2021年6月3日木曜日

リクール『他者のような自己自身』第8研究

あっという間に6月。来年度のカリキュラム改革準備とコロナ対応とで大学の仕事に追われているうちに5月は過ぎてしまいました。グチってる暇もなく日々が過ぎていくばかりです。こんなことばかりに追われていると自分がだんだんアホになっていくような気がするので、気を取り直して読書会の話題を。村田憲郎先生による力作の『他者のような自己自身』第8研究のレジュメをアップしました。

ポール・リクール『他者のような自己自身』第8研究

「良い生き方」という倫理的目標が、「なすべきこと」という道徳的規範のテストにかけられる、というのがざっくりとした第8研究の趣旨です。…が、うーん、この章は今まで読んできた中で一番難解でした。カントの道徳理論が主題的に取り上げられているのですが、カントそのものというよりリクールのカント解釈が延々と繰り広げられていて、門外漢の私はついていけませんでした。それでなくても日々の業務でアホになっている中で読書会に合わせて自分を学者モードに戻すのは本当に大変です。

ただ、よく理解できた(気がする)のは、カントが「自律」「目的としての人格」「定言命法」から始めて理性によって基礎づけようとした道徳が、そのままでは完結できないというか、感性や情動や受動性といった次元を巻き込まざるを得ないような穴を持っているということです。まあ、当然といえば当然のことかもしれませんが、裏を返すと、道徳的規範もまた身体的存在としての人間どうしの関係から基礎付ける必要があるということです。それは一般的な関係性の中にある道徳を考えるときには当然の問題なのですが、他者のレベルが抽象化して「制度のレベルでの正義」を考えるときにはカントのやり方とは違った難しさをともなうはずです。メルロ゠ポンティのように身体的存在から始める哲学者が、社会契約や国家についてうまく語りきれていないように見えるのも、この点に関連しているように思います。

2021年5月15日土曜日

博士論文ってたいへん

昨年以降、大学院で博士論文の審査を引き受けるようになりました。昨年度は東海大学の同僚でもある鷹取勇希さんが文明研究専攻に提出された学位論文の主査をお受けしました。英文で300ページ近い大作で、最初から最後まで読み込むのが大変でした。もちろん書いている本人はもっと大変なのでしょうけれど、より良い論文にするために隅々まで読み込んでコメントする作業もなかなか大変でした。

どこまで改訂すれば学位に値するのかという判断をつけながら全体を読み込んで不足箇所を指摘するのは、ある意味で自分がどのような基準で学問をとらえているのかを自覚する作業でもあります。他人の学問への甘さは自分の学問への甘さであり、他人の学問への厳しさは自分の学問への厳しさでもあります。甘さと厳しさの両極のあいだで、「何が学位に値するか」を考えながら読み込むのは自分にとって新たな発見が多くありました。

また、仕事をお受けして、改めて自分の博士論文を審査した先生方も大変だったのだろうなと思いを馳せました。とくに私の博士論文はユングの共時性といういわば「鬼門」にあたるテーマを扱っていたので、なおさらだっただろうと思います。学位を取得して20年近くたって、改めて指導していただいた先生方に深く感謝した次第です。

…で、なんでこんな記事を書いているのかというと、ただいまカリフォルニアにある某大学院の学生の博士論文のexternal reviewer(学外の副査)をお受けしているからです。ちょうど明日までに全体を読み込んでコメントを返さねばならないので、昨日今日で「ボディワークにおける触れる経験」についての長大な博士論文を読んでいました。ワンテーマで書かれた200ページ以上の論文を読んでいるとさすがに頭の中がその主題一色になりますね。上がりきった脳内のボルテージを下げるために、ここに記事を書いて気分転換してみたのでした。

