2018年3月16日金曜日

ずっと準備中の日々

授業期間と入試業務が終わった2月の中旬ごろから、講演やら発表やら、いろいろと人前でお話ししたり議論したりする宿題をこなす日々が続いています。備忘録を兼ねて書いておくと、こんな感じです。
  • 文明研究所での講演(2/24「20世紀人文思想における身体を振り返る」)
  • フックスさんに新著『Ecology of the Brain』についてインタビュー(3月冒頭)
  • ヨーロッパ学術センターでの国際シンポジウム「3rd Dialogue between Civilizations」で企画したパネル(3/8「Embodiment, Culture and the Self」)で話す内容の準備
  • 現代教養センターでの科研費と在外研究についての報告(3/14:在外研究報告会「生きられた〈私〉をもとめて」)

そして、ただいま以下2件の準備中です。

  • 3/21の国際シンポジウム「社会構築主義の視点と臨床の現場」での話題提供(「現象学的心理学の立場から」)
  • 3/24-25の国際シンポジウム「Body Schema and Body Image」でのレクチャー(「Body schema and body image in motor learning」)

 
うーむ。さすがにこうして毎週のようにトークが控えていると、1件終わると次の準備で頭の中を切り替えなくてはならないので、余韻のなかで考えを深めることができないですね。もちろん根っこではすべて現象学と身体論につながっているとはいえ、人前で話をして、議論をして何かを受け取って、それをもとに余韻のなかで考えて、という循環が早すぎて、まとまった文章や論文にする時間が取れません。
 
きっと、書くのが早い学者さんは合間の移動時間とかで論文のプロトタイプになる原稿を発表後にさらさらと書いてしまうのではないかと思いますが、私にはそこまでの器用さはないなぁ…
 
 

2018年3月7日水曜日

イベント案内(3/21@本郷)

近頃イベント案内ばかりになってしまっていますが…こりずに今日もご案内します(笑

国際シンポジウム
社会構築主義の視点と臨床の現場
--Vivien Burr教授をお招きして--

2018年3月21日(木) 13:00-17:15
東京大学本郷キャンパス 福武ホール
 

詳しい案内は下記ページで見られます。

以下から事前申し込みが必要とのことです。
 
田中も話します。「現象学的心理学の立場から」というお題をいただいています。自分でオーガナイズする別件の国際シンポジウム(Body Schema and Body Image)の3日前なのでなかなか準備が大変そうなのですが、社会構築主義と現象学的心理学の接点と違いについて考えるいい機会になりそうです。

ちなみに、バー先生の仕事って、大学院生の頃に訳本(上の写真にある『Social Constructionism』の初版の訳本です)で接して以来です。まさかあれから20年もたってご本人に仕事でお会いできるチャンスがめぐってこようとは。当時の読書メモとかどこかに残ってないかな… 
 
た
 


2018年3月3日土曜日

3/24-25国際シンポ・ポスター

前記事でもご案内しましたが、3/24-25に国際シンポジウム「Body Schema and Body Image」を開催します。
 
2018年3月24日(土) 09:30-17:30
2018年3月25日(日) 10:00-18:00
東京大学駒場1キャンパス・2号館3階・308教室
 
24日昼に発表もされる今泉修さんが、クールなポスターを作ってくれました(感謝です)。画像をここに貼っておきます。
 
 
PDF版も用意してあります。ここのページにアクセスしてみてください。
https://drive.google.com/file/d/1Bkx_rBikv-h7K2rCztw3S-ldkVJUoSUi/view
 
以下のページからオンラインで参加登録ができます(人数把握のため事前にご登録をお願いしています)。
参加登録:https://goo.gl/forms/650de8h9h0A7LgPe2 
 
3週間後のイベントになります。皆さまと会場でお会いできるのを楽しみにしています。 

2018年2月21日水曜日

国際シンポ(3/24-25@駒場)特設ページ

来月、2018年3月24日〜25日に国際シンポジウムを開催します。

2018年3月24日(土) 09:30-17:30
2018年3月25日(日) 10:00-18:00
東京大学駒場1キャンパス・2号館3階・308教室

ページを切り替えると特設ページに進めるほか、上記リンクをクリックしても同じページに進めるようになっています。
 
前にシンポジウムでイスラエルを訪問したことを記事に書きましたが、そのさいにいろいろと議論を共有した若手研究者にヨハイ・アタリアさん(テル=ハイ・カレッジ上級講師 / オープン大学研究員)という方がいます。今回のシンポジウムはアタリアさんと議論を進めるうちに共同でオーガナイズすることになったものです。
 
