2017年8月5日土曜日

北大路書房のレア本

知人が興味深い写真を送ってくれました。
都内某所のジュンク堂では、拙著はこういう感じで置かれているそうです。
 

画像を特大表示にしているのですが見えるでしょうか? ほとんど無理かもしれませんね(もちろん私はすぐに見つけられるのですが)。左から10冊目が拙著です。
 
収録されているシリーズが「心の科学のための哲学入門」なので、心理学の棚にはおかれていないのですね。この段はほぼすべて「心の哲学」の関連書で埋まっています。北大路書房の本で心理学の棚に置かれないのって、けっこうなレア本なんじゃないでしょうか?
  
そして、上の段をみると右端にステレルニー、ソーバー、といった生物学の哲学者らしき人たちの本が。一番右の帯だけ見えてるのは…どうやら職場の同僚の松本俊吉さんの著作『進化という謎』では? この段は「生物学の哲学」関連の書籍が多いみたいです。
 
ということは、書棚が科学哲学のコーナーってことですね。ネット書店ではなくてリアル書店に行かれる方は、ぜひ科学哲学のコーナーに行ってみてください。それで、拙著を見かけたらぜひ手に取ってみてください。私のかけた魔法できっと買いたくなります(笑
 
そういえば、もうすぐ紀伊国屋新宿本店で「現象学ブックフェア」が始まるそうですね。『ワードマップ現代現象学』の刊行記念らしいですが、選書の中には田中の『生きられた〈私〉をもとめて』も入っていると風の便りでききました。日本ではマイナーな「現象学と認知科学(Phenomenology and the Cognitive Sciences)」の路線の本にまで気を配っていただいて嬉しい限りです。関係者の皆さん、ありがとうございます。帰国したらすぐに紀伊国屋に行かなくては。
 

 

2017年7月31日月曜日

しばらくの間、

ツイッターのアカウントを閉じることにしました。
 
もうすぐ帰国せねばならないせいか、ここ数日、帰国後の自分の生活が断片的に思い浮かぶことが増えています。それ自体はいいのですが、問題は中身。なぜかネガティブなシーンばかりなのです。長時間の会議にイラついている姿、授業のコマ数が多くて疲れている姿、問題学生への対応でうんざりしている姿、など。職場がらみの、いやな感じの場面が多いです(同僚に叱られそうですが…)。
 
こちらで過ごした時間がとにかく充実していたので、それとのコントラストでこの先の生活が思い浮かんでもポジティブな連想にならない、ということなんでしょう。心のはたらきはそういうものです。認知活動にもゲシュタルトがあって、ある背景のうえではじめて連想が図になって現れてきます。
 
それで、そういう場面のひとつとして、愚痴をツイートしている自分の姿が何度か浮かんできたので、そんなことに使うんだったらアカウントを閉じちゃってもいいのでは、と思いついた次第。研究会とか本の告知のこともあるので元に戻すかもしれませんが、それ専用に別アカウントを始める手もあるので、しばらくこの状態を試してみます。
 
なお、このページは今まで通りなのでよろしくお願いします。
 

 

2017年7月28日金曜日

国際理論心理学会での企画3

さらに前記事への追加です。
国際理論心理学会(ISTP 2017)の二日目、8/22夕方に下記のシンポジウムがあります。
 
8/22(火):17:15-19:15, Room A1203
[Symposium 22]
  Locating the bodily borders of individuality
[Organizer]
  Luca Tateo (Aalborg University)
[Presenters]
  Lívia Mathias Simão (University of São Paulo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
  Giuseppina Marsico (Aalborg University / University of Salerno)
  Jensine I. Nedergaard (Aalborg University)
  Zachary Beckstead (Brigham Young University-Hawaii)
[Discussant]
  Jaan Valsiner (Aalborg University)
 
この企画はデンマークのオールボー大学の先生方による企画です。自己と他者の境界、主観性と他者性の境界、個体性と集合性、こうしたものの起源として身体経験を理解する試みです。田中も見る-見られる、触れる-触れられる経験をもとに身体の間主観的次元について話そうと思っています。
 
このシンポ、内容もそうですが形式面で面白さがある企画かもしれません。枠が2時間でスピーカーは5人いるのですが、プレゼンは1人10分のみ、話題提供を1時間以内に抑え、あとは会場との討論に1時間を割くというタイムテーブルになっています。

