2017年5月16日火曜日

アーカイブの資料追加(『現象学的心理学への招待』1-5章)

研究アーカイブに以下の資料を追加しました。
  
D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第1-4章)新曜社

D・ラングドリッジ (2007/2016). 田中彰吾・渡辺恒夫・植田嘉好子訳『現象学的心理学への招待-理論から具体的技法まで』(第5章)新曜社
 
今回の資料は、ダレン・ラングドリッジ『現象学的心理学への招待』の要約です。先日、能智正博先生が主催する臨床心理学研究会という集まりに初めて参加しました。この本を取り上げて読書会を実施するので、田中は訳者ということでお声がけいただいたのがきっかけでした。

渡辺先生、植田先生、田中と、訳者3人はそろって参加したのですが、東大の会場まで足を運べたのは渡辺先生のみで、植田先生と田中はスカイプで加わりました。開始が14時だったのでドイツは朝7時(!)でした。いや、朝7時は普通に起きていることのほうが多いのですが、この日は前日に全編をもういちど読み通すという作業をやっていたら終わったのが深夜3時前で、実質3時間ぐらいしか寝ていなかったのでした。

しかしこうして学び直すと得るものは多いです。参加できて幸いでした。というのは、訳者であっても、原著の理解に行き届かないところは残るのですよね。翻訳するときには原文をできるだけ明示的に理解するよう努めていますが――この場合の「明示的」は、著者の主張を日本語にして、さらにそれを自分の言葉で語り直すことができるくらい、というのが目安です――自分の得意でない分野を扱っている箇所はそこまでの明晰さがなかなか及びません。読書会で他の人のコメントを聞いたり、自分で説明を加えたりしながら、暗黙の理解にとどまっていたことが改めて明示的な理解に転換したポイントがいくつかありました。
 
今回は、能智先生のご協力でレジュメを当サイトの資料としてご提供いただきました。当初の予定では読書会当日に最終章まで読み切ることになっていたそうですが、内容がなかなかハードなので、今回は前半5章までで終了しました。レジュメは、1~4章を能智先生が、5章を博士課程の横山さんが担当されています。

次回は6月10日(土)だそうです。次回のみの参加も可とのことですので、ご関心のある方は田中までお問合せください。現象学に裏付けられた質的研究に関心のある皆さんにとっては、心理学を専門にしていてもいなくても、学ぶことがとても多い本だと思います。

2017年5月11日木曜日

意識とギャップ/意識のギャップ

イスラエルで「From Body to Self in Virtual Reality」というシンポジウムに参加してきました。

細々したことは省きますが、ヴァーチャル・リアリティに関する発表と離人症に関する発表をつづけて聞いているうちに、意識の問題にまつわる本質的なことを考えさせられました。自分自身の発表では意識の問題は正面から扱わなかったのですが、潜在的にはこのことを考えたかったのだなぁ、と気づかされました。

離人症では、いわゆる「脱現実感(derealization)」がしばしば生じます。自己が世界から離脱して、まわりの世界を傍観している感じです。当事者は「世界に霧がかかっているような感じ」「世界にありありとした現実感がない」といった表現をよく使います。もう少し踏み込んでいうと、脱現実感は、自分が現実(リアリティ)にうまくフィットしていない感じ、自分がいつものように世界と(情動と身体を介して)触れ合っていない感じをともないます。
 
ここには、ヴァーチャル・リアリティを考えるうえで大きなヒントがあります。ヴァーチャル・リアリティでは、ヘッドマウント・ディスプレイを使って、いつもとは違う現実にアクセスしますが、そこに強い没入感が生じます。脱現実感とはまったく逆に、自己が仮想現実に吸い込まれるような感覚が生じていて、離人症とは逆の事態が起きているように見えるわけです。
 
かたや、現実から自己が分離して、現実が現実っぽさを失う経験。
かたや、仮想現実に自己が没入して、非現実が現実っぽく感じられる経験。
 
しかしながら、どちらも、意識のはたらきの本質にかかわる面があります。というのも、「意識があること」とは、いまここで私の前に世界(現実)が現れている経験に他ならないからです。「意識がない」状態と比べてみてください。私がいないだけでなく、世界も開けていませんよね。
 
ところで、私の前に現実が現れてくるには――言い換えると、私が現実に気づくことができるためには――「私」と「現実」のあいだに「裂け目(ギャップ)」がなければなりません。意識が意識として(つまり、何かに気づいている作用として)はたらきはじめるには、ギャップが必要なのです。
 
VRの場合、このギャップが予想される以上に小さいために没入感が生じるのでしょうし、逆に、離人症では普段以上にこのギャップが大きくなるので「何を経験しても自分のこととして感じられない」という事態になるのでしょう。VRは、離人症の治療に応用できる可能性が十分あるように思います。
 
