1年前ごろにドイツで書いていた論文、もうすぐ刊行されることになりました。
タイトルは、
What is it like to be disconnected from the body?
(身体から切り離されているとはどのようなことか?)
です。
なかなか刺激的じゃないですか?
もちろん、ネーゲルの論文「What is it like to be a bat?」(コウモリであるとはどのようなことか?)から借りたタイトルですが、意識の主観性の謎に迫っているわけではありません。離人症における身体経験の謎を追ったものです。
離人症ではしばしば「自己が身体から離れたところにいる」「観察する自己と行動する自己が分離しているように感じる」という体外離脱的な症状が当事者から語られるのですが、それはどのような経験なのか、現象学的に解明することを試みました。文脈が違いますが、同じように自己が身体から遊離する経験として語られる「フルボディ錯覚」を比較対象として検討した点で、前例がない論文になると思います。
掲載先は「Journal of Consciousness Studies」です。刊行は少し先で、春頃になるようです。ともあれ、無事に受理されてよかったです。帰国して約5ヶ月たちますが、ようやく在外研究に区切りがついた気分です。
た
こんにちは、田中彰吾(東海大学文化社会学部教授/大学院文学研究科長/文明研究所所長)です。身体性に関連する哲学と心理学を研究しています。各種お仕事のご連絡はshg.tanaka@gmail.comまでお寄せください。
2018年1月21日日曜日
2018年1月9日火曜日
CFP: Body Schema and Body Image
3月末(24-25日)に東京で国際シンポジウムを開催します。「身体図式と身体イメージ」をテーマとする二日間のイベントです。
ただいま、発表を募集中です。詳しくは、学術系SNS「Academia」で公開しているシンポジウムの趣旨文をご覧ください。
同じ情報は、別のSNS「Researchgate」でも公開しています。こちらはプロジェクト形式で登録してあるので、プロジェクトをフォローすると、随時お知らせが届きます。
直前になってしまって恐縮ですが、いちおう今月24日が発表申し込みの公式締切日です。
なお、学際系のイベントですので、発表内容の分野に制限はありません。神経科学、心理学、精神医学、認知科学、スポーツ科学、社会学、哲学など、いろいろな分野から参加していただけます。ご関心のある方は、上記CFPをぜひご一読ください。シンポジウムで議論の焦点になる論点をあるていど整理してあります。
発表したいけど締切に間に合わないかも…という方は、ご相談ください。応募状況によっては何とかなる可能性もあります。また、その他のご質問等がある場合も、遠慮なくお問い合わせください。
た
2018年1月4日木曜日
地味に1周年
あけましておめでとうございます。2018年ですね。
このサイトも開設から1年を超えたことになります。とくに時間的な展望を持たずに始めたページなので1年たったからといって感慨もとくにありません(笑 ここは学術系の情報をシェアするためのページなので、イベントの告知とか企画とか、関連する論文や書籍の紹介とか、といったことで重要なコンテンツを集約し発信できればそれでいいかなと。
ただ、もうちょっとマメにブログを更新したいと思いつつ、なかなか難しい状況が続いているのが残念です。昨年出版した拙著のその後のことや、いま進行中の訳書のことなどもいろいろ書きたいとは思いながら、何もできずにいます。ドイツに滞在していた頃は大学の仕事から解放されていたのでブログにもっと時間が取れたのですが(だからこのサイトを開設するのに必要な最初の時間が作れました)、8月末に帰国してから慢性的に時間不足に悩まされています。
もちろん、主な理由は大学での仕事です。授業だけで相当な長時間なのに加えて、いわゆる学務にいろいろと時間を取られるので、何かとままなりません。こんな状態で管理職の仕事がそのうち回ってきたりすると、目も当てられない状態になりそうです。研究を続けるために大学にいるのに、いまどきの大学では研究の時間はろくに取れません。研究はほとんど余暇の域に追いやられているようにさえ見えます。
まあ、そんなこんなでブログの更新は滞る場面が多そうですが、論文と書籍を執筆する時間だけは涼しい顔してきっちり確保したいと思っています。今年もよろしくお願いします。
た
このサイトも開設から1年を超えたことになります。とくに時間的な展望を持たずに始めたページなので1年たったからといって感慨もとくにありません(笑 ここは学術系の情報をシェアするためのページなので、イベントの告知とか企画とか、関連する論文や書籍の紹介とか、といったことで重要なコンテンツを集約し発信できればそれでいいかなと。
ただ、もうちょっとマメにブログを更新したいと思いつつ、なかなか難しい状況が続いているのが残念です。昨年出版した拙著のその後のことや、いま進行中の訳書のことなどもいろいろ書きたいとは思いながら、何もできずにいます。ドイツに滞在していた頃は大学の仕事から解放されていたのでブログにもっと時間が取れたのですが(だからこのサイトを開設するのに必要な最初の時間が作れました)、8月末に帰国してから慢性的に時間不足に悩まされています。
もちろん、主な理由は大学での仕事です。授業だけで相当な長時間なのに加えて、いわゆる学務にいろいろと時間を取られるので、何かとままなりません。こんな状態で管理職の仕事がそのうち回ってきたりすると、目も当てられない状態になりそうです。研究を続けるために大学にいるのに、いまどきの大学では研究の時間はろくに取れません。研究はほとんど余暇の域に追いやられているようにさえ見えます。
まあ、そんなこんなでブログの更新は滞る場面が多そうですが、論文と書籍を執筆する時間だけは涼しい顔してきっちり確保したいと思っています。今年もよろしくお願いします。
た
2017年12月29日金曜日
プロジェクションのことなど
以下、自分用メモ。
先日の認知科学会のシンポジウム(「プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」)のさい、全体での議論のときに少しコメントしたことを、文章として書きとめておきます。プロジェクション・サイエンスは、広い意味での内部モデルが世界に投射される過程に焦点を当てる科学的試み、という理解でここでは良いかと思います。詳しくは鈴木宏昭先生の以下のブログ記事を読んでみてください。
>「プロジェクション・サイエンスとは何か」
というわけで、以下はメモです。
プロジェクションを考えるうえで、ラバーハンド錯覚は基幹的な重要性を持つ現象だろう。ゴムの手が「自分の手」であるかのように感じられるとすると、物体に身体所有感がプロジェクトされることを意味している。神経生理学的には、視覚と触覚の統合が、ゴムの手の位置との相関で生じていることが意味を持つ。
ゴムの手が多感覚統合を通じて「自分の手」として経験されうるということは、裏返して言うと、いつもは「自己の身体」として経験されている物理的身体そのものが、多感覚統合にもとづく脳内表象に過ぎない、という可能性を示唆していることになる。
とはいえ、身体それ自体は脳内表象には還元できない実在性を帯びている。それはたとえば、二重感覚のように、自己の身体上では生じるが、物体上では生じない現象があることを考えれば明らかだろう。自己の身体は、実在世界に定位している存在であると同時に、脳内で構成される表象でもある。