オーガナイザーのタテオ先生はみんなで濃く議論する感じを狙っていて、話題提供者の理論的背景もけっこう散らしてあるので、混沌として結論の出ない流れになるかもしれません。ただ、その分、自分の考えをぶつけてフロアの議論に参加した人には、得るものも多い議論になると思われます。身体性に関心のある方はぜひ会場にお越しください。
 

 

2017年7月22日土曜日

国際理論心理学会での企画2

※8/5記:大会プログラムに変更があり、この企画は8月25日、13:30-15:00に変更になりました。
 
 
前記事への追加です。
国際理論心理学会(1STP 2017)、8/24日午後にはこんなワークショップがあります。

8/24 15:30-17:00 
8/25 13:30-15:00  Room A302
[Workshop 3]
  Alternative concepts of self, body and mind from contemporary Japanese perspectives
[Organizer]
  Tetsuya Kono (Rikkyo University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Presenter]
  Tetsuya Kono (Rikkyo University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
  Takayuki Ito (International Research Center for Japanese Studies)
  Yu Inutsuka (The University of Tokyo)
 
この企画は、現代(に必ずしも限りませんが)日本のパースペクティヴからオルタナティブな「自己」と「心身論」を議論する趣旨のものです。河野先生、伊東先生とは2015年の京都カンファレンス、2016年の国際心理学会議と、2年続きでアジア的な心身観から自己をとらえなおす議論を続けているので、これが3回目になります。
 
近代的な「自己」のとらえかたは、そのベースに独特の心身の見方(二元論)を持っていて、それが個人主義的な発想や独我論的な心観と緊密に連動しています。しかも、こうした観点は心理学の根っこにある仮説的な見方にもなっています。では、日本的な、あるいは東アジア的な観点を取ることで、こうした自己の見方を刷新できるのでしょうか。また、そうだとして、それは現代の心の見方にどのような貢献をなしうるのでしょうか。こういった論点を考えるワークショップです。
 

 

2017年7月14日金曜日

国際理論心理学会での企画

来月8月下旬に開催される国際理論心理学会(1STP 2017)で、下記2件のシンポジウムを開催します。大会は1日のみの参加も可能ですから、ぜひ足をお運びください。会場は、立教大学池袋キャンパスです。詳しい大会案内ページは以下です。

[The 17th Biennial Conference of The International Society for Theoretical Psychology]

<1>
8/24 11:00-12:30  Room A1202
[Symposium 26]
  Quest for new methods in phenomenological psychology
[Organizer]
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Presenters]
  Darren Langdridge (The Open University)
  Tsuneo Watanabe (Toho University)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
   Masayoshi Morioka (Ritsumeikan University)

この企画は、現象学的心理学の新しい方法を考えるシンポジウムです。邦訳が刊行されている『現象学的心理学への招待』の著者、ラングドリッジさんをスピーカーに招いて議論します。インタビュー、当事者の記述、実験の持つ可能性を考察します。
 
<2> 
8/25 11:00-12:30  Room A1203
[Symposium 34]
  Focusing on the narrative self in human sciences
[Organizer]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
[Presenters]
  Kayoko Ueda (Kawasaki University of Medical Welfare)
  Masahiro Nochi (The University of Tokyo)
  Shogo Tanaka (Tokai University)
[Discussant]
  Ken Nishi (Tokyo Medical University)

こちらの企画は、2016年7月末に明治大学で開催した「現象学と人間科学」のワークショップの続編です。昨年議論したときに、ナラティヴ・アプローチの問題点が浮上してきたので、今回は「ナラティヴ・セルフ」を主題にして人間科学と質的研究の基礎を再考します。こちらは植田先生にオーガナイズをお願いしました。

ちなみに田中は上記2件以外にも、シンポジウム1件、ワークショップ1件、という感じで合計4回登壇します。果たして大会終了まで私の体は倒れないでもつんでしょうか(笑


 

2017年7月6日木曜日

第80回心の科学の基礎論研究会

MLで告知が回っていますので、以下に同じ案内を貼り付けておきます。いずれの発表も、文字通り「心の科学の基礎論」をめぐる重要な講演になるものと思われます。例によって田中は帰国前なので参加できませんが…


 

