2021年3月13日土曜日

書影が出ました:Body Schema and Body Image

ようやくアマゾンのページに書影が出ました!

Yochai Ataria, Shogo Tanaka, & Shaun Gallagher (Eds.). Body Schema and Body Image: New Directions. Oxford University Press.

盟友のヨハイ・アタリア、ショーン・ギャラガーとともに「身体図式と身体イメージ」と題する書籍を編集しました。当初からの念願かなってオックスフォードから出版します。単著を書くまでには及びませんが、共編著を学術書の最高峰から出版できるのはとっても嬉しいです。

長い道のりでした。「Body Schema & Body Image」と題する国際シンポジウムを東大の駒場で開いたのが2018年3月末。そこから出版企画書を書いて、執筆人から原稿を募って、出版社とやりとりして、原稿の査読と編集を重ねて、自分自身も原稿を書いて、さらに編者三人でイントロダクションを書いて、ゲラの校正をやって…と遠大な作業の連続がようやく終わりにさしかかっています。

でも、丸3年でここまでできたのだから、同種の書籍としては早かったかもしれません。そもそも企画書が通らないとか、原稿が集まらないとか、集まった原稿が使えないとか、いろいろな理由でこの手の書籍は途中でお蔵入りになってしまうことのほうが多いですし。まさに関係各位の協力の賜物です。

目次や内容のことなど、また追ってご紹介できればと思います。ひとまずご報告まで。


2021年3月1日月曜日

「第三種接近遭遇」シンポジウム動画

あっという間に三月ですね。

1週間前のイベントでしたが、YouTube上でシンポジウムの動画が公開されているのでご紹介します。

アカデミックとVRユーザをつなぐ学術イベント「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」第三部 (2021年2月21日)

3時間を超える長いシンポですが、後半のディスカッション部分はアバターの未来を考える面白い内容になっているんじゃないかと思います。ちなみに私が登壇した前週に行われた第二部も公開されています。

アカデミックとVRユーザをつなぐ学術イベント「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」第二部 (2021年2月13日)

こちらは「顔・身体学」の山口先生も登壇されていて文化との関連への言及もありました。

VRに関心のある皆さま、ぜひお楽しみください。



2021年2月9日火曜日

イベント紹介

2月は例年入試の業務がありますが、その合間にいろいろとイベントに顔を出します。

 

その1。

こちらはすでに終了しましたが、4日にオフィスデザインを手がける会社「フロンティア・コンサルティング」の社員さん向けトークセッションにお邪魔してきました。テーマは「コミュニケーション再考」ということだったので、パンデミックで仕事のスタイルが変わるなかでオンラインとオフラインのコミュニケーションをどう考えるか、身体性の観点からいろいろと話題提供しました。詳細は近いうちに広報誌の「Worker's Resort」の記事になると思いますので、またご紹介します。

 

その2。

Close Encounters of the Third Kind (第三種接近遭遇)

なんだかタイトルが怪しげな魅力を放っていますが、アカデミックと現場をつなぐ学術イベント、とのことです。VTuberのよーへんさんが企画されています。VRユーザとVRに関心を持つ研究者でおしゃべりするイベントみたいです。

第一部〜第三部まであって、第一部はVRユーザによるアバター体験のプレゼン、第二部(2/13)、第三部(2/21)は研究者を交えたディスカッションという構成。田中は21日の第三部に出ます。鈴木宏昭先生(青学)、鳴海拓志先生(東大)、小鷹研理先生(名古屋市立)という面々とご一緒します。第一部には、科研費の新学術「顔・身体学」でお世話になっている中央大の山口真美先生も出られます。当日はYouTube上で生配信があるそうなので、お時間のある方はご覧ください。

●YouTube「Holographicチャンネル」で生配信

第一部 : [https://youtu.be/9MDKvzKGt90](https://youtu.be/9MDKvzKGt90)

第二部 : [https://youtu.be/Y6cY-IgRbNs](https://youtu.be/Y6cY-IgRbNs)

第三部 : [https://youtu.be/DZoknaDJzis](https://youtu.be/DZoknaDJzis)

 