「表象=内部モデル」と「実在世界」の関係をプロジェクションという概念で読み解くうえで、身体は出発点として考慮すべき対象である。また、身体を通じて実在の世界へのアクセスが保たれているとすると、その世界が最初に開けてくる場面は、身体的な知覚と行為の循環的関係に即して理解する必要があるだろう。
ただし、ひとが行う行為の中には、「ふり遊び」「ごっこ遊び」のように、実在しない世界を行為によって描き出すものがある(発達的には2歳ごろ、言語の獲得が集中的に始まる時期に近い)。つまり、行為が文字通りの知覚対象を指示するだけでなく、知覚対象に想像上の対象が重ねて描かれるような場面がある。知覚とイメージを区別するものは、プロジェクトされる対象、プロジェクトされる世界との関係で考える必要がある。
イメージはさらに、複数の身体が出会う場面で、ナラティヴを創造するだろう。たとえば、「ままごと」「戦いごっこ」として演じられる遊びは、想像上の世界に参入する他者の身体を含んで展開される。ある想像上の世界のなかで、一定の役割を分担して演技ができる身体が複数あることで、イメージはストーリーへと生成する。
イメージがストーリーへと生成する過程では、複数の身体が出会い、知覚的には現前しない世界との関係で、擬似的に行為の意図を発動させることが必要になる(たとえば、泥ダンゴをつかんで食べるふりをする)。このとき、身体は想像上の世界を間主観的に現出させる「道具」として機能している。
身体を、一次的な行為主体として経験するのではなく、想像上の世界を表現する二次的な道具として利用できることは、自己と他者とのあいだで共有される「ナラティヴ」の世界を創発させる鍵になっているように思われる。
複数の身体のあいだで共有されるナラティヴは、道徳的な行為規範のように一種のドミナント・ストーリーを生成する一方で、「自分だけの空想の世界」をプロジェクトする基盤にもなっているだろう。「妄想」に至るようなきわめて個人的なストーリーは、社会的に共有されているストーリーがなければ機能しないだろう。
…とまあこんな感じで、表象と実在の関係を「身体」から出発して考えると、「知覚/行為」〜「想像/イメージ」〜「ストーリー/ナラティヴ」…という順番で、プロジェクションの豊かさを理解できるのではないか、と思ったのでした。
個人的には、「ナラティヴ」は個体の身体だけからは決して生まれてこないだろうと思っています。複数の身体が集う場面でどのようにしてナラティヴが生成するのか、考えてみたいものです。
た
先日の認知科学会のシンポジウム(「プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」)のさい、全体での議論のときに少しコメントしたことを、文章として書きとめておきます。プロジェクション・サイエンスは、広い意味での内部モデルが世界に投射される過程に焦点を当てる科学的試み、という理解でここでは良いかと思います。詳しくは鈴木宏昭先生の以下のブログ記事を読んでみてください。
>「プロジェクション・サイエンスとは何か」
というわけで、以下はメモです。
プロジェクションを考えるうえで、ラバーハンド錯覚は基幹的な重要性を持つ現象だろう。ゴムの手が「自分の手」であるかのように感じられるとすると、物体に身体所有感がプロジェクトされることを意味している。神経生理学的には、視覚と触覚の統合が、ゴムの手の位置との相関で生じていることが意味を持つ。
ゴムの手が多感覚統合を通じて「自分の手」として経験されうるということは、裏返して言うと、いつもは「自己の身体」として経験されている物理的身体そのものが、多感覚統合にもとづく脳内表象に過ぎない、という可能性を示唆していることになる。
とはいえ、身体それ自体は脳内表象には還元できない実在性を帯びている。それはたとえば、二重感覚のように、自己の身体上では生じるが、物体上では生じない現象があることを考えれば明らかだろう。自己の身体は、実在世界に定位している存在であると同時に、脳内で構成される表象でもある。
「表象=内部モデル」と「実在世界」の関係をプロジェクションという概念で読み解くうえで、身体は出発点として考慮すべき対象である。また、身体を通じて実在の世界へのアクセスが保たれているとすると、その世界が最初に開けてくる場面は、身体的な知覚と行為の循環的関係に即して理解する必要があるだろう。
ただし、ひとが行う行為の中には、「ふり遊び」「ごっこ遊び」のように、実在しない世界を行為によって描き出すものがある(発達的には2歳ごろ、言語の獲得が集中的に始まる時期に近い)。つまり、行為が文字通りの知覚対象を指示するだけでなく、知覚対象に想像上の対象が重ねて描かれるような場面がある。知覚とイメージを区別するものは、プロジェクトされる対象、プロジェクトされる世界との関係で考える必要がある。
イメージはさらに、複数の身体が出会う場面で、ナラティヴを創造するだろう。たとえば、「ままごと」「戦いごっこ」として演じられる遊びは、想像上の世界に参入する他者の身体を含んで展開される。ある想像上の世界のなかで、一定の役割を分担して演技ができる身体が複数あることで、イメージはストーリーへと生成する。
イメージがストーリーへと生成する過程では、複数の身体が出会い、知覚的には現前しない世界との関係で、擬似的に行為の意図を発動させることが必要になる(たとえば、泥ダンゴをつかんで食べるふりをする)。このとき、身体は想像上の世界を間主観的に現出させる「道具」として機能している。
身体を、一次的な行為主体として経験するのではなく、想像上の世界を表現する二次的な道具として利用できることは、自己と他者とのあいだで共有される「ナラティヴ」の世界を創発させる鍵になっているように思われる。
複数の身体のあいだで共有されるナラティヴは、道徳的な行為規範のように一種のドミナント・ストーリーを生成する一方で、「自分だけの空想の世界」をプロジェクトする基盤にもなっているだろう。「妄想」に至るようなきわめて個人的なストーリーは、社会的に共有されているストーリーがなければ機能しないだろう。
…とまあこんな感じで、表象と実在の関係を「身体」から出発して考えると、「知覚/行為」〜「想像/イメージ」〜「ストーリー/ナラティヴ」…という順番で、プロジェクションの豊かさを理解できるのではないか、と思ったのでした。
個人的には、「ナラティヴ」は個体の身体だけからは決して生まれてこないだろうと思っています。複数の身体が集う場面でどのようにしてナラティヴが生成するのか、考えてみたいものです。
2017年12月9日土曜日
認知科学会のシンポジウム
来週、こんなイベントがあります。
日本認知科学会・2017年度冬のシンポジウム
「跳び出す心,拡がる身体:プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」
日時:12月16日(土) 10:00-18:00
場所:青山学院大学 青山キャンパス6号館621教室
午前中、「身体はどこまで拡がるか:身体とプロジェクション」というセッションが明治の嶋田先生のコーディネートで設けられていて、田中も短い話題提供をします。話の骨格はすでに決まっているのですが、そろそろ細かいことを考えなくちゃいけません。プロジェクションというコンセプトと自分の研究がどのあたりで接点を持つのか、当日までにもう少し詰めて考えたいと思っています。
