2017年6月21日水曜日

ソフィー・ペダーセン氏講演会

少し先ですが、下記の日程で、ソフィ―・ペダーセン氏の講演会が開催されます。

2017年
8月3日(木)
8月7日(月)
8月18日(金)
いずれも16時~18時、立教大学池袋キャンパス12号館2階ミーティングルームにて。


ペダーセン氏は、デンマークのコペンハーゲン大学心理学部で講師を務められているそうです。事前連絡は不要で、どなたでも参加できるそうですので、関心のある方はふるってご参加ください。問合せは立教大学の河野哲也先生まで(画像を拡大するとメールアドレスを確認できます)。
 
内容ですが、ポスターで予告されている概要はこんな感じです。
  • 3日:Disconnected Activities (working with mental illness from a perspective of activity theory and eco)
  • 7日:Historicizing Affordance (a rendez-vous between ecological psychology and cultural-historical theory)
  • 18日:The Human Eco-niche (exploration and theoretical considerations)
いずれも、生態心理学ベースで、人間と環境の相互作用という観点から心を考える企画になっているのが伺えます。
 
田中は参加したいのですが、まだ帰国前のため無理です…残念。とくに7日の内容は、生態心理学のように身体からボトムアップで心を考えるアプローチと、文化・社会的な観点からトップダウンで心を考えるアプローチの接点を話題にするようですので、個人的にもいろいろ質問してみたいところです。

た
 

2017年6月14日水曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』6-9章)

研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
  
  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第6-7章)新曜社.

  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第8-9章)新曜社.
  •   
    今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』、後半6~9章の要約です。
     
    5月の臨床心理学研究会(能智正博先生主催)では前半1~5章までが取り上げられましたが、今回は残りの後半部分の検討でした。レジュメ6~7章は松尾純子さんが、8~9章は佐藤文昭さんが担当されています。

    渡辺先生、植田先生、田中の訳者3人は前回に続いて参加しました。

    今回は、個人的に印象深い質問が二つありました。

    ひとつは、ラングドリッジさんのけっこう厳しい(しかしやや的外れな)フッサール批判を受けて、ラングドリッジさんの立場はいまだ「現象学」と呼びうるものにとどまっているのか、という質問(これは当日参加されていた山竹伸二先生からのものでした)。

    ラングドリッジさんの立場は、フッサールへの誤解を多少含んでいますが(このへんは田中が訳者あとがきで解説しています)、しかし現象学への独創的な貢献を含んでいます。とくに彼は、さまざまな社会理論を持ち込んで、人々の語る「ナラティヴを揺り動かす」という作業を加えるのですが、これはフッサール現象学で言う「想像的変更」や「形相的還元」をナラティヴ研究の文脈に大胆にもちこむ試みと言っていいと思います。

    もともと現象学では、事象の本質を見出すために、想像力を用いて知覚された事象を揺り動かし、それでも変化しないものをつかみ出す作業(これを「想像的変更」とか「形相的還元」と呼びます)があるのですが、ラングドリッジさんは心理学の、とくにナラティヴ研究の文脈でそれを実践しようとしているわけです。人々の語るナラティヴはしばしば、社会に流通する規範的なナラティヴ(ドミナント・ストーリー)によって支配されている面があるので、それに揺さぶりをかけることで、「他のやり方でも語りうるもの、語りうる自分」を見出そうと試みているのです。

    もうひとつの質問は、この点に関係して、8~9章のレジュメを担当された佐藤さんから聞かれたものでした。人々のナラティヴを揺さぶることが研究方法の重要なポイントになるのだとすると、実際にナラティヴを聞き取るインタビューの場面で、ラングドリッジさんの実践する「批判的ナラティヴ分析」の方法では質問を工夫するのだろうか。とくに、相手のナラティヴをゆさぶるような質問をどの程度踏み込んでするのか、という質問でした。
     
    こちらは、訳書のなかでは十分に触れられていません。トランスクリプトを読み込む場面で「ナラティヴをゆり動かす」ことは書かれてあるのですが、インタビューのやり方ではそのことには触れられていません。

    考えたのですが、インタビュー中、相手に質問するタイミングでそれに近いことをやろうとすると、相手の語りたくないことや、相手が無自覚なことに気づかせるような面が出てくるので、場合によっては倫理面で好ましくない影響が出かねません。もちろん、相手の語りの潜在的な可能性を解放する、という良い影響をもたらすかもしれないのですが、ここは両義的です。ラングドリッジさんが次に来日するときに、本人に直接確認してみたいと思っています。
     
    ちなみに、8月21~25日に立教大学で開催される国際理論心理学会(ISTP 2017)に合わせて彼の来日が予定されています。基調講演も依頼していますから、理論心理学、質的研究、ナラティヴ・アプローチなどに関心のある方は、ぜひ足を運んでください。
     