その3。

WHAT'S NEXT: The Future of Embodiment

こちらはシンシナティ大学による哲学イベント。オンラインで、米国、アイルランド、エストニア、日本を結んで開催されるそうです。フライヤーをいただいたので下に貼っておきます。日本からはトム・フローゼさん(OIST)、河野哲也先生(立教大)、野中哲士先生(神戸大)が出られます。日本からの登壇者が並ぶ「PANEL 3」は、アメリカ時間だと午後4〜6時でいかにもシンポジウムにふさわしい時間ですが、日本では2月28日(日)の朝6時〜8時です。起きられるかな…。










2021年2月3日水曜日

河合塾「みらいぶっく」

河合塾、経産省、内閣府が連携して企画しいるウェブサイト「みらいぶっく」に田中の研究が取り上げられました。

からだが知っている! ~からだに宿る知性「身体知」の研究

最初に取材の問い合わせがあったのはいつだったか…なんかもう遠い記憶のかなたですが、ドイツで2回目の在外研究に行ったころだと思うので2016年ぐらいだろうと思います。その後紆余曲折があって企画が止まっていたようですが、ようやくページができたんだそうです。

高校生向けのページらしいのでこのブログの読者にはあんまり関係なさそうですが、いちおう広報ということでご紹介しておきます。研究者になりたいお子さんが周りにおられる方は、「みらいぶっく」のトップページを紹介してあげるといいかもしれません。

そういえば、高校生の頃の私は研究者になるなんてまったく考えてなかったなぁ。将来何になりたいのか考える前に、ひたすら暗く自分の実存的な悩みに打ちひしがれていたような記憶しかありませんね…。サルトルの『嘔吐』を最初に手に取ったのが高校2年の頃だったと思います。暗い高校生だな…思いだすのも恥ずかしい。


2021年1月24日日曜日

『他者のような自己自身』第6研究

リクール読書会も第6研究まで終わりました。長大な著作の半分は読み終えたことになります。村田憲郎氏による充実したレジュメをいただいたのでシェアしておきます。

リクール『他者のような自己自身』第6研究

ナラティヴ・セルフについて考えるうえでは、第5研究とこの第6研究が中核的な箇所になりそうです。重要な箇所を引用してみます。

「人生の物語的統一という概念については、やはりそこに作話の働きと生きた経験との不安定な混合を見るべきである。現実の生のまさににげやすい性格のゆえに、われわれはその生を事後に回顧しながら編成するために、フィクションの助けを必要とするのであり…」(209ページ)

なにげなく経験されている日々の出来事はそれ自体としては不安定だとリクールは見るわけですね。(瞬間ごとに生成する「生きられた私」を肯定する田中としては必ずしもそう思いませんが、それはともかく)私が経験するさまざまな出来事に安定した意味を見出すには、フィクションの助けを借りてそこに「筋立て」を見出していく必要がある。それができると人生が安定した物語の流れのうえに位置づけられ、「私はどこから来て、どこへ行くのか」という人生の展望を持つことができる、というわけです。

コロナ禍で歴史の転換点にあるように感じられる現在も、さまざまな「筋立て」を借りて人類が自分たちの物語的=歴史的な展望を描こうとしているように見えます。私たちは、どこへ行こうとしているのでしょうか。ソーシャルディスタンスもテレワークも遠隔授業も、人と人との「距離」をめぐる物語になっているように思います。生活のさまざまな面で、この距離が人と人との「分断」を肯定する物語として機能し始めているようにも見えるので、近頃かなり危惧を感じるようになりました。


2021年1月5日火曜日

明けましておめでとうございます

パンデミックに明け暮れた2020年がようやく終わりました。新型ウイルスの感染はまだ落ち着きませんが、ひとまず年が変わったことで鬱屈していた気持ちが少しは明るくなりました。

ところで、年始にたまたまこんな動画を見かけたのでその話題を。『サピエンス全史』で有名なユヴァル・ノア・ハラリの5年前のトークです。

New Religions of the 21st Century | Yuval Harari | Talks at Google

「21世紀の新しい宗教」と題されていますが、宗教というよりはテクノロジーの話でした。以下、話が面白くなってくる後半の要約です。

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近代に確立されたリベラリズムの価値観を打破するような宗教的価値観はあるだろうか。リベラリズムは政治や経済や倫理や教育など、社会のあらゆる面において、個人を価値の源泉とみなす考え方である。旧来型の宗教はリベラリズムに外側から修正を加えることはあっても内側から打破することはないだろう。

