とはいえ、ここまでならあまり喜びはしません。国際会議での発表経験がある方なら知っていると思いますが、発表がうまくいけば、終わった後で論文化のお誘いを受けることはそこそこあります。ただ、こういう誘いの大半はいわゆる「ハゲタカ・ジャーナル」から来るので、話に乗せられてしまうと、誰も読まない無名のジャーナルに原稿が掲載され、しかも「掲載料」と称してかなりの金額のお金を取られます。なので、単に誘われるだけだとたいてい身構えて、後で連絡を取ることもないのですよね。

    ジョヴァノヴィッチさんからのお声がけが予想外にうれしかったのは、彼女が編集している書籍のプロポーザル(趣意書)を見せてもらったからです。執筆陣が豪華なんですよ、何といっても。哲学的心理学のロム・ハレ、文化心理学のヤーン・ヴァルシナー、社会構成主義のケネス・ガーゲン、(残念ながら企画後に亡くなられましたが)認知心理学の大家ジェローム・ブルーナーなどが名を連ねていました。

    しかも、こういう大物たちに加えて、東欧、南米、アジアの執筆陣にもきちんと目を配っていて、たんに西洋中心の心理学にする気がないことも伝わってきました。むしろ、メインストリームの心理学に潜む西洋中心主義を乗り越えようとする意図が明白に読み取れます。こういう良心的な書籍を編集できる研究者は、なかなかいません。後日ジョヴァノヴィッチさんの仕事の幅広さを知るまで、なぜここまで広範囲の人々を結び付けられるのだろう、と不思議でした。

    ともあれ、そういう事情なので私も喜んで寄稿しました。ちょうど「日本的自己」のあり方を批判的に考えていたタイミングだったので、書く作業を通じてしっかり考えてみたかったのです。1970〜90年代ぐらいまでのいわゆる「日本人論」の文脈では、日本的自己は西洋的自己との対比で、その特殊性やユニークさが強調されていますが、私はこれを批判的に考え直したいとつねづね思っていました。

    日本的自己は西洋的自己のように確固とした境界を持った「個体」ではなく、関係依存的であるという指摘がよくなされます(それこそ、戦前の和辻哲郎やルース・ベネディクトの時代から一貫しています)。それはそれで間違いではないとしても、それが日本文化に特有の自己のあり方である、というところで考察が閉じてしまうと、現代においては大変まずいのです。たんに文化の違いを強調して終わりになってしまって、異文化との対話の通路を開く試みになりません。日本的自己の特徴を描くにしても、それが西洋的自己と共通のフォーマットの上で違っているという論じ方ができなければ、今日必要とされる日本文化論にはなりえません。

    現象学的身体論から見れば、関係的であるか個体的であるかは、身体的経験の焦点づけの違いであって、本質的な違いではありません。「私の身体」には、自己にとって知覚的客体として現れる側面と、他者にとって知覚的客体として現れる側面があります。前者が焦点化されれば、身体は自己内関係で閉じるので、個体的経験として構成されます(I-me です)。後者が焦点化されれば、身体は自他関係でしか成立しないので、関係的経験として構成されることになります(I-me-othersですね)。とりあえずここまででもきちんと記述できれば、日本的自己は、たんに日本的な特殊性として描かれるだけでなく、他文化における自己と共通のフォーマットで語る端緒が得られます。

    …と、そんなことを原稿に書かせてもらいました。出版が待ち遠しいのですが、今日伺った話だと今年中の出版は難しいみたいです。できるだけ早く出版されるといいのですが。Routledgeから刊行が予定されています。



    雑誌『こころの科学のエピステモロジー』

    ちょっとフライング気味ですが、進行中のプロジェクトのお話。

    2015年、2016年と2年続きでエンボデディード・アプローチ研究会と合同開催している研究会があります。「心の科学の基礎論」研究会です。

    研究会HPの冒頭にはこう書いてあります。

    ------------------------------
    「心の科学の基礎論」研究会は、自然の科学と同様の意味で心の科学は成立しうるのか、 科学的認識の主体である人間が自らを科学的に認識するとはどういうことか、 そもそも心とは何か、等々の根源的問題を、心理学2500年の歴史と、人工知能・神経科学など 最先端科学の成果を共に踏まえて根源的・徹底的に論じ合うための場として発足した研究会です。
    ------------------------------