---------------------------
「心の科学の基礎論」研究会( 第80回)のご案内
表記の研究会を下記の通り開催いたします。奮ってご参加下さい。

【日時】2017/7/22(土) 午後1:30~5:30(午後1時開場)
【場所】明治大学駿河台キャンパス研究棟2階第8会議室
 http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html

・趣旨 本研究会も80回目(21年目)を迎え、かつオープンアクセスジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」創刊を来年に控え、特集「心理学のエピステモロジー」と銘打って以下の企画を行います。
・司会 渡辺恒夫(東邦大学/心理学・現象学)

・講演1 加藤義信(名古屋芸術大学/発達心理学)
【題】アンリ・ワロンの発達論の独創性に学ぶ:現代発達心理学の批判的捉え直しのために
【要旨】心理学は人文・社会科学の中で最も自然科学化が進んだ領域であると見なされている。その一つの下位分野である発達心理学も例外ではない。/第一線で活躍する多くの発達研究者にとって、研究するとは、英語の学術誌に掲載された論文を読み、そこで共有されている問題意識を自らのものとした上で、「科学的」であると受容される方法の枠内でデータを収集し、それらを論文に(できれば英語で)仕上げて投稿し新知見のプライオリティ競争に参加することと、今や同義である。しかし、発達研究において、自然科学と同様のこうした学問の「制度化」、さらには「国際化」が、あたかもアメリカを中心に地球規模で成立していると、本当に考えてよいのだろうか。発達研究が当該研究者(及びその研究者の所属する階級・社会・文化)の発達観・子ども観・人間観に深く規定されて一定のバイアスのもとにしか成り立たない学問であるとすれば、この領域における「自然科学的な学問共同体」の存在を無自覚に想定するのは幻想に過ぎない。/自戒を込めて言えば、発表者がこれまで行ってきた認知発達の実験的研究も、こうした研究スタイルと無縁であったわけではない。ただ、上記のような問題意識だけは若い頃から持ち続けてきたので、一方で、今や時代遅れとみなされる20世紀前半のフランス語圏の二人の発達のグランド・セオリスト、ピアジェとワロンにずっとこだわりながら、英語圏を中心とする発達研究に欠けた視点をそこから学び取ろうとしてきた。特に最近は、ワロンの発達論に含まれる幾つかのアイデアが現代の発達心理学に新たな地平を切り開く可能性を有していることに注目してきた。今回は、この点を中心に話題提供することにしたい。

・講演2 山口裕之(徳島大学/哲学・エピステモロジー)
【題】心の科学のエピステモロジー:現代心理学が暗黙のうちに前提とするものを探る
【要旨】現代の心理学は、「心」を対象とする科学である。そこには、丸ごとの人間に介入して結果を質問票などで測るといった研究だけでなく、何か作業をしているときに使う脳の領域をfMRIなどで測定したり、神経細胞の電気的反応を調べたりといった「脳の研究」も含まれる。/しかし、そもそも「心」とは何だろうか。心理学において研究されている「知覚」「知能」「情動」「態度」などといった概念は、普遍的に妥当する概念なのであろうか。心は脳と単純に同一視してよいものであろうか。/少しばかり近代哲学を読んでみると、現代の
心理学とよく似た主題が扱われていることがすぐにわかる。知覚の研究はデカルトやロックなどに含まれているし、コンディヤックなどフランス啓蒙思想には人間の発達段階に対する体系的な考察が含まれている。しかし同時に気づくことは、そこで使われている言葉が、現代の心理学用語とは異なっていることである。mindではなくsoul(フランス語ではâme)が、emotionでなくpassionが、それぞれ一見すると前者と同じ意味で使われている。attitudeやmotivationなどという言葉は見かけず、volontéがそれらと重なりながら大幅にはみ出すような含意で使われる。intelligenceは、大文字で書けば「神」のことである。全般的に言って、当時の心(soulないしâme)の議論には、キリスト教的な色彩が濃い。/現代の心理学は、そうした近代哲学の議論を換骨奪胎することで、「科学」の一分野となったのである。そしてそのとき、「心」に対する特定の見方が、暗黙の前提として立てられることになった。今回の発表では、近代哲学から心理学へ、何が受け継がれ、何が変容したのかを考えることで、現代心理学の「暗黙の前提」を探りたい。
 