そういえば、このブログは近ごろイベント告知用にしか使えていないですね(しかも直前になって)。なんとかしたいと思いつつ、日々押し寄せるの仕事の波に慌ただしく対応しているとあっという間に時間が過ぎ去っています。優雅にサーフィンできるようなスキルが欲しいものです。
た
日本認知科学会・2017年度冬のシンポジウム
「跳び出す心,拡がる身体:プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」
日時:12月16日(土) 10:00-18:00
場所:青山学院大学 青山キャンパス6号館621教室
午前中、「身体はどこまで拡がるか:身体とプロジェクション」というセッションが明治の嶋田先生のコーディネートで設けられていて、田中も短い話題提供をします。話の骨格はすでに決まっているのですが、そろそろ細かいことを考えなくちゃいけません。プロジェクションというコンセプトと自分の研究がどのあたりで接点を持つのか、当日までにもう少し詰めて考えたいと思っています。
そういえば、このブログは近ごろイベント告知用にしか使えていないですね(しかも直前になって)。なんとかしたいと思いつつ、日々押し寄せるの仕事の波に慌ただしく対応しているとあっという間に時間が過ぎ去っています。優雅にサーフィンできるようなスキルが欲しいものです。
た
2017年11月20日月曜日
PPP研究会でお話しします
いろいろと慌ただしくしているあいだにお知らせを忘れてました。
もう今週末ですが、26日(日)14時から、東大精神科の榊原英輔さんが中心になって開催されているPPP研究会でお話します。PPPは、Philosophy of Psychiatry and Psychologyの略です。精神医学と心理学について、その哲学的基盤に関係する深い議論をされている研究会です。
榊原さんのホームページはこちら。
Acrographia
http://www.acrographia.net/
いちおうクローズドな研究会だったと思いますので、参加には問い合わせが必要です。このブログを読んでくださっているくらい意識高い系?の方はまず問題なく参加していただけると思いますが…。開催場所は東大の駒場キャンパスですが、詳しく知りたいかたはお問合せください。
田中は帰国してから新しいことを勉強する時間を取れずにいるので、26日は以前ドイツ滞在時に話した離人症のことを中心にお話しします。以下、研究会で流してもらった抄録をここにも貼り付けておきます。
た
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「離人・現実感喪失における自己と身体」
田中彰吾(東海大学現代教養センター)
環境に向かって行為する、環境のなかの対象を知覚する、といった日常的な場面では、自己と不可分のものとして身体が経験される。身体は、自己がそれを通じて行為する媒体、あるいは、そこから知覚が生じる媒体として、暗黙に経験されている。ところが、離人・現実感喪失(Depersonalization/derealization disorder)として知られる病理的な状態では、自己が身体から遊離しているように感じられたり、「身体とともに行為する自己」と「それを観察する自己」とが分離して感じられたりする。たとえばある当事者は「私は、自分が空間中に浮遊する鈍くぼんやりした思考であるように感じ、自分に体があるということさえ時に奇妙に感じられた」(Bradshaw, 2016)と述べている。この経験は、デカルトの心身二元論のように、身体がなくても自己が自己でありうることを示唆しているように思われるが、理論的にはどのように考えることができるだろうか。この講演では、離人・現実感喪失において生じる自己と身体の分離の経験について、(1) 当事者の手記を参考にして経験の具体的な様相をとらえつつ、(2)シエラ(2009)が記述した離人症における身体経験の異常と照合しながら考察する。理論的な課題は、「最小の自己(minimal self)」が身体から分離した状態で成立しうるかどうか、検討することにある。ギャラガー(2000, 2012)によると、最小の自己は所有感(sense of ownership)と主体感(sense of agency)によって構成されるが、離人・現実感障害においては、所有感と主体感はともに日常的な状態から大きく逸脱している。はたしてこの点は、最小の自己が身体から分離した状態で成立しうることを意味するのだろうか。参考として、実験によって引き起こされる「フルボディ錯覚」と呼ばれる錯覚の経験と比較しながら、考察を進める。
もう今週末ですが、26日(日)14時から、東大精神科の榊原英輔さんが中心になって開催されているPPP研究会でお話します。PPPは、Philosophy of Psychiatry and Psychologyの略です。精神医学と心理学について、その哲学的基盤に関係する深い議論をされている研究会です。
榊原さんのホームページはこちら。
Acrographia
http://www.acrographia.net/
いちおうクローズドな研究会だったと思いますので、参加には問い合わせが必要です。このブログを読んでくださっているくらい意識高い系?の方はまず問題なく参加していただけると思いますが…。開催場所は東大の駒場キャンパスですが、詳しく知りたいかたはお問合せください。
田中は帰国してから新しいことを勉強する時間を取れずにいるので、26日は以前ドイツ滞在時に話した離人症のことを中心にお話しします。以下、研究会で流してもらった抄録をここにも貼り付けておきます。
た
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「離人・現実感喪失における自己と身体」
田中彰吾(東海大学現代教養センター)
環境に向かって行為する、環境のなかの対象を知覚する、といった日常的な場面では、自己と不可分のものとして身体が経験される。身体は、自己がそれを通じて行為する媒体、あるいは、そこから知覚が生じる媒体として、暗黙に経験されている。ところが、離人・現実感喪失(Depersonalization/derealization disorder)として知られる病理的な状態では、自己が身体から遊離しているように感じられたり、「身体とともに行為する自己」と「それを観察する自己」とが分離して感じられたりする。たとえばある当事者は「私は、自分が空間中に浮遊する鈍くぼんやりした思考であるように感じ、自分に体があるということさえ時に奇妙に感じられた」(Bradshaw, 2016)と述べている。この経験は、デカルトの心身二元論のように、身体がなくても自己が自己でありうることを示唆しているように思われるが、理論的にはどのように考えることができるだろうか。この講演では、離人・現実感喪失において生じる自己と身体の分離の経験について、(1) 当事者の手記を参考にして経験の具体的な様相をとらえつつ、(2)シエラ(2009)が記述した離人症における身体経験の異常と照合しながら考察する。理論的な課題は、「最小の自己(minimal self)」が身体から分離した状態で成立しうるかどうか、検討することにある。ギャラガー(2000, 2012)によると、最小の自己は所有感(sense of ownership)と主体感(sense of agency)によって構成されるが、離人・現実感障害においては、所有感と主体感はともに日常的な状態から大きく逸脱している。はたしてこの点は、最小の自己が身体から分離した状態で成立しうることを意味するのだろうか。参考として、実験によって引き起こされる「フルボディ錯覚」と呼ばれる錯覚の経験と比較しながら、考察を進める。
