2020年11月17日火曜日

入来ラボを訪ねました

9月に認知科学会で「プロジェクション・サイエンス」のシンポジウムがあり、そのときに神経科学者の入来篤史先生とパネリストとしてご一緒させていただきました。そのことがご縁で、シンポジウムを企画してくださった鈴木宏昭先生(青山学院大学)と一緒に神戸の理化学研究所にある入来先生のラボを訪問しました。

ニホンザルの実験環境を拝見した後でいろいろと議論させていただいたのですが、自己をめぐる本質的な論点が次から次へと出てきて大変刺激的でした。道具を使うと、身体図式が拡張するだけでなく身体イメージが一時的に崩れることで、道具を使う存在はかえって自己の身体を意識化・対象化する契機を持つこと;サルは座ることを始めたことで背骨が直立し、手が自由になって潜在的には道具を使えるようになっていること(実際タイのカニクイザルには道具を使うものがいるらしい);ヒトは直立歩行することで「上下」という座標軸と水平線、またそれに連動する「左右」という座標軸をかなり自覚的に分岐できるようになったであろうこと;二足歩行するとき周辺視野に両足が入っており、見えないとうまく歩けないが、それはある意味で空間内の「ここ」という位置を「ここ以外」という場所と潜在的に区別する意味を持つこと;自己身体を対象化し、自己の位置する「ここ」を自覚できることが、ヒトの自己意識をたんに前反省的な自己感から反省的な自己意識にしたということ;おそらくこれらすべての条件は、ホモ・サピエンスが地球上の広大な領域(「ここ」以外のどこか)を移動しつくしたことの前提条件になっていること…

どうでしょう? 自己意識の発達と進化をめぐって、ものすごく根源的で哲学的な論点をおさえていますよね? お二人ともサイエンスの根底にある哲学的な問いに取り組もうとされていることが伝わってきて、議論に熱中しているうちにあっという間に二日間の出張が過ぎ去ってしまいました。

 

2020年11月16日月曜日

研究会案内 (12/19 Zoom開催)

久しぶりにエンボディードアプローチ研究会を開催することになりました。コロナ禍で開催が滞っておりましたが、12月19日にZoomでの開催を予定しています。

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 <心の科学の基礎論研究会(第87回)&エンボディードプローチ研究会(第9回)・合同研究会>

日時:2020年12月12日(土),午後1:30〜5:30
Zoom開催
 
下記のフォームから参加をご登録ください。12月11日17時までにご登録いただければ、Zoomの会場をメールでご案内します。
 
【プログラム】
13:30〜13:40
「こころの科学とエピステモロジー奨励賞」授賞式
13:40〜15:30
講演1(受賞記念講演)「私小説の疑似客観性をめぐる転回に関するネオ・サイバネティクス的研究」
中村肇(東京大学大学院・博士課程)
【要旨】近代文学に於いて純粋な西欧の科学的客観信仰に基づいた形式論理と操作推論による情報処理パラダイム(ノイマン・パラダイム)を導入しようとした自然主義時代の文壇から田山花袋の『蒲団』や白樺派をはじめとする私小説が生まれたという逆説は,「見たものをありのままに描くことが出来る」という近代的な価値観に対する身体性(=生命情報)に基づく主観と客観の〈ねじれ〉をあらわしていた。では,こうした機械主義的かつサイバネティック・パラダイム的な主観と客観のねじれのなかで展開される我が国の現代文学は,凡そ百年前と現在との間でどのような異同がみられるのであろうか。本発表では上記の問題を,ネオ・サイバネティクスと総称される学際的研究分野の一領域である基礎情報学(FI:Fundamental Informatics)の観点から考察する。
15:40〜17:30
講演2「行為に基づく知覚の説明とその哲学的洞察」
國領佳樹(立教大学・兼任講師)
【要旨】知覚とは知識の主要な源泉の一つである。つまり、知覚は、世界に関する基礎的な信念を私たちにもたらし、それを正当化する役割を担っている。伝統的に、この基本的な考えに基づいて、「知覚と信念との関係とは何か」「知覚はどのように信念を正当化するのか」といった認識論的問題が、知覚の哲学を駆動させる主要な動機の一つとなっていた。
 しかし他方で、知覚は行為とも密接に結びつく。たとえば、私が横断歩道を渡るのは、信号が緑になったのを見たからであり、車が一時停止しているのを見たからである。つまり、知覚は信念を引き起こし、それを正当化するだけではなく、何らかの行為も引き起し、あるいは少なくとも、そうした何かを為す理由の一部を形成しうる。
 以上のように、知覚は認識論的な課題だけではなく、実践的な課題にも重要な仕方で結びつくのである。そして、後者の観点から、知覚とは何かを考える流れがある。ひろくこのような行為との関係を重視する見解を、「行為に基づく知覚の説明」(Action-Based Accounts of Perception)と呼ぶことにしよう。
 本発表の目的は、行為に基づく知覚の説明が、知覚の哲学にどのような洞察をもたらすのかを明らかにすることにある。まず知覚と行為に関する伝統的な見解を確認し、つぎに、行為に基づく知覚の説明のなかでも、その中心的な主張(行為が知覚と構成的関係にあるという主張)の内実を検討する。そのうえで、知覚の哲学における主要な議論(素朴実在論と表象説の対立など)のなかで、当該の主張の意義と問題点を明らかにしたい。
 