そこまで議論が深まるきっかけを提供してくれたのは、哲学者ショーン・ギャラガー氏の仕事です。ギャラガー氏は身体性と自己の関連について、所有感(sense of ownership)と主体感(sense of agency)という二つの概念で整理しています。アタリアさんも田中も、彼のこの仕事から影響を受けて仕事をしているので、イスラエルを訪れたさいにかなり深く議論を共有したのでした。
 
準備を進めるうちにこれはギャラガー氏本人にも出て欲しいよね、という話になってご本人に出演を依頼してみたところ、ご快諾いただきました。超多忙な方のため来日はかなわず、今回はオンライン出演ですが、25日の朝10時から基調講演で登壇される予定です。「Reimagining the body image」(身体イメージを再度イメージする)というタイトルをいただいています。どんな講演になるのか楽しみです。
 
ぜひ、発表メンバーとタイトルを特設ページでご覧ください。神経科学の議論から哲学的な議論まで、身体性をめぐって経験科学と哲学が対話するプログラムになっているのがおわかりいただけるかと思います。ギャラガー氏の著作のように、科学と哲学が対話することで新しい議論が生まれて来る場所になることと思います。ご期待ください。
 
講演はすべて英語なのでハードルが高いと感じる方も多いかもしれませんが、そういう方は将来の英語での発表準備の学習にご活用ください(笑)。どなたでも参加できます。費用は無料です。
 
以下のページからオンラインで参加登録ができます(人数把握のため事前にご登録をお願いしています)。
参加登録:https://goo.gl/forms/650de8h9h0A7LgPe2 
  
皆さまのご来場をお待ちしています。
 

2018年2月16日金曜日

イベント案内(3/13-14,16@立教)

こういうご案内をいただきました。立教大学の河野先生からです。
画像を貼り付けておきます。
  
公開シンポジウムとB・アンドリュー講演会
「間とあいだの比較現象学」


2018年2月14日水曜日

脳の生態学(Fuchs 2018)序文

研究アーカイブに下記のレジュメを加えておきました。

Fuchs, T. (2018). Ecology of the brain: The phenomenology and biology of the embodied mind. Oxford, UK: Oxford University Press.(序文のみ)

3ページの短い序文をさらに要約したものではありますが、本書の立場が比較的明瞭に書かれているように思います。脳は生命体に備わる一器官であり、器官として身体全体と関係し、身体-環境の相互作用を媒介し、自己-他者の相互作用を媒介する、「媒介する器官(mediating organ)」であることが端的に示されています。

ひとつ注目できるのは「feeling of being alive」と彼が述べている点でしょうか。意識の作用は脳から生み出されるものではなく、生命が宿る有機体としての身体に、最初から「生きている感じ」として備わっている、という仮説的な見通しを述べています。

この「生きているという感じ」、あえて脳との対応づけを考えると、おそらく島皮質の作用と相関しているように思います。感覚とも感情とも呼べるかもしれないが、そのどちらでもないような、全身に広がる漠然とした「感じ(feeling)」。離人症では島の機能が低下しているという報告がありますが、生きている感じがしないという当事者の言葉に対応しているように思います。

この本、3月終わりぐらいからオンライン読書会形式で読んでいく予定です。ご希望の方は田中までお問い合わせください。
 
た

2018年2月4日日曜日

戦利品♪

待ちに待った一冊が届きました。
Thomas Fuchs (2018). Ecology of the brain: The phenomenology and biology of the embodied mind. Oxford, UK: Oxford University Press.
(トーマス・フックス『脳の生態学-身体化された心の現象学と生物学』)
  
しばらく前からオンライン読書会を開きますとお伝えしていたのですが、原著が届かないので企画そのものが滞っていました。
 
以前も書きましたが、この本が重視しているのは、まさに脳のエコロジーであり、脳の生態学的な基盤です。脳が知覚や認知にとって重要な役割を果たしている器官であることは間違いありませんが、人が知覚・認知する世界をすべて脳内の表象に還元するような見方は、脳の持つ生態学的な位置づけを無視して脳の役割を過大視し過ぎています。そうではなくて、身体を含む有機体全体の一部とし脳を位置づけると、身体と環境の相互作用、自己の身体と他者の身体の相互作用、人々が共有する文化的世界へのアクセスなど、脳は、生命体としての人と世界とを「媒介する器官(mediating organ)」として重要な役割を果たしていることが理解できます。こういう基本的な見方についてきちんと哲学的な基礎づけを与えている点も本書の魅力ですが、現在の神経科学の知見への批判、さらに、その再解釈と位置づけ直しといったことに言及している点や、未来の心の科学のあり方への展望を拓いている点も、本書の魅力であろうと思われます。

