研究アーカイブのページに以下の資料を追加しました。
Ataria, Y. (2015). Dissociation during trauma: the ownership-agency tradeoff model. Phenomenology and the Cognitive Sciences, 14, 1037-1053.
トラウマ周辺で生じる解離症状を探った文献です。イスラエルでテロの生存者にインタビューを実施し、そのナラティヴを分析しながら症状の身体性を探ったもの。引用されるインタビューの内容はかなり生々しいものがありますが、要約にはほとんど反映していません(その点に興味がある方は本文を読んでみてください)。
この論文のオリジナルな貢献は、その貴重なインタビュー内容もさることながら、副題にある「ownership-agency tradeoff model」です。トラウマ周辺の解離症状を探っていくと、身体の所有感と行為の主体感がトレードオフになっていて、主体感が強化されると所有感が下がり、所有感が強まると主体感が下がるという関係を明らかにしています。両者が均衡しているのが通常の身体の状態であると。
トラウマ的な事象に襲われると、身体から自己が分離したり、痛みを感じなくなったり、どうやら誰もが解離症状を経験するようで、それ自体、適応的な意味をもつようです。いわば、「この悲惨な状況を経験している自分は自分ではない」というやり方で自己を解離させてしまうことでその場を乗り切っているのですね。これは「防衛機制としての解離」と呼ばれます。
ただ、その一方で、激しい痛みを感じながらも身動きがとれず凍ったようにその場で固まってしまうように、あまり適応的な意味を持たないように見えるケース(それでも「頭の中が真っ白になる」というような解離は生じています)もあります。この場合、解離は防衛機制のように見えません。
結論で明確に述べられていないのですが、著者は、主体感と所有感のトレードオフ・モデルで、防衛機制としての解離と、そうでない解離をともに説明できると考えているようです。これは非常に興味深い着眼ですし、所有感と主体感の問題を(さらにはミニマル・セルフの問題を)、神経科学系の議論とはまた違ったしかたで考えさせてくれます。
た
こんにちは、田中彰吾(東海大学文化社会学部教授/大学院文学研究科長/文明研究所所長)です。身体性に関連する哲学と心理学を研究しています。各種お仕事のご連絡はshg.tanaka@gmail.comまでお寄せください。
2017年4月9日日曜日
2017年4月5日水曜日
科研費のことなど
年度始めですね。研究者にとっては科研費のシーズンです。前年度に申請した書類の採択・不採択の通知をもらう時期なので。周囲で「当たった」「外れた」という声に合わせて「宝くじかよ」というツッコミも聞こえてきます。今年の私は日本にいませんがそういう声が風に乗って聞こえてくるかのようです(笑
それで、嬉しいお知らせを早速いただきました! 田中も研究分担者として加わっている課題が採択されたとのこと。代表は立教大学の河野哲也先生で、こんな企画です。
基盤研究A(平成29~33年度予定):「生態学的現象学による個別事例学の哲学的基礎付けとアーカイブの構築」
生態学的現象学は、河野先生が開拓されてきた理論的立場で、ギブソンの生態心理学とフッサール以降の現象学を架橋するものです。身体と環境の循環的な相互作用という観点から、認知を始めとする人間のさまざまな活動を理解する哲学的な試み、と要約してよいかと思います。
このプロジェクトでは、生態学的現象学にもとづいて「個別事例学」の理論的な基礎付けを行うことと、加えて、さまざまな事例のアーカイブを構築することを予定しています。
個別事例学…名称が少し固いですが、ひとが抱えているさまざまな課題や問題を解決している事例を検討し、それに理論的基礎付けを与えて「学」にしようという試みです。身体と環境との相互作用という観点に着目すると、ひとが自分の抱える問題を解決するときは、環境とのかかわり方を創造的に変化させています(逆上がりのできない子どもが踏み台を使うと簡単にできるようになったりしますが、この場面は文字通り環境とのかかわり方を変えて問題を解決していますよね)。
生態心理学に「促進行為場(field of promoted action)」という概念があります。環境と自己の関係を問題解決に向けて適正化することで行為と学習が促進される場のことです。この「場」が、人々の現実の問題解決場面でどのように現れているのかに着目し、問題解決の事例ライブラリを構築する予定になっています。
ライブラリを作ってどうするかというと…それを一般の人々に公開して利用できるようにしたいわけです。自分が抱えているのとよく似た課題がどのように解決されているかのヒントを、事例ライブラリから探ってもらえるようになれば、創造的なライブラリになりそうですよね。新しい教育・学習のモデルになりうるかもしれません。
もっとも、どのような事例であれば他者にとっても問題解決のヒントになりうるのか、という点についての理論的な考察は必要です。他者の事例は、それを知ることで自分の問題の解決に向けて洞察を与えてくれる場合もあればそうでない場合もありえます。このプロジェクトで重視しているのは、誰にでも当てはまるような(でも実際には誰にも役立たないような)「法則性」ではなく、問題を抱えている当人にとって役立つような「当事者性」です。
具体的なフィールドとして、「対話と思考」「発達」「身体動作・技能」「アート」「ソーシャルワーク」といった分野が想定されています。これからの展開にご期待ください。
私自身も、身体性をベースに人間の活動をとらえなおす「Embodied Human Science」というプロジェクトを自分で進めているので、それを問題解決、学習、教育といったテーマに結び付けて考える良い機会をいただいたと思っています。
た
それで、嬉しいお知らせを早速いただきました! 田中も研究分担者として加わっている課題が採択されたとのこと。代表は立教大学の河野哲也先生で、こんな企画です。