論文はハンズオン・ヒーリングにおける「触れる」経験を扱っているのですが、ボディワーカーにインタビューした内容を質的に分析していて、ものすごく深い内容になっています。どうやら、触れる経験というのは「気がふれる」という言い方にもあるように、狂おしいくらい深く傷つく経験をもたらす場合があるようです。ただ、その分、とても深く愛されていることを実感する癒しの経験でもあるということなんでしょうね。論文を読んで、触れることにともなう暴力と癒しの両義性を再発見した次第です。

さて、では本人向けにコメントを書くことにしましょうか…

2021年5月4日火曜日

「コミュニケーションの再考」記事

GWということでようやくまとめて原稿を書くモードに入っている田中ですこんにちは。以前こちらでも紹介しましたが、2月に登壇したイベントの記事がアップされたそうなのでご紹介します。

コミュニケーションの再考 / Frontier Session #2

このイベントは、オフィスデザインを手がける会社「フロンティア・コンサルティング」の社員さん向けトークセッションでした。パンデミックのためテレワークが広がり、仕事のスタイルが大きく変わりつつあります。そんな中で、オンラインとオフラインのコミュニケーションをどう考えればいいのか、身体性の観点からいろいろと話題提供しました。もちろん私も答えは持っているわけではありませんが…

当日お話したことの中には記事になっていないものも結構あったように記憶していますが、2時間弱のセッションをすべて文字化するのも難しいのでしょうね。上記リンク先はいわば当日のハイライトになっています。

当日、セッションでもご一緒した後尾志郎さんが開発された「tonari」というオンラインコミュニケーションのシステムを見学しました。フロンティアの社内に設置されているのですが、これがなかなか画期的でした。ほぼ等身大の大画面で大阪と東京のオフィスが画面を介してリアルタイムでつながっています。もちろん音声もかなり自然にやりとりできるという優れもの。上のリンク先で実際のイメージを見られます。

これだったら遠隔地の研究室と常時接続にしていろんな共同研究ができるなぁ、とうらやましくなりました。といっても、帰り際に後尾さんに導入費用をそれとなく聞いてみたら私がもらっている科研費より0の数が一個多い金額なので「やっぱダメか…」となったのですが。そのうち科研費の基盤Aとか取れるようになったらうちの研究室にもtonariを入れたいです。

2021年4月26日月曜日

研究者向け:ECogS 2021

前回の投稿からあいも変わらず新年度のもろもろの業務に追われている田中ですこんにちは。

今回は、身体性認知の分野に関心のある大学院生やポスドク向け情報です。沖縄にあるOIST(沖縄科学技術大学院大学)で身体性認知の国際会議が11月に予定されています。対面かオンラインか併用か、実際の運営はまだ検討中とのことですが、発表の募集が始まっています。

ECogS 2021 (International Conference on Embodied Cognitive Science 2021)

キーノートのメンバーがすごく豪華です(除く私)。この面々を見てください。これ、OISTに身体性認知の研究を牽引するトム・フロースさんがいるから実現できた企画なんだろうな。私にとっても、いろいろ話を聞いて学ばせてもらう機会になりそうです。

パンデミックが下火になれば沖縄で参加できる可能性もあるみたいなので、楽しみです。11月1日〜5日、沖縄のOISTにて。

2021年4月12日月曜日

動画を作ってみました


こんにちは。四月になって年度が変わり、あっという間に時間が過ぎていきますが皆さんお元気ですか。私もご多分にもれず毎日すごい量の仕事に追われっぱなしなのですが、その合間をぬって動画を作ってみました。


この本を書いたきっかけ

 

「この本」というのは拙著『生きられた〈私〉をもとめて-身体・意識・他者』(北大路書房・2017年)のことです。友人がツイッターで作ってくれた本書のbotにもフォロワーさんが増えてきたのと、今学期は大学の授業で初めてこの本を授業の教科書として使いたいというのとがあって、これから本書を手に取ってみようと思っている方のために簡単な案内動画を作りました。

