いろいろと慌ただしくしているあいだにお知らせを忘れてました。
もう今週末ですが、26日(日)14時から、東大精神科の榊原英輔さんが中心になって開催されているPPP研究会でお話します。PPPは、Philosophy of Psychiatry and Psychologyの略です。精神医学と心理学について、その哲学的基盤に関係する深い議論をされている研究会です。
榊原さんのホームページはこちら。
Acrographia
http://www.acrographia.net/
いちおうクローズドな研究会だったと思いますので、参加には問い合わせが必要です。このブログを読んでくださっているくらい意識高い系?の方はまず問題なく参加していただけると思いますが…。開催場所は東大の駒場キャンパスですが、詳しく知りたいかたはお問合せください。
田中は帰国してから新しいことを勉強する時間を取れずにいるので、26日は以前ドイツ滞在時に話した離人症のことを中心にお話しします。以下、研究会で流してもらった抄録をここにも貼り付けておきます。
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「離人・現実感喪失における自己と身体」
田中彰吾(東海大学現代教養センター)
環境に向かって行為する、環境のなかの対象を知覚する、といった日常的な場面では、自己と不可分のものとして身体が経験される。身体は、自己がそれを通じて行為する媒体、あるいは、そこから知覚が生じる媒体として、暗黙に経験されている。ところが、離人・現実感喪失(Depersonalization/derealization disorder)として知られる病理的な状態では、自己が身体から遊離しているように感じられたり、「身体とともに行為する自己」と「それを観察する自己」とが分離して感じられたりする。たとえばある当事者は「私は、自分が空間中に浮遊する鈍くぼんやりした思考であるように感じ、自分に体があるということさえ時に奇妙に感じられた」(Bradshaw, 2016)と述べている。この経験は、デカルトの心身二元論のように、身体がなくても自己が自己でありうることを示唆しているように思われるが、理論的にはどのように考えることができるだろうか。この講演では、離人・現実感喪失において生じる自己と身体の分離の経験について、(1) 当事者の手記を参考にして経験の具体的な様相をとらえつつ、(2)シエラ(2009)が記述した離人症における身体経験の異常と照合しながら考察する。理論的な課題は、「最小の自己(minimal self)」が身体から分離した状態で成立しうるかどうか、検討することにある。ギャラガー(2000, 2012)によると、最小の自己は所有感(sense of ownership)と主体感(sense of agency)によって構成されるが、離人・現実感障害においては、所有感と主体感はともに日常的な状態から大きく逸脱している。はたしてこの点は、最小の自己が身体から分離した状態で成立しうることを意味するのだろうか。参考として、実験によって引き起こされる「フルボディ錯覚」と呼ばれる錯覚の経験と比較しながら、考察を進める。