2017年2月10日金曜日

3/5 シンポジウム「精神医学の哲学」

某MLでI先生(って別にイニシャルで書かなくてもいいのか、石原孝二先生です)から下記の情報が回ってきました。3月5日(日)、駒場でシンポジウムがあるとのこと。

シンポジウム「精神医学の哲学」2017年3月5日(日)9:30~17:30
東京大学駒場Iキャンパス18号館ホール

シリーズ『精神医学の哲学』の刊行記念イベントです。フックス先生の論文の訳者として私も企画に加えていただいたので、このイベント、日本にいれば参加したかったです。ちなみにフックス氏の論文は、シリーズ第1巻「精神医学の科学と哲学」に収められています(第4章「現象学と精神病理学」)。

いわゆる「現象学的精神病理学」の近年の成果をコンパクトにまとめた論文で、訳していてとても勉強になったのですが、やや気になったことがありました。

これは現象学的精神病理学の全体に当てはまる論点でもあるのでしょうけれど、患者の視点に沿って一人称的に症状や疾患を記述しているようでいて、どうしても記述が本質主義に流れそうな場面があります。

つまり、記述が行き届いているほど「統合失調症とは〜である」「自閉症とは〜である」という書き方で、症状の向こう側にあたかも「本質」があるかのように記述される部分があり、実際の症状の多様性がともすると見えない記述になってしまう欠点があるのですね(フックス氏本人はこの点の問題はよく自覚している方と思いますが)。

そもそも、精神疾患の症状は(同一の名称で診断される状態だとしても)きわめて多様で、本人にとってさえ言葉にするのは容易ではありません。このあたりの多様性を見ていくには、当事者と協力して語りの地平を拡大して記述を豊かにすることが必要でしょう。

また、それによって疾患の概念を考え直すこととか、日常的経験と精神疾患との連続性を見出していく、といった作業も大切だと思います。日常性とは断絶した「狂気」という本質があるかのような見方を取らないためにも、これは重要です。

現象学的には、精神病理学の知見は本来、「間主観性」の地平を日常性の側から外に向かって広げていくうえで大事なのであって、「狂気」という本質を向こう側に立てて日常性の側を維持することが大事なのではない、ということです(少なくとも私はそう思います)。

…あ、精神科医でもない人間が口を出しすぎましたね。このへんでやめておきます。ともあれ、『精神医学の哲学』は、「当事者」という切り口も含めて、とても重要なシリーズになっていると思います。ご一読のほどを。東京大学出版会から出ています。

た

2017年2月5日日曜日

編集作業の一日

や〜っと終わったよ〜

朝から編集作業。さっき日付が変わってしまったので、休憩時間をのぞいても結局12時間ぐらい作業してたことになるのか。あぁ、土曜日を丸一日事務作業に費やしてしまった。

何をしてたかというと、来月3-4日に東海大の文明研究所が主催する国際会議の予稿集の編集です。

1年前に初めて、コペンハーゲン郊外にある東海大のヨーロッパ学術センターで「日欧間の文明対話」と題する二日間のイベントを組んだのですが、学内外でけっこう反響があったので今年度もかの地で開催する運びになった次第。

それはいいのですが、予稿集を編集していて改めて気になったことが。

わたしは、所属先の大学の付属研究所である「文明研究所」で「所員」という任務を拝命して今年で3年目になるのですが、「文明」って自分にはいまだに難しいのですよね。なんというか、概念としてすっきり理解できないのです。

もちろん、文明に直結するイメージはあるのですよ。わたしの場合は「近代文明」というイメージが強くて、都市化、産業化、科学知と技術の進歩、人権や民主主義の思想、個人主義、政教が分離した近代国家、などなど。これらは、古代文明や地域文明よりも、自分の中ではずっと突出したイメージになっています。

ただ、こういうイメージの問題じゃなくて、そもそも「文明」ってどう定義できるの、というところですっきりした考えが持てないのです。

さしあたりの解答としていつも念頭に置いているのが、「文明」じゃなくて「Civilization」という英語。人間を「Civilize」するものが「Civilization」だとして、そもそも「Civil」って公共的な市民のことを言うんでしょうから、公共の場所で市民として生活を送れるような状態に人を変えていくさまざまな慣習、規範、制度、組織、権力などの集合をCivilizationと考えてみようと。