読書会は来月くらいからゆるゆる動き出そうかと思います。

ところで、「戦利品」とタイトルに書いたのは意味があります。じつは、推薦文を書く仕事を頼まれたのですよ、とっても光栄なことに! 和書で言うと、帯に入れる推薦文を書くようなものです。洋書の場合は背表紙に何人かが推薦文を入れることが多いのですが、届いた現物を見るとこんな感じになっていました。
 

見えづらいですね。上から三つめが私の書いたものです。最初オックスフォード大学出版局の担当編集者の方から連絡をもらったときに「至急endorsementを書いてください」という依頼があったのですが、「え、endorsementって何? 手形の裏書? 手形を切った覚えはないけどな」なんてことしか頭に浮かばなかったのでした。背表紙に入れる推薦文なので「裏書」と呼ぶのですねぇ、知りませんでした。

それにしても、光栄な話です。裏書を寄せているのは4人いますが、「エナクティヴ・アプローチ」で有名なディ・パオロ、精神医学の哲学のマシュー・ラトクリフ、ミラーニューロンの研究で知られる神経科学のヴィットーリオ・ガレーゼ、というすごい面々に混じって、なぜか無名の私のような人間が入っています。いちおう「身体性認知」の分野からお情けで一人入れてもらった、って感じでしょうかね。

まあでも、私にとっては、オックスフォードから出る本に推薦文を寄稿したというのは、研究を実直に続けてきて勝ち取った戦利品、という感じで鼻高々な気分なのです。

た
 

2018年1月21日日曜日

朗報

1年前ごろにドイツで書いていた論文、もうすぐ刊行されることになりました。
タイトルは、

What is it like to be disconnected from the body?
(身体から切り離されているとはどのようなことか?)

です。
なかなか刺激的じゃないですか? 

もちろん、ネーゲルの論文「What is it like to be a bat?」(コウモリであるとはどのようなことか?)から借りたタイトルですが、意識の主観性の謎に迫っているわけではありません。離人症における身体経験の謎を追ったものです。

離人症ではしばしば「自己が身体から離れたところにいる」「観察する自己と行動する自己が分離しているように感じる」という体外離脱的な症状が当事者から語られるのですが、それはどのような経験なのか、現象学的に解明することを試みました。文脈が違いますが、同じように自己が身体から遊離する経験として語られる「フルボディ錯覚」を比較対象として検討した点で、前例がない論文になると思います。
 
掲載先は「Journal of Consciousness Studies」です。刊行は少し先で、春頃になるようです。ともあれ、無事に受理されてよかったです。帰国して約5ヶ月たちますが、ようやく在外研究に区切りがついた気分です。
 
た

2018年1月9日火曜日

CFP: Body Schema and Body Image

3月末(24-25日)に東京で国際シンポジウムを開催します。「身体図式と身体イメージ」をテーマとする二日間のイベントです。
 
ただいま、発表を募集中です。詳しくは、学術系SNS「Academia」で公開しているシンポジウムの趣旨文をご覧ください。
 
同じ情報は、別のSNS「Researchgate」でも公開しています。こちらはプロジェクト形式で登録してあるので、プロジェクトをフォローすると、随時お知らせが届きます。
 
直前になってしまって恐縮ですが、いちおう今月24日が発表申し込みの公式締切日です。
 
なお、学際系のイベントですので、発表内容の分野に制限はありません。神経科学、心理学、精神医学、認知科学、スポーツ科学、社会学、哲学など、いろいろな分野から参加していただけます。ご関心のある方は、上記CFPをぜひご一読ください。シンポジウムで議論の焦点になる論点をあるていど整理してあります。
 
発表したいけど締切に間に合わないかも…という方は、ご相談ください。応募状況によっては何とかなる可能性もあります。また、その他のご質問等がある場合も、遠慮なくお問い合わせください。
 