むしろ、個人を価値の源泉とみなすリベラリズムに対して、個人そのものを生化学的なアルゴリズムの集合に還元して理解するバイオテクノロジーの出現こそ、新しい宗教を準備するのではないか。産業革命の引き起こした変化に対抗して共産主義が新しい価値を打ち出したのと同じで、21世紀に新しい宗教があるなら、それはバイオテクノロジーの引き起こす革命に対応するものになるだろう。

バイオテクノロジーは個人の主観的な感情さえも生命科学的な法則性に還元し、個人の感じ方の正否を客観的に判定する。それはかつての宗教的権威が本人の行為の善悪を本人より良く判断できたのにも似ている。

たとえば、乳がんになるかどうかは今や遺伝子と確率の問題に還元されつつある。同様に、「何を読むべきか」「誰と結婚するか」といった個人的な判断は、本人の主観よりもデータベースと人工知能の判断に置き換えられつつある。つまり、「自分がどう感じるか」は自分自身の主観によるよりも、徐々に生命と情報のテクノロジーによって決定される方向に移行している。

ところで、生命はそもそも生化学的アルゴリズムの集合に還元できるのか。ハードプロブレムとして知られる問題は、生命の科学的法則がどのように主観的経験を生み出すのかを問うている。意識科学でハードプロブレムに答えが出されたわけではない。将来その答えに漸近するのかもしれないし、主観的経験は生化学的アルゴリズムに還元できないという結論に至るのかもしれない。

ただし一方で、宗教は、必ずしも真実を正しく伝える必要がないことも考慮するべきだろう。キリスト教の世界像は正しい世界像を伝えて来たわけではないが、正しい宗教として人々に信じられている時代があった。同様に、真実を正確に伝えるものになっていないとしても、生命と情報のテクノロジーが宗教のようなものになり、人々に信じられるることはあるのかもしれない。

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筋トレしながら聞いていたので必ずしも正確なまとめではないので悪しからず。ともあれ、ハラリは個人の主観にものごとの正否の判断をゆだねるリベラリズムの考え方に、生命と情報の科学・技術が挑戦することになる未来を予告しています。

しかし、生命と情報のテクノロジーが個人の主観に取って代わることにはならないでしょう。もちろん、個人の主観がだんだん外部のアルゴリズムに置き換えられる事態は進行するでしょうが、アルゴリズムの判断に沿って行為することで満足するかどうかというのは再び個人の主観の問題になるので、主観的判断と科学技術とのあいだでぐるぐると循環するループがどこまでも続きながら技術が進歩していくということにしかならないと思います。

むしろ恐ろしいのは、主観性と科学技術の循環するループが権力と結びつくときには簡単に全体主義的なディストピアが出現してしまいそうなことです。2021年の中国で起こっている個人情報の国家的管理はそういうディストピアに相当近づいているのではないでしょうか。


2020年12月25日金曜日

対人恐怖症という名前の起源

週末に科研費の「顔・身体学」の領域会議があるのでその準備中。対人恐怖について話すので、しばらくぶりに関連資料を読み直していて、けっこう重要なことを発見した。

それは、森田正馬の著作のこと。以前、対人恐怖について森田が残した文献を調べようと思って、2011年に白揚社から刊行されている森田正馬『対人恐怖の治し方』に収録されている論文を読んだ。この本の最初に収められている「対人恐怖症(または赤面恐怖)とその治し方」という論文は、森田が最初1932年に発表した対人恐怖症の重要な基礎文献になっている。

対人恐怖は、人前で恥ずかしくて赤面するという自然な反応を、「赤面するまい」と思ったり「恥ずかしがりやと思われたくない」と過剰に制御しようとすることでかえって人前で自然に反応できなくなり、悪循環にはまってしまう状態である。また、人前で普通に振る舞えない自分を「こんなことではいけない」と強迫的にこだわって苦悩してしまう状態である…といった森田の考えがるる述べられている。

こういう森田の考えは今は置く。ここに記録しておきたいのは、2011年版の論文を昔の『森田正馬全集』に収録されている同じ論文と比べてみたら細部がかなり書き換えられているということだ。目立つところを拾ってみると、

 

1) タイトル

全集「赤面恐怖症(又は對人恐怖)と其療法」

新版「対人恐怖症(または赤面恐怖)とその治し方」

 