しかし、このギャップ、私と世界の「裂け目」(メルロ=ポンティ風に「裂開」と言ってもいいですが)は、どのように説明することができるのでしょうか。たんに抽象的な説明としてではなく、VRや離人症のような具体的経験に即して言語化するとすれば、どのような説明が可能なのでしょうか。かつて木村敏氏が「現実」をリアリティ(reality)とアクチュアリティ(actuality)、あるいは「もの」と「こと」という対概念で説明しようと試みています。ひとつの重要な手掛かりになるように思います。
 
とはいえ、これだけでは技術、実験、治療といった具体的なレベルの問いにまだ落とし込めません。たとえば、オキュラス・リフトには加速度センサーが組み込まれていて、首の回転速度に対応して見えを変化させることで、没入感が強まる仕組みになっています。これは「ギャップ」を小さくする技術レベルの仕掛けと言えます。現実の現実感は、知覚を生じさせる身体の基礎的なメカニズムに深くかかわっています。
 
…とりとめがないのでこのへんでやめます。ともあれ、深く考えさせられるシンポでした。関係者にこの場を借りてお礼を申し上げ…って書こうとしましたが、日本語を読める関係者は誰もいないのでした(笑
 

 

2017年4月28日金曜日

ミニマル♪

拙著のカバーデザインができたそうです。
 

シリーズものの一冊(「心の科学のための哲学入門」)なので基本になるデザインは既刊に合わせてあるそうなのですが、それにしても本文の内容にぴったりなデザインになってます。
 
というのも、信原先生の的確な推薦文にもありますが「すべての外皮を剥ぎ取った根源の自己を開示」する書なので、余分な色がないほうが内容に見合っているのです。実際、帯も「剥ぎ取って」あげるとこんな感じになります。
 
これ以上なくシンプルですよね。この、ほとんど寒々しいほどにミニマルな感じ、素晴らしいです。ミニマル・セルフを扱ったこの本にぴったりです。デザインしてくださった関係者に改めて感謝です。
 
ところで、これを見ていて、博士論文を書いていたころの自分を思い出しました。私の博士論文はユングの共時性を扱ったものだったのですが(『<意味のある偶然の一致>の現象学』)、ユングの回りくどくてゴテゴテとした文体が苦手(というかはっきり言うと嫌い)で、そういうのを全部脱色して骨格だけを残すとどうなるのか、という思考の実践を書きながらずっと模索していました。
 
当時、たまたま友人が貸してくれて耳にしたミニマルミュージックは、そういう思考にとてもよくフィットしました。スティーヴ・ライヒやテリー・ライリーの音を小さい音でBGMにして流しながら深夜に博士論文を書く作業を何度も何度も何度も何度も何度も…繰り返した記憶があります。
 
記憶の話をしていますが、当時を懐かしがっているわけではありません。そういうことではなくて、音楽であれ思考であれ、ミニマルなものの探求は、最小のユニットに全体を還元できるかどうかという方法論的探索を含むので、知の探求にとって重要だということです。理論的な観点において「要素主義」や「原子論」ではなく「ゲシュタルト」や「全体論」が重要なのは言うまでもないのですが、それは、還元的なやり方で全体をいちどバラしてみるからこそそう言えるわけです。
 
ミニマルミュージックを聞いて文字通り感動するような人はあまりいないと思います。が、ミニマルな音の良さがわかる人はメロディやハーモニーの豊かさを格段によくわかるのではないかと思います。自己アイデンティティの問題もそれと同じで、ミニマルな自己までそぎ落として自己が理解できるとき、自己という現象の複雑さと豊かさが初めてわかるのではないでしょうか。「私」がいま・ここに存在することは、それじたいで驚異的なことです。
 

 

2017年4月26日水曜日

イスラエルに行ってきます

もうすぐイスラエルに行くのでその準備。「From Body to Self in Virtual Reality」というなかなか刺激的なタイトルのシンポジウムに呼ばれたので行ってきます。

主催のドロン・フリードマンという方がどんな仕事をしているのか知らなかったので調べてみたのですが、ブレイン-マシン・インタフェース(BMI)とかVRとか、ヴァーチャル・ボディ系(と言っていいのかな、まあ、考えることで外部機器やVRを操作する類の研究です)の方みたいです。その方面ではけっこう知られている方のようですね。シンポのタイトルが「From Body to Self」なのは、つまり、身体から切り離された自己が可能なら、その自己は外部機器やVRに接続しうる、という発想なのでしょう。

私に声がかかったのは、いま離人症を研究しているためです(…と、思います)。離人症では変則的な身体経験がいろいろ生じますが、もっとも顕著なのは自分が身体から離れているように感じるという症状なのですね。少し離れたところからぼんやり自分を傍観しているような状態が生じることが多いと言われます。

これは一方できわめて心身分離的な状態に見えます。他方で、BMIで探索されているのも、ある種の心身の分離と言える面があります(本当は違うように思われますが詳細はまたいつか)。身体が麻痺しても、脳の活動を外部機器に接続して、コンピュータやロボットを動かすことで人工身体を稼働させる研究ですからね。四肢麻痺状態の方でも脳と外部機器を接続して動かしている風景がもっと一般的になる時代もそう遠くないのだろうと思います。

