先日の認知科学会のシンポジウム(「プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」)のさい、全体での議論のときに少しコメントしたことを、文章として書きとめておきます。プロジェクション・サイエンスは、広い意味での内部モデルが世界に投射される過程に焦点を当てる科学的試み、という理解でここでは良いかと思います。詳しくは鈴木宏昭先生の以下のブログ記事を読んでみてください。
>「プロジェクション・サイエンスとは何か」
というわけで、以下はメモです。
プロジェクションを考えるうえで、ラバーハンド錯覚は基幹的な重要性を持つ現象だろう。ゴムの手が「自分の手」であるかのように感じられるとすると、物体に身体所有感がプロジェクトされることを意味している。神経生理学的には、視覚と触覚の統合が、ゴムの手の位置との相関で生じていることが意味を持つ。
ゴムの手が多感覚統合を通じて「自分の手」として経験されうるということは、裏返して言うと、いつもは「自己の身体」として経験されている物理的身体そのものが、多感覚統合にもとづく脳内表象に過ぎない、という可能性を示唆していることになる。
とはいえ、身体それ自体は脳内表象には還元できない実在性を帯びている。それはたとえば、二重感覚のように、自己の身体上では生じるが、物体上では生じない現象があることを考えれば明らかだろう。自己の身体は、実在世界に定位している存在であると同時に、脳内で構成される表象でもある。
「表象=内部モデル」と「実在世界」の関係をプロジェクションという概念で読み解くうえで、身体は出発点として考慮すべき対象である。また、身体を通じて実在の世界へのアクセスが保たれているとすると、その世界が最初に開けてくる場面は、身体的な知覚と行為の循環的関係に即して理解する必要があるだろう。
ただし、ひとが行う行為の中には、「ふり遊び」「ごっこ遊び」のように、実在しない世界を行為によって描き出すものがある(発達的には2歳ごろ、言語の獲得が集中的に始まる時期に近い)。つまり、行為が文字通りの知覚対象を指示するだけでなく、知覚対象に想像上の対象が重ねて描かれるような場面がある。知覚とイメージを区別するものは、プロジェクトされる対象、プロジェクトされる世界との関係で考える必要がある。
イメージはさらに、複数の身体が出会う場面で、ナラティヴを創造するだろう。たとえば、「ままごと」「戦いごっこ」として演じられる遊びは、想像上の世界に参入する他者の身体を含んで展開される。ある想像上の世界のなかで、一定の役割を分担して演技ができる身体が複数あることで、イメージはストーリーへと生成する。
イメージがストーリーへと生成する過程では、複数の身体が出会い、知覚的には現前しない世界との関係で、擬似的に行為の意図を発動させることが必要になる(たとえば、泥ダンゴをつかんで食べるふりをする)。このとき、身体は想像上の世界を間主観的に現出させる「道具」として機能している。
身体を、一次的な行為主体として経験するのではなく、想像上の世界を表現する二次的な道具として利用できることは、自己と他者とのあいだで共有される「ナラティヴ」の世界を創発させる鍵になっているように思われる。
複数の身体のあいだで共有されるナラティヴは、道徳的な行為規範のように一種のドミナント・ストーリーを生成する一方で、「自分だけの空想の世界」をプロジェクトする基盤にもなっているだろう。「妄想」に至るようなきわめて個人的なストーリーは、社会的に共有されているストーリーがなければ機能しないだろう。
…とまあこんな感じで、表象と実在の関係を「身体」から出発して考えると、「知覚/行為」〜「想像/イメージ」〜「ストーリー/ナラティヴ」…という順番で、プロジェクションの豊かさを理解できるのではないか、と思ったのでした。
個人的には、「ナラティヴ」は個体の身体だけからは決して生まれてこないだろうと思っています。複数の身体が集う場面でどのようにしてナラティヴが生成するのか、考えてみたいものです。