2)「対人恐怖」概念の由来

全集「故に廣くいへば、自ら人前で恥かしがる事を苦悩する症状であって、羞恥恐怖といふべく、赤面恐怖を其一種である。又周囲に對する對人関係で、種々の苦悩を起すものが多いから、近頃或人は之に對人恐怖と名付けた事がある。」

新版「ゆえに広くいえば、自ら人前で恥かしがることを苦悩する症状であって、いわば羞恥恐怖というべきものである。すなわち周囲に対する対人関係で種々の苦悩を起こすものが多いから、これを対人恐怖と名づけ、赤面恐怖はその一種であるというべきものである。」

 

他にも変更箇所がいろいろあるが、面倒なのでここには書かない。ここに記録しておこうと思ったのは、この改変がかなり意図的なものに見えるからだ。全集の文言をそのまま読むと「赤面恐怖」が中心になっていて、それを「対人恐怖」と名づけたのは森田自身ではないことが明らかにうかがえる。新版では、森田自身が「対人恐怖」と命名し、その下位分類として赤面恐怖を位置づけたように読める。

対人恐怖症は森田が概念化したと一般には思われているが、全集の記述を素直に読む限りそうではないらしい。もともと対人恐怖という命名は「或人」によると森田自身が書いている。一体誰なんだろう?

それに、「対人恐怖症」という概念の由来に言及するとき、参考文献にあげられるのはたいてい1932年に発表されたこの「赤面恐怖症(又は對人恐怖)と其療法」なのだが、これはこれでまずくないだろうか?


2020年12月20日日曜日

botができた経緯

「ツイッターを再開したんですか?」という質問をこのところ何度もされるので、「してませんけど、多少の経緯があって…」という話を書いておきます。

過去ログを調べてみたら、私自身は2017年7月の終わりにツイッターを使うのをやめていました。
>2017/7/31「しばらくの間、

当時ドイツでの在外研究を終えて帰国する直前で、思うところあってしばらくツイッターをやめてみたのでした。あれからもう3年以上使っていなかったんですね。

ですが、使わなくてもあまり困ることはないです(だから再開もしてません)。もちろん、研究者や出版社の界隈で発信されている情報にやや疎くはなりますが、自分にとって研究活動の核になるつながりはSNSがなくても維持されるので、とくに不便を感じることもありません。困ったのは、自分が主催するイベントを告知したいときぐらいでしょうか。他は、人間関係に絡むノイズのような情報が入ってこなくなって快適になった感じです。ソーシャルメディアって情報の発信と受信がその人の社会的な人間関係に絡んでなされるので、それが便利だったりありがたかったりすることがある反面、面倒だったりうっとうしかったりする場面も多いですよね。私の場合、後者に煩わされることがなくなったので快適になりました。

本題に戻りますが、12月の上旬にある友人がツイッター上に著作のbotを作ってくれました(アカウントは「@ikiraretawa_bot」だそうです。2017年に出版した『生きられた<私>をもとめて』の引用botです。「ツイッターを再開したんですか」と聞かれるのですが、さすがに自分で自分の著作を引用するbotは気恥ずかしくてできません。私だけではないと思いますが、自分が過去に出版したものを読み直すのって、けっこう恥ずかしいんですよ。その時に自分ができるレベルの限界で書いているので、後で読み返すと至らないところがたくさん目に付くんです。「一生懸命やったのにこの程度しかできませんでした」という自分に直面するのって、皆さんも気が進まないでしょう?

じゃあなんでbotができたのかといいますと。11月の下旬に出版元の北大路書房の編集者の方と別件でやりとりがあったんです。そこのメールに、出版から3年たって売上が伸びなくなってるんだけどどうにかならないですか?という趣旨のことが書いてあったので、販促を兼ねて一般読者向けに何かイベントを組めるといいなと思ったんです。それを私の周囲でもっとも熱心に著作を読んでくれたある友人に相談したら、彼がbotをやりましょうといって即座に形にしてくれた、という次第。引用文の選択はすべて彼の手によるものです。私も一度目を通しましたが、他人が引用してくれた後で読むのって、自分の文章なのに恥ずかしくなく、むしろちょっと素敵に見えました。あの感じは一体なんだったんでしょうか。