それで、先日ジャーナルに投稿した論文の内容を話すことにしました。離人症で生じる心身の分離体験と、フルボディ錯覚で生じる体外離脱的な体験が似ているのか否か、現象学的に検討しているので、たぶんシンポジウムの趣旨にも合致するんだろうと思います。身体所有感が低下して自己と身体の分離が生じる点は両者とも似ていますが、「どこ」に自分がいるかをはっきり感じられるか否かでは違っています。この「どこ感」まで突っ込んで議論できると、タイトル通りに刺激的なシンポになりそうです。



2017年4月24日月曜日

胸熱。

出版社の配慮で、もうすぐ発売になる拙著『生きられた〈私〉をもとめて』に、推薦文入りで帯をつけていただけることになりました。アマゾンからそのまま引っ張りますが、こんな一文をいただいています。

◆推薦のことば
すべての外皮を剥ぎ取った
根源の自己を開示。
表層的なアイデンティティ論を乗り越えた
果敢な哲学の挑戦。
信原 幸弘(東京大学大学院総合文化研究科教授)
 
この本で書きたかったことの核心を、ごく限られた数行で、しかもかなり的確に凝縮していただきました。ありがとうございます、信原先生。

個人的には「果敢な哲学の挑戦」というフレーズが、かなり胸熱です。このブログでも何度か「青い読者」に向けて書きました、という言い方をしていますが、その意を汲んでいただいたように感じています。心の科学の現在の知見を確認しながら「答えのない問い」をめぐって思考を展開することを試みた本ですから(もっとも、その裏側で、心の科学のさらなる進展を後押ししたくて書いている箇所もありますが)。

なお、北大路書房のWさんとも相談しているのですが、この本の持っている熱に見合うイベントを何かやることになるかもしれません。それこそ「青い読者」に届きそうな場所で。
 

 

2017年4月19日水曜日

アーカイブの資料追加(離人症・書籍リスト)

研究アーカイブに資料を追加しました。

 *離人症・関連書籍

離人症に関して出版されている主な書籍のリストになっています(論文は多すぎるので収録していません)。この資料は、知人の芹場輝さんが主に作成し、田中が少し加筆したものです(ご協力ありがとうございました)。今後、芹場さんが各書籍について100字程度の簡単な要約をつけてくださる予定になっています。期待しましょう。
 
書籍のタイトルをざっとみてもらえると何となくわかるかもしれませんが、この領域の研究は、精神科領域の方が書いたものと、当事者の手記によるものに大別できます。ただ、じっさいに読んでみると、両者のあいだにある種の「溝」のようなものがあることに気づきます。当事者側からすると、精神科医に症状がうまく伝わらないもどかしさがあるように見えますし、医療者側から見ると、客観的に症状がとらえづらく、当事者の言葉だけからすると他の病気と類似する面が多々あるように見えるのではないでしょうか(うつやPTSDや統合失調など)。現状では、症状を記述する言葉が依然として十分ではないように思います。

ところで、このサイトでは今までこうした文献リストは作成していませんでしたが、これを機に取り組んでもいいかもしれませんね。作成したいトピックがある方は田中までご連絡ください。
 

 
 
2017/4/27
和書のリストについて、芹場さんが早速内容紹介を作ってくれたのでファイルを更新しておきました。書籍への手引きとしてとてもよい案内になっていると思います。離人症について理解を深めたい皆様、ぜひ手に取ってみてください。

2018/6/13
以前公開していたリストが大幅に増補して更新されたので、上記のリンクを解除しました。以後は以下のリンクから新しいリストに進んでください。
 *離人症・関連書籍


 

2017年4月16日日曜日

拙著は5月末発売だそうです

拙著のことで北大路書房のWさんから連絡。先月末に二校の校正が終了した原稿はその後ぶじに校了したとのこと。発行が5月中旬、発売は5月末になるそうです。個人的にお問い合わせいただいている皆さま、お待たせしていますがもう少しです。
 
近刊情報が今日から確認できるとのことだったので、確認してみました。アマゾンのページよりは「版元ドットコム」のページのほうが見やすいですね。それに、目次情報が小見出しまで入っていて詳しいです。書影はまだ先になるんでしょうか。二つのサイトからコピペして情報をそのまんま引っぱりますが、こんな感じの紹介になってます。
 
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(心の科学のための哲学入門4)
『生きられた〈私〉をもとめて――身体・意識・他者』
田中彰吾(著)
¥ 2,484
単行本: 264ページ
出版社: 北大路書房
ISBN-10: 476282965X
ISBN-13: 978-4762829659
発売日: 2017/5/29
 