動画でもお付き合いいただけると幸いです。

2021年3月22日月曜日

『他者のような自己自身』第7研究

研究アーカイブのページにリクール『他者のような自己自身』第7研究のレジュメを追加しておきました。

『他者のような自己自身』第7研究

この章では「善い生き方」が探究されます。生き方を考えるというのは昔から哲学の主題のひとつだったわけですが、リクールはこれをたんに個人の問題とはとらえず、他者との関係、制度との関係まで視野に入れて論じています。章の途中では「友愛」を題材にして他者との関係で「善い生き方」に考察がおよび、最後の節では「正義」を題材にして制度との関係で「善い生き方」についての考察がなされています。
 
現代人は、自分という個人の問題に切り詰めて生き方の問題を考えてしまいがちですが、自己が物語的なものであり、物語が言語によって語られるものだとすると、それは必ず語りの相手先である他者を必要とするわけです。したがって、善い生き方や「幸せ」はたんに個人や主観の問題ではなく、少なくとも他者との共生的関係が視野に入ったものでなくてはならないはずです。さらに言うと、他者は必ず共同体の一員としての他者でもありますし、自分の人生を語るストーリーは共同体の中での標準的な語りとの関係において実質的な意味を与えられる(他人のストーリーとの比較の中でしか自分のストーリーは際立った意味を持たない)わけですから、自己の生き方は他者や共同体のあり方とも切り離せないのですよね。…そういったことを考えさせられる章になっています。
 
ところで、本書を読んでいるとときどき抱く感慨があります。哲学者って良くも悪くも厨二病っぽいテキストを残す人物が多い(とくに著名な人物ほど)と思うのですが、リクールにはそういうところがまったくありません。文章に派手さやカッコ良さを感じることはないのですが、じつに味わい深い文章の書き手です。噛むほどに味が出るスルメみたいな哲学者ですねぇ。



2021年3月13日土曜日

書影が出ました:Body Schema and Body Image

ようやくアマゾンのページに書影が出ました!

Yochai Ataria, Shogo Tanaka, & Shaun Gallagher (Eds.). Body Schema and Body Image: New Directions. Oxford University Press.

盟友のヨハイ・アタリア、ショーン・ギャラガーとともに「身体図式と身体イメージ」と題する書籍を編集しました。当初からの念願かなってオックスフォードから出版します。単著を書くまでには及びませんが、共編著を学術書の最高峰から出版できるのはとっても嬉しいです。

長い道のりでした。「Body Schema & Body Image」と題する国際シンポジウムを東大の駒場で開いたのが2018年3月末。そこから出版企画書を書いて、執筆人から原稿を募って、出版社とやりとりして、原稿の査読と編集を重ねて、自分自身も原稿を書いて、さらに編者三人でイントロダクションを書いて、ゲラの校正をやって…と遠大な作業の連続がようやく終わりにさしかかっています。

でも、丸3年でここまでできたのだから、同種の書籍としては早かったかもしれません。そもそも企画書が通らないとか、原稿が集まらないとか、集まった原稿が使えないとか、いろいろな理由でこの手の書籍は途中でお蔵入りになってしまうことのほうが多いですし。まさに関係各位の協力の賜物です。

目次や内容のことなど、また追ってご紹介できればと思います。ひとまずご報告まで。


2021年3月1日月曜日

「第三種接近遭遇」シンポジウム動画

あっという間に三月ですね。

1週間前のイベントでしたが、YouTube上でシンポジウムの動画が公開されているのでご紹介します。

アカデミックとVRユーザをつなぐ学術イベント「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」第三部 (2021年2月21日)

3時間を超える長いシンポですが、後半のディスカッション部分はアバターの未来を考える面白い内容になっているんじゃないかと思います。ちなみに私が登壇した前週に行われた第二部も公開されています。

アカデミックとVRユーザをつなぐ学術イベント「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」第二部 (2021年2月13日)

こちらは「顔・身体学」の山口先生も登壇されていて文化との関連への言及もありました。

VRに関心のある皆さま、ぜひお楽しみください。



2021年2月9日火曜日

イベント紹介

2月は例年入試の業務がありますが、その合間にいろいろとイベントに顔を出します。

 