    た
     

    2017年6月12日月曜日

    連絡は 忘れたころに やって来る

    ずいぶん前にこんな記事を書きました。日付を見るとほぼ5か月前ですね。

    「英文5000ワード」
    http://embodiedapproachj.blogspot.de/2017/01/5000.html

    原稿を送ってから3か月くらい「自分の原稿どうなってるんだろう…」と心の片隅でときどき思い出していましたが、その後はこの仕事のこと自体を忘れていました。そうしたら編者の先生から突然連絡が。

    あらら、当初予定していたBrillからの出版は契約が難航してダメになったんだとか。代わりにRoutledgeと話を進めるそうです。出版が先延ばしになるのは残念ですが、添付で送られてきた企画書を見たら、個人的にはRoutledgeの企画のほうが好感を持てました。というのも、理論心理学もののシリーズの一冊として出版できる見通しらしいのです。

    さっそくネットで確認してみました。たしかにこんなシリーズがありますね。
    Advances in Theoretical and Philosophical Psychology

    え~、でも大丈夫なのかなぁ、シリーズだけど1冊しか出てないよ…。 

    共著者としてはとにかく出版まで無事にたどりついてくれることを祈るばかりです。せっかく書いた原稿が没になることほどつらいこともないので。

    た
     

    2017年6月7日水曜日

    地味にうれしい仕事…

    …をもらった。

    イギリスに本社がある某出版社の編集者から突然連絡があって、これから出版される予定の原稿のレビューを頼まれた。著者名や書籍のタイトルはもちろんここには書けない。著者のことは個人的に知っているし、論文も読んだことはあるが、著作を一冊通して読んだことはない。

    ちなみに、依頼されたレビューはいわゆる日本の「書評」ではない。論文の「査読」に近いタイプのレビューである。日本では学術書を出版するのに、事前に原稿を専門家に送って評価を聞く習慣がないが、洋書にはある。出版前に、専門分野が近い複数の専門家から意見をもらって、著者がリライトの参考にするのである。

    で、メールをもらって驚いたのだが、期間がかなり短い。3~4週間で読んでレビューを書いて欲しいとのことだった。初めてのことだったので嬉しくてさっそく承諾のメールを書いたのだが、日本で普通に勤めているタイミングでこの話をもらっていたら、まず断っていただろう。

    だいたい、日本の大学に勤めていると忙しすぎて洋書一冊を短期間で読み通すだけのまとまった研究時間が取れない。セメスター中は週4日必ず本務校で授業があり、プラス1日は非常勤で他の大学で授業がある(人によっては、だが)。その5日は講義の準備と学務で終わるので、残り2日しか研究に割けない。
     
    1日で英語の論文を1本きちんと読めるとしても、2日で2本。単著で10章ぐらいあるものだと、1日1章読んでも合計10日はかかる計算である。つまり、単純に見積もってもセメスター中に週末を5回つぶさないと洋書1冊をきちんと読む時間が取れないのである。休み期間に集中的に1冊読んでレビューを書いても、きっと1週間はかかるだろう。とてもじゃないが、日本にいるタイミングでその時間があるなら、他人の本のレビューじゃなくて自分の論文や著作を書く時間に費やすに決まっている。

    しかし、である。国外の研究者は3~4週間で自分に近い分野の研究者が書いた原稿を読んでレビューを書くことができるような環境にいるのだろうか(セメスター中であれ休み期間中であれ)。もし彼らがそういう環境にいるなら、日本の大学に所属する研究者はどう足掻いても研究の世界では勝てっこない。

    た
     

    2017年6月3日土曜日

    論文読み読み

    昨日から大量の論文を読んでいます。自分の研究に直接関係ないものも多いのですが、某ジャーナルで特集号を組むことになっていて、その編集を引き受けているためです。
     
    で、いろんな人の書いた文章を読んでいると中には「ん?」と思うものも出てきます。引用符のなかに著者自身の書いた文章を何度も引用している論文を見つけたのです。
     
    " ............ " (Name, 20XX, p. ##)
     
    読んだ時の違和感がうまく言葉にできなかったのですが、あえていうと「珍妙」な感じと言えばいいんでしょうか。説明するとこういうことになるんだと思います。

    論文で引用符をつけたり、段落として引用する場合、基本的には他者の文章を引用します。そもそも引用は、(A)他者の書いた文章について出典を明記して剽窃を避ける、という意味を持つ行為なので、それが他者の文章になるのは当然ですよね。これに加えて、批判するのであれ、論述にとっての傍証にするのであれ、引用することで、(B)過去の研究者のオリジナルな知見に一定の敬意を払う、という慣例的な意味もあると思います。
     