<内容紹介>
現象学的な立場から,アイデンティティを「私が私であること」と理解し,根源的な場面まで遡ってその根拠を考える。ラバーハンド・イリュージョン,離人症,ブレイン・マシン・インタフェース,心の理論など,読者の常識を揺さぶるような「心の科学」のトピックを織り交ぜながら,「自己とは何か」についての思考実験を行う。
 
<目次>
 序文 自己アイデンティティをとらえなおす
 
【第1部 自己の身体性】
第1章 身体と物体
 ラバーハンド・イリュージョン
 実験のヴァリエーション
 離人症
 離人症の「特異な身体経験」
 身体は錯覚?
 身体の「ここ」性
 次章への移行
第2章 自己の身体と他者の身体
 身体の麻痺
 身体パラフレニア
 失認と妄想
 させられ体験
 イメージと意図
 次章への移行
第3章 鏡に映る身体
 身体イメージとは何か
 視点の問題
 チンパンジーの鏡像認知
 赤ちゃんの場合
 他者・自己・鏡
 反省的自己をめぐって
●問いと考察
Q 1-1 身体のない自己というものを考えることはできるだろうか?
Q 1-2 身体を部分的に失うと、自己には何が起きるのだろうか?
Q 1-3 死ぬことで身体が失われると、自己はどうなるのだろうか?
 
【第2部 意識と脳】
第4章 意識・夢・現実
 意識があるということ
 「無・意識」
 意識と世界
 明晰夢
 現実
 夢見の身体性
 目覚めること
第5章 脳と機械を接続する
 ロボラット
 ブレインゲート
 ニューラル・オペラント
 BMIと脳の可塑性
 意図とは何か
 身体イメージを技術化する
第6章 共感覚
 共感覚について
 声に形を感じる
 共感覚の判定基準
 共感覚の位置づけ
 すべての知覚は共感覚である?
●問いと考察
Q 2-1 意識は、脳の活動から生じるのではないのか?
Q 2-2 心は脳に宿っているのではないのか?
 
【第3部 他者の心】
第7章 問題としての他者
 他者の心の問題
 再び意識について
 他者の心は存在しない?
 心の科学の出発点
 類推説の問題点
 次章への移行
第8章 心の科学と他者問題
 初期の科学的心理学
 行動主義
 認知科学の成立と心の理論
 誤信念課題
 他者理解の豊かな回路
第9章 他者理解を身体化する
 理論説とシミュレーション説
 二人称関係における他者
 エナクティヴな間主観性
 コミュニケーションの質と身体性
 他者理解の身体性と自己
●問いと考察
Q 3-1 他者理解の発達的な起源はどのようなものだろうか?
Q 3-2 ミニマル・セルフの成立にとって他者は不必要か?
Q 3-3 他者と出会うことで自己はどのように変化するのか?
 
 あとがき
 参考文献
 索引
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「自己とは何か?」という問いかけは非常に抽象的ですから、それを具体化する過程でいろいろな考え方、答え方ができるはずです。本書は「心の科学のための哲学入門」という趣旨なので、認知科学・神経科学・発達科学・精神医学などのさまざまなトピックを引き合いに出しながら、「心の科学」という文脈に沿って「自己とは何か?」という問いに答えようと試みています。それがどこまでうまくいっているかは読者の判断にゆだねるしかありません。科学側から入りたい方も、哲学側から入りたい方も、ぜひ手に取ってみてください。いや、きっと書店に行く人は少ないだろうからオンライン書店でポチってください(笑
 
あ、ツイッター上で「悪漢と密偵‏ @BaddieBeagle」さんがさっそく情報を流してくれているのを見つけました。ありがとうございます。このかた、新刊情報いつもものすごく速いですよね〜






2017年4月11日火曜日

Intercorporeality and aida (Tanaka, 2017)

今日は自分の論文の話題。けっこう時間がかかりましたが、間身体性と「あいだ」について考察した論文が出版されました。掲載誌は理論心理学系のジャーナル『Theory & Psychology』です。

Intercorporeality and aida: Developing an interaction theory of social cognition
Shogo Tanaka, First Published April 9, 2017

アブストラクトはこんな感じです。

The aim of this article is to develop an interaction theory (IT) of social cognition. The central issue in the field of social cognition has been theory of mind (ToM), and there has been debate regarding its nature as either theory-theory or as simulation theory. Insights from phenomenology have brought a second-person perspective based on embodied interactions into the debate, thereby forming a third position known as IT. In this article, I examine how IT can be further elaborated by drawing on two phenomenological notions—Merleau-Ponty’s intercorporeality and Kimura’s aida. Both of these notions emphasize the sensory-motor, perceptual, and non-conceptual aspects of social understanding and describe a process of interpersonal coordination in which embodied interaction gains autonomy as an emergent system. From this perspective, detailed and nuanced social understanding is made possible through the embodied skill of synchronizing with others.