主催:
心の科学の基礎論研究会
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
エンボディードアプローチ研究会
http://embodiedapproachj.blogspot.com/p/blog-page.html

2020年11月14日土曜日

祝刊行:Time and Body

2018年からかかわっていた共著のプロジェクトがようやく出版までこぎつけました。以下の書籍です。

この本、2年前のハイデルベルクでのカンファレンスをきっかけに始まったプロジェクトでした。2018年の9月に、ハイデルベルクのフックス先生の還暦を祝う2日間の国際会議がありました(そのときのことは「旅の余韻」という記事に書きました)。ダン・ザハヴィ、マシュー・ラトクリフ、エゼキエル・ディ・パオロ、ハンネ・デ・イェーガー、ショーン・ギャラガー、ドロテ・ルグランなど、ヨーロッパの大物がみんな集まっていたので、きっと各講演をもとにした書籍が編集されるのだろうと思っていましたが、今回は、現象学的精神病理学の第一人者でフックスさんの盟友あるスタンゲリーニさんが一肌脱いで編集の労を取られたのでした。

私もお声がけいただき、大変光栄でした。結果的に、初めてCambridge University Pressから刊行される書籍に原稿を掲載することができました。2年前の講演では私は対人恐怖症について話したのですが、その後のやりとりで対人恐怖症のような日本ローカルな内容でまとめるより「社交不安」のようにより一般的なテーマでまとめるほうがいいのではないかという示唆をいただき、社交不安障害の現象学について初めて本格的な論考をまとめました。「赤面」の経験のように、自己の身体が他者に知覚される場面に、社会的な不安が現れる根源を読み取ろうとしたものです。

Chapter 8 (pp. 150-169)
Tanaka, S. (2020). Body-as-object in social situations: Toward a phenomenology of social anxiety.

以下にアブストラクトを掲載しておきます。ご関心のある方はどうぞお問い合わせください。
The aim of this chapter is to explicate the relationship among social anxiety, bodily experiences, and interpersonal contact with others. In so doing, I will first revisit the phenomenology of bodily experiences and confirm the difference between the body-as-subject and the body-as-object. Next, I will describe the experiences of one’s body-as-object for others, distinguishing them from those of one’s body-as-object for oneself. Among phenomenologists, it was Sartre (1943/1956) who emphasized the former aspect of bodily experiences as the “third ontological dimension of the body.” On the basis of this notion, I will try to develop a phenomenology of social anxiety as well as its disorder. In its most basic form, social anxiety can be described as a feeling of uncertainty of the other’s mind that becomes salient in social situations.
 