・誰でも参加できます。申し込み不要、原則無料です。
・注意!研究会はお互いに学び合う場です。自説を声高に一方的に主張し続けるような行為は迷惑行為に当たりますので御遠慮下さい。また、本研究会は哲学の研究会ではないので、こころの科学と直接関係のない哲学論議もお控え下さい。
・心の科学の基礎論研究会に関しては、以下のHPをご覧下さい。
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
・担当世話人:渡辺恒夫 東邦大学(psychotw[アットマーク]env.sci.toho-u.ac.jp


2017年6月29日木曜日

何とか終えた…

昨日までの暑さのせいで準備が間に合わないかと思いましたが、なんとかかんとか午後4時過ぎに準備を終え、午後6時からハイデルベルクのコロキアムで話をしてきました。


テーマは、離人症における自己と身体。ハイデルベルクに来て進めてきた研究プロジェクトのまとめになる話をしてきました。離人症を経験する個人は、しばしば自己の感覚が身体から切り離され、あたかも身体の外側にあって身体で起きていることを観察している、ということを訴えます。これは、哲学史上の議論にひきつけて考えると、デカルト的な二元論を擁護する症状に見えるわけです。デカルトは身体から切り離された自己を徹底して擁護する議論をしていますから。

そして、デカルト的な二元論に反対するところから始まっている私の「身体化された自己」の議論にとっては、離人症における自己感覚は、デカルト的自己を擁護するのか、身体化された自己を擁護するのか、議論を決定づける試金石のような症状なのです。

この問題に関して私が最終的に注目していることのひとつは、エージェンシーの問題です。離人症を経験する個人は、しばしば自分の身体行為があたかもロボットのように自動化されているといいます。しかし、彼らの身体は麻痺しているわけではないのです。生活に必要な行為はすべてなすことができます。だとすると、エージェンシーの感覚は存在しないわけではなくて、少なくとも身体行為を開始する時点でははたらいているはずです。ロボットのように感じてしまうのは、エージェンシーではなくて、むしろ身体のオーナーシップが損傷しているからでしょう。彼らは、自分の意図したとおりに行為することができるのですが、固有感覚を通じて「私の身体が動いている」という感じを経験できないため、行為が自動的に生じているように感じてしまうのでしょう。

そして、そうだとすると、少なくとも行為開始時点でのエージェンシーの感覚だけは身体に由来するはずで、その一点においては、離人症に苦しむ個人も、やはり身体化されていると言えるのです。これはおそらく治療とも接点を持つでしょう。身体行為(もっというと身体を動かすエクササイズ)を通じて、少しずつ身体のオーナーシップを回復することができれば、症状も多少は緩和されるのではないかと思います。私は臨床家ではないので治療に関して踏み込んだことは言えませんが、具体的な運動を手掛かりに身体性を回復することができるなら、治療について希望が持てるのではないでしょうか。

ともあれ、無事に話し終えることができて良かったです。しかも、今日の講演は「カール・ヤスパース図書館」というレジェンドな場所で行うことができたのでした。光栄な一日でした。


 

2017年6月28日水曜日

暑い…仕事が終わらない…

6月の中旬くらいからドイツはものすごく暑い。ドイツだけではなくて、今年のヨーロッパは広い範囲が熱波に覆われているらしい。テレビのニュースでは山火事の映像をたびたび見かける。
 
これだけ暑いと昼間はほとんど仕事にならない。もともとヨーロッパは室内でクーラーを使わないし、今でもエアコンがきいているのは商業地だけで、普通のオフィスには扇風機さえ置いてない。私の研究室にもエアコンはない。仮住まいのアパートにもエアコンがない。
 
昼は暑すぎるので、もっぱら気温の下がる夜(…といっても日が暮れて涼しくなる午後9時ごろ)に研究を始めるのだけど、これはこれで具合が悪い。暑いから窓を開けっぱなしにしていると、室内の灯りを目指して小さな蚊が大量に入ってくる。ドイツの建物には網戸がない。
 
刺されないので実害はないのだが、デスクスペースを照らすライトの周囲を、おそらくは30匹をくだらないであろう数の小さな蚊がくるくると飛んでいる中で、本を開いてパソコンの画面に向かう。気が散ることこの上ない。
 