簡単に言うと、社会的認知は以前は「心の理論」を中心に議論がされていました(今もあまり変わっていません)。理論説とシミュレーション説の論争もありましたが、どちらも身体性が欠けている、という批判があります。では、身体性から出発して社会的認知や他者理解を論じるとどうなるのか、というと…説明するのがちょっと面倒になってきたので、そのうち紹介ページでも作ります。とりあえず、昔の研究会で使ったこんな資料を日本語でざっと見てもらうと、何が論点なのかつかんでもらえそうです。

2011 年 2 月 26 日:2010 年度第三回身体知研究会(RMEK)資料
他者理解の科学と現象学―心の理論から間身体性へ

今回の論文は、メルロ=ポンティの間身体性に、木村敏氏の「あいだ」概念をつなげて、考察をさらに発展させたものになっています。身体的な相互行為をベースとして、自己と他者のあいだで創発する間主観性の領域がある、というのが主題です。

…しっかし、長かったです。投稿したのが2016年の2月で掲載が昨日ですから、約14ヶ月かかっています。先日デンマークに出張した際にも、なんでこの雑誌は査読にこんなに時間がかかるのか、酒の席で話題になっていました(半年待たされてリジェクトされたからここには二度と投稿しない、という強烈な恨み節?も耳にしました)。

たしかに、投稿してから掲載まで1年を超えるような雑誌だと、もらっている研究費の成果報告書に書けない場合も出てきますから書き手からすると不満です。自然科学系だとこんなに時間のかかるジャーナルは作れないでしょうね。出版されるころには内容が古くなっているでしょうし。

ですが、個人的にはこの雑誌は気に入っています。査読がちゃんと機能していて、査読者が本文を読み込んでけっこう本気なコメントが帰ってきます。私は今回が2回目の投稿でしたが、前回も今回もコメントはかなりまともで、手続き的にも内容的にも、自分の至らない箇所をふみこんで指摘されました。怖いですねぇ〜(笑 
 
ではありますが、こういう査読のおかげで自分の書くものが出版前に一定のクオリティを保てるわけですし、査読者もたいていの場合はボランティアで査読を引き受けてくれているわけなので、やはりありがたい話なのですよ。テキトーな査読者に原稿が当たらない限りは。




2017/06/08
本日、無事印刷バージョンが出版されました。ページ番号を含めて、論文情報をアップデートしておきます。以下のリンクからPDF版をダウンロードできますよ。
 
Intercorporeality and aida: Developing an interaction theory of social cognition. Theory & Psychology, 27, 337-353.

2017年4月9日日曜日

アーカイブの資料追加(Ataria, 2015)

研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。

Ataria, Y. (2015). Dissociation during trauma: the ownership-agency tradeoff model. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 14, 1037-1053.

トラウマ周辺で生じる解離症状を探った文献です。イスラエルでテロの生存者にインタビューを実施し、そのナラティヴを分析しながら症状の身体性を探ったもの。引用されるインタビューの内容はかなり生々しいものがありますが、要約にはほとんど反映していません(その点に興味がある方は本文を読んでみてください)。

この論文のオリジナルな貢献は、その貴重なインタビュー内容もさることながら、副題にある「ownership-agency tradeoff model」です。トラウマ周辺の解離症状を探っていくと、身体の所有感と行為の主体感がトレードオフになっていて、主体感が強化されると所有感が下がり、所有感が強まると主体感が下がるという関係を明らかにしています。両者が均衡しているのが通常の身体の状態であると。

トラウマ的な事象に襲われると、身体から自己が分離したり、痛みを感じなくなったり、どうやら誰もが解離症状を経験するようで、それ自体、適応的な意味をもつようです。いわば、「この悲惨な状況を経験している自分は自分ではない」というやり方で自己を解離させてしまうことでその場を乗り切っているのですね。これは「防衛機制としての解離」と呼ばれます。

ただ、その一方で、激しい痛みを感じながらも身動きがとれず凍ったようにその場で固まってしまうように、あまり適応的な意味を持たないように見えるケース(それでも「頭の中が真っ白になる」というような解離は生じています)もあります。この場合、解離は防衛機制のように見えません。

結論で明確に述べられていないのですが、著者は、主体感と所有感のトレードオフ・モデルで、防衛機制としての解離と、そうでない解離をともに説明できると考えているようです。これは非常に興味深い着眼ですし、所有感と主体感の問題を(さらにはミニマル・セルフの問題を)、神経科学系の議論とはまた違ったしかたで考えさせてくれます。
 


2017年4月5日水曜日

科研費のことなど

年度始めですね。研究者にとっては科研費のシーズンです。前年度に申請した書類の採択・不採択の通知をもらう時期なので。周囲で「当たった」「外れた」という声に合わせて「宝くじかよ」というツッコミも聞こえてきます。今年の私は日本にいませんがそういう声が風に乗って聞こえてくるかのようです(笑

