2017年4月28日金曜日

ミニマル♪

拙著のカバーデザインができたそうです。
 

シリーズものの一冊(「心の科学のための哲学入門」)なので基本になるデザインは既刊に合わせてあるそうなのですが、それにしても本文の内容にぴったりなデザインになってます。
 
というのも、信原先生の的確な推薦文にもありますが「すべての外皮を剥ぎ取った根源の自己を開示」する書なので、余分な色がないほうが内容に見合っているのです。実際、帯も「剥ぎ取って」あげるとこんな感じになります。
 
これ以上なくシンプルですよね。この、ほとんど寒々しいほどにミニマルな感じ、素晴らしいです。ミニマル・セルフを扱ったこの本にぴったりです。デザインしてくださった関係者に改めて感謝です。
 
ところで、これを見ていて、博士論文を書いていたころの自分を思い出しました。私の博士論文はユングの共時性を扱ったものだったのですが(『<意味のある偶然の一致>の現象学』)、ユングの回りくどくてゴテゴテとした文体が苦手(というかはっきり言うと嫌い)で、そういうのを全部脱色して骨格だけを残すとどうなるのか、という思考の実践を書きながらずっと模索していました。
 
当時、たまたま友人が貸してくれて耳にしたミニマルミュージックは、そういう思考にとてもよくフィットしました。スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーの音を小さい音でBGMにして流しながら深夜に博士論文を書く作業を何度も何度も何度も何度も何度も…繰り返した記憶があります。
 
記憶の話をしていますが、当時を懐かしがっているわけではありません。そういうことではなくて、音楽であれ思考であれ、ミニマルなものの探求は、最小のユニットに全体を還元できるかどうかという方法論的探索を含むので、知の探求にとって重要だということです。理論的な観点において「要素主義」や「原子論」ではなく「ゲシュタルト」や「全体論」が重要なのは言うまでもないのですが、それは、還元的なやり方で全体をいちどバラしてみるからこそそう言えるわけです。
 
ミニマルミュージックを聞いて文字通り感動するような人はあまりいないと思います。が、ミニマルな音の良さがわかる人はメロディやハーモニーの豊かさを格段によくわかるのではないかと思います。自己アイデンティティの問題もそれと同じで、ミニマルな自己までそぎ落として自己が理解できるとき、自己という現象の複雑さと豊かさが初めてわかるのではないでしょうか。「私」がいま・ここに存在することは、それじたいで驚異的なことです。