こういう見方を取ると、身体論的には多少すっきりします。要は、いまだ公共化されていない乳児(だけに限らず)の身体を、他者との関係のなかでCivilizeしていくものをCivilizationと見ればいい。すると、Civilizationとは、身体に内在して、公共的な身体として成立させているいろいろなコードや力として見えてきそうなのですよ。

衣服、性規範、テーブルマナー、しぐさ、などなど。肌をどう隠すかとか、誰とセックスするかとか、みんなで何を食べるかとか、そういうミクロな行為のなかに、人々がみずからの身体に内在化させた「文明」なるものを理解する手がかりが潜んでいそうですよね。身体論的には、「その行為」をすることで公共の一員になれる行為の集合=文明、とさしあたり言えるかもしれない。フーコーから学べるものがたくさんありそうですね。

予稿集を編集していて、そういう「さしあたりの解答」を改めて考えていました。

もちろん、原稿にはそれとは全然ちがったしかたで文明について「おっ」て思わせてくれる発表もいくつかあったので、当日が楽しみです。

た


2017年2月2日木曜日

真っ赤。

論文、書いてます。

ガチで書いてます。離人症の経験の意味について。
完全に「ギアが入った状態」と言えばいいんでしょうか。
今週は頭の中がほとんど「真っ赤」になった状態で書いてます。
「赤」…別に政治的な意味はありません。
「血まなこ」という「眼」のメタファーを「頭」に置き換えると「頭の中が真っ赤」という感じなのです。

しかし、こういうタイミングに限っていろいろ茶々が入るのですなぁ、不運なことに。
なぜだか、事務的な対応が必要な案件が次々やってきます。しかも日本から。
英語で論文書くのとは明らかに脳内の違う場所を使ってるのが体感できますな。
こういう事務作業、気分転換にうまく使えるようになるといいんですが。

論文とか著作を書くのが早い先生たちは、事務作業をうまく執筆の気分転換に使ってるんだろうなぁ。
K先生とか上手そうだもんなぁ、こういう作業の切り替え。
見習わねば。

た

2017年1月29日日曜日

コイファー&チェメロ『現象学入門』

しばらく前からこの本の翻訳に取り掛かっている。


面白い本だ。現象学の入門書としてはかなり思い切った構成になっている。上記リンクをたどるとアマゾンで「なか見検索」ができるので目次を見てみるといい。

フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、サルトルの主要な仕事にそれぞれ1章ずつ割かれているが、それ以外の章立てが興味深い。1章「カントとヴント」、4章「ゲシュタルト心理学」、7章「ギブソンと生態学的心理学」、終章は「現象学的認知科学(phenomenological cognitive science)」である。

彼らは、フッサール以来の現象学の中心的なテーマが、近年の「身体性認知科学 embodied cognitive sceince」に最も強く受け継がれていると見ており、この歴史的なパースペクティヴに沿って上記の各章を配置しているのである。なお、終章の手前の8章はH・ドレイファスの人工知能批判に割かれている。

私のように、メルロ=ポンティの現象学的身体論を足場にして、それを経験科学的な研究とつなげることを模索してきた研究者からすると、まさに「待ってました!」という内容。こんな入門書を手にできるようになったと思うと、時代の変化を感じて感慨深い。

なお、2011年に邦訳されたギャラガーとザハヴィの『現象学的な心』(原著は2008年刊)も、方向性としては近い立ち位置にある。副題が「心の哲学と認知科学入門」であり、認知科学や神経科学の知見を大幅に取り入れた現象学の書になっている。ただ、「入門」と銘打ってはいても実際には入門書レベルの叙述になっておらず(邦訳はよくできていると思うが)、現象学や認知科学の予備知識のない読者にとって読み通すのはなかなか難しい。本書はその点でかなり読み易いものになっている。

それだけではない。方向性も『現象学的な心』とは違っている。認知科学の知見を現象学に取り入れるという方向性ではなく、現象学の知見を認知科学に取り入れ、未来の認知科学を書き換えることが目指されている。だから終章が「現象学的認知科学」と題されているのである。