それで、嬉しいお知らせを早速いただきました! 田中も研究分担者として加わっている課題が採択されたとのこと。代表は立教大学の河野哲也先生で、こんな企画です。

基盤研究A(平成29~33年度予定):「生態学的現象学による個別事例学の哲学的基礎付けとアーカイブの構築」

生態学的現象学は、河野先生が開拓されてきた理論的立場で、ギブソンの生態心理学とフッサール以降の現象学を架橋するものです。身体と環境の循環的な相互作用という観点から、認知を始めとする人間のさまざまな活動を理解する哲学的な試み、と要約してよいかと思います。

このプロジェクトでは、生態学的現象学にもとづいて「個別事例学」の理論的な基礎付けを行うことと、加えて、さまざまな事例のアーカイブを構築することを予定しています。

個別事例学…名称が少し固いですが、ひとが抱えているさまざまな課題や問題を解決している事例を検討し、それに理論的基礎付けを与えて「学」にしようという試みです。身体と環境との相互作用という観点に着目すると、ひとが自分の抱える問題を解決するときは、環境とのかかわり方を創造的に変化させています(逆上がりのできない子どもが踏み台を使うと簡単にできるようになったりしますが、この場面は文字通り環境とのかかわり方を変えて問題を解決していますよね)。

生態心理学に「促進行為場(field of promoted action)」という概念があります。環境と自己の関係を問題解決に向けて適正化することで行為と学習が促進される場のことです。この「場」が、人々の現実の問題解決場面でどのように現れているのかに着目し、問題解決の事例ライブラリを構築する予定になっています。

ライブラリを作ってどうするかというと…それを一般の人々に公開して利用できるようにしたいわけです。自分が抱えているのとよく似た課題がどのように解決されているかのヒントを、事例ライブラリから探ってもらえるようになれば、創造的なライブラリになりそうですよね。新しい教育・学習のモデルになりうるかもしれません。

もっとも、どのような事例であれば他者にとっても問題解決のヒントになりうるのか、という点についての理論的な考察は必要です。他者の事例は、それを知ることで自分の問題の解決に向けて洞察を与えてくれる場合もあればそうでない場合もありえます。このプロジェクトで重視しているのは、誰にでも当てはまるような(でも実際には誰にも役立たないような)「法則性」ではなく、問題を抱えている当人にとって役立つような「当事者性」です。

具体的なフィールドとして、「対話と思考」「発達」「身体動作・技能」「アート」「ソーシャルワーク」といった分野が想定されています。これからの展開にご期待ください。

私自身も、身体性をベースに人間の活動をとらえなおす「Embodied Human Science」というプロジェクトを自分で進めているので、それを問題解決、学習、教育といったテーマに結び付けて考える良い機会をいただいたと思っています。
 

 

2017年4月3日月曜日

『心の科学史』とエンボディード・アプローチ

昨年秋に講談社学術文庫版で再版された高橋澪子氏の『心の科学史』を読んでいて、次のような文章に出会いました。

【自然への問いかけや仮説の検証手段としての現代的意味における実験が<心(ゼーレ)>そのものを対象にしておこなわれたことは、おそらく、かつて一度もなく、(自然科学におけるそれと同様の意味を持つ)近代的方法としての実験は、心理学にあっては、<心(ゼーレ)>そのものを追放したあとの「行動科学」においてのみ、はじめて可能となったのではないだろうか。むろん、この種の議論を(新行動主義者がしたように)”定義の問題”としてかわすことは簡単である。だが、ここでいう<心>とは、定義以前の、近代以降に生まれたわれわれの誰もが日常生活の中で”心得て”いる(暗黙のうちに了解し合っている)常識概念としての<心>、すなわち”内なる”(そして、さらにつけ加えて言えば”自律的な”)心であり、そのような<心>ないし<ゼーレ>を対象とする”実験”科学は、かつて一度も存在しなかった。】(第四章・第3節・4)

ここで著者が言っているのはこういうことです。デカルトが物心二元論によって見出したような「われ思う」を基本にする私秘的(プライベート)な領域ーー日常的な言葉で言うと「内面」のことですーーが心理学の対象である限り、それは決して実験科学の対象にはなりえない、と。内面としての心は、直接知覚できませんし、観察対象になりませんから、心を対象にする科学というのは成り立たないわけです。古くは哲学者のカントが、『自然科学の形而上学的原理』のなかで、類似する議論にもとづいて心理学が不可能だと述べています。

ただ、興味深いのは、だから心理学は実験をベースとする自然科学として成立しえないのだ、とは著者が必ずしも考えていない点です。巻末の解説で、渡辺恒夫氏もこう書いています。

【ただし著者は、行動主義やその延長にある生物学的心理学だけが唯一の科学的心理学だと言っている訳ではない。物心二元論の枠組みをもう一度認識論的に乗り越えたところに、「『科学』ではあっても、もはや『近代科学』とはその意味をまったく異にする新しい心理学」が成立しなければならないと言う。】

一体どのような心理学なんでしょうか?