    ここで、他者の文章を自己の文章に置き換えて、自分の書いた文章をそのままカギ括弧をつけて引用すると、(A')自己剽窃していないことを明示する、というポジティヴ(?)な機能を持つ一方で、(B')自分の過去の研究に対して自分で敬意を払っている、という意味にも受け取れます。私が「珍妙」な印象を受けたのはこの二つが入り混じった印象を受けたからのように思います。もうちょっと言うと、「正確さを期した自画自賛」とでも言えばいいんでしょうか。
     
    もちろん、自分の書いた文章を自分で引用する例というのも、見かけることはあります。たとえば、ある分野で他の研究者が多く引用している著名な論文で、それが論争になっているような場合なら、自己引用をしてもういちど自分の主張を正確に伝えるという意味はあります。あるいは、自分の過去の主張を訂正するさい、 何を訂正するのか正確にするためにその箇所を引用するような場合。あとは、自分の代表的な業績をピンポイントで紹介する場合でしょうか(でもこれができるのは自分の業績に相当自信がある場合でしょう)。
     
    今回はどれにも当てはまらないので、なんとも珍妙な読後感でした。直接お会いする機会があればどういうつもりで書いたのか著者に確かめてみようと思っています。その前にエディターとして対応せねばなりませんが。
     
    た
     

    2017年5月29日月曜日

    生きられた〈私〉をもとめて-余談

    拙著がそろそろ発売になるので、それに関する余談を。
     
    先日某所で「今後の学術書は300部が基準」という話題が盛り上がっていました。盛り上がっていたというより、ベースラインで300部しか売れないという悲観的な観測への反響が大きかったというほうが正確でしょうか。この数字の根拠ですが、図書館の需要が約200、その分野の学会関係者の需要が100程度と見積もると、おおよそ300部ということのようです。
     
    300部しか売れない可能性を最初から念頭に置いて内容と価格設定を考えざるを得ない、ということだとかなり深刻な話です。これは出版業界だけでなく、学術書を書く研究者にとってもそうです。というのは、300部基準で考えざるを得ないのなら、日本語で書くこと自体をやめていくことになるのではないかと思うのですよね。
     
    先日イスラエルに出張したさい、イスラエルの研究者は文系でもヘブライ語で著作を書くことはまずないと聞きました。そもそも国内に大学が7つしかなくて、関連分野の研究者が全員読んだとしてもそれこそ300部に届かない世界らしいです。現象学をやっている友人に聞かれました――「母国語で書けるならそのほうがいいけど、100人ぐらいしか読者がいないものを書く気にならないでしょ?」。うーん、書く気になるかもしれませんが、ウェブ上で雑文として書けば話が済みそうですね。
     
    日本でも学術書の市場がどんどん小さくなっていくと、長期的には同じような状況になってしまうかもしれません。とはいえ、日本語を使用する人口は相対的に見て多いですから、一般向けの書籍がそれなりに売れる状況が残っているあいだは、学術書を一般向けの書籍に近づけて出版を継続するという形態がメインになるんでしょうね。
     
    しかし、これはこれで、学術をわかりやすくして限りなく一般書に近づけていく方向に見えます。今ふりかえると、この流れはずいぶん前から始まっていた気がします。新書の出版点数がおびただしく増えた時期があったと思いますが(2000年前後でしょうか)、書店にいくたびに「知のデフレ」のような事態が起きている印象を受けて嫌な気分になった記憶があります。
     
    逆に、中身のしっかりした学術書はたいてい出版助成を受けていて、最初からかなり限定された読者宛に書かれているものが増えました。こちらは、クオリティが高いのはよいのですが、学問や研究の面白さを、専門外の世界にいる人に伝えるものにはならない場合が多い気がします。学術論文を読むのと印象があまり変わらないといいますか。
     
    自分が著作を出すタイミングでなんだか暗い話を書いていますが、それなりに思うところがあってのことです。というのも、今回の著作はある水準の読者を想定してわかりやすく書くことにこだわっていますが、その一方で、話を単純化して知を安売りするような妥協は避けています。また、出版助成のバックアップをもらって実売部数を気にせず書いたものでもないですし、逆に、低価格が理由で売れるような本でもありません。論文でも新書でもできなさそうなことを模索してみました。
     
    とくに今回は、「心の科学のための哲学入門」というシリーズの一冊として何ができるのか、そのつど手探りしながら書きました。心の科学の側から入りたい人にとっても、哲学の側から入りたい人にとっても、ある学術領域への入口になると同時に、その向こうへ知的探求を広げられるように配慮したつもりです。
     
    もっというと、この本を取り巻く環境を想定して、そこで書けそうなことを最大限やってみた、ということになるでしょうか。この考え方じたい、実は本文で展開している自己論そのものです。与えられた環境のなかで持てるスキルを発揮して他者と相互作用をすること、その過程でそのつど成立しているのが自己である、というのが本書の基本的な発想ですので。
     