それはともかく、botを通じて一般読者に関心が広がれば、トークイベントのようなものを開催するかもしれません(「中の人」をやってくれている友人が司会をつとめてくれたりするとありがたいのですが)。とくにあの本は「自己」という問いに魅せられつつも苦しんでいる一般の読者に向けて書いたものなので、読者の背景を問わずそういう関心に沿った集まりを開ければ面白いかなと思います。botから入った方は引用を楽しんだ後で紙版の書籍を手にとっていただければ、著者としても幸甚です。



2020年11月26日木曜日

ホームページができました

このたび、研究室兼個人ホームページができました。

田中彰吾研究室(東海大学・現代教養センター)

https://shogo-tanaka.jp/

これまで、このブログの独立ページとして設置していた「研究会・WS案内」と「過去の開催記録」は、以下のページに情報を移動しました。

研究会https://shogo-tanaka.jp/study-group.html

ブログページに設定されていたリンク等はこれから順次移転していきます。

よろしくお願いします。

 

 

2020年11月17日火曜日

入来ラボを訪ねました

9月に認知科学会で「プロジェクション・サイエンス」のシンポジウムがあり、そのときに神経科学者の入来篤史先生とパネリストとしてご一緒させていただきました。そのことがご縁で、シンポジウムを企画してくださった鈴木宏昭先生(青山学院大学)と一緒に神戸の理化学研究所にある入来先生のラボを訪問しました。

ニホンザルの実験環境を拝見した後でいろいろと議論させていただいたのですが、自己をめぐる本質的な論点が次から次へと出てきて大変刺激的でした。道具を使うと、身体図式が拡張するだけでなく身体イメージが一時的に崩れることで、道具を使う存在はかえって自己の身体を意識化・対象化する契機を持つこと;サルは座ることを始めたことで背骨が直立し、手が自由になって潜在的には道具を使えるようになっていること(実際タイのカニクイザルには道具を使うものがいるらしい);ヒトは直立歩行することで「上下」という座標軸と水平線、またそれに連動する「左右」という座標軸をかなり自覚的に分岐できるようになったであろうこと;二足歩行するとき周辺視野に両足が入っており、見えないとうまく歩けないが、それはある意味で空間内の「ここ」という位置を「ここ以外」という場所と潜在的に区別する意味を持つこと;自己身体を対象化し、自己の位置する「ここ」を自覚できることが、ヒトの自己意識をたんに前反省的な自己感から反省的な自己意識にしたということ;おそらくこれらすべての条件は、ホモ・サピエンスが地球上の広大な領域(「ここ」以外のどこか)を移動しつくしたことの前提条件になっていること…

どうでしょう? 自己意識の発達と進化をめぐって、ものすごく根源的で哲学的な論点をおさえていますよね? お二人ともサイエンスの根底にある哲学的な問いに取り組もうとされていることが伝わってきて、議論に熱中しているうちにあっという間に二日間の出張が過ぎ去ってしまいました。

 

2020年11月16日月曜日

研究会案内 (12/19 Zoom開催)

久しぶりにエンボディードアプローチ研究会を開催することになりました。コロナ禍で開催が滞っておりましたが、12月19日にZoomでの開催を予定しています。

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 <心の科学の基礎論研究会(第87回)&エンボディードプローチ研究会(第9回)・合同研究会>