著者も認めるように簡単な答えはありませんが、「心理学の哲学」「理論心理学」「心理学基礎論」などの名前で呼ばれる領域では、さまざまな議論が繰り広げられています。私自身も、認知神経科学の研究成果を現象学的な観点から理論的に整理したり、実験以前の探索的研究に質的なアプローチで迫ったり、といった仕事をしています。基本的には、デカルトまでさかのぼって身体との関係から心をとらえ直し、「心=内面」という発想を取り外すことが、最も重要なアプローチだと考えています。このページの趣旨でもある「エンボディード・アプローチ」ということになりますね。

いずれにしても、心理学はもともと、「何を心とするのか」「どのようにアプローチするのか」「他者の心は知りうるのか」といった方法論的に難しい課題を多く抱えているということです。なので、実験や臨床や質的研究に深く取り組もうとすればするほど、認識論的な根拠について考えることを求められる、ということなのです。
 

2017年3月31日金曜日

大文字の問い

単著の二度目の校正が終わりました。

いつも論文ばかり書いている関係でなかなか形にできていなかったのですが、今回の著作では意識して取り組んでみたことがあります。

それは、文献の裏付けが取れないポイントについても踏み込んで書くこと。ここ5年ぐらい固めの学術論文しか書いていなかったので、引用文献がないことは書くのを控える、みたいな保守的な書き方が習慣化していましたが、今回そういう「自主規制」は少し緩和しました。

原稿を書いている最中に架空の読者が頭に浮かんできて、「そうそう、読者がここで期待するのは〇〇が▲▲でこう言ってる」とか「〇〇の××年の論文にこういうデータがある」みたいなことじゃなくて、本文を読みながら考え始めた「大文字の問い」についてもっと踏み込んで考えるのを後押ししてくれる言葉なんだよな…と思って書き改めた箇所がいくつもありました。

(まあ、そうはいっても学術書なので一定の文献情報はちゃんとつけてあります--文献やデータをちゃんと調べずに書かれたいわゆる「アカデミック・エッセイ」は評価しないクチなので)。

それが一番色濃く出ているのが、各部の終わりに補足して書いた箇所です。今回の本は3部構成で各部3章ずつになっているのですが、それぞれの部の最後に「問いと考察」として、本文中での問いかけをもっと掘り下げる話を書いてあります。「問いと考察」の「考察」は出版されてから読んでいただくとして、「問い」だけここでご紹介すると、

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『生きられた<私>をもとめて』
(北大路書房・シリーズ「心の科学のための哲学入門」4・近刊)

第1部:自己の身体性
Q1-1) 身体のない自己というものを考えることはできるだろうか?
Q1-2) 身体を部分的に失うと、自己には何が起きるのだろうか?
Q1-3) 死ぬことで身体が失われると、自己はどうなるのだろうか?
 
第2部:意識と脳
Q2-1) 意識は、脳の活動から生じるのではないのか?
Q2-2) 心は脳に宿っているのではないのか?
 
第3部:他者の心
Q3-1) 他者理解の発達的な起源はどのようなものだろうか?
Q3-2) ミニマル・セルフの成立にとって他者は不必要か?
Q3-3) 他者と出会うことで自己はどのように変化するのか?
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どうでしょう。「大文字の問い」がたくさん並んでいますよね。各章を読んでいるうちに、おのずとこういう問いが気になって考えてしまうような構成にしてみたつもりです。以前ここで紹介した目次と並べて見てもらうと、この本がいかにこの種の深い問いに魅せられ、「答えがない」と思っていてもやっぱり考えてしまう「青い読者」に向けて書かれているかがわかってもらえるかと思います。

2017年3月26日日曜日

blooming, buzzing confusion

ウィリアム・ジェームズが『心理学原理』の中で「blooming, buzzing confusion」という言い方をしている箇所があるらしい。赤ちゃんの経験しているだろう知覚世界を引き合いに出して、感覚印象が多種多様でとりとめがない様を指してこう言っているとのこと。

日本語で何と訳すべきかよく分からず調べてみたのだが、英語ではよく引用される有名な表現らしい。こんなページが見つかった。いやぁ、恥ずかしながら知らなかった。
The "blooming, buzzing confusion" of William James

で、Principles of Psychologyの488ページにあることがわかったので、岩波文庫版の『心理学』で対応箇所を探してみたら…ない。うーん、こういうのは痛い。邦訳は1890年の『原理』ではなくて1892年に発表された『要録』なのでしょうがないといえばしょうがないが、ジェームズの残したフレーズとして英語では有名になっているものが日本語で参照できないのはまずいだろう。

と思ってもう少し調べてみたら、あったあった、仮訳してるページ。ひとつはこんなページ。「花盛りでガヤガヤした混沌」になってますな。もうひとつはこんなページ。「無茶苦茶な、騒々しい混乱」ですって。