2017年11月7日火曜日
読書会を開きます
アマゾンでは1ヶ月前ぐらいからページができていたのですが、もうすぐ、神経科学〜身体性認知〜現象学にまたがる学際領域で非常に重要な本が出版されます。トーマス・フックスによる『Ecology of the Brain(脳のエコロジー)』です。
アマゾンでは発売日が12月14日ということになっています。田中は一足お先にゲラを拝見しました。出発点になっているのは、人が知覚している世界を脳内の表象に還元する見方への批判です。身体を含む有機体全体の一部とし脳を位置づけると、身体と環境の相互作用、自己の身体と他者の身体の相互作用、人々が共有する文化的世界へのアクセスなど、脳は、生命体としての人と世界とを「媒介する器官(mediating organ)」として理解し直す必要がある、という主張が基調のようです。このような見方が、どの程度、現在の神経科学の個別の知見と整合的に、あるいはそれへの説得力のある批判とともに語られているのかが、本文の評価にかかわるポイントになりそうです。
いずれにしても重要な本なので、12月から月1回1章ずつぐらいのペースで、オンライン読書会を開いて読むつもりでいます。参加をご希望される方は、田中までお問い合わせください。
た
2017年10月15日日曜日
主体感を考える
先日、授業でいわゆる比較器にもとづく主体感のモデルについて説明していて、うまく説明しきれなかったのでもやもやしている。
主体感研究について手際よくまとめているハガード(2017)のレビュー論文では、運動行為を制御し、それによって外的事象の推移を制御する経験が「主体感」とされている(ハガード論文のまとめは研究アーカイブに掲載しておいた)。たとえば、手を伸ばしてコップを手に取る、スイッチを押してライトを点灯する、といった経験がわかりやすい例だろう。そして、主体感は、随意的な行為とその結果が一致するときに生成する。

図の①は、身体運動とその結果が比較照合され、一致するポイントとしての比較器である。運動指令が発せられ、その遠心性コピーが身体状態の予測を生じさせる一方、運動が実行されると身体末梢から感覚フィードバックが返ってくる。ハガードの説明では、両者の一致によって暗黙の主体感が生じ、自己や他者に明示的に帰属できる主体感は図の②で生じる、ということらしい。ただ、そうだとすると、主体感はつねに回顧的にのみ成立するのであって、「何かをしよう」と意図している段階では存在しないことになる(実際、比較器モデルに沿って主体感を説明する論者にはその種の主張はしばしば見られる)。
しかし一方で、行為についての時間的予測が主体感を左右することを示唆するデータもある。この点で、主体感はたんに回顧的なわけではなく、展望的な成分を含んでいるはずである。ハガードも、主体感がたんに回顧的な要因だけで成立しているわけではないことを示唆していて、主体感を回顧的な錯覚に還元する見方は避けているようである。
これに加えて、行為の意図や行為の選択の場面では、いまだ具体的な運動が始まっていないとしても、それが「私の行為である」(あるいは「私の意図である」)という認知はともなっているので、行為の所有感は最初から成立している。所有感は「ミニマル・セルフ」を支えるもうひとつの要因だが、こちらは、主体感が成立するよりも時間的に早く成立している。
だから、「自己」「他者」という属性を持たない中立的な主体が、ある身体行為を行なって、その後で回顧的に「私がその行為を引き起こした」という主体感を持つと考えるべきではない(ポストディクション的解釈はおそらく間違い)。その行為が「自己のもの」であるか「他者のもの」であるか、という所有感の判断は、運動開始以前から成立している。図の②のポイントで、所有感まで含めて自他の弁別が可能になっているわけではないだろう。
たとえば、統合失調症における主体感の障害は、ある行為について、自己の意図で行なっておきながらそれを自己に帰属させることに失敗することによる、という説明がしばしばなされるが、これは説得力がないように思う。行為の意図が発せられている時点で、そもそも「誰かの意図」でそれが始まっていると考えるほうが、「させられ体験」に見られるような主体感の不成立を説明するうえで適切であるように思える。
た
主体感研究について手際よくまとめているハガード(2017)のレビュー論文では、運動行為を制御し、それによって外的事象の推移を制御する経験が「主体感」とされている(ハガード論文のまとめは研究アーカイブに掲載しておいた)。たとえば、手を伸ばしてコップを手に取る、スイッチを押してライトを点灯する、といった経験がわかりやすい例だろう。そして、主体感は、随意的な行為とその結果が一致するときに生成する。

図の①は、身体運動とその結果が比較照合され、一致するポイントとしての比較器である。運動指令が発せられ、その遠心性コピーが身体状態の予測を生じさせる一方、運動が実行されると身体末梢から感覚フィードバックが返ってくる。ハガードの説明では、両者の一致によって暗黙の主体感が生じ、自己や他者に明示的に帰属できる主体感は図の②で生じる、ということらしい。ただ、そうだとすると、主体感はつねに回顧的にのみ成立するのであって、「何かをしよう」と意図している段階では存在しないことになる(実際、比較器モデルに沿って主体感を説明する論者にはその種の主張はしばしば見られる)。
しかし一方で、行為についての時間的予測が主体感を左右することを示唆するデータもある。この点で、主体感はたんに回顧的なわけではなく、展望的な成分を含んでいるはずである。ハガードも、主体感がたんに回顧的な要因だけで成立しているわけではないことを示唆していて、主体感を回顧的な錯覚に還元する見方は避けているようである。
これに加えて、行為の意図や行為の選択の場面では、いまだ具体的な運動が始まっていないとしても、それが「私の行為である」(あるいは「私の意図である」)という認知はともなっているので、行為の所有感は最初から成立している。所有感は「ミニマル・セルフ」を支えるもうひとつの要因だが、こちらは、主体感が成立するよりも時間的に早く成立している。
だから、「自己」「他者」という属性を持たない中立的な主体が、ある身体行為を行なって、その後で回顧的に「私がその行為を引き起こした」という主体感を持つと考えるべきではない(ポストディクション的解釈はおそらく間違い)。その行為が「自己のもの」であるか「他者のもの」であるか、という所有感の判断は、運動開始以前から成立している。図の②のポイントで、所有感まで含めて自他の弁別が可能になっているわけではないだろう。
たとえば、統合失調症における主体感の障害は、ある行為について、自己の意図で行なっておきながらそれを自己に帰属させることに失敗することによる、という説明がしばしばなされるが、これは説得力がないように思う。行為の意図が発せられている時点で、そもそも「誰かの意図」でそれが始まっていると考えるほうが、「させられ体験」に見られるような主体感の不成立を説明するうえで適切であるように思える。
た
2017年10月12日木曜日
合同研究会案内(11/11)
先日告知した11月11日の研究会案内、詳細版です。
皆さまのご参加をお待ちしています。もちろん、どなたでも参加できます。
森岡先生も染谷先生も、心の科学の根幹に迫る内容を扱っておられますから、きっと面白くなると思いますよ!