日時:2020年12月12日(土),午後1:30〜5:30
Zoom開催
 
下記のフォームから参加をご登録ください。12月11日17時までにご登録いただければ、Zoomの会場をメールでご案内します。
 
【プログラム】
13:30〜13:40
「こころの科学とエピステモロジー奨励賞」授賞式
13:40〜15:30
講演1(受賞記念講演)「私小説の疑似客観性をめぐる転回に関するネオ・サイバネティクス的研究」
中村肇(東京大学大学院・博士課程)
【要旨】近代文学に於いて純粋な西欧の科学的客観信仰に基づいた形式論理と操作推論による情報処理パラダイム(ノイマン・パラダイム)を導入しようとした自然主義時代の文壇から田山花袋の『蒲団』や白樺派をはじめとする私小説が生まれたという逆説は,「見たものをありのままに描くことが出来る」という近代的な価値観に対する身体性(=生命情報)に基づく主観と客観の〈ねじれ〉をあらわしていた。では,こうした機械主義的かつサイバネティック・パラダイム的な主観と客観のねじれのなかで展開される我が国の現代文学は,凡そ百年前と現在との間でどのような異同がみられるのであろうか。本発表では上記の問題を,ネオ・サイバネティクスと総称される学際的研究分野の一領域である基礎情報学(FI:Fundamental Informatics)の観点から考察する。
15:40〜17:30
講演2「行為に基づく知覚の説明とその哲学的洞察」
國領佳樹(立教大学・兼任講師)
【要旨】知覚とは知識の主要な源泉の一つである。つまり、知覚は、世界に関する基礎的な信念を私たちにもたらし、それを正当化する役割を担っている。伝統的に、この基本的な考えに基づいて、「知覚と信念との関係とは何か」「知覚はどのように信念を正当化するのか」といった認識論的問題が、知覚の哲学を駆動させる主要な動機の一つとなっていた。
 しかし他方で、知覚は行為とも密接に結びつく。たとえば、私が横断歩道を渡るのは、信号が緑になったのを見たからであり、車が一時停止しているのを見たからである。つまり、知覚は信念を引き起こし、それを正当化するだけではなく、何らかの行為も引き起し、あるいは少なくとも、そうした何かを為す理由の一部を形成しうる。
 以上のように、知覚は認識論的な課題だけではなく、実践的な課題にも重要な仕方で結びつくのである。そして、後者の観点から、知覚とは何かを考える流れがある。ひろくこのような行為との関係を重視する見解を、「行為に基づく知覚の説明」(Action-Based Accounts of Perception)と呼ぶことにしよう。
 本発表の目的は、行為に基づく知覚の説明が、知覚の哲学にどのような洞察をもたらすのかを明らかにすることにある。まず知覚と行為に関する伝統的な見解を確認し、つぎに、行為に基づく知覚の説明のなかでも、その中心的な主張(行為が知覚と構成的関係にあるという主張)の内実を検討する。そのうえで、知覚の哲学における主要な議論(素朴実在論と表象説の対立など)のなかで、当該の主張の意義と問題点を明らかにしたい。
 
主催:
心の科学の基礎論研究会
https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro
エンボディードアプローチ研究会
http://embodiedapproachj.blogspot.com/p/blog-page.html

2020年11月14日土曜日

祝刊行:Time and Body

2018年からかかわっていた共著のプロジェクトがようやく出版までこぎつけました。以下の書籍です。

この本、2年前のハイデルベルクでのカンファレンスをきっかけに始まったプロジェクトでした。2018年の9月に、ハイデルベルクのフックス先生の還暦を祝う2日間の国際会議がありました(そのときのことは「旅の余韻」という記事に書きました)。ダン・ザハヴィ、マシュー・ラトクリフ、エゼキエル・ディ・パオロ、ハンネ・デ・イェーガー、ショーン・ギャラガー、ドロテ・ルグランなど、ヨーロッパの大物がみんな集まっていたので、きっと各講演をもとにした書籍が編集されるのだろうと思っていましたが、今回は、現象学的精神病理学の第一人者でフックスさんの盟友あるスタンゲリーニさんが一肌脱いで編集の労を取られたのでした。

私もお声がけいただき、大変光栄でした。結果的に、初めてCambridge University Pressから刊行される書籍に原稿を掲載することができました。2年前の講演では私は対人恐怖症について話したのですが、その後のやりとりで対人恐怖症のような日本ローカルな内容でまとめるより「社交不安」のようにより一般的なテーマでまとめるほうがいいのではないかという示唆をいただき、社交不安障害の現象学について初めて本格的な論考をまとめました。「赤面」の経験のように、自己の身体が他者に知覚される場面に、社会的な不安が現れる根源を読み取ろうとしたものです。

Chapter 8 (pp. 150-169)
Tanaka, S. (2020). Body-as-object in social situations: Toward a phenomenology of social anxiety.

以下にアブストラクトを掲載しておきます。ご関心のある方はどうぞお問い合わせください。
The aim of this chapter is to explicate the relationship among social anxiety, bodily experiences, and interpersonal contact with others. In so doing, I will first revisit the phenomenology of bodily experiences and confirm the difference between the body-as-subject and the body-as-object. Next, I will describe the experiences of one’s body-as-object for others, distinguishing them from those of one’s body-as-object for oneself. Among phenomenologists, it was Sartre (1943/1956) who emphasized the former aspect of bodily experiences as the “third ontological dimension of the body.” On the basis of this notion, I will try to develop a phenomenology of social anxiety as well as its disorder. In its most basic form, social anxiety can be described as a feeling of uncertainty of the other’s mind that becomes salient in social situations.
 