    崇高すぎるくらい崇高な設立趣旨ですね(笑 

    まあでも真面目な話、「科学的に心をとらえる」といっても自然科学のように対象を明確に分離して観察できないので、最初から難しい論点が含まれています。だから心理学基礎論とか、「心理学の哲学」といった議論がどうしても必要なのです。私が現象学から出発して、身体との関係を考慮しながら心の問題を問うているのも、こういう事情があります。

    しかも、哲学に踏み込むようなそうした科学基礎論的な議論は、先端的な研究のほうが問題になりやすいのですね。安定した研究を可能にする実験パラダイムが一度できてしまうと、現場の研究者は方法論に関する難しい議論はパスして、目先の実験条件を変えることで新しい結果を出そうとする方向に流れますから。

    事情は臨床心理学でも変わりません。認知行動療法や精神分析のように安定した臨床上の技法ができてしまうと哲学的な基盤はあまり顧みられなくなりますが、そもそも目の前のクライエントの状態を理解するとはどういうことなのか、治療的介入がなぜ可能なのか、原理的に考えてみる必要はあります。

    で、本題です。ここの研究会の世話人メンバー(私もその一人です)で、新しいジャーナルを立ち上げようという話になっています。『こころの科学のエピステモロジー』です。けっこうクールな誌名だと思いません?

    今年は国際理論心理学会が8月に東京で開催されますし、日本でも心理学の基礎論や心理学の哲学に関心が高まる一年になると思います。

    理論心理学会で発表を予定している皆さんは、ぜひ「心の科学の基礎論」研究会でも発表してください(発表者は随時募集しているので私にご相談いただければOKです)。ジャーナル紙面の一部は、研究会での発表内容を論文化したものに割く予定です。




    *2017年5月27日追記
    その後、多少の紆余曲折があって、ジャーナルの名前は『こころの科学とエピステモロジー』に変更になりました。「こころの科学」「エピステモロジー」の両者を結ぶ助詞が「の」から「と」になっただけですが、しかしこの一字が変わるだけで、目指すものがだいぶ変わる可能性はありそうです。

    2017年1月23日月曜日

    アーカイブの資料追加(Blanke & Metzinger, 2010)

    研究アーカイブに資料を追加しました。今回は以下の論文。

    Blanke, O., and Metzinger, T. (2010). Full-body illusions and minimal phenomenal selfhood. In T. Fuchs, H. C. Sattel, P. Henningsen (Eds.), The embodied self: Dimensions, coherence and disorders (pp. 21-35). Stuttgart, Germany: Schattauer.

    いわゆるミニマル・セルフ(最小限の自己)を扱った論文ですが、著者らはこれを「Minimal Phenomenal Selfhood(MPS)」と概念化して、(a)全身への同一化、(b)自己の位置、(c)弱い一人称視点、という3つの特徴から定義しています。

    そのうえで、体外離脱体験のような神経病理や、実験的に誘発されるフルボディ錯覚において、MPSがどう変容するのかを論じています。

    理論的に興味深いのは最後の部分でしょう。ギャラガーのミニマル・セルフの議論では「所有感」と「主体感」が構成要素として必ずあげられますが、本稿の著者ブランケらは「所有感」だけが自己の必要条件であって「主体感」は不要(正確には、自己の必要条件ではなく十分条件)だと言っています。

    本当にそう言えるんでしょうか。直接経験から出発する限り、これは怪しい議論に見えます。一方、ラバーハンド錯覚のような実験状況から出発して考えると、そういう考え方もありかもしれません。また、直接経験といっても、自発的な行為ではなくて反射運動のようなケースを中心に考えると、所有感はあっても主体感は不要だと言える面はありますね。
     
    それにしても今日のハイデルベルクは寒い。もう昼なのに外気はマイナス6度。霧が立ち込めています。



    2017年1月19日木曜日

    アーカイブの資料追加(『現象学的な心』10章)

    研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。


    この本の10章、久々に読み返しました。現象学をベースに、心理学、神経科学、発達、精神病理との関連で自己に関する議論がコンパクトにまとまっています。ナラティヴ・セルフについて考える手がかりが欲しくて読み直しましたが、どちらかというとミニマル・セルフの問題のほうが中心ですね。