2020年11月8日日曜日

久々にジェームズ

 …の自己論を読み直しました。10年ぶりぐらいでしょうか。やっぱり面白いですね。ジェームズは哲学も心理学もわかっていた稀有な人だなと改めて思いました。自己を「主我(I)」と「客我(Me)」にわけて論じているのですが、客我のほうは経験的な自己をめぐる心理学的考察になっていて、主我のほうは超越論的自我に連なるような(実際にはそれを批判していますが)哲学的考察になっています。フッサールなら前者は現象学的心理学、後者は超越論的現象学というかたちで厳密に区別されてしまいそうですが、それを区別しながらも同じ章で論じられてしまうところにジェームズのジェームズらしさがよく現れているように感じました。

ああ、思い出した。2013年に日本心理学会で「自己へのエンボディード・アプローチ」というシンポジウムを企画したときに予習としてジェームズの自己論を読んだのでした。10年も経っていませんでしたね。歳をとったせいか、過去の出来事がいつ起こったのか、認知があいまいになっているようです。

というわけで以下レジュメへのリンクです。

W・ジェームズ (1892/1992).「自我」今田寛訳『心理学(上)』(第12章)岩波書店

 

2020年10月21日水曜日

質的心理学会シンポジウム (10/25)

 直前で恐縮ですが、学会シンポジウムのご案内です。

日本質的心理学会・第17回全国大会

10/25 11:15-13:15 会員企画シンポジウム

「現象学的人間科学への招待-IHSRC 2022に向けて」

今年は大半の学会がオンライン開催に切り替わっていますが、質的心理学会も今回はZoomでの開催になります。今週の23日22時まで参加申し込みはできるようですので、ご関心のある方は下記のページにアクセスしてみてください。

質的心理学会第17回大会・参加登録

今回は、現象学的な方法を使って人間科学の各分野に取り組んでおられる先生方にお話しいただきます。植田嘉好子先生(社会福祉学)、村井尚子先生(教育学)、渡辺恒夫先生(心理学)です。また、指定討論には看護学分野でケアの現象学に取り組んでおられる西村ユミ先生にご登壇いただきます。

今回のシンポジウムは、2022年に開催予定のIHSRC(人間科学研究国際会議)の東京大会に向けての広報活動の一環を兼ねております。この分野に関心をお持ちの皆様のご参加をお待ちしております。

 

 

『他者のような自己自身』5章

 読書会の続きです。リクール『他者のような自己自身』その後もフッサーリアンの村田憲郎氏と読み続けています。今回は5章を読みました。要約を公開しておきます。

ポール・リクール『他者のような自己自身』 第5研究「人格的自己同一性と物語的自己同一性」

もともとこの読書会は私自身の研究プロジェクトで「ナラティヴ・セルフ」を主題としているために始まったものですが、本書の内容がようやくその主題に近づいてきました。とはいえ、ぐるぐると螺旋を描くように迂遠しながら進むリクールのこと。第5研究も「人格的自己同一性と物語的自己同一性」と題していながら、実際には人格的自己同一性の議論で話は終わります。

ただ、この章で「人格的自己同一性」の二つのモデルとして「性格」と「約束」について学べたのは個人的には大きな収穫でした。「性格」と自己同一性の関係をどう考えればいいのか以前から気になっていたのですが、リクールの説明は明快です。自己同一性には「自己性」の次元(selfhood)と同一性の次元(identity)があり、前者は「誰が」、後者は「何が」という主題に対応します。

性格は、ひとの身体に備わる習慣的な傾向性を基盤としています。つまり、習慣や好みのように「何が」の同一性が、あるひとの自己性(「誰が」)を包括するようなしかたで現象するときに性格になる、ということです。いわば、身体に備わる傾向性が、匿名的なしかたであるひとの振る舞い方を制御するようになると「性格」と呼ばれるものになる、というわけです。

続きを読むのが少し楽しみになってきました。

 

 

2020年9月30日水曜日

『他者のような自己自身』2章

8月に再開したポール・リクール『他者のような自己自身』の読書会、その後も2〜3週に1回のペースで開催しています。当初、序言>第3研究>第4研究と読み進めたのですが、再開以降、第1、第2に改めて取り組みました。今回は同僚の村田憲郎氏力作の第2研究のレジュメをアップしてあります。

 ポール・リクール『他者のような自己自身』 第2研究「言表行為と語る主体」

本書全体が分析哲学と現象学・解釈学の対話という論調を備えた著作なので、分析哲学の素養のない私には読むのに骨が折れる箇所も多々あるのですが、本書が書かれた1990年ごろの言説状況を考えると、当時のフランスのポストモダン系の議論ではなく分析哲学との対話を押し進めることで、リクールは「主体」や「自己」をめぐる議論を解体するのではなく再構築する方向で議論ができたのだろう、というのが所々でわかります。フーコーやドゥルーズが進んだのとは別の方向ですね。