その1。

こちらはすでに終了しましたが、4日にオフィスデザインを手がける会社「フロンティア・コンサルティング」の社員さん向けトークセッションにお邪魔してきました。テーマは「コミュニケーション再考」ということだったので、パンデミックで仕事のスタイルが変わるなかでオンラインとオフラインのコミュニケーションをどう考えるか、身体性の観点からいろいろと話題提供しました。詳細は近いうちに広報誌の「Worker's Resort」の記事になると思いますので、またご紹介します。

 

その2。

Close Encounters of the Third Kind (第三種接近遭遇)

なんだかタイトルが怪しげな魅力を放っていますが、アカデミックと現場をつなぐ学術イベント、とのことです。VTuberのよーへんさんが企画されています。VRユーザとVRに関心を持つ研究者でおしゃべりするイベントみたいです。

第一部〜第三部まであって、第一部はVRユーザによるアバター体験のプレゼン、第二部(2/13)、第三部(2/21)は研究者を交えたディスカッションという構成。田中は21日の第三部に出ます。鈴木宏昭先生(青学)、鳴海拓志先生(東大)、小鷹研理先生(名古屋市立)という面々とご一緒します。第一部には、科研費の新学術「顔・身体学」でお世話になっている中央大の山口真美先生も出られます。当日はYouTube上で生配信があるそうなので、お時間のある方はご覧ください。

●YouTube「Holographicチャンネル」で生配信

第一部 : [https://youtu.be/9MDKvzKGt90](https://youtu.be/9MDKvzKGt90)

第二部 : [https://youtu.be/Y6cY-IgRbNs](https://youtu.be/Y6cY-IgRbNs)

第三部 : [https://youtu.be/DZoknaDJzis](https://youtu.be/DZoknaDJzis)

 

その3。

WHAT'S NEXT: The Future of Embodiment

こちらはシンシナティ大学による哲学イベント。オンラインで、米国、アイルランド、エストニア、日本を結んで開催されるそうです。フライヤーをいただいたので下に貼っておきます。日本からはトム・フローゼさん(OIST)、河野哲也先生(立教大)、野中哲士先生(神戸大)が出られます。日本からの登壇者が並ぶ「PANEL 3」は、アメリカ時間だと午後4〜6時でいかにもシンポジウムにふさわしい時間ですが、日本では2月28日(日)の朝6時〜8時です。起きられるかな…。










2021年2月3日水曜日

河合塾「みらいぶっく」

河合塾、経産省、内閣府が連携して企画しいるウェブサイト「みらいぶっく」に田中の研究が取り上げられました。

からだが知っている! ~からだに宿る知性「身体知」の研究

最初に取材の問い合わせがあったのはいつだったか…なんかもう遠い記憶のかなたですが、ドイツで2回目の在外研究に行ったころだと思うので2016年ぐらいだろうと思います。その後紆余曲折があって企画が止まっていたようですが、ようやくページができたんだそうです。

高校生向けのページらしいのでこのブログの読者にはあんまり関係なさそうですが、いちおう広報ということでご紹介しておきます。研究者になりたいお子さんが周りにおられる方は、「みらいぶっく」のトップページを紹介してあげるといいかもしれません。

そういえば、高校生の頃の私は研究者になるなんてまったく考えてなかったなぁ。将来何になりたいのか考える前に、ひたすら暗く自分の実存的な悩みに打ちひしがれていたような記憶しかありませんね…。サルトルの『嘔吐』を最初に手に取ったのが高校2年の頃だったと思います。暗い高校生だな…思いだすのも恥ずかしい。


2021年1月24日日曜日

『他者のような自己自身』第6研究

リクール読書会も第6研究まで終わりました。長大な著作の半分は読み終えたことになります。村田憲郎氏による充実したレジュメをいただいたのでシェアしておきます。

リクール『他者のような自己自身』第6研究

ナラティヴ・セルフについて考えるうえでは、第5研究とこの第6研究が中核的な箇所になりそうです。重要な箇所を引用してみます。

「人生の物語的統一という概念については、やはりそこに作話の働きと生きた経験との不安定な混合を見るべきである。現実の生のまさににげやすい性格のゆえに、われわれはその生を事後に回顧しながら編成するために、フィクションの助けを必要とするのであり…」(209ページ)