どっちもイマイチしっくりこないので考えました田中訳。「ひどくやかましい混乱」でどうでしょう。「ひどく」のところはbloomingなので、花がいっせいに開花するようなイメージを持たせたもっといい訳ができそうですが。


2017年3月20日月曜日

Civilization Dialogueの余波

前回の更新からなんとなく時間がたってしまいました。気づけば2週間以上更新していなかったんですね。

この間、もっぱら3-4日にコペンハーゲン郊外で開催した「2ND CIVILIZATION DIALOGUE BETWEEN EUROPE AND JAPAN」と、その余波であれこれ事務的な仕事をしていました。

余波のひとつは学術交流協定です。東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターとの間で近く正式な協定を結ぶことになりそうで、合意書の内容をあれこれ検討していました。2016年7月に東海大で開催した文化心理学ワークショップがかなり盛況だったのに続いて、今回のCivilization Dialogueも(参加者は少なかったですが)議論が活発で内容面でも噛み合っていたので、正式な協定を結んで研究上のやり取りをもっと増やすことになった次第。

もうひとつの余波は文明研究所の機関誌『文明』での特集です。当日の各自の発表内容をを論文にして特集号を組むことになったので、その原稿募集の段取り。〆切とかワード数とか執筆規定とか査読とか、もろもろ事務的なことを盛り込んだCall for Papersを作って皆さんにお送りしました。前回のCivilization Dialogueの後も『文明』で特集は組んだのですが(ここで読めます)、今回はかなり本格的に編集委員会を組むことになりました。Valsiner先生とTateo先生がゲストエディターとして加わってくれるという豪華さです。

この仕事、私にとっては個人的な研究上の関心を離れる面がだんだん大きくなってきているのですが(身体論や心理学と直接に関係のない議論も多いので)、学生さんや関係する若手のために人文系〜学際系の議論の場所を残しておきたいという気持ちでやっています(昨今人文系は予算がどんどん削減される一方で、活気のある組織が急激に少なくなっているので)。東海の文系大学院で学んでいる方、これから進学を考えている方は、ぜひCivilization Dialogueのイベントに加わってください。もちろん、他大の関係者も歓迎です。


 

2017年3月2日木曜日

オールボー滞在記

1週間強のオールボー滞在もほぼ終わり。明日はコペンハーゲンを経由してベズベックに移動します。

とにかく、フォーマルな場面でもインフォーマルな場面でも議論を重ねた1週間でした。キッチン・セミナーで自分が話すのに始まって、L・タテオ、P・マルシコの二人とは夏の理論心理学会の打合せを兼ねてずっと議論ともつかない議論をしていたし、ヴァルシナーさんのお宅を訪ねて研究に関する疑問をぶつけたりもしました。身体性から始める一階のアプローチが、概念や記号のような高階の認知と出会う場面を模索したくて、セミナーの続きをやった感じでした。

週が変わって27日になると、文化心理学研究センター主催のニールス・ボーア・レクチャーがあり、二日間、かなり豪華な顔ぶれの議論に触れることもできました。これ、レクチャーと銘打ってはいますが、実質的にはカンファレンスで、最初の基調講演のあとはいろんな人が登壇して最初の講演に対する指定討論を行うという、なかなか日本では見ないスタイルのものでした。私は自分の次のイベントの準備に追われて会場にフルでいられず、基調講演+αぐらいしか聞けなかったのが残念でした。
The Fifth Annual Niels Bohr Lecture in Cultural Psychology

基調講演はいわゆる「拡張した心」のパラダイムを記憶に持ち込む内容のもので、考えさせられました。「拡張した心」は、認知活動を「脳内」から「脳・身体・環境」というシステムに拡張して考えるのですが、しかしその場合、個別の認知活動のユニットをどこに見出すのかで議論が割れます。記憶の場合、「思い出す」という想起の活動に着目すると、環境に宿るというよりは「思い出す」過程を経験するエージェントが明確に存在するように思えます。しかし、人々の記憶がナラティヴとして保存されるアーカイブを念頭に置くと、身体よりは環境の側にアクセスすべき記憶が宿っているとも言えます。記憶はどの程度セッティングに依存するのか、そもそも記憶はどこかに保存される性質のものなのか、思い出す主体にどのくらい依存する認知活動なのかをめぐって、記憶を語る言語やナラティヴの役割はどう位置付けるべきか等々、指定討論の内容も分かれている様子でした。

ちなみに、レクチャーの会場では、日本から来ていた尾見先生とも話ができて面白かったです。日本の「部活」について研究されているそうで、部活をめぐっていろんな話を伺ったのですが、部活に流れるエートスを読み解くと「日本的なもの」の正体がかなり読み解けそうな面白さがありました。

ともあれ、そんなこんなであっという間に1週間。議論の合間にこの週末のベズベックでのイベントで話す準備をするというハードかつ楽しい日々が過ぎていきました。この間、日本にいる元教え子から具合の悪そうなメールが立て続けに入っていて心配になったのですが、彼は大丈夫なんだろうか...