ところで、昨日の読書会でたまたま年齢の話になりました(村田氏と私は同年です)。ともに40代が終わりに近づいているのですが、フッサールのように晩成型の代表のような哲学者でも前半の代表作である『論理学研究』は40過ぎですでにものにしているんですよね。40代の終わりに近づいても遅々として仕事がものにならない自分たちの境遇を省みて、二人して自己嫌悪に陥ったのでした…

 

 

2020年9月18日金曜日

認知科学会・論文賞をいただきました

 本日、日本認知科学会第37回大会にて、論文賞をいただきました。2019年度に学会誌『認知科学』に掲載された論文のなかで最優秀の論文に授かるとても名誉ある賞で、たいへん嬉しく思っております。受賞論文は、

田中彰吾 (2019)「プロジェクション科学における身体の役割-身体錯覚を再考する」『認知科学』26巻1号,pp. 140-151

です。上記リンクからアクセスできますので、ご覧いただければ幸いです。ラバーハンド錯覚とフルボディ錯覚を題材に、「自己感が身体の外部に離脱しうるか?」という問いについて哲学的に考察する内容になっております。

もともとこの論文は、当初そのアイデアを、2017年12月に開催された認知科学会の冬のシンポジウムで報告したものです。最初は萌芽的なアイデアにとどまっていましたが、当日のシンポジウムでの充実した議論、さらに、投稿後の査読者とのやり取りを経て、中身の充実した論文として仕上がっていった経緯があります。関係されたすべての先生方に、この場を借りて深くお礼申し上げます。

ありがとうございました!

 

2020年9月1日火曜日

リクール『他者のような自己自身』

今年の2月から中断していましたが、リクール『他者のような自己自身』の読書会を再開しました。序言→第3研究→第4研究と読んで中断していたので、途中とばしていた第1研究に戻って再開します。なお、先ほど第1研究のレジュメを追加しておきました。

第1研究:「人物」と同定的指示――意味論的アプローチ

当面のあいだ、隔週の火曜午後にzoomを使って開催を続けます(今日この後開催されるのに合わせてレジュメをアップしておきました)。ご関心のある方はお問い合わせください。



2020年8月29日土曜日

人間知×脳×AI研究教育センター

今週は北海道大学のCHAIN(人間知×脳×AI研究教育センター)でサマースクールがありました。月〜金まで大阪大学の朝倉暢彦先生と二人で講師を務め、心地よい疲労感の中でこの記事を書いています。

前半2日が田中のレクチャー中心、後半2日が朝倉先生のレクチャー中心、最後1日は学生の発表という構成でした。前半は哲学的な観点からの話題提供(社会的認知の話でした)、後半はデータ科学的な観点からの話題提供(社会的認知や視覚イメージのベイズ推定)。学生は両者の講義を受けて、実験を含め研究プロジェクトにつながるようなアイデアを発表せねばならないので、おのずと学際研究のトレーニングになっていました。

学際研究を売りや目的にしている場所は国内外にたくさんありますが、関係者がそれぞれの専門に棲み分けていて内実がともなっていないケースが実際には多いように思います。CHAINはそういう意味では、センター長の田口茂先生や、スタッフの吉田正俊・島崎秀昭・宮原克典の各先生が皆さんオープンで異分野から学ぼうとする姿勢に満ちていて、「意識」「自己」「社会性」「合理性」という大きな問いをめぐって高次元の知の融合が期待できる場所になっています。最終日の学生たちの発表を聞いていると、短時間でとてもよくまとまった研究アイデアを披露していたので、その印象を強くしました。こういう場所から次世代を担う優秀な研究者が巣立ってくれるといいなと思います。

それはそうと、今回は5日間の集中講義もやはりリモートでの実施なのでした。札幌に行くことを楽しみに引き受けた仕事でもあったので、とても残念でした…
 


2020年8月20日木曜日

プロジェクション・サイエンス

アマゾンに発売の案内が出たそうです。


新しい認知科学の可能性に関心がある方にとっては、面白い内容を多々含むものになっていると思います。サブタイトル「心と身体を世界につなぐ第三世代の認知科学」がそれを物語っていると思います。