なにげなく経験されている日々の出来事はそれ自体としては不安定だとリクールは見るわけですね。(瞬間ごとに生成する「生きられた私」を肯定する田中としては必ずしもそう思いませんが、それはともかく)私が経験するさまざまな出来事に安定した意味を見出すには、フィクションの助けを借りてそこに「筋立て」を見出していく必要がある。それができると人生が安定した物語の流れのうえに位置づけられ、「私はどこから来て、どこへ行くのか」という人生の展望を持つことができる、というわけです。

コロナ禍で歴史の転換点にあるように感じられる現在も、さまざまな「筋立て」を借りて人類が自分たちの物語的=歴史的な展望を描こうとしているように見えます。私たちは、どこへ行こうとしているのでしょうか。ソーシャルディスタンスもテレワークも遠隔授業も、人と人との「距離」をめぐる物語になっているように思います。生活のさまざまな面で、この距離が人と人との「分断」を肯定する物語として機能し始めているようにも見えるので、近頃かなり危惧を感じるようになりました。


2021年1月5日火曜日

明けましておめでとうございます

パンデミックに明け暮れた2020年がようやく終わりました。新型ウイルスの感染はまだ落ち着きませんが、ひとまず年が変わったことで鬱屈していた気持ちが少しは明るくなりました。

ところで、年始にたまたまこんな動画を見かけたのでその話題を。『サピエンス全史』で有名なユヴァル・ノア・ハラリの5年前のトークです。

New Religions of the 21st Century | Yuval Harari | Talks at Google

「21世紀の新しい宗教」と題されていますが、宗教というよりはテクノロジーの話でした。以下、話が面白くなってくる後半の要約です。

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近代に確立されたリベラリズムの価値観を打破するような宗教的価値観はあるだろうか。リベラリズムは政治や経済や倫理や教育など、社会のあらゆる面において、個人を価値の源泉とみなす考え方である。旧来型の宗教はリベラリズムに外側から修正を加えることはあっても内側から打破することはないだろう。

むしろ、個人を価値の源泉とみなすリベラリズムに対して、個人そのものを生化学的なアルゴリズムの集合に還元して理解するバイオテクノロジーの出現こそ、新しい宗教を準備するのではないか。産業革命の引き起こした変化に対抗して共産主義が新しい価値を打ち出したのと同じで、21世紀に新しい宗教があるなら、それはバイオテクノロジーの引き起こす革命に対応するものになるだろう。

バイオテクノロジーは個人の主観的な感情さえも生命科学的な法則性に還元し、個人の感じ方の正否を客観的に判定する。それはかつての宗教的権威が本人の行為の善悪を本人より良く判断できたのにも似ている。

たとえば、乳がんになるかどうかは今や遺伝子と確率の問題に還元されつつある。同様に、「何を読むべきか」「誰と結婚するか」といった個人的な判断は、本人の主観よりもデータベースと人工知能の判断に置き換えられつつある。つまり、「自分がどう感じるか」は自分自身の主観によるよりも、徐々に生命と情報のテクノロジーによって決定される方向に移行している。

ところで、生命はそもそも生化学的アルゴリズムの集合に還元できるのか。ハードプロブレムとして知られる問題は、生命の科学的法則がどのように主観的経験を生み出すのかを問うている。意識科学でハードプロブレムに答えが出されたわけではない。将来その答えに漸近するのかもしれないし、主観的経験は生化学的アルゴリズムに還元できないという結論に至るのかもしれない。