た
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【心の科学の基礎論研究会・第81回研究会】
第77回に続き、エンボディード・アプローチ研究会(第6回)との合同研究会になります。
日時:2017/11/11(土) 午後1:30~5:30(午後1時開場)
場所:明治大学駿河台キャンパス研究棟2階第8会議室
趣旨:オープンアクセスジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」創刊を来年に控え、以下の二講演を実施します。
司会:渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)
講演1 森岡正芳(立命館大学/臨床心理学)
【題】物語が腑に落ちるとは?—不可視の身体の働きをめぐって
【要旨】河合隼雄は物語(ナラティヴ)と心理療法の関連について,物語が「腑に落ちる」ということを強調している。論理的説明はそれがいくら正しくても,心に残らないことが往々にしてある。クライエントが「うん」と腑に落ちたときは後に続く。「その人が腑に落ちてもらうために自分で物語を発見していただく,それを助けるのが私の職業である」。このように河合は述べる。さてこの「うん」とは何か。人が変化を起こす納得とはどういうものだろう。そして、他者が介在することがどのような働きをなすのだろうか。一つには、物語が内感に沿い,しかも他者と共有可能な形を探ること。内感として物語がどのように自己と他者を触発し、実感をもって語り聴くかということが、「うん」に接 近できる手掛かりとなろう。
他者の応答関係があって、その人の自己が動き出す。対話的交流は言語レベルのやり取りというより、全身的活動である。中井久夫は「精神科の治療とは不可視的なさまざまの身体の治療である」とするが、では「不可視の身体の働き」とは何か。他者との対話が可動する潜在空間を生み出し、意識はその空間の中で緊張が高まったり弛緩したり、たえず揺れ動いている。この遊動空間は、自らの身に生じた出来事が語りを通して再構成される場となる。体験が活き活きとした形像を伴って喚起される。時間の質も変化する。心理療法場面でのいくつかのエピソードをたどりながら検討してみたい。
【指定討論】田中彰吾(東海大学/理論心理学)
講演2 染谷昌義(高千穂大学/哲学・生態心理学)
【題】ギブソン革命の肝試し—受動する心のはたらきとアフォーダンスの存在論
【要旨】妖怪が心の科学のなかに出没している。エコロジカル・アプローチなる妖怪である。伝統の権化たる心の科学は、この妖怪を退治するために、神聖同盟を結んでいる。認知科学も知覚心理学も、生物学も脳科学も生理学も、そして心の哲学の急進派も4E*も。(*4Eとは、認知主義へのアンチテーゼとして心の科学・哲学に登場したeを頭文字とする潮流、embodied, embedded, enactive, extendedを指す)
James J. Gibson(1904-1979)とは、1960年代、70年代をとおして、生き物の知覚と行動に対する「エコロジカル・アプローチ(生態心理学)」というリサーチプログラムを提起した、知覚心理学の実験家であり理論家である。生態光学、エコロジカル情報、情報抽出としての知覚、視覚性運動制御、自己知覚、知覚システム、アフォーダンス、姿勢と運動のネスティングなど、数々のアイディアを独自に練り上げ実験し、晩年にThe Ecological Approach to Visual Perception(1979, 邦題『生態学的視覚論』)を刊行した。それから約40年。今やギブソンの名はアフォーダンス概念とともに心の科学・哲学の世界ではそれなりに市民権を得ている。けれども、これら一連の思考の根底にある「ギブソン革命」の過激な意義と射程は十分に評価されていないかもしれない(と私は思っている)。
本発表では、ギブソン革命の趣旨を、あえて以下のように規定し、この革命について来られない限り、ギブソンの二つの過激な主張、 すなわち、(1) 心のはたらきについての見方の転換(知覚は情報を受容し抽出する過程であり、行動は情報に制御される)、(2) 行動という生物プロセスを可能にするアォーダンスなる資源が生物存在とは独立に環境に潜在する、がうまく理解できないことを指摘し、いわば、ギブソン革命なる妖怪に怖がらずについて来られるかどうかの肝試しをしてみたい。
・染谷昌義(2017)『知覚経験の生態学 哲学へのエコロジカル・アプローチ』勁草書房(特に、序章、第1〜3章、第5章)
・染谷昌義(2016)「エコロジカルターンのゆくえ—生態学はある種の形而上学である」『東北哲学会年報』、 No. 32, pp. 83-113.
【指定討論】佐古仁志(立教大学/哲学)
担当世話人:田中彰吾(東海大学,body_of_knowledge[アットマーク]yahoo.co.jp)
電子ジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/
心の科学の基礎論研究会
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
エンボディード・アプローチ研究会
http://embodiedapproachj.blogspot.jp/p/blog-page.html
皆さまのご参加をお待ちしています。もちろん、どなたでも参加できます。
森岡先生も染谷先生も、心の科学の根幹に迫る内容を扱っておられますから、きっと面白くなると思いますよ!
た
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【心の科学の基礎論研究会・第81回研究会】
第77回に続き、エンボディード・アプローチ研究会(第6回)との合同研究会になります。
日時:2017/11/11(土) 午後1:30~5:30(午後1時開場)
場所:明治大学駿河台キャンパス研究棟2階第8会議室
趣旨:オープンアクセスジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」創刊を来年に控え、以下の二講演を実施します。
司会:渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)
講演1 森岡正芳(立命館大学/臨床心理学)
【題】物語が腑に落ちるとは?—不可視の身体の働きをめぐって
【要旨】河合隼雄は物語(ナラティヴ)と心理療法の関連について,物語が「腑に落ちる」ということを強調している。論理的説明はそれがいくら正しくても,心に残らないことが往々にしてある。クライエントが「うん」と腑に落ちたときは後に続く。「その人が腑に落ちてもらうために自分で物語を発見していただく,それを助けるのが私の職業である」。このように河合は述べる。さてこの「うん」とは何か。人が変化を起こす納得とはどういうものだろう。そして、他者が介在することがどのような働きをなすのだろうか。一つには、物語が内感に沿い,しかも他者と共有可能な形を探ること。内感として物語がどのように自己と他者を触発し、実感をもって語り聴くかということが、「うん」に接 近できる手掛かりとなろう。
他者の応答関係があって、その人の自己が動き出す。対話的交流は言語レベルのやり取りというより、全身的活動である。中井久夫は「精神科の治療とは不可視的なさまざまの身体の治療である」とするが、では「不可視の身体の働き」とは何か。他者との対話が可動する潜在空間を生み出し、意識はその空間の中で緊張が高まったり弛緩したり、たえず揺れ動いている。この遊動空間は、自らの身に生じた出来事が語りを通して再構成される場となる。体験が活き活きとした形像を伴って喚起される。時間の質も変化する。心理療法場面でのいくつかのエピソードをたどりながら検討してみたい。
【指定討論】田中彰吾(東海大学/理論心理学)
講演2 染谷昌義(高千穂大学/哲学・生態心理学)
【題】ギブソン革命の肝試し—受動する心のはたらきとアフォーダンスの存在論
【要旨】妖怪が心の科学のなかに出没している。エコロジカル・アプローチなる妖怪である。伝統の権化たる心の科学は、この妖怪を退治するために、神聖同盟を結んでいる。認知科学も知覚心理学も、生物学も脳科学も生理学も、そして心の哲学の急進派も4E*も。(*4Eとは、認知主義へのアンチテーゼとして心の科学・哲学に登場したeを頭文字とする潮流、embodied, embedded, enactive, extendedを指す)
James J. Gibson(1904-1979)とは、1960年代、70年代をとおして、生き物の知覚と行動に対する「エコロジカル・アプローチ(生態心理学)」というリサーチプログラムを提起した、知覚心理学の実験家であり理論家である。生態光学、エコロジカル情報、情報抽出としての知覚、視覚性運動制御、自己知覚、知覚システム、アフォーダンス、姿勢と運動のネスティングなど、数々のアイディアを独自に練り上げ実験し、晩年にThe Ecological Approach to Visual Perception(1979, 邦題『生態学的視覚論』)を刊行した。それから約40年。今やギブソンの名はアフォーダンス概念とともに心の科学・哲学の世界ではそれなりに市民権を得ている。けれども、これら一連の思考の根底にある「ギブソン革命」の過激な意義と射程は十分に評価されていないかもしれない(と私は思っている)。
本発表では、ギブソン革命の趣旨を、あえて以下のように規定し、この革命について来られない限り、ギブソンの二つの過激な主張、 すなわち、(1) 心のはたらきについての見方の転換(知覚は情報を受容し抽出する過程であり、行動は情報に制御される)、(2) 行動という生物プロセスを可能にするアォーダンスなる資源が生物存在とは独立に環境に潜在する、がうまく理解できないことを指摘し、いわば、ギブソン革命なる妖怪に怖がらずについて来られるかどうかの肝試しをしてみたい。
・染谷昌義(2017)『知覚経験の生態学 哲学へのエコロジカル・アプローチ』勁草書房(特に、序章、第1〜3章、第5章)
・染谷昌義(2016)「エコロジカルターンのゆくえ—生態学はある種の形而上学である」『東北哲学会年報』、 No. 32, pp. 83-113.