ちなみにアマゾンの表示で編者の鈴木宏昭先生の名前が「宏招」と間違って表示されていますが、なぜなんでしょうか。

田中も分担して1章寄稿しました。
田中彰吾「ポスト身体性認知としてのプロジェクション概念」(2章)

他の章の多くは学会誌『認知科学』でプロジェクション・サイエンスの特集が組まれたときの原稿を増補したものですが、田中は書き下ろしで新たな原稿を寄稿しました。「プロジェクション」という概念に託して、身体性認知科学の未来について考えています。あえて「ポスト身体性認知科学」という言葉を使ってみました。

短期間で一気に書いたものなので雑な箇所も残っているかもしれませんが、従来の身体性認知科学が陥っている現状を超える手がかりについて、ストレートに考察する論考になっています。この原稿を出発点にして、今後もっと「ポスト身体性認知」に連なる研究を進められればと思います。

身体性の問題だけでなく、「プロジェクション・サイエンス」は意味や価値という従来の認知科学がうまく扱ってくることができなかった重要な問題を多々扱っています。今後の展開に期待が持てる分野になりそうですよ。
 


2020年8月1日土曜日

書評を寄稿しました

今週の図書新聞に書評を寄稿しています。

図書新聞
第3459号(2020年8月8日)

聞くところによると、前号に掲載されたとある社会学系の書籍の書評がSNSで炎上しているんだそうで(相当に酷評されていることに著者が反撃しているらしい)、それについての編集部の見解が新たにこの号に掲載されています。

そういう話題性に富む(?)書評に比べれば私のものはマイルドで普通の書評です。以下の書を取り上げました。

佐藤義之著『「心の哲学」批判序説』講談社(選書メチエ、2020年4月刊)
書評:「物質から意識を見るか、生命から意識を見るか--進化論を取り入れることで、物理主義に依拠する従来の心の哲学に対して根源的な批判を試みる」

有料ものなのでコンテンツはここで公開できないですが、ご関心のあるかたは上のリンクから読んでみてください。

同書は、心の哲学で主流になっている、いわゆる物理主義から意識を理解する立場(物理世界が因果的に閉じているという見方に立って、神経過程に還元して意識を理解する立場)に対する根源的な批判を試みています。きちんと読めば、物理主義の立場で意識を理解しようとするのがそもそも無謀な試みであることに納得がいくぐらい、よく整理された批判を重ねています。第二部では現象学的な意識の理解が試みられていますが、それよりも第一部の「心の哲学」批判の部分が良いですね。

個人的には、大学院生の頃に意識科学の議論に関心を持って調べ始めた頃から「ハードプロブレム」は疑似問題だよなぁ、という感じを持ち続けて今に至ります。なので心の哲学のように物理主義から意識を理解する試みそのものに乗れず、現象学から身体の問題を考えてきました。ポイントは、ハードプロブレムはやはり心身問題の焼き直しなので設定そのものを退ける必要があって、心身問題を「身身問題(body-body problem)」として再整理するところに現象学の役割がある、ということです。

このあたりの事情は、これも講談社選書メチエからいずれ出版される共著『心の哲学史(仮題)』の担当章に整理して書いておきました。共著といっても各章6〜7万字詰め込まれてますから、私の章も薄い書籍分ぐらいの分量はあります。お楽しみに。


 


2020年7月31日金曜日

後味の悪い話

後味の悪い話を耳にした。どこかで表出しないとこの後味の悪さを消化できそうにないので書いておく。

昨年末、同じセンターに所属する同僚が海外で立派な賞を受けたのだが、その報を聞いた学内のとある人物が「へぇ、○○センターの先生って暇なんだね〜」との感想を漏らしたのだとか。この人物、学内では誰もが知る大物である。そういう人物が「受賞するほど研究できるのは暇だから」という風にしか見ていないらしい。

別に噂話をあげつらって悪口を書きたいわけではない。ではなくて、大学の中枢で実務を担う中核的な人物が学術研究を「暇つぶし」程度にしか見ていない、という今の日本の大学に広がりつつある現実をここに記しておきたかったのである。

私の所属先だけではなく、今どきの大学にはこういう雰囲気は深く浸透しつつある。大学を「改革」する実務的な仕事をこなす「会社人」的な能力が強く求められる。大学教員は「教員」なのであとは教育だけをちゃんとやってくれればいい、研究は工学系のように産業に直結して「金になる」ものが中心、産業化や技術革新につながらない「虚学」はいらない。そういう雰囲気。