    というわけで、今回は、読者に向けて書くというパフォーマンスにおいても、本文で主張していることをほぼそのまま実践しています。どういった読者にどのくらいの規模で本書が届くかによって、学術書という「身体」のうしろに広がる環境がどんな場所なのか見えてくるだろうと期待しています。日本語の学術書を取り巻く現状を測量する、というとちょっと大げさですが。
     
    …著者目線で駄文を書き連ねてしまいましたが、ともあれ、本書は自己アイデンティティに関するものです。後書きでもここでも何度か書いている通り、「自己」という問いについて深く考えてみたい「青い読者」に広く届きますように。どんな知的背景をお持ちの方にも読んでいただけます。
     
    た
     

    2017年5月27日土曜日

    アーカイブの資料追加(Haggard, 2017)

    研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。

    Haggard (2017). Sense of agency in the human brain. Nature Reviews Neuroscience. doi:10.1038/nrn.2017.14.

    エージェンシー(主体感)研究の世界ではよく知られている研究者P・ハガードによるレビュー論文です。3月にオンラインで先行出版されたばかりです。

    時間知覚におけるインテンショナル・バインディング、感覚の減衰(sensory attenuation)、行為の自他帰属など、主体感に関係する過去の実験をそのつど参照しながら、重要な論点を比較的網羅的に扱っている印象でした。比較器モデルだけでは主体感は説明できないという点をきちっと述べているあたりはさすがです。

    エージェンシーについては、現象学的な議論と絡めてつっこんで考えてみたいと思っています。現状の実験でうまく扱えていないものの、実験で扱うべき重要な論点が隠れている気がするのです。このブログに掲載している以下の資料は、逆に現象学の側でエージェンシーをどう見ているかが分かるものになっています。
     
    S・ギャラガー,D・ザハヴィ (2008/2011). 「行為と行為者性」石原孝二・宮原克典・池田喬・朴嵩哲訳『現象学的な心』(第8章)勁草書房.

    ちなみに、統合失調症の「させられ体験」については、実験系の研究者が取りがちな見方とは異なる見解を拙著『生きられた<私>をもとめて』の第2章でも少し述べておきました。興味のある方はご覧いただけると幸いです。

    では、また。

    た

    2017年5月16日火曜日

    アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』1-5章)

    研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
      
    D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第1-4章)新曜社.

    D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第5章)新曜社.
     
    今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』の要約です。先日、能智正博先生が主催する臨床心理学研究会という集まりに初めて参加しました。この本を取り上げて読書会を実施するので、田中は訳者ということでお声がけいただいたのがきっかけでした。

    渡辺先生、植田先生、田中と、訳者3人はそろって参加したのですが、東大の会場まで足を運べたのは渡辺先生のみで、植田先生と田中はスカイプで加わりました。開始が14時だったのでドイツは朝7時(!)でした。いや、朝7時は普通に起きていることのほうが多いのですが、この日は前日に全編をもういちど読み通すという作業をやっていたら終わったのが深夜3時前で、実質3時間ぐらいしか寝ていなかったのでした。

    しかしこうして学び直すと得るものは多いです。参加できて幸いでした。というのは、訳者であっても、原著の理解に行き届かないところは残るのですよね。翻訳するときには原文をできるだけ明示的に理解するよう努めていますが――この場合の「明示的」は、著者の主張を日本語にして、さらにそれを自分の言葉で語り直すことができるくらい、というのが目安です――自分の得意でない分野を扱っている箇所はそこまでの明晰さがなかなか及びません。読書会で他の人のコメントを聞いたり、自分で説明を加えたりしながら、暗黙の理解にとどまっていたことが改めて明示的な理解に転換したポイントがいくつかありました。
     
    今回は、能智先生のご協力でレジュメを当サイトの資料としてご提供いただきました。当初の予定では読書会当日に最終章まで読み切ることになっていたそうですが、内容がなかなかハードなので、今回は前半5章までで終了しました。レジュメは、1~4章を能智先生が、5章を博士課程の横山さんが担当されています。

    次回は6月10日(土)だそうです。次回のみの参加も可とのことですので、ご関心のある方は田中までお問合せください。現象学に裏付けられた質的研究に関心のある皆さんにとっては、心理学を専門にしていてもいなくても、学ぶことがとても多い本だと思います。

    た

    2017年5月11日木曜日

    意識とギャップ/意識のギャップ

    イスラエルで「From Body to Self in Virtual Reality」というシンポジウムに参加してきました。

    細々したことは省きますが、ヴァーチャル・リアリティに関する発表と離人症に関する発表をつづけて聞いているうちに、意識の問題にまつわる本質的なことを考えさせられました。自分自身の発表では意識の問題は正面から扱わなかったのですが、潜在的にはこのことを考えたかったのだなぁ、と気づかされました。