【指定討論】佐古仁志(立教大学/哲学)
担当世話人:田中彰吾(東海大学,body_of_knowledge[アットマーク]yahoo.co.jp)
電子ジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/
心の科学の基礎論研究会
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
エンボディード・アプローチ研究会
http://embodiedapproachj.blogspot.jp/p/blog-page.html
2017年9月24日日曜日
研究会を再開します
2016年7月の研究会以降、田中のドイツ滞在のためしばらく開催できていなかったエンボディード・アプローチ研究会ですが、次回の開催予定が決まりました。
です。心の科学の基礎論研究会と合同で開催することになりました。エンボディード研としては第6回、心の科学…研としては第81回となります。それにしても、どっちも研究会の名称が長いですね。思わず略してしまいました。
時間と場所は過去の開催例に準じて明治大学で13:30〜になると思われます(詳細は決まりしだいご報告します)。講演はいつも2名の方にお願いしていますが、次回は森岡正芳先生(立命館大学)と染谷昌義先生(高千穂大学)にお願いすることになりました。
詳細は10月中旬に再度ご連絡します。お楽しみに。
ところで、先日の日本心理学会ではシンポジウムでとても充実した議論を重ねることができました。内容に踏み込んで書く時間が今はないのですが、また追って何か関連記事を書ければと思っています。
た
2017年11月11日(土)
です。心の科学の基礎論研究会と合同で開催することになりました。エンボディード研としては第6回、心の科学…研としては第81回となります。それにしても、どっちも研究会の名称が長いですね。思わず略してしまいました。
時間と場所は過去の開催例に準じて明治大学で13:30〜になると思われます(詳細は決まりしだいご報告します)。講演はいつも2名の方にお願いしていますが、次回は森岡正芳先生(立命館大学)と染谷昌義先生(高千穂大学)にお願いすることになりました。
詳細は10月中旬に再度ご連絡します。お楽しみに。
ところで、先日の日本心理学会ではシンポジウムでとても充実した議論を重ねることができました。内容に踏み込んで書く時間が今はないのですが、また追って何か関連記事を書ければと思っています。
た
2017年9月11日月曜日
今年の日心
あっという間に9月も中旬ですね。
来週は久留米シティプラザで日本心理学会が予定されています。
今年は、こんな企画でシンポジウムを組んでいます。
2017年9月22日(金),11:20-13:00,久留米シティプラザ(会場 4G/スタジオ2)
公募シンポジウム「行為から考える「私たち」」
企画:田中彰吾・片岡雅知,司会:田中彰吾,話題提供:片岡雅知,山本絵里子,高野裕治,高橋英之,指定討論:亀田達也
企画の趣旨はこんな感じです。
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人はしばしば「私」ではなく「私たち」という観点に立って行動する。ごく当たり前に集団で協力して行動するし,ときには自分を犠牲にして集団に尽くしたり,逆に同調圧力に負けて周囲に合わせてしまうこともある。そもそも,人は「私たち」の観点にどうやって到達するのだろうか。ひとつの方法は,「心の理論」のような推論能力を通じて互いの心を読み,理解を共有することだろう。だが,そうした能力を持たない子どもや動物も,「私たち」の観点から他者との協力や群れでの行動を遂行しているように見える。こうした「私たち」の観点は,推論以前に直接知覚できるもの,すなわち互いの「行為」にもとづいているのではないか。人や動物は,互いの行為を同期させたり相互に調節したりするなかで「私たち」の観点を獲得しているのではないか。本シンポジウムでは,この基本的なアイデアについて,人,動物,ロボットなどの観点から検討し,「私たち」に迫りたい。
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日心では2013年に「自己」、2015年に「他者感」をテーマにして議論したのですが、今年は「私たち」です。ジョイントアクション(共同行為)に注目すると、ひとは「私」ではなくて「私たち」というレベルで柔軟に行為しています。他者の行為の意図を理解し、それに合わせて自己の行為を調整し、自他で共同のゴールに向かって行為を進め、その過程をモニターし、うまくいかなければもう一度お互いに行為を調整してみる…
現象学的に「意識」に着目すると、意識はどこまでも「私」の意識経験でしかないですが、共同行為に着目すると「私たち」という観点にもとづく心的表象はいろいろと成立しているように見えます。加えて、「私たち」という観点が行為のレベルでいちど成立してしまうと、それは他者への期待や、自己の行為への義務のように、ある規範や倫理の次元を作り上げてしまう面もあります。今回のシンポジウムは、いうなれば、社会性へのミニマルなアプローチという意味合いを持つものになると思います。
学会に参加予定の皆さまは、ぜひ現地にてお会いしましょう。
た
2017年9月3日日曜日
こころの科学とエピステモロジー
このブログでもだいぶ前に紹介しましたが、心の科学の基礎論研究会を母体とする電子ジャーナルが創刊されました。研究会関係者のMLですでに告知が回っていますが、以下に転載しておきます。
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日頃、心の科学の基礎論研究会の活動にご賛同いただいて感謝しております。
さて、この8月20日、電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』誌の「創刊準備号」を発行いたしました。
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/
概要は上記サイトをご覧いただきたいと思いますが、ジャーナルの創刊は本研究会創設時からの懸案であり、このほど皆様のお力添えによって実現したことを、大変うれしく思っております。
年一回発行予定で、創刊号の原稿締め切りは来年2月頃を予定していますので、「投稿規定」をご覧の上、ご寄稿ご投稿をお考え戴ければ幸いです。
また、リーフレットを添付いたしました。御知り合いや関連のMLなどに散布していただき、寄稿・投稿を呼びかけていただければ大変ありがたく存じます。
これからもよろしくご指導ご鞭撻の程、お願いします。
2017年8月 心の科学の基礎論研究会世話人一同
-------------------------------------
詳しくは、上記リンクをたどって創刊準備号をご覧ください。田中も編集委員のひとりとして参加しております。
よろしくお願いします。
た
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日頃、心の科学の基礎論研究会の活動にご賛同いただいて感謝しております。
さて、この8月20日、電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』誌の「創刊準備号」を発行いたしました。
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/
概要は上記サイトをご覧いただきたいと思いますが、ジャーナルの創刊は本研究会創設時からの懸案であり、このほど皆様のお力添えによって実現したことを、大変うれしく思っております。
年一回発行予定で、創刊号の原稿締め切りは来年2月頃を予定していますので、「投稿規定」をご覧の上、ご寄稿ご投稿をお考え戴ければ幸いです。
また、リーフレットを添付いたしました。御知り合いや関連のMLなどに散布していただき、寄稿・投稿を呼びかけていただければ大変ありがたく存じます。
これからもよろしくご指導ご鞭撻の程、お願いします。
2017年8月 心の科学の基礎論研究会世話人一同
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詳しくは、上記リンクをたどって創刊準備号をご覧ください。田中も編集委員のひとりとして参加しております。
よろしくお願いします。
た
2017年9月1日金曜日
2017年8月16日水曜日
現象学からはじめる書棚散策
今週から現象学関連本のブックフェアが始まっているそうです。植村玄輝・ 八重樫徹・吉川孝(編)『ワードマップ 現代現象学』(新曜社)の刊行記念とのこと。リンクしておきます。