まぁ、こういう雰囲気が強くなると大学に限らず組織は必ずダメになる。「役に立つ」ということだけが優先されているからだ。就職の役に立つ教育、産業の役に立つ研究、社会の役に立つ大学、改革の役に立つ教員。あらゆる面で「目的」は先に決められていて、それを実現する手段に成り下がっている。そして、そもそもの「目的」を生み出すことは誰も考えない。

研究は、何をすべきか定まらないところから始まる。何のために行動するのか、という価値を創造するところに学術研究の根幹があるのであって、その行動を取り巻く環境や社会や歴史的文脈を読み解こうとするときに学術的な知性が必要になるのである。こう書くと「虚学」を擁護しすぎのように見えるかもしれないが、どんな分野の研究でもそれが研究として始まる場面では必ず虚学の要素を含み、そこに知的創造の最初の場面がある。

こういう活動が「暇」の産物に見えるのは、どっちに向かって走るべきかという「解」が決まっていると思い込めるだけの単純な知性しか持ち合わせていないからに違いない。
 
 

2020年7月18日土曜日

心理学ワールドに寄稿しました

表題のまんまです。先日発行された日本心理学会の機関誌「心理学ワールド」に拙論を掲載していただきました。

田中彰吾「自己と他者を区別する」
心理学ワールド,90号,pp. 13-16

ちなみに、特集「人を区別する」の一部です。もうすぐ(といってもコロナのせいでいつになるか不明です)『自己と他者』という単著が出るのですが、その原稿を書き終えて間もない頃に心理学ワールドから寄稿のお声がけをいただいたので、なんともタイムリーなお仕事でした。そのわりに単著で書いたこととほとんど重複していないのですが… 

ミラーニューロンの話から入って、させられ体験、Who-system、エージェンシーといった話題を扱っています。自己と他者は脳内では共通のしかたで表象されているかもしれないのに、自他を混同する経験が現実にはほとんど起こらないのはなぜでしょうね、という問いをめぐる論考です。

ちなみに、特集は他にも平井真洋先生や山口真美先生が寄稿されていてかなり面白いです。是非ご一読のほどを。以下のリンクからたどれます。

心理学ワールド 第90号
 

 

2020年7月8日水曜日

青くさい話

各国の情勢が激しく動いていますね。米国ではBLMとANTIFAが結びついてほとんど文化大革命のような様相を一部で呈していますし、香港では民主主義が死を迎えつつあるように見えますし、中国とインドの国境では紛争が起きていますし、尖閣や台湾周辺も緊迫しているようです。コロナ後の世界はほとんど一触即発のような綱渡り状態ですね。

こういう情勢なので政治と学問の関係をときどき考えるのですが、学術研究は政治的な自由がなければそもそも可能にならない部分が大きい一方で、逆に学術研究の成果が人々の自由に資するものでなければならないと強く思います。学術には知を生み出す役割があるわけですが、たんに政策的な目的にかなうだけの知は道具としての知であって、生きることそれ自体に役立つ価値創造的なものにはなりません。

デカルトは三十年戦争にみずから赴いてその中で考え抜いていますね。私はデカルト主義者ではありませんが、激変する政治情勢のなかに自分の身を置き、かつ自分だけに忠実に、自由にものを考え抜こうとした姿勢は立派です。デカルトが発見したコギトという自己は、近代社会が後に基盤に据えることになる自由な個人のプロトタイプだったのだと思います。現代ではむしろ、ポスト・デカルト的な「身体化された自己」を今後の社会を支える主体として政治的に位置付ける作業が必要なのだと思いますが。

大学という制度の中に巻き込まれて研究活動をしているので、私の考えることも自分の置かれた状況からそう自由なものになれないことは百も承知です。…が、歴史の変わり目に立ち会っているという感触が深くあるからこそ、ひとが生きることそれ自体に資するような研究をしたいと強く思います。

青くさい話に聞こえるかもしれません。でも、以前単著を出したときに書いた通り、自分の書くものに関してはいつまでも青くさくありたいと思っています。読後感として青草のにおいが読者の体に残るような著作を書きたいものです。