こんな現象学入門書は、今まで見たことがない。早く出版にこぎつけたいものだ…が、なかなか思った通りにはかどらなくて気が重い(笑

た

2017年1月26日木曜日

うれしい来客

ベルリンに滞在中のG・ジョヴァノヴィッチさんがハイデルベルクまで来られました。彼女は普段セルビアのベオグラード大で教えているのですが、いまは短期滞在でベルリンにいて、今回はドイツの心理学史を再考するプロジェクトに関わっているそうです。ハイデルベルクは、ヴントについて調査するために立ち寄ったとのことでした(ヴントの最初の就職先はここハイデルベルクでした…ヘルムホルツの助手として採用されたのです)。

お会いするのは今回が2度目です。最初にお会いしたのも結構最近で、昨年7月に横浜で開かれた国際心理学会議(ICP 2016)でした。私が登壇したシンポジウムにたまたまオーディエンスとして来られていて、終わった後でお声がけいただきました。しかも、発表内容を論文にして書籍に寄稿してくれないかというお誘いでした。

とはいえ、ここまでならあまり喜びはしません。国際会議での発表経験がある方なら知っていると思いますが、発表がうまくいけば、終わった後で論文化のお誘いを受けることはそこそこあります。ただ、こういう誘いの大半はいわゆる「ハゲタカ・ジャーナル」から来るので、話に乗せられてしまうと、誰も読まない無名のジャーナルに原稿が掲載され、しかも「掲載料」と称してかなりの金額のお金を取られます。なので、単に誘われるだけだとたいてい身構えて、後で連絡を取ることもないのですよね。

ジョヴァノヴィッチさんからのお声がけが予想外にうれしかったのは、彼女が編集している書籍のプロポーザル(趣意書)を見せてもらったからです。執筆陣が豪華なんですよ、何といっても。哲学的心理学のロム・ハレ、文化心理学のヤーン・ヴァルシナー、社会構成主義のケネス・ガーゲン、(残念ながら企画後に亡くなられましたが)認知心理学の大家ジェローム・ブルーナーなどが名を連ねていました。

しかも、こういう大物たちに加えて、東欧、南米、アジアの執筆陣にもきちんと目を配っていて、たんに西洋中心の心理学にする気がないことも伝わってきました。むしろ、メインストリームの心理学に潜む西洋中心主義を乗り越えようとする意図が明白に読み取れます。こういう良心的な書籍を編集できる研究者は、なかなかいません。後日ジョヴァノヴィッチさんの仕事の幅広さを知るまで、なぜここまで広範囲の人々を結び付けられるのだろう、と不思議でした。

ともあれ、そういう事情なので私も喜んで寄稿しました。ちょうど「日本的自己」のあり方を批判的に考えていたタイミングだったので、書く作業を通じてしっかり考えてみたかったのです。1970〜90年代ぐらいまでのいわゆる「日本人論」の文脈では、日本的自己は西洋的自己との対比で、その特殊性やユニークさが強調されていますが、私はこれを批判的に考え直したいとつねづね思っていました。

日本的自己は西洋的自己のように確固とした境界を持った「個体」ではなく、関係依存的であるという指摘がよくなされます(それこそ、戦前の和辻哲郎やルース・ベネディクトの時代から一貫しています)。それはそれで間違いではないとしても、それが日本文化に特有の自己のあり方である、というところで考察が閉じてしまうと、現代においては大変まずいのです。たんに文化の違いを強調して終わりになってしまって、異文化との対話の通路を開く試みになりません。日本的自己の特徴を描くにしても、それが西洋的自己と共通のフォーマットの上で違っているという論じ方ができなければ、今日必要とされる日本文化論にはなりえません。

現象学的身体論から見れば、関係的であるか個体的であるかは、身体的経験の焦点づけの違いであって、本質的な違いではありません。「私の身体」には、自己にとって知覚的客体として現れる側面と、他者にとって知覚的客体として現れる側面があります。前者が焦点化されれば、身体は自己内関係で閉じるので、個体的経験として構成されます(I-me です)。後者が焦点化されれば、身体は自他関係でしか成立しないので、関係的経験として構成されることになります(I-me-othersですね)。とりあえずここまででもきちんと記述できれば、日本的自己は、たんに日本的な特殊性として描かれるだけでなく、他文化における自己と共通のフォーマットで語る端緒が得られます。

…と、そんなことを原稿に書かせてもらいました。出版が待ち遠しいのですが、今日伺った話だと今年中の出版は難しいみたいです。できるだけ早く出版されるといいのですが。Routledgeから刊行が予定されています。

