2021年10月30日土曜日

「筋肉の鎧」

ヴィルヘルム・ライヒという風変わりだが興味深い思想家がいる。すでに60年以上前に亡くなっているが、性を媒介にして精神分析とマルクス主義を架橋する思想を構想した人物である。『セクシュアル・レボリューション』という著作が1970年前後の左翼運動の文脈でよく読まれていたと聞く。
 
私は彼の革命思想には興味がないが、その身体論に大学院生の頃関心を持って一時期よく読んだ。とくに『オルガスムの機能』は(タイトルが怪しいが)、フロイトがヒステリーや神経症を介して取り組んだ身体の問題の向こう側まで正確によく捉えている良書だと思う。フロイトはトラウマの経験とそれに続く神経症を「抑圧」という観点で理解したが、ライヒは抑圧がたんに心的な経験としてだけでなく、身体的な対応物として筋肉の緊張と習慣的な硬化をともなうことを指摘している。
 
とくに性にまつわるトラウマ的経験の抑圧は、たんにそれを無意識に追いやる心的メカニズムだけでなく、骨盤周辺の筋肉の硬直や横隔膜の硬化によって、いわば「感じない身体」を生理学的に作ることでも実現されている。硬直した筋肉のブロックは「筋肉の鎧」として身体に沈澱し、性を介して他者と世界を生き生きと経験することを妨げる。逆に、筋肉の硬直を体系的に取り除くことは、精神分析より直接的に抑圧を除去し、無意識と自我を再統合する機会を作る。この発想は、身体にはたらきかける心理療法として現在盛んに実践されている「ボディサイコセラピー」の源流になっている。
 
ライヒの身体論は20代のころ修士論文で踏み込んで取り上げたのだが、久しぶりにまとまった文章を書いた。いずれ出版する単著の一部である。刊行されるのはまだかなり先になりそうだが、とりあえず原稿を書き終えた余韻ということでここに記しておく。