2017年5月29日月曜日

生きられた〈私〉をもとめて-余談

拙著がそろそろ発売になるので、それに関する余談を。
 
先日某所で「今後の学術書は300部が基準」という話題が盛り上がっていました。盛り上がっていたというより、ベースラインで300部しか売れないという悲観的な観測への反響が大きかったというほうが正確でしょうか。この数字の根拠ですが、図書館の需要が約200、その分野の学会関係者の需要が100程度と見積もると、おおよそ300部ということのようです。
 
300部しか売れない可能性を最初から念頭に置いて内容と価格設定を考えざるを得ない、ということだとかなり深刻な話です。これは出版業界だけでなく、学術書を書く研究者にとってもそうです。というのは、300部基準で考えざるを得ないのなら、日本語で書くこと自体をやめていくことになるのではないかと思うのですよね。
 
先日イスラエルに出張したさい、イスラエルの研究者は文系でもヘブライ語で著作を書くことはまずないと聞きました。そもそも国内に大学が7つしかなくて、関連分野の研究者が全員読んだとしてもそれこそ300部に届かない世界らしいです。現象学をやっている友人に聞かれました――「母国語で書けるならそのほうがいいけど、100人ぐらいしか読者がいないものを書く気にならないでしょ?」。うーん、書く気になるかもしれませんが、ウェブ上で雑文として書けば話が済みそうですね。
 
日本でも学術書の市場がどんどん小さくなっていくと、長期的には同じような状況になってしまうかもしれません。とはいえ、日本語を使用する人口は相対的に見て多いですから、一般向けの書籍がそれなりに売れる状況が残っているあいだは、学術書を一般向けの書籍に近づけて出版を継続するという形態がメインになるんでしょうね。
 
しかし、これはこれで、学術をわかりやすくして限りなく一般書に近づけていく方向に見えます。今ふりかえると、この流れはずいぶん前から始まっていた気がします。新書の出版点数がおびただしく増えた時期があったと思いますが(2000年前後でしょうか)、書店にいくたびに「知のデフレ」のような事態が起きている印象を受けて嫌な気分になった記憶があります。
 
逆に、中身のしっかりした学術書はたいてい出版助成を受けていて、最初からかなり限定された読者宛に書かれているものが増えました。こちらは、クオリティが高いのはよいのですが、学問や研究の面白さを、専門外の世界にいる人に伝えるものにはならない場合が多い気がします。学術論文を読むのと印象があまり変わらないといいますか。
 
自分が著作を出すタイミングでなんだか暗い話を書いていますが、それなりに思うところがあってのことです。というのも、今回の著作はある水準の読者を想定してわかりやすく書くことにこだわっていますが、その一方で、話を単純化して知を安売りするような妥協は避けています。また、出版助成のバックアップをもらって実売部数を気にせず書いたものでもないですし、逆に、低価格が理由で売れるような本でもありません。論文でも新書でもできなさそうなことを模索してみました。
 
とくに今回は、「心の科学のための哲学入門」というシリーズの一冊として何ができるのか、そのつど手探りしながら書きました。心の科学の側から入りたい人にとっても、哲学の側から入りたい人にとっても、ある学術領域への入口になると同時に、その向こうへ知的探求を広げられるように配慮したつもりです。
 
もっというと、この本を取り巻く環境を想定して、そこで書けそうなことを最大限やってみた、ということになるでしょうか。この考え方じたい、実は本文で展開している自己論そのものです。与えられた環境のなかで持てるスキルを発揮して他者と相互作用をすること、その過程でそのつど成立しているのが自己である、というのが本書の基本的な発想ですので。
 
というわけで、今回は、読者に向けて書くというパフォーマンスにおいても、本文で主張していることをほぼそのまま実践しています。どういった読者にどのくらいの規模で本書が届くかによって、学術書という「身体」のうしろに広がる環境がどんな場所なのか見えてくるだろうと期待しています。日本語の学術書を取り巻く現状を測量する、というとちょっと大げさですが。
 
…著者目線で駄文を書き連ねてしまいましたが、ともあれ、本書は自己アイデンティティに関するものです。後書きでもここでも何度か書いている通り、「自己」という問いについて深く考えてみたい「青い読者」に広く届きますように。どんな知的背景をお持ちの方にも読んでいただけます。