た

2018年1月4日木曜日

地味に1周年

あけましておめでとうございます。2018年ですね。

このサイトも開設から1年を超えたことになります。とくに時間的な展望を持たずに始めたページなので1年たったからといって感慨もとくにありません(笑 ここは学術系の情報をシェアするためのページなので、イベントの告知とか企画とか、関連する論文や書籍の紹介とか、といったことで重要なコンテンツを集約し発信できればそれでいいかなと。

ただ、もうちょっとマメにブログを更新したいと思いつつ、なかなか難しい状況が続いているのが残念です。昨年出版した拙著のその後のことや、いま進行中の訳書のことなどもいろいろ書きたいとは思いながら、何もできずにいます。ドイツに滞在していた頃は大学の仕事から解放されていたのでブログにもっと時間が取れたのですが(だからこのサイトを開設するのに必要な最初の時間が作れました)、8月末に帰国してから慢性的に時間不足に悩まされています。

もちろん、主な理由は大学での仕事です。授業だけで相当な長時間なのに加えて、いわゆる学務にいろいろと時間を取られるので、何かとままなりません。こんな状態で管理職の仕事がそのうち回ってきたりすると、目も当てられない状態になりそうです。研究を続けるために大学にいるのに、いまどきの大学では研究の時間はろくに取れません。研究はほとんど余暇の域に追いやられているようにさえ見えます。

まあ、そんなこんなでブログの更新は滞る場面が多そうですが、論文と書籍を執筆する時間だけは涼しい顔してきっちり確保したいと思っています。今年もよろしくお願いします。
 
た
 

2017年12月29日金曜日

プロジェクションのことなど

以下、自分用メモ。
 
先日の認知科学会のシンポジウム(「プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」)のさい、全体での議論のときに少しコメントしたことを、文章として書きとめておきます。プロジェクション・サイエンスは、広い意味での内部モデルが世界に投射される過程に焦点を当てる科学的試み、という理解でここでは良いかと思います。詳しくは鈴木宏昭先生の以下のブログ記事を読んでみてください。
>「プロジェクション・サイエンスとは何か」
 
というわけで、以下はメモです。

プロジェクションを考えるうえで、ラバーハンド錯覚は基幹的な重要性を持つ現象だろう。ゴムの手が「自分の手」であるかのように感じられるとすると、物体に身体所有感がプロジェクトされることを意味している。神経生理学的には、視覚と触覚の統合が、ゴムの手の位置との相関で生じていることが意味を持つ。

ゴムの手が多感覚統合を通じて「自分の手」として経験されうるということは、裏返して言うと、いつもは「自己の身体」として経験されている物理的身体そのものが、多感覚統合にもとづく脳内表象に過ぎない、という可能性を示唆していることになる。

とはいえ、身体それ自体は脳内表象には還元できない実在性を帯びている。それはたとえば、二重感覚のように、自己の身体上では生じるが、物体上では生じない現象があることを考えれば明らかだろう。自己の身体は、実在世界に定位している存在であると同時に、脳内で構成される表象でもある。

「表象=内部モデル」と「実在世界」の関係をプロジェクションという概念で読み解くうえで、身体は出発点として考慮すべき対象である。また、身体を通じて実在の世界へのアクセスが保たれているとすると、その世界が最初に開けてくる場面は、身体的な知覚と行為の循環的関係に即して理解する必要があるだろう。

ただし、ひとが行う行為の中には、「ふり遊び」「ごっこ遊び」のように、実在しない世界を行為によって描き出すものがある(発達的には2歳ごろ、言語の獲得が集中的に始まる時期に近い)。つまり、行為が文字通りの知覚対象を指示するだけでなく、知覚対象に想像上の対象が重ねて描かれるような場面がある。知覚とイメージを区別するものは、プロジェクトされる対象、プロジェクトされる世界との関係で考える必要がある。

イメージはさらに、複数の身体が出会う場面で、ナラティヴを創造するだろう。たとえば、「ままごと」「戦いごっこ」として演じられる遊びは、想像上の世界に参入する他者の身体を含んで展開される。ある想像上の世界のなかで、一定の役割を分担して演技ができる身体が複数あることで、イメージはストーリーへと生成する。

イメージがストーリーへと生成する過程では、複数の身体が出会い、知覚的には現前しない世界との関係で、擬似的に行為の意図を発動させることが必要になる(たとえば、泥ダンゴをつかんで食べるふりをする)。このとき、身体は想像上の世界を間主観的に現出させる「道具」として機能している。

身体を、一次的な行為主体として経験するのではなく、想像上の世界を表現する二次的な道具として利用できることは、自己と他者とのあいだで共有される「ナラティヴ」の世界を創発させる鍵になっているように思われる。