酒井泰斗プロデュース「いまこそ事象そのものへ! 現象学からはじめる書棚散策
刊行されたワードマップそのものも目次を見ると良質な現象学入門書の印象を強く受けますが、ブックフェアで列挙されている書籍リストもすごいです。分量的に通常のブックフェアをはるかに超えているのですが、それだけではなくて、選書されている書籍を眺めると、ある「ゲシュタルト」のようなものが見て取れます(そのような気がします)。
…こう言えばいいんでしょうか。現象学の初心者がすいすい読めてわかった気になるようなヤワな本はまったく選ばれていないように見受けられます。が、読むことを通じて現象学の深みに入っていけるような本が多い印象なのです。
ここで「現象学の深み」と言ってみたのは、現代の現象学が圧倒的な量のテクストとともに生み出している言説の文脈、という意味もありますが、それだけではありません。ブックフェアの趣旨文で酒井氏がこんな風に述べていますが、
----------------
本書『ワードマップ』では、現象学が「経験の探究」として提示されていますが、ここでいう経験は、私たちが世界の中で様々な対象に出会い・様々なやり方で関わることを指しています。つまり、物事を経験の相において、経験される事柄 と 経験する者 を切り離さずに捉えることをとおして 哲学的課題に取り組む探究のプログラムとして、現象学が特徴づけられているわけです。
----------------
ここに書かれている意味で、「経験の探求」にもっと深く入っていける導きになるような本がたくさん並んでいます。個人的にも、かつて大きな影響を受けた本や、いまだに大きな影響を感じ続けている本が多く並んでいて、感慨深いものがあります。
…いやいや、感慨にふけりたいのではなくて告知がしたかったのでした。選書されたもののなかに、田中も関係している書籍が3冊あります(選んでいただいて感謝です)。ブックフェアに行ってみようと思っている皆さま、この機会に書店で手を伸ばしてみていただけると幸いです。
ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待:理論から具体的技法まで』(田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳),新曜社,2016年(現象学に裏づけられた質的研究のガイドブックです。著者のラングドリッジさんは来週の国際理論心理学会で来日されます。8/22に基調講演、8/24にはシンポジウムで登壇をお願いしています。プログラムはここで確認できます)
田中彰吾『生きられた〈私〉をもとめて: 身体・意識・他者 (心の科学のための哲学入門 4)』北大路書房,2017年(心の科学の近年の知見と現象学の古典を往復しながら、身体・意識・他者というテーマに沿って自己アイデンティティの根源に迫っています)
S・コイファー&A・チェメロ『現象学入門:新しい心の科学と哲学のために』(田中彰吾・宮原克典訳),勁草書房,未定
最後のものだけ未刊です、すみません。前にここのブログ記事で紹介したときは訳文作りが進行中でしたが、先日ようやく一通り終わりました。ただいま、2018年早めの刊行を目指して共訳者の宮原克典さんと奮闘中です。この本は、新しい心の科学を生み出すことが現象学の未完のプロジェクトである、という歴史的なパースペクティヴで書かれたユニークかつ注目の現象学入門書です。心の科学から現象学に入りたい人にとっても、逆に現象学から心の科学と哲学の未来を考えたい人にとっても、必須の入門書になるはず(?)です。
ブックフェアは紀伊国屋書店新宿本店3階で開催中とのことです。新宿にお立ち寄りのさいはお忘れなく。
た
酒井泰斗プロデュース「いまこそ事象そのものへ! 現象学からはじめる書棚散策
刊行されたワードマップそのものも目次を見ると良質な現象学入門書の印象を強く受けますが、ブックフェアで列挙されている書籍リストもすごいです。分量的に通常のブックフェアをはるかに超えているのですが、それだけではなくて、選書されている書籍を眺めると、ある「ゲシュタルト」のようなものが見て取れます(そのような気がします)。
…こう言えばいいんでしょうか。現象学の初心者がすいすい読めてわかった気になるようなヤワな本はまったく選ばれていないように見受けられます。が、読むことを通じて現象学の深みに入っていけるような本が多い印象なのです。
ここで「現象学の深み」と言ってみたのは、現代の現象学が圧倒的な量のテクストとともに生み出している言説の文脈、という意味もありますが、それだけではありません。ブックフェアの趣旨文で酒井氏がこんな風に述べていますが、
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本書『ワードマップ』では、現象学が「経験の探究」として提示されていますが、ここでいう経験は、私たちが世界の中で様々な対象に出会い・様々なやり方で関わることを指しています。つまり、物事を経験の相において、経験される事柄 と 経験する者 を切り離さずに捉えることをとおして 哲学的課題に取り組む探究のプログラムとして、現象学が特徴づけられているわけです。
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ここに書かれている意味で、「経験の探求」にもっと深く入っていける導きになるような本がたくさん並んでいます。個人的にも、かつて大きな影響を受けた本や、いまだに大きな影響を感じ続けている本が多く並んでいて、感慨深いものがあります。
…いやいや、感慨にふけりたいのではなくて告知がしたかったのでした。選書されたもののなかに、田中も関係している書籍が3冊あります(選んでいただいて感謝です)。ブックフェアに行ってみようと思っている皆さま、この機会に書店で手を伸ばしてみていただけると幸いです。
ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待:理論から具体的技法まで』(田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳),新曜社,2016年(現象学に裏づけられた質的研究のガイドブックです。著者のラングドリッジさんは来週の国際理論心理学会で来日されます。8/22に基調講演、8/24にはシンポジウムで登壇をお願いしています。プログラムはここで確認できます)
田中彰吾『生きられた〈私〉をもとめて: 身体・意識・他者 (心の科学のための哲学入門 4)』北大路書房,2017年(心の科学の近年の知見と現象学の古典を往復しながら、身体・意識・他者というテーマに沿って自己アイデンティティの根源に迫っています)
S・コイファー&A・チェメロ『現象学入門:新しい心の科学と哲学のために』(田中彰吾・宮原克典訳),勁草書房,未定
最後のものだけ未刊です、すみません。前にここのブログ記事で紹介したときは訳文作りが進行中でしたが、先日ようやく一通り終わりました。ただいま、2018年早めの刊行を目指して共訳者の宮原克典さんと奮闘中です。この本は、新しい心の科学を生み出すことが現象学の未完のプロジェクトである、という歴史的なパースペクティヴで書かれたユニークかつ注目の現象学入門書です。心の科学から現象学に入りたい人にとっても、逆に現象学から心の科学と哲学の未来を考えたい人にとっても、必須の入門書になるはず(?)です。
ブックフェアは紀伊国屋書店新宿本店3階で開催中とのことです。新宿にお立ち寄りのさいはお忘れなく。
た
2017年8月12日土曜日
シンポジウム:Focusing on the narrative self in human sciences
帰国後のISTPでの発表を準備しています。今日はとりあえず25日午前の以下のシンポジウムの準備。
8/25 11:00-12:30 Room A1203
[Symposium 34]
Focusing on the narrative self in human sciences
[Organizer]
Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
[Presenters]
Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
Masahiro Nochi (The University of Tokyo)
Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
Ken Nishi (Tokyo Medical University)
タイトルを日本語にすると「人間科学におけるナラティヴ・セルフを焦点化する」と、ちょっとぎこちなくなってしまいますが、趣旨はこういうことです。