    離人症では、いわゆる「脱現実感(derealization)」がしばしば生じます。自己が世界から離脱して、まわりの世界を傍観している感じです。当事者は「世界に霧がかかっているような感じ」「世界にありありとした現実感がない」といった表現をよく使います。もう少し踏み込んでいうと、脱現実感は、自分が現実(リアリティ)にうまくフィットしていない感じ、自分がいつものように世界と(情動と身体を介して)触れ合っていない感じをともないます。
     
    ここには、ヴァーチャル・リアリティを考えるうえで大きなヒントがあります。ヴァーチャル・リアリティでは、ヘッドマウント・ディスプレイを使って、いつもとは違う現実にアクセスしますが、そこに強い没入感が生じます。脱現実感とはまったく逆に、自己が仮想現実に吸い込まれるような感覚が生じていて、離人症とは逆の事態が起きているように見えるわけです。
     
    かたや、現実から自己が分離して、現実が現実っぽさを失う経験。
    かたや、仮想現実に自己が没入して、非現実が現実っぽく感じられる経験。
     
    しかしながら、どちらも、意識のはたらきの本質にかかわる面があります。というのも、「意識があること」とは、いまここで私の前に世界(現実)が現れている経験に他ならないからです。「意識がない」状態と比べてみてください。私がいないだけでなく、世界も開けていませんよね。
     
    ところで、私の前に現実が現れてくるには――言い換えると、私が現実に気づくことができるためには――「私」と「現実」のあいだに「裂け目(ギャップ)」がなければなりません。意識が意識として(つまり、何かに気づいている作用として)はたらきはじめるには、ギャップが必要なのです。
     
    VRの場合、このギャップが予想される以上に小さいために没入感が生じるのでしょうし、逆に、離人症では普段以上にこのギャップが大きくなるので「何を経験しても自分のこととして感じられない」という事態になるのでしょう。VRは、離人症の治療に応用できる可能性が十分あるように思います。
     
    しかし、このギャップ、私と世界の「裂け目」(メルロ=ポンティ風に「裂開」と言ってもいいですが)は、どのように説明することができるのでしょうか。たんに抽象的な説明としてではなく、VRや離人症のような具体的経験に即して言語化するとすれば、どのような説明が可能なのでしょうか。かつて木村敏氏が「現実」をリアリティ(reality)とアクチュアリティ(actuality)、あるいは「もの」と「こと」という対概念で説明しようと試みています。ひとつの重要な手掛かりになるように思います。
     
    とはいえ、これだけでは技術、実験、治療といった具体的なレベルの問いにまだ落とし込めません。たとえば、オキュラス・リフトには加速度センサーが組み込まれていて、首の回転速度に対応して見えを変化させることで、没入感が強まる仕組みになっています。これは「ギャップ」を小さくする技術レベルの仕掛けと言えます。現実の現実感は、知覚を生じさせる身体の基礎的なメカニズムに深くかかわっています。
     
    …とりとめがないのでこのへんでやめます。ともあれ、深く考えさせられるシンポでした。関係者にこの場を借りてお礼を申し上げ…って書こうとしましたが、日本語を読める関係者は誰もいないのでした(笑
     
    た
     

    2017年4月28日金曜日

    ミニマル♪

    拙著のカバーデザインができたそうです。
     

    シリーズものの一冊(「心の科学のための哲学入門」)なので基本になるデザインは既刊に合わせてあるそうなのですが、それにしても本文の内容にぴったりなデザインになってます。
     
    というのも、信原先生の的確な推薦文にもありますが「すべての外皮を剥ぎ取った根源の自己を開示」する書なので、余分な色がないほうが内容に見合っているのです。実際、帯も「剥ぎ取って」あげるとこんな感じになります。
     
    これ以上なくシンプルですよね。この、ほとんど寒々しいほどにミニマルな感じ、素晴らしいです。ミニマル・セルフを扱ったこの本にぴったりです。デザインしてくださった関係者に改めて感謝です。
     
    ところで、これを見ていて、博士論文を書いていたころの自分を思い出しました。私の博士論文はユングの共時性を扱ったものだったのですが(『<意味のある偶然の一致>の現象学』)、ユングの回りくどくてゴテゴテとした文体が苦手(というかはっきり言うと嫌い)で、そういうのを全部脱色して骨格だけを残すとどうなるのか、という思考の実践を書きながらずっと模索していました。
     
    当時、たまたま友人が貸してくれて耳にしたミニマルミュージックは、そういう思考にとてもよくフィットしました。スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーの音を小さい音でBGMにして流しながら深夜に博士論文を書く作業を何度も何度も何度も何度も何度も…繰り返した記憶があります。
     
    記憶の話をしていますが、当時を懐かしがっているわけではありません。そういうことではなくて、音楽であれ思考であれ、ミニマルなものの探求は、最小のユニットに全体を還元できるかどうかという方法論的探索を含むので、知の探求にとって重要だということです。理論的な観点において「要素主義」や「原子論」ではなく「ゲシュタルト」や「全体論」が重要なのは言うまでもないのですが、それは、還元的なやり方で全体をいちどバラしてみるからこそそう言えるわけです。
     
