2017年5月11日木曜日

意識とギャップ/意識のギャップ

イスラエルで「From Body to Self in Virtual Reality」というシンポジウムに参加してきました。

細々したことは省きますが、ヴァーチャル・リアリティに関する発表と離人症に関する発表をつづけて聞いているうちに、意識の問題にまつわる本質的なことを考えさせられました。自分自身の発表では意識の問題は正面から扱わなかったのですが、潜在的にはこのことを考えたかったのだなぁ、と気づかされました。

離人症では、いわゆる「脱現実感(derealization)」がしばしば生じます。自己が世界から離脱して、まわりの世界を傍観している感じです。当事者は「世界に霧がかかっているような感じ」「世界にありありとした現実感がない」といった表現をよく使います。もう少し踏み込んでいうと、脱現実感は、自分が現実(リアリティ)にうまくフィットしていない感じ、自分がいつものように世界と(情動と身体を介して)触れ合っていない感じをともないます。
 
ここには、ヴァーチャル・リアリティを考えるうえで大きなヒントがあります。ヴァーチャル・リアリティでは、ヘッドマウント・ディスプレイを使って、いつもとは違う現実にアクセスしますが、そこに強い没入感が生じます。脱現実感とはまったく逆に、自己が仮想現実に吸い込まれるような感覚が生じていて、離人症とは逆の事態が起きているように見えるわけです。
 
かたや、現実から自己が分離して、現実が現実っぽさを失う経験。
かたや、仮想現実に自己が没入して、非現実が現実っぽく感じられる経験。
 
しかしながら、どちらも、意識のはたらきの本質にかかわる面があります。というのも、「意識があること」とは、いまここで私の前に世界(現実)が現れている経験に他ならないからです。「意識がない」状態と比べてみてください。私がいないだけでなく、世界も開けていませんよね。
 
ところで、私の前に現実が現れてくるには――言い換えると、私が現実に気づくことができるためには――「私」と「現実」のあいだに「裂け目(ギャップ)」がなければなりません。意識が意識として(つまり、何かに気づいている作用として)はたらきはじめるには、ギャップが必要なのです。
 
VRの場合、このギャップが予想される以上に小さいために没入感が生じるのでしょうし、逆に、離人症では普段以上にこのギャップが大きくなるので「何を経験しても自分のこととして感じられない」という事態になるのでしょう。VRは、離人症の治療に応用できる可能性が十分あるように思います。
 
しかし、このギャップ、私と世界の「裂け目」(メルロ=ポンティ風に「裂開」と言ってもいいですが)は、どのように説明することができるのでしょうか。たんに抽象的な説明としてではなく、VRや離人症のような具体的経験に即して言語化するとすれば、どのような説明が可能なのでしょうか。かつて木村敏氏が「現実」をリアリティ(reality)とアクチュアリティ(actuality)、あるいは「もの」と「こと」という対概念で説明しようと試みています。ひとつの重要な手掛かりになるように思います。
 
とはいえ、これだけでは技術、実験、治療といった具体的なレベルの問いにまだ落とし込めません。たとえば、オキュラス・リフトには加速度センサーが組み込まれていて、首の回転速度に対応して見えを変化させることで、没入感が強まる仕組みになっています。これは「ギャップ」を小さくする技術レベルの仕掛けと言えます。現実の現実感は、知覚を生じさせる身体の基礎的なメカニズムに深くかかわっています。
 
…とりとめがないのでこのへんでやめます。ともあれ、深く考えさせられるシンポでした。関係者にこの場を借りてお礼を申し上げ…って書こうとしましたが、日本語を読める関係者は誰もいないのでした(笑