2017年4月3日月曜日

『心の科学史』とエンボディード・アプローチ

昨年秋に講談社学術文庫版で再版された高橋澪子氏の『心の科学史』を読んでいて、次のような文章に出会いました。

【自然への問いかけや仮説の検証手段としての現代的意味における実験が<心(ゼーレ)>そのものを対象にしておこなわれたことは、おそらく、かつて一度もなく、(自然科学におけるそれと同様の意味を持つ)近代的方法としての実験は、心理学にあっては、<心(ゼーレ)>そのものを追放したあとの「行動科学」においてのみ、はじめて可能となったのではないだろうか。むろん、この種の議論を(新行動主義者がしたように)”定義の問題”としてかわすことは簡単である。だが、ここでいう<心>とは、定義以前の、近代以降に生まれたわれわれの誰もが日常生活の中で”心得て”いる(暗黙のうちに了解し合っている)常識概念としての<心>、すなわち”内なる”(そして、さらにつけ加えて言えば”自律的な”)心であり、そのような<心>ないし<ゼーレ>を対象とする”実験”科学は、かつて一度も存在しなかった。】(第四章・第3節・4)

ここで著者が言っているのはこういうことです。デカルトが物心二元論によって見出したような「われ思う」を基本にする私秘的(プライベート)な領域ーー日常的な言葉で言うと「内面」のことですーーが心理学の対象である限り、それは決して実験科学の対象にはなりえない、と。内面としての心は、直接知覚できませんし、観察対象になりませんから、心を対象にする科学というのは成り立たないわけです。古くは哲学者のカントが、『自然科学の形而上学的原理』のなかで、類似する議論にもとづいて心理学が不可能だと述べています。

ただ、興味深いのは、だから心理学は実験をベースとする自然科学として成立しえないのだ、とは著者が必ずしも考えていない点です。巻末の解説で、渡辺恒夫氏もこう書いています。

【ただし著者は、行動主義やその延長にある生物学的心理学だけが唯一の科学的心理学だと言っている訳ではない。物心二元論の枠組みをもう一度認識論的に乗り越えたところに、「『科学』ではあっても、もはや『近代科学』とはその意味をまったく異にする新しい心理学」が成立しなければならないと言う。】

一体どのような心理学なんでしょうか?

著者も認めるように簡単な答えはありませんが、「心理学の哲学」「理論心理学」「心理学基礎論」などの名前で呼ばれる領域では、さまざまな議論が繰り広げられています。私自身も、認知神経科学の研究成果を現象学的な観点から理論的に整理したり、実験以前の探索的研究に質的なアプローチで迫ったり、といった仕事をしています。基本的には、デカルトまでさかのぼって身体との関係から心をとらえ直し、「心=内面」という発想を取り外すことが、最も重要なアプローチだと考えています。このページの趣旨でもある「エンボディード・アプローチ」ということになりますね。

いずれにしても、心理学はもともと、「何を心とするのか」「どのようにアプローチするのか」「他者の心は知りうるのか」といった方法論的に難しい課題を多く抱えているということです。なので、実験や臨床や質的研究に深く取り組もうとすればするほど、認識論的な根拠について考えることを求められる、ということなのです。