    ミニマルミュージックを聞いて文字通り感動するような人はあまりいないと思います。が、ミニマルな音の良さがわかる人はメロディやハーモニーの豊かさを格段によくわかるのではないかと思います。自己アイデンティティの問題もそれと同じで、ミニマルな自己までそぎ落として自己が理解できるとき、自己という現象の複雑さと豊かさが初めてわかるのではないでしょうか。「私」がいま・ここに存在することは、それじたいで驚異的なことです。
     
    た
     

    2017年4月26日水曜日

    イスラエルに行ってきます

    もうすぐイスラエルに行くのでその準備。「From Body to Self in Virtual Reality」というなかなか刺激的なタイトルのシンポジウムに呼ばれたので行ってきます。

    主催のドロン・フリードマンという方がどんな仕事をしているのか知らなかったので調べてみたのですが、ブレイン-マシン・インタフェース(BMI)とかVRとか、ヴァーチャル・ボディ系(と言っていいのかな、まあ、考えることで外部機器やVRを操作する類の研究です)の方みたいです。その方面ではけっこう知られている方のようですね。シンポのタイトルが「From Body to Self」なのは、つまり、身体から切り離された自己が可能なら、その自己は外部機器やVRに接続しうる、という発想なのでしょう。

    私に声がかかったのは、いま離人症を研究しているためです(…と、思います)。離人症では変則的な身体経験がいろいろ生じますが、もっとも顕著なのは自分が身体から離れているように感じるという症状なのですね。少し離れたところからぼんやり自分を傍観しているような状態が生じることが多いと言われます。

    これは一方できわめて心身分離的な状態に見えます。他方で、BMIで探索されているのも、ある種の心身の分離と言える面があります(本当は違うように思われますが詳細はまたいつか)。身体が麻痺しても、脳の活動を外部機器に接続して、コンピュータやロボットを動かすことで人工身体を稼働させる研究ですからね。四肢麻痺状態の方でも脳と外部機器を接続して動かしている風景がもっと一般的になる時代もそう遠くないのだろうと思います。

    それで、先日ジャーナルに投稿した論文の内容を話すことにしました。離人症で生じる心身の分離体験と、フルボディ錯覚で生じる体外離脱的な体験が似ているのか否か、現象学的に検討しているので、たぶんシンポジウムの趣旨にも合致するんだろうと思います。身体所有感が低下して自己と身体の分離が生じる点は両者とも似ていますが、「どこ」に自分がいるかをはっきり感じられるか否かでは違っています。この「どこ感」まで突っ込んで議論できると、タイトル通りに刺激的なシンポになりそうです。

    た

    2017年4月24日月曜日

    胸熱。

    出版社の配慮で、もうすぐ発売になる拙著『生きられた〈私〉をもとめて』に、推薦文入りで帯をつけていただけることになりました。アマゾンからそのまま引っ張りますが、こんな一文をいただいています。

    ◆推薦のことば
    すべての外皮を剥ぎ取った
    根源の自己を開示。
    表層的なアイデンティティ論を乗り越えた
    果敢な哲学の挑戦。
    信原 幸弘(東京大学大学院総合文化研究科教授)
     
    この本で書きたかったことの核心を、ごく限られた数行で、しかもかなり的確に凝縮していただきました。ありがとうございます、信原先生。

    個人的には「果敢な哲学の挑戦」というフレーズが、かなり胸熱です。このブログでも何度か「青い読者」に向けて書きました、という言い方をしていますが、その意を汲んでいただいたように感じています。心の科学の現在の知見を確認しながら「答えのない問い」をめぐって思考を展開することを試みた本ですから(もっとも、その裏側で、心の科学のさらなる進展を後押ししたくて書いている箇所もありますが)。

    なお、北大路書房のWさんとも相談しているのですが、この本の持っている熱に見合うイベントを何かやることになるかもしれません。それこそ「青い読者」に届きそうな場所で。
     
    た
     

    2017年4月19日水曜日

    アーカイブの資料追加(離人症・書籍リスト)

    研究アーカイブに資料を追加しました。

     *離人症・関連書籍

    離人症に関して出版されている主な書籍のリストになっています(論文は多すぎるので収録していません)。この資料は、知人の芹場輝さんが主に作成し、田中が少し加筆したものです(ご協力ありがとうございました)。今後、芹場さんが各書籍について100字程度の簡単な要約をつけてくださる予定になっています。期待しましょう。
     