ただし一方で、宗教は、必ずしも真実を正しく伝える必要がないことも考慮するべきだろう。キリスト教の世界像は正しい世界像を伝えて来たわけではないが、正しい宗教として人々に信じられている時代があった。同様に、真実を正確に伝えるものになっていないとしても、生命と情報のテクノロジーが宗教のようなものになり、人々に信じられるることはあるのかもしれない。

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筋トレしながら聞いていたので必ずしも正確なまとめではないので悪しからず。ともあれ、ハラリは個人の主観にものごとの正否の判断をゆだねるリベラリズムの考え方に、生命と情報の科学・技術が挑戦することになる未来を予告しています。

しかし、生命と情報のテクノロジーが個人の主観に取って代わることにはならないでしょう。もちろん、個人の主観がだんだん外部のアルゴリズムに置き換えられる事態は進行するでしょうが、アルゴリズムの判断に沿って行為することで満足するかどうかというのは再び個人の主観の問題になるので、主観的判断と科学技術とのあいだでぐるぐると循環するループがどこまでも続きながら技術が進歩していくということにしかならないと思います。

むしろ恐ろしいのは、主観性と科学技術の循環するループが権力と結びつくときには簡単に全体主義的なディストピアが出現してしまいそうなことです。2021年の中国で起こっている個人情報の国家的管理はそういうディストピアに相当近づいているのではないでしょうか。


2020年12月25日金曜日

対人恐怖症という名前の起源

週末に科研費の「顔・身体学」の領域会議があるのでその準備中。対人恐怖について話すので、しばらくぶりに関連資料を読み直していて、けっこう重要なことを発見した。

それは、森田正馬の著作のこと。以前、対人恐怖について森田が残した文献を調べようと思って、2011年に白揚社から刊行されている森田正馬『対人恐怖の治し方』に収録されている論文を読んだ。この本の最初に収められている「対人恐怖症(または赤面恐怖)とその治し方」という論文は、森田が最初1932年に発表した対人恐怖症の重要な基礎文献になっている。

対人恐怖は、人前で恥ずかしくて赤面するという自然な反応を、「赤面するまい」と思ったり「恥ずかしがりやと思われたくない」と過剰に制御しようとすることでかえって人前で自然に反応できなくなり、悪循環にはまってしまう状態である。また、人前で普通に振る舞えない自分を「こんなことではいけない」と強迫的にこだわって苦悩してしまう状態である…といった森田の考えがるる述べられている。

こういう森田の考えは今は置く。ここに記録しておきたいのは、2011年版の論文を昔の『森田正馬全集』に収録されている同じ論文と比べてみたら細部がかなり書き換えられているということだ。目立つところを拾ってみると、

 

1) タイトル

全集「赤面恐怖症(又は對人恐怖)と其療法」

新版「対人恐怖症(または赤面恐怖)とその治し方」

 

2)「対人恐怖」概念の由来

全集「故に廣くいへば、自ら人前で恥かしがる事を苦悩する症状であって、羞恥恐怖といふべく、赤面恐怖を其一種である。又周囲に對する對人関係で、種々の苦悩を起すものが多いから、近頃或人は之に對人恐怖と名付けた事がある。」

新版「ゆえに広くいえば、自ら人前で恥かしがることを苦悩する症状であって、いわば羞恥恐怖というべきものである。すなわち周囲に対する対人関係で種々の苦悩を起こすものが多いから、これを対人恐怖と名づけ、赤面恐怖はその一種であるというべきものである。」

 

他にも変更箇所がいろいろあるが、面倒なのでここには書かない。ここに記録しておこうと思ったのは、この改変がかなり意図的なものに見えるからだ。全集の文言をそのまま読むと「赤面恐怖」が中心になっていて、それを「対人恐怖」と名づけたのは森田自身ではないことが明らかにうかがえる。新版では、森田自身が「対人恐怖」と命名し、その下位分類として赤面恐怖を位置づけたように読める。

対人恐怖症は森田が概念化したと一般には思われているが、全集の記述を素直に読む限りそうではないらしい。もともと対人恐怖という命名は「或人」によると森田自身が書いている。一体誰なんだろう?