    ちなみに、いま・ここで進行中の経験にともなう「わたし」という感じ(自己感)は、もうすぐ出版される私の著作のテーマでもあります。経験にともなう自己(生きられた自己)は、経験をふりかえって反省するととたんにつかまえどころがない感じがしてきますが、進行中の経験においては「主体感 sense of agency」や「所有感 sense of ownership」を通じてちゃんと成立しています。これは、そうそう簡単に壊れることのない(たぶん有機体のものすごく基礎的な次元が壊れない限り壊れることがない)、とても強靭な自己です。



    2017年1月17日火曜日

    ナラティヴ・セルフと実存

    以下、メモ。
    ナラティヴ・セルフをめぐって、身体性の問題とどう絡めて論じるべきか思案中。

    • ブルーナー(1986)が人間の思考の様式を「論理・科学的様式」と「物語(ナラティヴ)的様式」とに区別して以来、ナラティヴは人間科学の重要な論点であり続けている。
    • ナラティヴは、さまざまな出来事を有機的な物語として結びつける点で、記憶にもとづく自己同一性の感覚を説明するのに応用されてきた(「ナラティヴ・アイデンティティ」)。→McAdams, 1993など。
    • 自己がナラティヴを通じて構成されるものだという議論に関して、次の2点を区別して考えるべきだろう。
    • 1)ナラティヴは「語り」であり、「語り手-聞き手」関係をそこに内包している(自己内の語りだとしても同様)。だとすると、ナラティヴが形成する自己(ナラティヴ・セルフ)は必ず「関係的 relational」である。「私」は、聞き手との関係において構成される存在である。→ガーゲン「Relational Self」,ハーマンス「Dialogical Self」
    • 2)ただし、ナラティヴ・セルフが「関係的」であることは、それが聞き手との関係のみに依存して作られることを意味しない。人生には、誕生・病・死のように、「語り尽くせない出来事」が含まれる。また、それらをめぐって、人はみずからの「実存的感覚 existential feeling」を保持している。→ラトクリフ「existential feeling」
    • 実存的感覚は語り尽くせず、ナラティヴにそのすべてが反映されるわけでもない。にもかかわらず、人はそれについて語るよう差し向けられている。「ナラティヴ・セルフ」を個的実存まで掘り下げて概念を拡大する必要がある。

    2017年1月15日日曜日

    英文5000ワード

    原稿一件、書き終えました。英文5000ワード。

    しばらくぶりにこの字数で書いてみて分かりました。日本語で原稿を依頼されるときの「原稿用紙30枚」の制限で書くのと感覚的には近いです。文字数なら11000字前後でしょうか。

    何が近いのかというと…本格的に論を展開する前の段階で規定の文字数に来てしまう感じです。後半まで書き進めて最後は書きながら考える、というやり方で、ある主題について創造的に考える作業はできない文字数です。

    そんなの個人的な感覚だろ…と言うことなかれ。字数という枠組みがアフォードする思考のスタイルは必ずあります。ツイッターの制限つき文字数で書かれることを見ているとよく分かる気がしませんか?

    この原稿、もともとは発表原稿に手を加えて論文集に入稿するという企画ものに誘われていたのです。が、事情あって発表そのものが実現しなかったので、発表用に作ったアブストラクトをもとに一から書きました。アブストラクトはここに載せてあります。
    http://embodiedknowledge.blogspot.de/2017/01/the-unrealized-talk.html

    内容は…またにします。とりあえず英文5000ワードで書くことがどういうことか分かったので、ここに記録しておきたいだけだったのでした。関心のある方は出版をお待ちください。2018年にオランダのBrillから刊行される予定です。



    なぜドイツ?