    書籍のタイトルをざっとみてもらえると何となくわかるかもしれませんが、この領域の研究は、精神科領域の方が書いたものと、当事者の手記によるものに大別できます。ただ、じっさいに読んでみると、両者のあいだにある種の「溝」のようなものがあることに気づきます。当事者側からすると、精神科医に症状がうまく伝わらないもどかしさがあるように見えますし、医療者側から見ると、客観的に症状がとらえづらく、当事者の言葉だけからすると他の病気と類似する面が多々あるように見えるのではないでしょうか(うつやPTSDや統合失調など)。現状では、症状を記述する言葉が依然として十分ではないように思います。

    ところで、このサイトでは今までこうした文献リストは作成していませんでしたが、これを機に取り組んでもいいかもしれませんね。作成したいトピックがある方は田中までご連絡ください。
     
    た
     
     
    2017/4/27
    和書のリストについて、芹場さんが早速内容紹介を作ってくれたのでファイルを更新しておきました。書籍への手引きとしてとてもよい案内になっていると思います。離人症について理解を深めたい皆様、ぜひ手に取ってみてください。

    2018/6/13
    以前公開していたリストが大幅に増補して更新されたので、上記のリンクを解除しました。以後は以下のリンクから新しいリストに進んでください。
     *離人症・関連書籍


     

    2017年4月16日日曜日

    拙著は5月末発売だそうです

    拙著のことで北大路書房のWさんから連絡。先月末に二校の校正が終了した原稿はその後ぶじに校了したとのこと。発行が5月中旬、発売は5月末になるそうです。個人的にお問い合わせいただいている皆さま、お待たせしていますがもう少しです。
     
    近刊情報が今日から確認できるとのことだったので、確認してみました。アマゾンのページよりは「版元ドットコム」のページのほうが見やすいですね。それに、目次情報が小見出しまで入っていて詳しいです。書影はまだ先になるんでしょうか。二つのサイトからコピペして情報をそのまんま引っぱりますが、こんな感じの紹介になってます。
     
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    (心の科学のための哲学入門4)
    『生きられた〈私〉をもとめて――身体・意識・他者』
    田中彰吾(著)
    ¥ 2,484
    単行本: 264ページ
    出版社: 北大路書房
    ISBN-10: 476282965X
    ISBN-13: 978-4762829659
    発売日: 2017/5/29
     
    <内容紹介>
    現象学的な立場から,アイデンティティを「私が私であること」と理解し,根源的な場面まで遡ってその根拠を考える。ラバーハンド・イリュージョン,離人症,ブレイン・マシン・インタフェース,心の理論など,読者の常識を揺さぶるような「心の科学」のトピックを織り交ぜながら,「自己とは何か」についての思考実験を行う。
     
    <目次>
     序文 自己アイデンティティをとらえなおす
     
    【第1部 自己の身体性】
    第1章 身体と物体
     ラバーハンド・イリュージョン
     実験のヴァリエーション
     離人症
     離人症の「特異な身体経験」
     身体は錯覚?
     身体の「ここ」性
     次章への移行
    第2章 自己の身体と他者の身体
     身体の麻痺
     身体パラフレニア
     失認と妄想
     させられ体験
     イメージと意図
     次章への移行
    第3章 鏡に映る身体
     身体イメージとは何か
     視点の問題
     チンパンジーの鏡像認知
     赤ちゃんの場合
     他者・自己・鏡
     反省的自己をめぐって
    ●問いと考察
    Q 1-1 身体のない自己というものを考えることはできるだろうか?
    Q 1-2 身体を部分的に失うと、自己には何が起きるのだろうか?
    Q 1-3 死ぬことで身体が失われると、自己はどうなるのだろうか?
     
    【第2部 意識と脳】
    第4章 意識・夢・現実
     意識があるということ
     「無・意識」
     意識と世界
     明晰夢
     現実
     夢見の身体性
     目覚めること
    第5章 脳と機械を接続する
     ロボラット
     ブレインゲート
     ニューラル・オペラント
     BMIと脳の可塑性
     意図とは何か
     身体イメージを技術化する
    第6章 共感覚
     共感覚について
     声に形を感じる
     共感覚の判定基準
     共感覚の位置づけ
     すべての知覚は共感覚である?
    ●問いと考察
    Q 2-1 意識は、脳の活動から生じるのではないのか?
    Q 2-2 心は脳に宿っているのではないのか?
     
    【第3部 他者の心】
    第7章 問題としての他者
     他者の心の問題
     再び意識について
     他者の心は存在しない?
     心の科学の出発点
     類推説の問題点
     次章への移行
    第8章 心の科学と他者問題
     初期の科学的心理学
     行動主義
     認知科学の成立と心の理論
     誤信念課題
     他者理解の豊かな回路
    第9章 他者理解を身体化する
     理論説とシミュレーション説
     二人称関係における他者
     エナクティヴな間主観性
     コミュニケーションの質と身体性
     他者理解の身体性と自己
    ●問いと考察
    Q 3-1 他者理解の発達的な起源はどのようなものだろうか?
    Q 3-2 ミニマル・セルフの成立にとって他者は不必要か?
    Q 3-3 他者と出会うことで自己はどのように変化するのか?
     