心理・教育・福祉・看護など、対人支援領域での質的研究においてナラティヴ・アプローチは重要な位置を占めています。ただ、理論的には問題も多くあります。本人の語りを重視するといっても、インタビューを受ける側の研究参加者の観点はもともと研究者の観点とは異なりますから、研究者が理解できることにはおのずと制約があるかもしれません。一方、インタビューを深いものにしてナラティヴを分厚いものにすれば、その分だけ理解が深まったとしてもデータは参加者と研究者の共同作業の産物になり、妥当性の確保が難しくなっていきます(別の研究者が同じ題材に取り組んでも、まったく違う記述になる可能性があります)。また、ナラティヴが聞き手の前での語りだとすると、聞き手が変わると内容が変わってしまったり、聞き手の態度や関心によって語りの内容が変化したりといった問題もあります。
なので、エビデンス・ベースでないアプローチであることに由来するさまざまな理論的問題がナラティヴ・アプローチには内在しているのですが、それをポジティヴに解消する手立てとして「ナラティヴ・セルフ」というキーワードを立ててみてはどうか、というのが今回のシンポの趣旨です。ナラティヴだけではなく、研究参加者のナラティヴ・セルフまで迫ることができれば、研究者の側の恣意性を超えて、より一貫性と妥当性をもってナラティヴを理解する手がかりが得られるのでは、という提案になっています。(ちなみにエビデンス・ベースのアプローチにはそれ固有の理論的な問題点が多々ありますので、誤解なきよう)。
パネリストの植田先生と能智先生が事前に報告内容のレジュメを送ってくれたのですが、それを見ていて興味深いことに気づきました。お二人とも、ナラティヴの理解が研究者の側の主観に引きずられないよう、いかにして研究参加者を正確に理解できるかという問題意識を追求しているのですが、そのさい、参加者の身体、語りの裏にある沈黙、情動など、いわば「当事者の実存」に着目しているのです。
つまり、シンポはさしあたり「ナラティヴ・セルフ」を提案するものなのですが、二人ともそれを少し超える場所を指向しているようなのです。「ナラティヴ・セルフ」は、本人のライフストーリーを背景にして構成されているアイデンティティですから、基本的には「物語の形式で語られた自己」であり、「語りうる自己」です。対して、とくに能智先生は写真に映ったある男性の身体を時系列で追うことで「語り以前の語り」を読み解こうとしていて、まさに当人の実存に迫ろうとしています。
私もこのシンポの準備をしていて「ナラティヴ・セルフ」の概念の歴史をたどり直しながら考えたのですが、ライフストーリーとしてのナラティヴはある観点から人生を俯瞰したときに紡ぎ出される物語であって、「ある観点」それ自体は物語のなかに登場してきません。ここでいう「ある観点」とは、語りを紡ぎ出している現在の時点で、身体を通じて私が生きているところの、世界との関わりです。
これは、ハイデガー風に「気分」と言ってもいいかもしれませんし、ジェンドリンのように「フェルトセンス」と言ってもいいかもしれませんが、「暗にそう感じてしまっているもの」なので、語り全体を脚色するものでありながら、はっきりと言語化されて語りのなかに表出しません。いわば、語りを支える語り手そのもののスタンスなので、これが語りのなかに盛り込まれれば物語全体のフレームが変化してしまうはずのものです。実人生でそのようにナラティヴが変化すれば、当人の生き方そのものが変わってしまうことでしょう。
いずれにしても、ナラティヴを問うていくと、その向こう側にある語り手の実存を問う必要がありそうなのですが、三人ともそれぞれのしかたでそういう深い問題意識を共有しているようです。西先生の指定討論でどんなコメントが出てくるかも含めて、当日の議論を楽しみにしています。
た
8/25 11:00-12:30 Room A1203
[Symposium 34]
Focusing on the narrative self in human sciences
[Organizer]
Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
[Presenters]
Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
Masahiro Nochi (The University of Tokyo)
Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
Ken Nishi (Tokyo Medical University)
タイトルを日本語にすると「人間科学におけるナラティヴ・セルフを焦点化する」と、ちょっとぎこちなくなってしまいますが、趣旨はこういうことです。
心理・教育・福祉・看護など、対人支援領域での質的研究においてナラティヴ・アプローチは重要な位置を占めています。ただ、理論的には問題も多くあります。本人の語りを重視するといっても、インタビューを受ける側の研究参加者の観点はもともと研究者の観点とは異なりますから、研究者が理解できることにはおのずと制約があるかもしれません。一方、インタビューを深いものにしてナラティヴを分厚いものにすれば、その分だけ理解が深まったとしてもデータは参加者と研究者の共同作業の産物になり、妥当性の確保が難しくなっていきます(別の研究者が同じ題材に取り組んでも、まったく違う記述になる可能性があります)。また、ナラティヴが聞き手の前での語りだとすると、聞き手が変わると内容が変わってしまったり、聞き手の態度や関心によって語りの内容が変化したりといった問題もあります。
なので、エビデンス・ベースでないアプローチであることに由来するさまざまな理論的問題がナラティヴ・アプローチには内在しているのですが、それをポジティヴに解消する手立てとして「ナラティヴ・セルフ」というキーワードを立ててみてはどうか、というのが今回のシンポの趣旨です。ナラティヴだけではなく、研究参加者のナラティヴ・セルフまで迫ることができれば、研究者の側の恣意性を超えて、より一貫性と妥当性をもってナラティヴを理解する手がかりが得られるのでは、という提案になっています。(ちなみにエビデンス・ベースのアプローチにはそれ固有の理論的な問題点が多々ありますので、誤解なきよう)。
パネリストの植田先生と能智先生が事前に報告内容のレジュメを送ってくれたのですが、それを見ていて興味深いことに気づきました。お二人とも、ナラティヴの理解が研究者の側の主観に引きずられないよう、いかにして研究参加者を正確に理解できるかという問題意識を追求しているのですが、そのさい、参加者の身体、語りの裏にある沈黙、情動など、いわば「当事者の実存」に着目しているのです。
つまり、シンポはさしあたり「ナラティヴ・セルフ」を提案するものなのですが、二人ともそれを少し超える場所を指向しているようなのです。「ナラティヴ・セルフ」は、本人のライフストーリーを背景にして構成されているアイデンティティですから、基本的には「物語の形式で語られた自己」であり、「語りうる自己」です。対して、とくに能智先生は写真に映ったある男性の身体を時系列で追うことで「語り以前の語り」を読み解こうとしていて、まさに当人の実存に迫ろうとしています。
私もこのシンポの準備をしていて「ナラティヴ・セルフ」の概念の歴史をたどり直しながら考えたのですが、ライフストーリーとしてのナラティヴはある観点から人生を俯瞰したときに紡ぎ出される物語であって、「ある観点」それ自体は物語のなかに登場してきません。ここでいう「ある観点」とは、語りを紡ぎ出している現在の時点で、身体を通じて私が生きているところの、世界との関わりです。
これは、ハイデガー風に「気分」と言ってもいいかもしれませんし、ジェンドリンのように「フェルトセンス」と言ってもいいかもしれませんが、「暗にそう感じてしまっているもの」なので、語り全体を脚色するものでありながら、はっきりと言語化されて語りのなかに表出しません。いわば、語りを支える語り手そのもののスタンスなので、これが語りのなかに盛り込まれれば物語全体のフレームが変化してしまうはずのものです。実人生でそのようにナラティヴが変化すれば、当人の生き方そのものが変わってしまうことでしょう。
いずれにしても、ナラティヴを問うていくと、その向こう側にある語り手の実存を問う必要がありそうなのですが、三人ともそれぞれのしかたでそういう深い問題意識を共有しているようです。西先生の指定討論でどんなコメントが出てくるかも含めて、当日の議論を楽しみにしています。
た
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