た

2017年1月25日水曜日

雑誌『こころの科学のエピステモロジー』

ちょっとフライング気味ですが、進行中のプロジェクトのお話。

2015年、2016年と2年続きでエンボデディード・アプローチ研究会と合同開催している研究会があります。「心の科学の基礎論」研究会です。

研究会HPの冒頭にはこう書いてあります。

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「心の科学の基礎論」研究会は、自然の科学と同様の意味で心の科学は成立しうるのか、 科学的認識の主体である人間が自らを科学的に認識するとはどういうことか、 そもそも心とは何か、等々の根源的問題を、心理学2500年の歴史と、人工知能・神経科学など 最先端科学の成果を共に踏まえて根源的・徹底的に論じ合うための場として発足した研究会です。
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崇高すぎるくらい崇高な設立趣旨ですね(笑 

まあでも真面目な話、「科学的に心をとらえる」といっても自然科学のように対象を明確に分離して観察できないので、最初から難しい論点が含まれています。だから心理学基礎論とか、「心理学の哲学」といった議論がどうしても必要なのです。私が現象学から出発して、身体との関係を考慮しながら心の問題を問うているのも、こういう事情があります。

しかも、哲学に踏み込むようなそうした科学基礎論的な議論は、先端的な研究のほうが問題になりやすいのですね。安定した研究を可能にする実験パラダイムが一度できてしまうと、現場の研究者は方法論に関する難しい議論はパスして、目先の実験条件を変えることで新しい結果を出そうとする方向に流れますから。

事情は臨床心理学でも変わりません。認知行動療法や精神分析のように安定した臨床上の技法ができてしまうと哲学的な基盤はあまり顧みられなくなりますが、そもそも目の前のクライエントの状態を理解するとはどういうことなのか、治療的介入がなぜ可能なのか、原理的に考えてみる必要はあります。

で、本題です。ここの研究会の世話人メンバー(私もその一人です)で、新しいジャーナルを立ち上げようという話になっています。『こころの科学のエピステモロジー』です。けっこうクールな誌名だと思いません?

今年は国際理論心理学会が8月に東京で開催されますし、日本でも心理学の基礎論や心理学の哲学に関心が高まる一年になると思います。

理論心理学会で発表を予定している皆さんは、ぜひ「心の科学の基礎論」研究会でも発表してください(発表者は随時募集しているので私にご相談いただければOKです)。ジャーナル紙面の一部は、研究会での発表内容を論文化したものに割く予定です。

た


*2017年5月27日追記
その後、多少の紆余曲折があって、ジャーナルの名前は『こころの科学とエピステモロジー』に変更になりました。「こころの科学」「エピステモロジー」の両者を結ぶ助詞が「の」から「と」になっただけですが、しかしこの一字が変わるだけで、目指すものがだいぶ変わる可能性はありそうです。

2017年1月23日月曜日

アーカイブの資料追加(Blanke & Metzinger, 2010)

研究アーカイブに資料を追加しました。今回は以下の論文。

Blanke, O., and Metzinger, T. (2010). Full-body illusions and minimal phenomenal selfhood. In T. Fuchs, H. C. Sattel, P. Henningsen (Eds.), The embodied self: Dimensions, coherence and disorders (pp. 21-35). Stuttgart, Germany: Schattauer.

いわゆるミニマル・セルフ(最小限の自己)を扱った論文ですが、著者らはこれを「Minimal Phenomenal Selfhood(MPS)」と概念化して、(a)全身への同一化、(b)自己の位置、(c)弱い一人称視点、という3つの特徴から定義しています。

そのうえで、体外離脱体験のような神経病理や、実験的に誘発されるフルボディ錯覚において、MPSがどう変容するのかを論じています。

理論的に興味深いのは最後の部分でしょう。ギャラガーのミニマル・セルフの議論では「所有感」と「主体感」が構成要素として必ずあげられますが、本稿の著者ブランケらは「所有感」だけが自己の必要条件であって「主体感」は不要(正確には、自己の必要条件ではなく十分条件)だと言っています。

本当にそう言えるんでしょうか。直接経験から出発する限り、これは怪しい議論に見えます。一方、ラバーハンド錯覚のような実験状況から出発して考えると、そういう考え方もありかもしれません。また、直接経験といっても、自発的な行為ではなくて反射運動のようなケースを中心に考えると、所有感はあっても主体感は不要だと言える面はありますね。
 
