2017年1月26日木曜日

うれしい来客

ベルリンに滞在中のG・ジョヴァノヴィッチさんがハイデルベルクまで来られました。彼女は普段セルビアのベオグラード大で教えているのですが、いまは短期滞在でベルリンにいて、今回はドイツの心理学史を再考するプロジェクトに関わっているそうです。ハイデルベルクは、ヴントについて調査するために立ち寄ったとのことでした(ヴントの最初の就職先はここハイデルベルクでした…ヘルムホルツの助手として採用されたのです)。

お会いするのは今回が2度目です。最初にお会いしたのも結構最近で、昨年7月に横浜で開かれた国際心理学会議(ICP 2016)でした。私が登壇したシンポジウムにたまたまオーディエンスとして来られていて、終わった後でお声がけいただきました。しかも、発表内容を論文にして書籍に寄稿してくれないかというお誘いでした。

とはいえ、ここまでならあまり喜びはしません。国際会議での発表経験がある方なら知っていると思いますが、発表がうまくいけば、終わった後で論文化のお誘いを受けることはそこそこあります。ただ、こういう誘いの大半はいわゆる「ハゲタカ・ジャーナル」から来るので、話に乗せられてしまうと、誰も読まない無名のジャーナルに原稿が掲載され、しかも「掲載料」と称してかなりの金額のお金を取られます。なので、単に誘われるだけだとたいてい身構えて、後で連絡を取ることもないのですよね。

ジョヴァノヴィッチさんからのお声がけが予想外にうれしかったのは、彼女が編集している書籍のプロポーザル(趣意書)を見せてもらったからです。執筆陣が豪華なんですよ、何といっても。哲学的心理学のロム・ハレ、文化心理学のヤーン・ヴァルシナー、社会構成主義のケネス・ガーゲン、(残念ながら企画後に亡くなられましたが)認知心理学の大家ジェローム・ブルーナーなどが名を連ねていました。

しかも、こういう大物たちに加えて、東欧、南米、アジアの執筆陣にもきちんと目を配っていて、たんに西洋中心の心理学にする気がないことも伝わってきました。むしろ、メインストリームの心理学に潜む西洋中心主義を乗り越えようとする意図が明白に読み取れます。こういう良心的な書籍を編集できる研究者は、なかなかいません。後日ジョヴァノヴィッチさんの仕事の幅広さを知るまで、なぜここまで広範囲の人々を結び付けられるのだろう、と不思議でした。

ともあれ、そういう事情なので私も喜んで寄稿しました。ちょうど「日本的自己」のあり方を批判的に考えていたタイミングだったので、書く作業を通じてしっかり考えてみたかったのです。1970〜90年代ぐらいまでのいわゆる「日本人論」の文脈では、日本的自己は西洋的自己との対比で、その特殊性やユニークさが強調されていますが、私はこれを批判的に考え直したいとつねづね思っていました。

日本的自己は西洋的自己のように確固とした境界を持った「個体」ではなく、関係依存的であるという指摘がよくなされます(それこそ、戦前の和辻哲郎やルース・ベネディクトの時代から一貫しています)。それはそれで間違いではないとしても、それが日本文化に特有の自己のあり方である、というところで考察が閉じてしまうと、現代においては大変まずいのです。たんに文化の違いを強調して終わりになってしまって、異文化との対話の通路を開く試みになりません。日本的自己の特徴を描くにしても、それが西洋的自己と共通のフォーマットの上で違っているという論じ方ができなければ、今日必要とされる日本文化論にはなりえません。

現象学的身体論から見れば、関係的であるか個体的であるかは、身体的経験の焦点づけの違いであって、本質的な違いではありません。「私の身体」には、自己にとって知覚的客体として現れる側面と、他者にとって知覚的客体として現れる側面があります。前者が焦点化されれば、身体は自己内関係で閉じるので、個体的経験として構成されます(I-me です)。後者が焦点化されれば、身体は自他関係でしか成立しないので、関係的経験として構成されることになります(I-me-othersですね)。とりあえずここまででもきちんと記述できれば、日本的自己は、たんに日本的な特殊性として描かれるだけでなく、他文化における自己と共通のフォーマットで語る端緒が得られます。

…と、そんなことを原稿に書かせてもらいました。出版が待ち遠しいのですが、今日伺った話だと今年中の出版は難しいみたいです。できるだけ早く出版されるといいのですが。Routledgeから刊行が予定されています。