     あとがき
     参考文献
     索引
    ----------------------------------
     
    「自己とは何か?」という問いかけは非常に抽象的ですから、それを具体化する過程でいろいろな考え方、答え方ができるはずです。本書は「心の科学のための哲学入門」という趣旨なので、認知科学・神経科学・発達科学・精神医学などのさまざまなトピックを引き合いに出しながら、「心の科学」という文脈に沿って「自己とは何か?」という問いに答えようと試みています。それがどこまでうまくいっているかは読者の判断にゆだねるしかありません。科学側から入りたい方も、哲学側から入りたい方も、ぜひ手に取ってみてください。いや、きっと書店に行く人は少ないだろうからオンライン書店でポチってください(笑
     
    あ、ツイッター上で「悪漢と密偵‏ @BaddieBeagle」さんがさっそく情報を流してくれているのを見つけました。ありがとうございます。このかた、新刊情報いつもものすごく速いですよね〜

    た




    2017年4月11日火曜日

    Intercorporeality and aida (Tanaka, 2017)

    今日は自分の論文の話題。けっこう時間がかかりましたが、間身体性と「あいだ」について考察した論文が出版されました。掲載誌は理論心理学系のジャーナル『Theory & Psychology』です。

    Intercorporeality and aida: Developing an interaction theory of social cognition
    Shogo Tanaka, First Published April 9, 2017

    アブストラクトはこんな感じです。

    The aim of this article is to develop an interaction theory (IT) of social cognition. The central issue in the field of social cognition has been theory of mind (ToM), and there has been debate regarding its nature as either theory-theory or as simulation theory. Insights from phenomenology have brought a second-person perspective based on embodied interactions into the debate, thereby forming a third position known as IT. In this article, I examine how IT can be further elaborated by drawing on two phenomenological notions—Merleau-Ponty’s intercorporeality and Kimura’s aida. Both of these notions emphasize the sensory-motor, perceptual, and non-conceptual aspects of social understanding and describe a process of interpersonal coordination in which embodied interaction gains autonomy as an emergent system. From this perspective, detailed and nuanced social understanding is made possible through the embodied skill of synchronizing with others.

    簡単に言うと、社会的認知は以前は「心の理論」を中心に議論がされていました(今もあまり変わっていません)。理論説とシミュレーション説の論争もありましたが、どちらも身体性が欠けている、という批判があります。では、身体性から出発して社会的認知や他者理解を論じるとどうなるのか、というと…説明するのがちょっと面倒になってきたので、そのうち紹介ページでも作ります。とりあえず、昔の研究会で使ったこんな資料を日本語でざっと見てもらうと、何が論点なのかつかんでもらえそうです。

    2011 年 2 月 26 日:2010 年度第三回身体知研究会(RMEK)資料
    他者理解の科学と現象学―心の理論から間身体性へ

    今回の論文は、メルロ=ポンティの間身体性に、木村敏氏の「あいだ」概念をつなげて、考察をさらに発展させたものになっています。身体的な相互行為をベースとして、自己と他者のあいだで創発する間主観性の領域がある、というのが主題です。

    …しっかし、長かったです。投稿したのが2016年の2月で掲載が昨日ですから、約14ヶ月かかっています。先日デンマークに出張した際にも、なんでこの雑誌は査読にこんなに時間がかかるのか、酒の席で話題になっていました(半年待たされてリジェクトされたからここには二度と投稿しない、という強烈な恨み節?も耳にしました)。

    たしかに、投稿してから掲載まで1年を超えるような雑誌だと、もらっている研究費の成果報告書に書けない場合も出てきますから書き手からすると不満です。自然科学系だとこんなに時間のかかるジャーナルは作れないでしょうね。出版されるころには内容が古くなっているでしょうし。

    ですが、個人的にはこの雑誌は気に入っています。査読がちゃんと機能していて、査読者が本文を読み込んでけっこう本気なコメントが帰ってきます。私は今回が2回目の投稿でしたが、前回も今回もコメントはかなりまともで、手続き的にも内容的にも、自分の至らない箇所をふみこんで指摘されました。怖いですねぇ〜(笑 
     
    ではありますが、こういう査読のおかげで自分の書くものが出版前に一定のクオリティを保てるわけですし、査読者もたいていの場合はボランティアで査読を引き受けてくれているわけなので、やはりありがたい話なのですよ。テキトーな査読者に原稿が当たらない限りは。

    た


    2017/06/08
    本日、無事印刷バージョンが出版されました。ページ番号を含めて、論文情報をアップデートしておきます。以下のリンクからPDF版をダウンロードできますよ。
     
    Intercorporeality and aida: Developing an interaction theory of social cognition. Theory & Psychology, 27, 337-353.