こういうのを4~5日経験したらうんざりしたので、たまらず扇風機を買った。小さくて、首の回転がいかにも洗練されていない、見るからに安物の扇風機。なのに50ユーロ。蚊には困らなくなったが、こんどはブンブンと音がやかましい。それに、閉めきった状態で扇風機をまわしても、生ぬるい空気が室内を循環するだけでそれほど涼しくならない。まったく… 
 
明日(というかもう日付が変わって28日なので今日なのだが)、こちらのコロキアムで講演を頼まれている。すでに午前1時。当然のようにまだ準備が終わらない。このままいくと間に合いそうにない。困った。
 

2017年6月21日水曜日

ソフィー・ペダーセン氏講演会

少し先ですが、下記の日程で、ソフィ―・ペダーセン氏の講演会が開催されます。

2017年
8月3日(木)
8月7日(月)
8月18日(金)
いずれも16時~18時、立教大学池袋キャンパス12号館2階ミーティングルームにて。


ペダーセン氏は、デンマークのコペンハーゲン大学心理学部で講師を務められているそうです。事前連絡は不要で、どなたでも参加できるそうですので、関心のある方はふるってご参加ください。問合せは立教大学の河野哲也先生まで(画像を拡大するとメールアドレスを確認できます)。
 
内容ですが、ポスターで予告されている概要はこんな感じです。
  • 3日:Disconnected Activities (working with mental illness from a perspective of activity theory and eco)
  • 7日:Historicizing Affordance (a rendez-vous between ecological psychology and cultural-historical theory)
  • 18日:The Human Eco-niche (exploration and theoretical considerations)
いずれも、生態心理学ベースで、人間と環境の相互作用という観点から心を考える企画になっているのが伺えます。
 
田中は参加したいのですが、まだ帰国前のため無理です…残念。とくに7日の内容は、生態心理学のように身体からボトムアップで心を考えるアプローチと、文化・社会的な観点からトップダウンで心を考えるアプローチの接点を話題にするようですので、個人的にもいろいろ質問してみたいところです。


 

2017年6月14日水曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』6-9章)

研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
  
  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第6-7章)新曜社

  • D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第8-9章)新曜社
  •   
    今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』、後半6~9章の要約です。
     
    5月の臨床心理学研究会(能智正博先生主催)では前半1~5章までが取り上げられましたが、今回は残りの後半部分の検討でした。レジュメ6~7章は松尾純子さんが、8~9章は佐藤文昭さんが担当されています。

    渡辺先生、植田先生、田中の訳者3人は前回に続いて参加しました。

    今回は、個人的に印象深い質問が二つありました。

    ひとつは、ラングドリッジさんのけっこう厳しい(しかしやや的外れな)フッサール批判を受けて、ラングドリッジさんの立場はいまだ「現象学」と呼びうるものにとどまっているのか、という質問(これは当日参加されていた山竹伸二先生からのものでした)。

    ラングドリッジさんの立場は、フッサールへの誤解を多少含んでいますが(このへんは田中が訳者あとがきで解説しています)、しかし現象学への独創的な貢献を含んでいます。とくに彼は、さまざまな社会理論を持ち込んで、人々の語る「ナラティヴを揺り動かす」という作業を加えるのですが、これはフッサール現象学で言う「想像的変更」や「形相的還元」をナラティヴ研究の文脈に大胆にもちこむ試みと言っていいと思います。

    もともと現象学では、事象の本質を見出すために、想像力を用いて知覚された事象を揺り動かし、それでも変化しないものをつかみ出す作業(これを「想像的変更」とか「形相的還元」と呼びます)があるのですが、ラングドリッジさんは心理学の、とくにナラティヴ研究の文脈でそれを実践しようとしているわけです。人々の語るナラティヴはしばしば、社会に流通する規範的なナラティヴ(ドミナント・ストーリー)によって支配されている面があるので、それに揺さぶりをかけることで、「他のやり方でも語りうるもの、語りうる自分」を見出そうと試みているのです。

    もうひとつの質問は、この点に関係して、8~9章のレジュメを担当された佐藤さんから聞かれたものでした。人々のナラティヴを揺さぶることが研究方法の重要なポイントになるのだとすると、実際にナラティヴを聞き取るインタビューの場面で、ラングドリッジさんの実践する「批判的ナラティヴ分析」の方法では質問を工夫するのだろうか。とくに、相手のナラティヴをゆさぶるような質問をどの程度踏み込んでするのか、という質問でした。
     