それにしても今日のハイデルベルクは寒い。もう昼なのに外気はマイナス6度。霧が立ち込めています。

た

2017年1月20日金曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的な心』10章)

研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。


この本の10章、久々に読み返しました。現象学をベースに、心理学、神経科学、発達、精神病理との関連で自己に関する議論がコンパクトにまとまっています。ナラティヴ・セルフについて考える手がかりが欲しくて読み直しましたが、どちらかというとミニマル・セルフの問題のほうが中心ですね。

ちなみに、いま・ここで進行中の経験にともなう「わたし」という感じ(自己感)は、もうすぐ出版される私の著作のテーマでもあります。経験にともなう自己(生きられた自己)は、経験をふりかえって反省するととたんにつかまえどころがない感じがしてきますが、進行中の経験においては「主体感 sense of agency」や「所有感 sense of ownership」を通じてちゃんと成立しています。これは、そうそう簡単に壊れることのない(たぶん有機体のものすごく基礎的な次元が壊れない限り壊れることがない)、とても強靭な自己です。

た

2017年1月18日水曜日

ナラティヴ・セルフと実存

以下、メモ。
ナラティヴ・セルフをめぐって、身体性の問題とどう絡めて論じるべきか思案中。

  • ブルーナー(1986)が人間の思考の様式を「論理・科学的様式」と「物語(ナラティヴ)的様式」とに区別して以来、ナラティヴは人間科学の重要な論点であり続けている。
  • ナラティヴは、さまざまな出来事を有機的な物語として結びつける点で、記憶にもとづく自己同一性の感覚を説明するのに応用されてきた(「ナラティヴ・アイデンティティ」)。→McAdams, 1993など。
  • 自己がナラティヴを通じて構成されるものだという議論に関して、次の2点を区別して考えるべきだろう。
  • 1)ナラティヴは「語り」であり、「語り手-聞き手」関係をそこに内包している(自己内の語りだとしても同様)。だとすると、ナラティヴが形成する自己(ナラティヴ・セルフ)は必ず「関係的 relational」である。「私」は、聞き手との関係において構成される存在である。→ガーゲン「Relational Self」,ハーマンス「Dialogical Self」
  • 2)ただし、ナラティヴ・セルフが「関係的」であることは、それが聞き手との関係のみに依存して作られることを意味しない。人生には、誕生・病・死のように、「語り尽くせない出来事」が含まれる。また、それらをめぐって、人はみずからの「実存的感覚 existential feeling」を保持している。→ラトクリフ「existential feeling」
  • 実存的感覚は語り尽くせず、ナラティヴにそのすべてが反映されるわけでもない。にもかかわらず、人はそれについて語るよう差し向けられている。「ナラティヴ・セルフ」を個的実存まで掘り下げて概念を拡大する必要がある。

2017年1月15日日曜日

英文5000ワード

原稿一件、書き終えました。英文5000ワード。

しばらくぶりにこの字数で書いてみて分かりました。日本語で原稿を依頼されるときの「原稿用紙30枚」の制限で書くのと感覚的には近いです。文字数なら11000字前後でしょうか。

何が近いのかというと…本格的に論を展開する前の段階で規定の文字数に来てしまう感じです。後半まで書き進めて最後は書きながら考える、というやり方で、ある主題について創造的に考える作業はできない文字数です。

そんなの個人的な感覚だろ…と言うことなかれ。字数という枠組みがアフォードする思考のスタイルは必ずあります。ツイッターの制限つき文字数で書かれることを見ているとよく分かる気がしませんか?

この原稿、もともとは発表原稿に手を加えて論文集に入稿するという企画ものに誘われていたのです。が、事情あって発表そのものが実現しなかったので、発表用に作ったアブストラクトをもとに一から書きました。アブストラクトはここに載せてあります。
http://embodiedknowledge.blogspot.de/2017/01/the-unrealized-talk.html

内容は…またにします。とりあえず英文5000ワードで書くことがどういうことか分かったので、ここに記録しておきたいだけだったのでした。関心のある方は出版をお待ちください。2018年にオランダのBrillから刊行される予定です。

た

なぜドイツ?