    なぜドイツにいるのか、知り合いから質問されることがあります。

    今回は科研費の「国際共同研究加速基金」というファンドの助成でこちらに来ていて、現在は主に「身体性と自己意識」について研究しています。が、寄せられる質問の意図はそういうことではありません。もともと身体論が専門でメルロ=ポンティを主に参照しているならフランスに行きそうなのになぜドイツなの?、という意味です。

    以前こんな文章を某学会のニュースレターに書きました。前回、2013年〜14年にかけてドイツに滞在したときに書いたものです。いま同じ場所に来ているのも、前回滞在したときに充実した研究ができたという理由によります。

    というわけで、以下再録です。次に同じ質問をされたらこのページのURLを教えることにします(笑


    ------------------------------
     2013年10月から、独ハイデルベルク大学(社会精神医学センター・現象学セクション)にて在外研究中である。「身体論が専門でメルロ=ポンティを読んでいるのに、どうしてフランスではなくてドイツなのか?」――多くの知人からそう聞かれた。

     話せば長くなるが、ぐっと圧縮して書くと次のようになる――。私はもともと心理学方面から身体論を吸収してきた。「身体」という基盤から出発することで、種々の心の機能をどのように理解し直すことができるのか、また、心の概念を総体としてどう刷新することができるのか、そうした関心のもとで研究を進めてきた。いわゆる「身体性認知 embodied cognition」や「身体化された心 embodied mind」の領域にメルロ=ポンティ現象学からアプローチすること、これが私の研究である。

     しかしこの研究、分け入って探求を進めるほど、問題が心身関係だけに閉じていないこと、また閉ざすべきでないことがよく分かってくる。身体は心と関係しているだけでなく、外部の環境や他者の身体とも関係している。この点の延長線上に「他者の心はどう理解できるか」という問いが待ち受けている。これは心理学方法論にかかわる問いでもあるし、哲学で他我問題として論じられてきたことにもかかわる。現象学では間主観性の概念のもと、フッサール以来多くの議論が重ねられている。

     私の専門からはそれるが、脳神経科学も部分的にこれと並行して興味深い進展をたどっている。知覚や記憶といった心の機能(一人称)を脳の活動(三人称)と対応させて理解することが脳研究の基本的な枠組みだが、近年、ミラーニューロン研究の進歩とともに、問いの様相が一部でダイナミックに変化している。ミラーニューロンの説明は字数の関係で省略するが、重要な論点のひとつは、身体性と行為を媒介して複数の脳が共鳴するということ(二人称)が、さまざまな事象に沿って明らかにされつつある、ということだ。

     ミラーニューロン以外にも心の理論や自己・他者認知など個別のトピックは多々あるが、心理学・認知科学・神経科学といった心の諸科学では、二人称的観点や間主観性に深くかかわる社会的認知social cognitionが近年クローズアップされており、身体性の観点からこの問題にどう切り込んでいくかは、心の科学にとって重要な課題なのである。

     さて、ハイデルベルクである。現在ヨーロッパでは、5カ国8大学(フランスには提携機関がない)を結ぶ学際的研究プロジェクト「Towards an Embodied Science of Intersubjectivity(略称TESIS,間主観性の身体化された科学に向かって)」が進行している。上に述べた課題をまさに追究しているプロジェクトなのだが、その中心的拠点がここハイデルベルク大学に置かれている。TESISはきわめて学際的で、現象学を理論的基盤として重視しながらも、神経科学、発達心理学、認知科学、精神病理学といった心の諸科学と密接に連携して研究が進められている(ここはもともと現象学的精神病理学の世界的拠点である)。

     ともあれ、身体性・間主観性・社会的認知を結ぶ研究を進めるべく、私はここハイデルベルクに滞在している、というわけなのである。
    ------------------------------
     

    2017年1月8日日曜日

    『現象学的心理学への招待』PDF

    帰国後、某所で教える予定になっている科目のシラバス書き。

    心理学の哲学に関する科目なので、せっかくだから現象学的心理学を教えることにしました。昨年7月に『現象学的心理学への招待』の邦訳を刊行できたこともあるし、教科書に使うにはちょうどいいかと思った次第です。

    それで、久しぶりに刊行元の新曜社のページにアクセスして気づいたのですが、この本、目次と日本語版の序文だけではなくて、第2章の途中(11ページ)までPDFで読めるようになっていたのですね。気づかなかった…というか教えといてくださいよ、新曜社さん。

    ここのページ(『現象学的心理学への招待――理論から具体的技法まで』)にある「ためし読み」という青いボタンをクリックするとPDFに飛べます。タダなのでアクセスしてみてください。第1章はすべて読めるという気前の良さ、素晴らしい。