    こちらは、訳書のなかでは十分に触れられていません。トランスクリプトを読み込む場面で「ナラティヴをゆり動かす」ことは書かれてあるのですが、インタビューのやり方ではそのことには触れられていません。

    考えたのですが、インタビュー中、相手に質問するタイミングでそれに近いことをやろうとすると、相手の語りたくないことや、相手が無自覚なことに気づかせるような面が出てくるので、場合によっては倫理面で好ましくない影響が出かねません。もちろん、相手の語りの潜在的な可能性を解放する、という良い影響をもたらすかもしれないのですが、ここは両義的です。ラングドリッジさんが次に来日するときに、本人に直接確認してみたいと思っています。
     
    ちなみに、8月21~25日に立教大学で開催される国際理論心理学会(ISTP 2017)に合わせて彼の来日が予定されています。基調講演も依頼していますから、理論心理学、質的研究、ナラティヴ・アプローチなどに関心のある方は、ぜひ足を運んでください。
     

     

    2017年6月12日月曜日

    連絡は 忘れたころに やって来る

    ずいぶん前にこんな記事を書きました。日付を見るとほぼ5か月前ですね。

    「英文5000ワード」
    http://embodiedapproachj.blogspot.de/2017/01/5000.html

    原稿を送ってから3か月くらい「自分の原稿どうなってるんだろう…」と心の片隅でときどき思い出していましたが、その後はこの仕事のこと自体を忘れていました。そうしたら編者の先生から突然連絡が。

    あらら、当初予定していたBrillからの出版は契約が難航してダメになったんだとか。代わりにRoutledgeと話を進めるそうです。出版が先延ばしになるのは残念ですが、添付で送られてきた企画書を見たら、個人的にはRoutledgeの企画のほうが好感を持てました。というのも、理論心理学もののシリーズの一冊として出版できる見通しらしいのです。

    さっそくネットで確認してみました。たしかにこんなシリーズがありますね。
    Advances in Theoretical and Philosophical Psychology

    え~、でも大丈夫なのかなぁ、シリーズだけど1冊しか出てないよ…。 

    共著者としてはとにかく出版まで無事にたどりついてくれることを祈るばかりです。せっかく書いた原稿が没になることほどつらいこともないので。


     

    2017年6月7日水曜日

    地味にうれしい仕事…

    …をもらった。

    イギリスに本社がある某出版社の編集者から突然連絡があって、これから出版される予定の原稿のレビューを頼まれた。著者名や書籍のタイトルはもちろんここには書けない。著者のことは個人的に知っているし、論文も読んだことはあるが、著作を一冊通して読んだことはない。

    ちなみに、依頼されたレビューはいわゆる日本の「書評」ではない。論文の「査読」に近いタイプのレビューである。日本では学術書を出版するのに、事前に原稿を専門家に送って評価を聞く習慣がないが、洋書にはある。出版前に、専門分野が近い複数の専門家から意見をもらって、著者がリライトの参考にするのである。

    で、メールをもらって驚いたのだが、期間がかなり短い。3~4週間で読んでレビューを書いて欲しいとのことだった。初めてのことだったので嬉しくてさっそく承諾のメールを書いたのだが、日本で普通に勤めているタイミングでこの話をもらっていたら、まず断っていただろう。

    だいたい、日本の大学に勤めていると忙しすぎて洋書一冊を短期間で読み通すだけのまとまった研究時間が取れない。セメスター中は週4日必ず本務校で授業があり、プラス1日は非常勤で他の大学で授業がある(人によっては、だが)。その5日は講義の準備と学務で終わるので、残り2日しか研究に割けない。
     
    1日で英語の論文を1本きちんと読めるとしても、2日で2本。単著で10章ぐらいあるものだと、1日1章読んでも合計10日はかかる計算である。つまり、単純に見積もってもセメスター中に週末を5回つぶさないと洋書1冊をきちんと読む時間が取れないのである。休み期間に集中的に1冊読んでレビューを書いても、きっと1週間はかかるだろう。とてもじゃないが、日本にいるタイミングでその時間があるなら、他人の本のレビューじゃなくて自分の論文や著作を書く時間に費やすに決まっている。