それに、「対人恐怖症」という概念の由来に言及するとき、参考文献にあげられるのはたいてい1932年に発表されたこの「赤面恐怖症(又は對人恐怖)と其療法」なのだが、これはこれでまずくないだろうか?


2020年12月20日日曜日

botができた経緯

「ツイッターを再開したんですか?」という質問をこのところ何度もされるので、「してませんけど、多少の経緯があって…」という話を書いておきます。

過去ログを調べてみたら、私自身は2017年7月の終わりにツイッターを使うのをやめていました。
>2017/7/31「しばらくの間、

当時ドイツでの在外研究を終えて帰国する直前で、思うところあってしばらくツイッターをやめてみたのでした。あれからもう3年以上使っていなかったんですね。

ですが、使わなくてもあまり困ることはないです(だから再開もしてません)。もちろん、研究者や出版社の界隈で発信されている情報にやや疎くはなりますが、自分にとって研究活動の核になるつながりはSNSがなくても維持されるので、とくに不便を感じることもありません。困ったのは、自分が主催するイベントを告知したいときぐらいでしょうか。他は、人間関係に絡むノイズのような情報が入ってこなくなって快適になった感じです。ソーシャルメディアって情報の発信と受信がその人の社会的な人間関係に絡んでなされるので、それが便利だったりありがたかったりすることがある反面、面倒だったりうっとうしかったりする場面も多いですよね。私の場合、後者に煩わされることがなくなったので快適になりました。

本題に戻りますが、12月の上旬にある友人がツイッター上に著作のbotを作ってくれました(アカウントは「@ikiraretawa_bot」だそうです。2017年に出版した『生きられた<私>をもとめて』の引用botです。「ツイッターを再開したんですか」と聞かれるのですが、さすがに自分で自分の著作を引用するbotは気恥ずかしくてできません。私だけではないと思いますが、自分が過去に出版したものを読み直すのって、けっこう恥ずかしいんですよ。その時に自分ができるレベルの限界で書いているので、後で読み返すと至らないところがたくさん目に付くんです。「一生懸命やったのにこの程度しかできませんでした」という自分に直面するのって、皆さんも気が進まないでしょう?

じゃあなんでbotができたのかといいますと。11月の下旬に出版元の北大路書房の編集者の方と別件でやりとりがあったんです。そこのメールに、出版から3年たって売上が伸びなくなってるんだけどどうにかならないですか?という趣旨のことが書いてあったので、販促を兼ねて一般読者向けに何かイベントを組めるといいなと思ったんです。それを私の周囲でもっとも熱心に著作を読んでくれたある友人に相談したら、彼がbotをやりましょうといって即座に形にしてくれた、という次第。引用文の選択はすべて彼の手によるものです。私も一度目を通しましたが、他人が引用してくれた後で読むのって、自分の文章なのに恥ずかしくなく、むしろちょっと素敵に見えました。あの感じは一体なんだったんでしょうか。

それはともかく、botを通じて一般読者に関心が広がれば、トークイベントのようなものを開催するかもしれません(「中の人」をやってくれている友人が司会をつとめてくれたりするとありがたいのですが)。とくにあの本は「自己」という問いに魅せられつつも苦しんでいる一般の読者に向けて書いたものなので、読者の背景を問わずそういう関心に沿った集まりを開ければ面白いかなと思います。botから入った方は引用を楽しんだ後で紙版の書籍を手にとっていただければ、著者としても幸甚です。



2020年11月26日木曜日

ホームページができました

このたび、研究室兼個人ホームページができました。

田中彰吾研究室(東海大学・現代教養センター)

https://shogo-tanaka.jp/

これまで、このブログの独立ページとして設置していた「研究会・WS案内」と「過去の開催記録」は、以下のページに情報を移動しました。

研究会https://shogo-tanaka.jp/study-group.html

ブログページに設定されていたリンク等はこれから順次移転していきます。

よろしくお願いします。