    訳者解説にも書いたのですが、現象学的心理学って、哲学的基礎から具体的な研究法までコンパクトにおさえた本が少ないんですよ…。日本語で読めるものと言えば、ラングドリッジさんが書いたこの本か、あとはジオルジ『心理学における現象学的アプローチ』くらいのものです。

    いずれも、心理学を質的研究としてやってみたい方、とくに哲学的な裏付けのある質的研究を学んでみたい方にお勧めします。



    2017年1月6日金曜日

    ISTP・第17回大会

    このページにたどり着いている方ならすでにご存知かもしれませんが、2017年8月に立教大学で国際理論心理学会(ISTP)の第17回大会が開かれます。

    もうすぐ発表申し込みが締め切り(2017年1月末)ですが、まだ十分間に合います。大学院生や研究者のみなさん、ぜひ発表してください。詳しくは、大会のCall for Papersのページでご確認ください。

    理論心理学ってそもそもどんな分野? と思う方もいるかもしれません。このページが簡潔で分かりやすいです。


    作成されている五十嵐氏は、日本の研究者のなかではISTPをとてもよくご存知の方の一人だと思います。

    心理学は、そもそも方法論が不安定な分野なので理論的な検討がつねに欠かせません。私は現象学を土台にしていますが、ISTPには、批判理論、フェミニズム、社会構成主義、ポストコロニアル、クィア、進化論、等々、かなり多様な背景の方が集います。現代思想の多様性をそのまま反映しています。

    そんな場所で議論がかみあうの?、という素朴な疑問もありそうですが、これが不思議とかみあうのですよ。

    私は2009年の南京での大会に一度参加しただけですが、私の印象では、たいていの参加者が心理学の歴史について一定の認識を持っていて、それを「心とは何か」「心をどう理解するか」という哲学的な問いと結びつけて理解しているように見えました。理論的背景は多様なのですが、問題意識がかみあっているので議論になるのですね。

    というわけで、皆さまの参加をお待ちしています。



    2017年1月3日火曜日

    仕事はじめ

    今日は2日でした(時計の上ではすでに日付が変わって3日です)。

    ドイツでは普通に仕事はじめの人もけっこう見かけます(クリスマスは国民的休暇ですが)。私も昼から普通に仕事。年末にいちど書き上げた依頼原稿の手直しでした。所属先の研究所が発行している『文明』という雑誌の依頼原稿です。昨年7月に「文化心理学ワークショップ」というイベントを開催したので、その報告。以下、その一部です。
     
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     「文化心理学」という名称を最初に聞くと、多くの方は「異文化との出会い」や「文化の違い」といったイメージを持たれるのではないかと思う。グローバル化が進展しつつある社会においては、「文化」という言葉や概念そのものが、異文化に接触する経験と、そこから反省される自文化のあり方、というしかたで焦点化されやすい。心理学でもこうした発想にもとづく研究は「比較文化心理学(cross-cultural psychology)」と呼ばれる分野でなされている。特定の心理作用について、異なる文化的背景を持つ研究参加者のデータを収集・比較し、文化が心のはたらきに与える影響を明らかにしようとする研究である。
     しかし、文化心理学はこうした見方に立つものではない。比較文化心理学は、「文化」がその内部にいるメンバーに対して均質に作用し、その外部のメンバーに対しては異質に作用することを前提としている(詳しくは次を参照:J・ヴァルシナー『新しい文化心理学の構築』サトウタツヤ監訳,新曜社,2013年)。ところが、全メンバーの均質性を想定できるほど現代社会は単純ではない。各メンバーが多様な組織・集団・制度にまたがって生活を送る複雑な社会である。そうした社会で、過度に一般的な「●●文化」というラベルのもとで集団間の比較を行っても、得られる知見の信頼性にはおのずと限界がある。
     ただし、人間の生にとって、また、それと切り離せない心のはたらきにとって、文化は無視できない重要な要因である。そこで文化心理学が着目するのが「記号」である。記号は、交通信号から呪術的な象徴まで、それ自身とは別の何かをあらわす。ヴァルシナー氏の著作には、哲学者パースの記号論の引用に続いて、次の印象的な一文が登場する——「記号は心によって作られ、心は記号を通じてはたらく」(p. 29)。私たちの心は、意味を伝える存在としての記号を生み出すとともに、その記号を通じて記憶や想像や思考といった高次の機能を実現している。文化は、心の外側にあって人々の行動を型にはめる鋳型のようなものではなく、むしろ、心に内在して心の機能そのものを可能にする記号の総体である。
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    ヤーン・ヴァルシナーの仕事は、日本ではあまり良く知られていないと思います。邦訳が2013年に出て少しずつ知られてきているところでしょうか。恥ずかしながら私もそれほど深く知らなかったりします。が、英語圏、とくに理論心理学の界隈ではけっこうな大物感がある人物です。関心のある方は彼の上記著作に触れてみてください。