複数の身体のあいだで共有されるナラティヴは、道徳的な行為規範のように一種のドミナント・ストーリーを生成する一方で、「自分だけの空想の世界」をプロジェクトする基盤にもなっているだろう。「妄想」に至るようなきわめて個人的なストーリーは、社会的に共有されているストーリーがなければ機能しないだろう。
 
…とまあこんな感じで、表象と実在の関係を「身体」から出発して考えると、「知覚/行為」〜「想像/イメージ」〜「ストーリー/ナラティヴ」…という順番で、プロジェクションの豊かさを理解できるのではないか、と思ったのでした。

個人的には、「ナラティヴ」は個体の身体だけからは決して生まれてこないだろうと思っています。複数の身体が集う場面でどのようにしてナラティヴが生成するのか、考えてみたいものです。

た
 

2017年12月9日土曜日

認知科学会のシンポジウム

来週、こんなイベントがあります。

日本認知科学会・2017年度冬のシンポジウム
「跳び出す心,拡がる身体:プロジェクション・サイエンスの確立に向けて」

日時:12月16日(土) 10:00-18:00
場所:青山学院大学 青山キャンパス6号館621教室

午前中、「身体はどこまで拡がるか:身体とプロジェクション」というセッションが明治の嶋田先生のコーディネートで設けられていて、田中も短い話題提供をします。話の骨格はすでに決まっているのですが、そろそろ細かいことを考えなくちゃいけません。プロジェクションというコンセプトと自分の研究がどのあたりで接点を持つのか、当日までにもう少し詰めて考えたいと思っています。
 
そういえば、このブログは近ごろイベント告知用にしか使えていないですね(しかも直前になって)。なんとかしたいと思いつつ、日々押し寄せるの仕事の波に慌ただしく対応しているとあっという間に時間が過ぎ去っています。優雅にサーフィンできるようなスキルが欲しいものです。
 
た
 

2017年11月20日月曜日

PPP研究会でお話しします

いろいろと慌ただしくしているあいだにお知らせを忘れてました。
 
もう今週末ですが、26日(日)14時から、東大精神科の榊原英輔さんが中心になって開催されているPPP研究会でお話します。PPPは、Philosophy of Psychiatry and Psychologyの略です。精神医学と心理学について、その哲学的基盤に関係する深い議論をされている研究会です。
 
榊原さんのホームページはこちら。
Acrographia
http://www.acrographia.net/
 
いちおうクローズドな研究会だったと思いますので、参加には問い合わせが必要です。このブログを読んでくださっているくらい意識高い系?の方はまず問題なく参加していただけると思いますが…。開催場所は東大の駒場キャンパスですが、詳しく知りたいかたはお問合せください。
 
田中は帰国してから新しいことを勉強する時間を取れずにいるので、26日は以前ドイツ滞在時に話した離人症のことを中心にお話しします。以下、研究会で流してもらった抄録をここにも貼り付けておきます。
 
た

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「離人・現実感喪失における自己と身体」
田中彰吾(東海大学現代教養センター)

環境に向かって行為する、環境のなかの対象を知覚する、といった日常的な場面では、自己と不可分のものとして身体が経験される。身体は、自己がそれを通じて行為する媒体、あるいは、そこから知覚が生じる媒体として、暗黙に経験されている。ところが、離人・現実感喪失(Depersonalization/derealization disorder)として知られる病理的な状態では、自己が身体から遊離しているように感じられたり、「身体とともに行為する自己」と「それを観察する自己」とが分離して感じられたりする。たとえばある当事者は「私は、自分が空間中に浮遊する鈍くぼんやりした思考であるように感じ、自分に体があるということさえ時に奇妙に感じられた」(Bradshaw, 2016)と述べている。この経験は、デカルトの心身二元論のように、身体がなくても自己が自己でありうることを示唆しているように思われるが、理論的にはどのように考えることができるだろうか。この講演では、離人・現実感喪失において生じる自己と身体の分離の経験について、(1) 当事者の手記を参考にして経験の具体的な様相をとらえつつ、(2)シエラ(2009)が記述した離人症における身体経験の異常と照合しながら考察する。理論的な課題は、「最小の自己(minimal self)」が身体から分離した状態で成立しうるかどうか、検討することにある。ギャラガー(2000, 2012)によると、最小の自己は所有感(sense of ownership)と主体感(sense of agency)によって構成されるが、離人・現実感障害においては、所有感と主体感はともに日常的な状態から大きく逸脱している。はたしてこの点は、最小の自己が身体から分離した状態で成立しうることを意味するのだろうか。参考として、実験によって引き起こされる「フルボディ錯覚」と呼ばれる錯覚の経験と比較しながら、考察を進める。