なぜドイツにいるのか、知り合いから質問されることがあります。

今回は科研費の「国際共同研究加速基金」というファンドの助成でこちらに来ていて、現在は主に「身体性と自己意識」について研究しています。が、寄せられる質問の意図はそういうことではありません。もともと身体論が専門でメルロ=ポンティを主に参照しているならフランスに行きそうなのになぜドイツなの?、という意味です。

以前こんな文章を某学会のニュースレターに書きました。前回、2013年〜14年にかけてドイツに滞在したときに書いたものです。いま同じ場所に来ているのも、前回滞在したときに充実した研究ができたという理由によります。

というわけで、以下再録です。次に同じ質問をされたらこのページのURLを教えることにします(笑

た

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 2013年10月から、独ハイデルベルク大学(社会精神医学センター・現象学セクション)にて在外研究中である。「身体論が専門でメルロ=ポンティを読んでいるのに、どうしてフランスではなくてドイツなのか?」――多くの知人からそう聞かれた。

 話せば長くなるが、ぐっと圧縮して書くと次のようになる――。私はもともと心理学方面から身体論を吸収してきた。「身体」という基盤から出発することで、種々の心の機能をどのように理解し直すことができるのか、また、心の概念を総体としてどう刷新することができるのか、そうした関心のもとで研究を進めてきた。いわゆる「身体性認知 embodied cognition」や「身体化された心 embodied mind」の領域にメルロ=ポンティ現象学からアプローチすること、これが私の研究である。

 しかしこの研究、分け入って探求を進めるほど、問題が心身関係だけに閉じていないこと、また閉ざすべきでないことがよく分かってくる。身体は心と関係しているだけでなく、外部の環境や他者の身体とも関係している。この点の延長線上に「他者の心はどう理解できるか」という問いが待ち受けている。これは心理学方法論にかかわる問いでもあるし、哲学で他我問題として論じられてきたことにもかかわる。現象学では間主観性の概念のもと、フッサール以来多くの議論が重ねられている。

 私の専門からはそれるが、脳神経科学も部分的にこれと並行して興味深い進展をたどっている。知覚や記憶といった心の機能(一人称)を脳の活動(三人称)と対応させて理解することが脳研究の基本的な枠組みだが、近年、ミラーニューロン研究の進歩とともに、問いの様相が一部でダイナミックに変化している。ミラーニューロンの説明は字数の関係で省略するが、重要な論点のひとつは、身体性と行為を媒介して複数の脳が共鳴するということ(二人称)が、さまざまな事象に沿って明らかにされつつある、ということだ。

 ミラーニューロン以外にも心の理論や自己・他者認知など個別のトピックは多々あるが、心理学・認知科学・神経科学といった心の諸科学では、二人称的観点や間主観性に深くかかわる社会的認知social cognitionが近年クローズアップされており、身体性の観点からこの問題にどう切り込んでいくかは、心の科学にとって重要な課題なのである。

 さて、ハイデルベルクである。現在ヨーロッパでは、5カ国8大学(フランスには提携機関がない)を結ぶ学際的研究プロジェクト「Towards an Embodied Science of Intersubjectivity(略称TESIS,間主観性の身体化された科学に向かって)」が進行している。上に述べた課題をまさに追究しているプロジェクトなのだが、その中心的拠点がここハイデルベルク大学に置かれている。TESISはきわめて学際的で、現象学を理論的基盤として重視しながらも、神経科学、発達心理学、認知科学、精神病理学といった心の諸科学と密接に連携して研究が進められている(ここはもともと現象学的精神病理学の世界的拠点である)。

 ともあれ、身体性・間主観性・社会的認知を結ぶ研究を進めるべく、私はここハイデルベルクに滞在している、というわけなのである。
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2017年1月9日月曜日

『現象学的心理学への招待』PDF

帰国後、某所で教える予定になっている科目のシラバス書き。

心理学の哲学に関する科目なので、せっかくだから現象学的心理学を教えることにしました。昨年7月に『現象学的心理学への招待』の邦訳を刊行できたこともあるし、教科書に使うにはちょうどいいかと思った次第です。

それで、久しぶりに刊行元の新曜社のページにアクセスして気づいたのですが、この本、目次と日本語版の序文だけではなくて、第2章の途中(11ページ)までPDFで読めるようになっていたのですね。気づかなかった…というか教えといてくださいよ、新曜社さん。