    しかし、である。国外の研究者は3~4週間で自分に近い分野の研究者が書いた原稿を読んでレビューを書くことができるような環境にいるのだろうか(セメスター中であれ休み期間中であれ)。もし彼らがそういう環境にいるなら、日本の大学に所属する研究者はどう足掻いても研究の世界では勝てっこない。


     

    2017年6月3日土曜日

    論文読み読み

    昨日から大量の論文を読んでいます。自分の研究に直接関係ないものも多いのですが、某ジャーナルで特集号を組むことになっていて、その編集を引き受けているためです。
     
    で、いろんな人の書いた文章を読んでいると中には「ん?」と思うものも出てきます。引用符のなかに著者自身の書いた文章を何度も引用している論文を見つけたのです。
     
    " ............ " (Name, 20XX, p. ##)
     
    読んだ時の違和感がうまく言葉にできなかったのですが、あえていうと「珍妙」な感じと言えばいいんでしょうか。説明するとこういうことになるんだと思います。

    論文で引用符をつけたり、段落として引用する場合、基本的には他者の文章を引用します。そもそも引用は、(A)他者の書いた文章について出典を明記して剽窃を避ける、という意味を持つ行為なので、それが他者の文章になるのは当然ですよね。これに加えて、批判するのであれ、論述にとっての傍証にするのであれ、引用することで、(B)過去の研究者のオリジナルな知見に一定の敬意を払う、という慣例的な意味もあると思います。
     
    ここで、他者の文章を自己の文章に置き換えて、自分の書いた文章をそのままカギ括弧をつけて引用すると、(A')自己剽窃していないことを明示する、というポジティヴ(?)な機能を持つ一方で、(B')自分の過去の研究に対して自分で敬意を払っている、という意味にも受け取れます。私が「珍妙」な印象を受けたのはこの二つが入り混じった印象を受けたからのように思います。もうちょっと言うと、「正確さを期した自画自賛」とでも言えばいいんでしょうか。
     
    もちろん、自分の書いた文章を自分で引用する例というのも、見かけることはあります。たとえば、ある分野で他の研究者が多く引用している著名な論文で、それが論争になっているような場合なら、自己引用をしてもういちど自分の主張を正確に伝えるという意味はあります。あるいは、自分の過去の主張を訂正するさい、 何を訂正するのか正確にするためにその箇所を引用するような場合。あとは、自分の代表的な業績をピンポイントで紹介する場合でしょうか(でもこれができるのは自分の業績に相当自信がある場合でしょう)。
     
    今回はどれにも当てはまらないので、なんとも珍妙な読後感でした。直接お会いする機会があればどういうつもりで書いたのか著者に確かめてみようと思っています。その前にエディターとして対応せねばなりませんが。
     

     

    2017年5月29日月曜日

    生きられた〈私〉をもとめて-余談

    拙著がそろそろ発売になるので、それに関する余談を。
     
    先日某所で「今後の学術書は300部が基準」という話題が盛り上がっていました。盛り上がっていたというより、ベースラインで300部しか売れないという悲観的な観測への反響が大きかったというほうが正確でしょうか。この数字の根拠ですが、図書館の需要が約200、その分野の学会関係者の需要が100程度と見積もると、おおよそ300部ということのようです。
     
    300部しか売れない可能性を最初から念頭に置いて内容と価格設定を考えざるを得ない、ということだとかなり深刻な話です。これは出版業界だけでなく、学術書を書く研究者にとってもそうです。というのは、300部基準で考えざるを得ないのなら、日本語で書くこと自体をやめていくことになるのではないかと思うのですよね。
     
    先日イスラエルに出張したさい、イスラエルの研究者は文系でもヘブライ語で著作を書くことはまずないと聞きました。そもそも国内に大学が7つしかなくて、関連分野の研究者が全員読んだとしてもそれこそ300部に届かない世界らしいです。現象学をやっている友人に聞かれました――「母国語で書けるならそのほうがいいけど、100人ぐらいしか読者がいないものを書く気にならないでしょ?」。うーん、書く気になるかもしれませんが、ウェブ上で雑文として書けば話が済みそうですね。
     