2017年11月7日火曜日

読書会を開きます

アマゾンでは1ヶ月前ぐらいからページができていたのですが、もうすぐ、神経科学〜身体性認知〜現象学にまたがる学際領域で非常に重要な本が出版されます。トーマス・フックスによる『Ecology of the Brain(脳のエコロジー)』です。
 
 
アマゾンでは発売日が12月14日ということになっています。田中は一足お先にゲラを拝見しました。出発点になっているのは、人が知覚している世界を脳内の表象に還元する見方への批判です。身体を含む有機体全体の一部とし脳を位置づけると、身体と環境の相互作用、自己の身体と他者の身体の相互作用、人々が共有する文化的世界へのアクセスなど、脳は、生命体としての人と世界とを「媒介する器官(mediating organ)」として理解し直す必要がある、という主張が基調のようです。このような見方が、どの程度、現在の神経科学の個別の知見と整合的に、あるいはそれへの説得力のある批判とともに語られているのかが、本文の評価にかかわるポイントになりそうです。
 
いずれにしても重要な本なので、12月から月1回1章ずつぐらいのペースで、オンライン読書会を開いて読むつもりでいます。参加をご希望される方は、田中までお問い合わせください。
 
た
 

2017年10月15日日曜日

主体感を考える

先日、授業でいわゆる比較器にもとづく主体感のモデルについて説明していて、うまく説明しきれなかったのでもやもやしている。
 
主体感研究について手際よくまとめているハガード(2017)のレビュー論文では、運動行為を制御し、それによって外的事象の推移を制御する経験が「主体感」とされている(ハガード論文のまとめは研究アーカイブに掲載しておいた)。たとえば、手を伸ばしてコップを手に取る、スイッチを押してライトを点灯する、といった経験がわかりやすい例だろう。そして、主体感は、随意的な行為とその結果が一致するときに生成する。


 
図の①は、身体運動とその結果が比較照合され、一致するポイントとしての比較器である。運動指令が発せられ、その遠心性コピーが身体状態の予測を生じさせる一方、運動が実行されると身体末梢から感覚フィードバックが返ってくる。ハガードの説明では、両者の一致によって暗黙の主体感が生じ、自己や他者に明示的に帰属できる主体感は図の②で生じる、ということらしい。ただ、そうだとすると、主体感はつねに回顧的にのみ成立するのであって、「何かをしよう」と意図している段階では存在しないことになる(実際、比較器モデルに沿って主体感を説明する論者にはその種の主張はしばしば見られる)。
 
しかし一方で、行為についての時間的予測が主体感を左右することを示唆するデータもある。この点で、主体感はたんに回顧的なわけではなく、展望的な成分を含んでいるはずである。ハガードも、主体感がたんに回顧的な要因だけで成立しているわけではないことを示唆していて、主体感を回顧的な錯覚に還元する見方は避けているようである。
 
これに加えて、行為の意図や行為の選択の場面では、いまだ具体的な運動が始まっていないとしても、それが「私の行為である」(あるいは「私の意図である」)という認知はともなっているので、行為の所有感は最初から成立している。所有感は「ミニマル・セルフ」を支えるもうひとつの要因だが、こちらは、主体感が成立するよりも時間的に早く成立している。
 
だから、「自己」「他者」という属性を持たない中立的な主体が、ある身体行為を行なって、その後で回顧的に「私がその行為を引き起こした」という主体感を持つと考えるべきではない(ポストディクション的解釈はおそらく間違い)。その行為が「自己のもの」であるか「他者のもの」であるか、という所有感の判断は、運動開始以前から成立している。図の②のポイントで、所有感まで含めて自他の弁別が可能になっているわけではないだろう。
 
たとえば、統合失調症における主体感の障害は、ある行為について、自己の意図で行なっておきながらそれを自己に帰属させることに失敗することによる、という説明がしばしばなされるが、これは説得力がないように思う。行為の意図が発せられている時点で、そもそも「誰かの意図」でそれが始まっていると考えるほうが、「させられ体験」に見られるような主体感の不成立を説明するうえで適切であるように思える。
 
た