ここのページ(『現象学的心理学への招待――理論から具体的技法まで』)にある「ためし読み」という青いボタンをクリックするとPDFに飛べます。タダなのでアクセスしてみてください。第1章はすべて読めるという気前の良さ、素晴らしい。

訳者解説にも書いたのですが、現象学的心理学って、哲学的基礎から具体的な研究法までコンパクトにおさえた本が少ないんですよ…。日本語で読めるものと言えば、ラングドリッジさんが書いたこの本か、あとはジオルジ『心理学における現象学的アプローチ』くらいのものです。

いずれも、心理学を質的研究としてやってみたい方、とくに哲学的な裏付けのある質的研究を学んでみたい方にお勧めします。


た

2017年1月6日金曜日

ISTP・第17回大会

このページにたどり着いている方ならすでにご存知かもしれませんが、2017年8月に立教大学で国際理論心理学会(ISTP)の第17回大会が開かれます。

もうすぐ発表申し込みが締め切り(2017年1月末)ですが、まだ十分間に合います。大学院生や研究者のみなさん、ぜひ発表してください。詳しくは、大会のCall for Papersのページでご確認ください。

理論心理学ってそもそもどんな分野? と思う方もいるかもしれません。このページが簡潔で分かりやすいです。


作成されている五十嵐氏は、日本の研究者のなかではISTPをとてもよくご存知の方の一人だと思います。

心理学は、そもそも方法論が不安定な分野なので理論的な検討がつねに欠かせません。私は現象学を土台にしていますが、ISTPには、批判理論、フェミニズム、社会構成主義、ポストコロニアル、クィア、進化論、等々、かなり多様な背景の方が集います。現代思想の多様性をそのまま反映しています。

そんな場所で議論がかみあうの?、という素朴な疑問もありそうですが、これが不思議とかみあうのですよ。

私は2009年の南京での大会に一度参加しただけですが、私の印象では、たいていの参加者が心理学の歴史について一定の認識を持っていて、それを「心とは何か」「心をどう理解するか」という哲学的な問いと結びつけて理解しているように見えました。理論的背景は多様なのですが、問題意識がかみあっているので議論になるのですね。

というわけで、皆さまの参加をお待ちしています。

た

2017年1月3日火曜日

仕事はじめ

今日は2日でした(時計の上ではすでに日付が変わって3日です)。

ドイツでは普通に仕事はじめの人もけっこう見かけます(クリスマスは国民的休暇ですが)。私も昼から普通に仕事。年末にいちど書き上げた依頼原稿の手直しでした。所属先の研究所が発行している『文明』という雑誌の依頼原稿です。昨年7月に「文化心理学ワークショップ」というイベントを開催したので、その報告。以下、その一部です。
 
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 「文化心理学」という名称を最初に聞くと、多くの方は「異文化との出会い」や「文化の違い」といったイメージを持たれるのではないかと思う。グローバル化が進展しつつある社会においては、「文化」という言葉や概念そのものが、異文化に接触する経験と、そこから反省される自文化のあり方、というしかたで焦点化されやすい。心理学でもこうした発想にもとづく研究は「比較文化心理学(cross-cultural psychology)」と呼ばれる分野でなされている。特定の心理作用について、異なる文化的背景を持つ研究参加者のデータを収集・比較し、文化が心のはたらきに与える影響を明らかにしようとする研究である。
 しかし、文化心理学はこうした見方に立つものではない。比較文化心理学は、「文化」がその内部にいるメンバーに対して均質に作用し、その外部のメンバーに対しては異質に作用することを前提としている(詳しくは次を参照:J・ヴァルシナー『新しい文化心理学の構築』サトウタツヤ監訳,新曜社,2013年)。ところが、全メンバーの均質性を想定できるほど現代社会は単純ではない。各メンバーが多様な組織・集団・制度にまたがって生活を送る複雑な社会である。そうした社会で、過度に一般的な「●●文化」というラベルのもとで集団間の比較を行っても、得られる知見の信頼性にはおのずと限界がある。
 ただし、人間の生にとって、また、それと切り離せない心のはたらきにとって、文化は無視できない重要な要因である。そこで文化心理学が着目するのが「記号」である。記号は、交通信号から呪術的な象徴まで、それ自身とは別の何かをあらわす。ヴァルシナー氏の著作には、哲学者パースの記号論の引用に続いて、次の印象的な一文が登場する——「記号は心によって作られ、心は記号を通じてはたらく」(p. 29)。私たちの心は、意味を伝える存在としての記号を生み出すとともに、その記号を通じて記憶や想像や思考といった高次の機能を実現している。文化は、心の外側にあって人々の行動を型にはめる鋳型のようなものではなく、むしろ、心に内在して心の機能そのものを可能にする記号の総体である。
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ヤーン・ヴァルシナーの仕事は、日本ではあまり良く知られていないと思います。邦訳が2013年に出て少しずつ知られてきているところでしょうか。恥ずかしながら私もそれほど深く知らなかったりします。が、英語圏、とくに理論心理学の界隈ではけっこうな大物感がある人物です。関心のある方は彼の上記著作に触れてみてください。