    私自身は、自分が文化心理学をやっているとは思っていませんが、身体性と文化について考える必要があるとこの1〜2年ぐらい強く思っています。比較文化的なアプローチではなく、ひとが文化を身体化する過程を考えてみたいのです。道具が身体化されるというのは身体論の世界では常識ですが、道具の延長で言語と記号がどう身体化されるのか、具体的なトピックを題材にして読み解く作業が必要だと思っています。




    2016年から2017年へ

    年頭なので、2016年のカレンダーを見ながら去年の仕事を振り返っています。

    2月:研究会で話題提供2件,グラント申請1件(残念ながら不採択),訳文校正(1章分)→8月に出版(「現象学と精神病理学」)
    3月:道徳心理学コロキアムで講演,感性工学会で発表,執筆(単著1章分),査読1件
    4月:依頼原稿1件→5月に出版(「拡張した心を超えて」)
    5月:エンボディード・アプローチ研究会のオーガナイズ1件
    3月〜7月:断続的に訳書を校正→7月に出版(『現象学的心理学への招待』)
    7月:研究会で話題提供1件,文化心理学ワークショップのオーガナイズ&司会,ICP 2016のシンポジウム(オーガナイズしたシンポジウム1件・シンポジウムでの報告1件),エンボディード・アプローチ研究会の司会&報告
    8月:シンポジウムでの指定討論1件,グラント申請1件,執筆(単著1章分),査読1件
    9月:翻訳(1章分),執筆(単著1章分),依頼原稿(英文1件),グラント申請(1件)
    10月:グラント申請(1件),執筆(単著1章分)
    11月:ワークショップで指定討論1件,査読1件(英文)
    12月:訳文チェック(1章分),単著の全体チェックと修正,論文投稿(英文1件),学会発表用のアブストラクト作成(4件),依頼原稿(1件)

    …という感じで、話すのも書くのも、グラントの申請まで含めてかなり多産な一年でした(グラントは「科研費」のようにはっきり名称を書くとまずいので「グラント」としてあります)。4月〜7月の春学期は大学院の授業も含めて週11コマ持っていたので、これだけ研究がはかどれば御の字。

    8月下旬にドイツに来てからは、授業からも学務からもほぼ解放されているので、ここぞとばかりに研究に打ち込む日々を送っています。つねに研究室・図書館・自宅のどこかで何かしら読むか書くかしているので、文字どおり研究三昧です。しかも研究の合間に日本ではほとんどできない家事ができるので、それもささやかな楽しみになっていたりします。知人には「そういう単調な生活で飽きません?」と聞かれますが、私はぜんぜん。日本に帰るとこんな時間は二度と来ないかも、なんて思うとこの瞬間がもったいなくてしかたがない。

    こちらに来て単著を書き上げる時間が取れたのは幸いでした。すでにあとがきも書き終わっていますから、あと数ヶ月で出版されると思います。博士論文を出版してからもう10年以上になるので、まとまったものを出版するのはずいぶん久しぶりなのですが、それでも、分量だけなら過去5年間ぐらいで単著1冊は文字数で上回る量の論文を書いているので、長大なものを書いた、という感じはあまりしていません。今の自分の考えをやや長めにまとめた、という感じに近いです。そのうちここでもう少し踏み込んで内容を紹介します。

    今年の大きな予定は、単著を出版することと、ドイツを発つ前にこちらでの成果を英文で論文にまとめること、あとは帰国後に国際理論心理学会(ISTP)の大会を無事に終えることです。大会が終わった後もいろいろと仕事の予定は入っていますが、まずは8月の帰国までと、帰国直後の学会運営です。今年もよろしくお願いします。