2020年11月8日日曜日

久々にジェームズ

 …の自己論を読み直しました。10年ぶりぐらいでしょうか。やっぱり面白いですね。ジェームズは哲学も心理学もわかっていた稀有な人だなと改めて思いました。自己を「主我(I)」と「客我(Me)」にわけて論じているのですが、客我のほうは経験的な自己をめぐる心理学的考察になっていて、主我のほうは超越論的自我に連なるような(実際にはそれを批判していますが)哲学的考察になっています。フッサールなら前者は現象学的心理学、後者は超越論的現象学というかたちで厳密に区別されてしまいそうですが、それを区別しながらも同じ章で論じられてしまうところにジェームズのジェームズらしさがよく現れているように感じました。

ああ、思い出した。2013年に日本心理学会で「自己へのエンボディード・アプローチ」というシンポジウムを企画したときに予習としてジェームズの自己論を読んだのでした。10年も経っていませんでしたね。歳をとったせいか、過去の出来事がいつ起こったのか、認知があいまいになっているようです。

というわけで以下レジュメへのリンクです。

W・ジェームズ (1892/1992).「自我」今田寛訳『心理学(上)』(第12章)岩波書店

 

2020年10月21日水曜日

質的心理学会シンポジウム (10/25)

 直前で恐縮ですが、学会シンポジウムのご案内です。

日本質的心理学会・第17回全国大会

10/25 11:15-13:15 会員企画シンポジウム

「現象学的人間科学への招待-IHSRC 2022に向けて」

今年は大半の学会がオンライン開催に切り替わっていますが、質的心理学会も今回はZoomでの開催になります。今週の23日22時まで参加申し込みはできるようですので、ご関心のある方は下記のページにアクセスしてみてください。

質的心理学会第17回大会・参加登録

今回は、現象学的な方法を使って人間科学の各分野に取り組んでおられる先生方にお話しいただきます。植田嘉好子先生(社会福祉学)、村井尚子先生(教育学)、渡辺恒夫先生(心理学)です。また、指定討論には看護学分野でケアの現象学に取り組んでおられる西村ユミ先生にご登壇いただきます。

今回のシンポジウムは、2022年に開催予定のIHSRC(人間科学研究国際会議)の東京大会に向けての広報活動の一環を兼ねております。この分野に関心をお持ちの皆様のご参加をお待ちしております。

 

 

『他者のような自己自身』5章

 読書会の続きです。リクール『他者のような自己自身』その後もフッサーリアンの村田憲郎氏と読み続けています。今回は5章を読みました。要約を公開しておきます。

ポール・リクール『他者のような自己自身』 第5研究「人格的自己同一性と物語的自己同一性」

もともとこの読書会は私自身の研究プロジェクトで「ナラティヴ・セルフ」を主題としているために始まったものですが、本書の内容がようやくその主題に近づいてきました。とはいえ、ぐるぐると螺旋を描くように迂遠しながら進むリクールのこと。第5研究も「人格的自己同一性と物語的自己同一性」と題していながら、実際には人格的自己同一性の議論で話は終わります。

ただ、この章で「人格的自己同一性」の二つのモデルとして「性格」と「約束」について学べたのは個人的には大きな収穫でした。「性格」と自己同一性の関係をどう考えればいいのか以前から気になっていたのですが、リクールの説明は明快です。自己同一性には「自己性」の次元(selfhood)と同一性の次元(identity)があり、前者は「誰が」、後者は「何が」という主題に対応します。

性格は、ひとの身体に備わる習慣的な傾向性を基盤としています。つまり、習慣や好みのように「何が」の同一性が、あるひとの自己性(「誰が」)を包括するようなしかたで現象するときに性格になる、ということです。いわば、身体に備わる傾向性が、匿名的なしかたであるひとの振る舞い方を制御するようになると「性格」と呼ばれるものになる、というわけです。

続きを読むのが少し楽しみになってきました。