    日本でも学術書の市場がどんどん小さくなっていくと、長期的には同じような状況になってしまうかもしれません。とはいえ、日本語を使用する人口は相対的に見て多いですから、一般向けの書籍がそれなりに売れる状況が残っているあいだは、学術書を一般向けの書籍に近づけて出版を継続するという形態がメインになるんでしょうね。
     
    しかし、これはこれで、学術をわかりやすくして限りなく一般書に近づけていく方向に見えます。今ふりかえると、この流れはずいぶん前から始まっていた気がします。新書の出版点数がおびただしく増えた時期があったと思いますが(2000年前後でしょうか)、書店にいくたびに「知のデフレ」のような事態が起きている印象を受けて嫌な気分になった記憶があります。
     
    逆に、中身のしっかりした学術書はたいてい出版助成を受けていて、最初からかなり限定された読者宛に書かれているものが増えました。こちらは、クオリティが高いのはよいのですが、学問や研究の面白さを、専門外の世界にいる人に伝えるものにはならない場合が多い気がします。学術論文を読むのと印象があまり変わらないといいますか。
     
    自分が著作を出すタイミングでなんだか暗い話を書いていますが、それなりに思うところがあってのことです。というのも、今回の著作はある水準の読者を想定してわかりやすく書くことにこだわっていますが、その一方で、話を単純化して知を安売りするような妥協は避けています。また、出版助成のバックアップをもらって実売部数を気にせず書いたものでもないですし、逆に、低価格が理由で売れるような本でもありません。論文でも新書でもできなさそうなことを模索してみました。
     
    とくに今回は、「心の科学のための哲学入門」というシリーズの一冊として何ができるのか、そのつど手探りしながら書きました。心の科学の側から入りたい人にとっても、哲学の側から入りたい人にとっても、ある学術領域への入口になると同時に、その向こうへ知的探求を広げられるように配慮したつもりです。
     
    もっというと、この本を取り巻く環境を想定して、そこで書けそうなことを最大限やってみた、ということになるでしょうか。この考え方じたい、実は本文で展開している自己論そのものです。与えられた環境のなかで持てるスキルを発揮して他者と相互作用をすること、その過程でそのつど成立しているのが自己である、というのが本書の基本的な発想ですので。
     
    というわけで、今回は、読者に向けて書くというパフォーマンスにおいても、本文で主張していることをほぼそのまま実践しています。どういった読者にどのくらいの規模で本書が届くかによって、学術書という「身体」のうしろに広がる環境がどんな場所なのか見えてくるだろうと期待しています。日本語の学術書を取り巻く現状を測量する、というとちょっと大げさですが。
     
    …著者目線で駄文を書き連ねてしまいましたが、ともあれ、本書は自己アイデンティティに関するものです。後書きでもここでも何度か書いている通り、「自己」という問いについて深く考えてみたい「青い読者」に広く届きますように。どんな知的背景をお持ちの方にも読んでいただけます。
     

     

    2017年5月27日土曜日

    アーカイブの資料追加(Haggard, 2017)

    研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。

    Haggard (2017). Sense of agency in the human brain. Nature Reviews Neuroscience. doi:10.1038/nrn.2017.14.

    エージェンシー(主体感)研究の世界ではよく知られている研究者P・ハガードによるレビュー論文です。3月にオンラインで先行出版されたばかりです。

    時間知覚におけるインテンショナル・バインディング、感覚の減衰(sensory attenuation)、行為の自他帰属など、主体感に関係する過去の実験をそのつど参照しながら、重要な論点を比較的網羅的に扱っている印象でした。比較器モデルだけでは主体感は説明できないという点をきちっと述べているあたりはさすがです。

    エージェンシーについては、現象学的な議論と絡めてつっこんで考えてみたいと思っています。現状の実験でうまく扱えていないものの、実験で扱うべき重要な論点が隠れている気がするのです。このブログに掲載している以下の資料は、逆に現象学の側でエージェンシーをどう見ているかが分かるものになっています。
     
    S・ギャラガー,D・ザハヴィ (2008/2011). 「行為と行為者性」石原孝二・宮原克典・池田喬・朴嵩哲訳『現象学的な心』(第8章)勁草書房

    ちなみに、統合失調症の「させられ体験」については、実験系の研究者が取りがちな見方とは異なる見解を拙著『生きられた<私>をもとめて』の第2章でも少し述べておきました。興味のある方はご覧いただけると幸いです。

    では、また。