私自身は、自分が文化心理学をやっているとは思っていませんが、身体性と文化について考える必要があるとこの1〜2年ぐらい強く思っています。比較文化的なアプローチではなく、ひとが文化を身体化する過程を考えてみたいのです。道具が身体化されるというのは身体論の世界では常識ですが、道具の延長で言語と記号がどう身体化されるのか、具体的なトピックを題材にして読み解く作業が必要だと思っています。

た


2016年から2017年へ

年頭なので、2016年のカレンダーを見ながら去年の仕事を振り返っています。

2月:研究会で話題提供2件,グラント申請1件(残念ながら不採択),訳文校正(1章分)→8月に出版(「現象学と精神病理学」)
3月:道徳心理学コロキアムで講演,感性工学会で発表,執筆(単著1章分),査読1件
4月:依頼原稿1件→5月に出版(「拡張した心を超えて」)
5月:エンボディード・アプローチ研究会のオーガナイズ1件
3月〜7月:断続的に訳書を校正→7月に出版(『現象学的心理学への招待』)
7月:研究会で話題提供1件,文化心理学ワークショップのオーガナイズ&司会,ICP 2016のシンポジウム(オーガナイズしたシンポジウム1件・シンポジウムでの報告1件),エンボディード・アプローチ研究会の司会&報告
8月:シンポジウムでの指定討論1件,グラント申請1件,執筆(単著1章分),査読1件
9月:翻訳(1章分),執筆(単著1章分),依頼原稿(英文1件),グラント申請(1件)
10月:グラント申請(1件),執筆(単著1章分)
11月:ワークショップで指定討論1件,査読1件(英文)
12月:訳文チェック(1章分),単著の全体チェックと修正,論文投稿(英文1件),学会発表用のアブストラクト作成(4件),依頼原稿(1件)

…という感じで、話すのも書くのも、グラントの申請まで含めてかなり多産な一年でした(グラントは「科研費」のようにはっきり名称を書くとまずいので「グラント」としてあります)。4月〜7月の春学期は大学院の授業も含めて週11コマ持っていたので、これだけ研究がはかどれば御の字。

8月下旬にドイツに来てからは、授業からも学務からもほぼ解放されているので、ここぞとばかりに研究に打ち込む日々を送っています。つねに研究室・図書館・自宅のどこかで何かしら読むか書くかしているので、文字どおり研究三昧です。しかも研究の合間に日本ではほとんどできない家事ができるので、それもささやかな楽しみになっていたりします。知人には「そういう単調な生活で飽きません?」と聞かれますが、私はぜんぜん。日本に帰るとこんな時間は二度と来ないかも、なんて思うとこの瞬間がもったいなくてしかたがない。

こちらに来て単著を書き上げる時間が取れたのは幸いでした。すでにあとがきも書き終わっていますから、あと数ヶ月で出版されると思います。博士論文を出版してからもう10年以上になるので、まとまったものを出版するのはずいぶん久しぶりなのですが、それでも、分量だけなら過去5年間ぐらいで単著1冊は文字数で上回る量の論文を書いているので、長大なものを書いた、という感じはあまりしていません。今の自分の考えをやや長めにまとめた、という感じに近いです。そのうちここでもう少し踏み込んで内容を紹介します。

今年の大きな予定は、単著を出版することと、ドイツを発つ前にこちらでの成果を英文で論文にまとめること、あとは帰国後に国際理論心理学会(ISTP)の大会を無事に終えることです。大会が終わった後もいろいろと仕事の予定は入っていますが、まずは8月の帰国までと、帰国直後の学会運営です。今年もよろしくお願いします。

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