基盤研究A(平成29~33年度予定):「生態学的現象学による個別事例学の哲学的基礎付けとアーカイブの構築」
生態学的現象学は、河野先生が開拓されてきた理論的立場で、ギブソンの生態心理学とフッサール以降の現象学を架橋するものです。身体と環境の循環的な相互作用という観点から、認知を始めとする人間のさまざまな活動を理解する哲学的な試み、と要約してよいかと思います。
このプロジェクトでは、生態学的現象学にもとづいて「個別事例学」の理論的な基礎付けを行うことと、加えて、さまざまな事例のアーカイブを構築することを予定しています。
個別事例学…名称が少し固いですが、ひとが抱えているさまざまな課題や問題を解決している事例を検討し、それに理論的基礎付けを与えて「学」にしようという試みです。身体と環境との相互作用という観点に着目すると、ひとが自分の抱える問題を解決するときは、環境とのかかわり方を創造的に変化させています(逆上がりのできない子どもが踏み台を使うと簡単にできるようになったりしますが、この場面は文字通り環境とのかかわり方を変えて問題を解決していますよね)。
生態心理学に「促進行為場(field of promoted action)」という概念があります。環境と自己の関係を問題解決に向けて適正化することで行為と学習が促進される場のことです。この「場」が、人々の現実の問題解決場面でどのように現れているのかに着目し、問題解決の事例ライブラリを構築する予定になっています。
ライブラリを作ってどうするかというと…それを一般の人々に公開して利用できるようにしたいわけです。自分が抱えているのとよく似た課題がどのように解決されているかのヒントを、事例ライブラリから探ってもらえるようになれば、創造的なライブラリになりそうですよね。新しい教育・学習のモデルになりうるかもしれません。
もっとも、どのような事例であれば他者にとっても問題解決のヒントになりうるのか、という点についての理論的な考察は必要です。他者の事例は、それを知ることで自分の問題の解決に向けて洞察を与えてくれる場合もあればそうでない場合もありえます。このプロジェクトで重視しているのは、誰にでも当てはまるような(でも実際には誰にも役立たないような)「法則性」ではなく、問題を抱えている当人にとって役立つような「当事者性」です。
具体的なフィールドとして、「対話と思考」「発達」「身体動作・技能」「アート」「ソーシャルワーク」といった分野が想定されています。これからの展開にご期待ください。
私自身も、身体性をベースに人間の活動をとらえなおす「Embodied Human Science」というプロジェクトを自分で進めているので、それを問題解決、学習、教育といったテーマに結び付けて考える良い機会をいただいたと思っています。
た
2017年4月3日月曜日
『心の科学史』とエンボディード・アプローチ
昨年秋に講談社学術文庫版で再版された高橋澪子氏の『心の科学史』を読んでいて、次のような文章に出会いました。
【自然への問いかけや仮説の検証手段としての現代的意味における実験が<心(ゼーレ)>そのものを対象にしておこなわれたことは、おそらく、かつて一度もなく、(自然科学におけるそれと同様の意味を持つ)近代的方法としての実験は、心理学にあっては、<心(ゼーレ)>そのものを追放したあとの「行動科学」においてのみ、はじめて可能となったのではないだろうか。むろん、この種の議論を(新行動主義者がしたように)”定義の問題”としてかわすことは簡単である。だが、ここでいう<心>とは、定義以前の、近代以降に生まれたわれわれの誰もが日常生活の中で”心得て”いる(暗黙のうちに了解し合っている)常識概念としての<心>、すなわち”内なる”(そして、さらにつけ加えて言えば”自律的な”)心であり、そのような<心>ないし<ゼーレ>を対象とする”実験”科学は、かつて一度も存在しなかった。】(第四章・第3節・4)
ここで著者が言っているのはこういうことです。デカルトが物心二元論によって見出したような「われ思う」を基本にする私秘的(プライベート)な領域ーー日常的な言葉で言うと「内面」のことですーーが心理学の対象である限り、それは決して実験科学の対象にはなりえない、と。内面としての心は、直接知覚できませんし、観察対象になりませんから、心を対象にする科学というのは成り立たないわけです。古くは哲学者のカントが、『自然科学の形而上学的原理』のなかで、類似する議論にもとづいて心理学が不可能だと述べています。
ただ、興味深いのは、だから心理学は実験をベースとする自然科学として成立しえないのだ、とは著者が必ずしも考えていない点です。巻末の解説で、渡辺恒夫氏もこう書いています。
【ただし著者は、行動主義やその延長にある生物学的心理学だけが唯一の科学的心理学だと言っている訳ではない。物心二元論の枠組みをもう一度認識論的に乗り越えたところに、「『科学』ではあっても、もはや『近代科学』とはその意味をまったく異にする新しい心理学」が成立しなければならないと言う。】
一体どのような心理学なんでしょうか?
著者も認めるように簡単な答えはありませんが、「心理学の哲学」「理論心理学」「心理学基礎論」などの名前で呼ばれる領域では、さまざまな議論が繰り広げられています。私自身も、認知神経科学の研究成果を現象学的な観点から理論的に整理したり、実験以前の探索的研究に質的なアプローチで迫ったり、といった仕事をしています。基本的には、デカルトまでさかのぼって身体との関係から心をとらえ直し、「心=内面」という発想を取り外すことが、最も重要なアプローチだと考えています。このページの趣旨でもある「エンボディード・アプローチ」ということになりますね。
いずれにしても、心理学はもともと、「何を心とするのか」「どのようにアプローチするのか」「他者の心は知りうるのか」といった方法論的に難しい課題を多く抱えているということです。なので、実験や臨床や質的研究に深く取り組もうとすればするほど、認識論的な根拠について考えることを求められる、ということなのです。
た
【自然への問いかけや仮説の検証手段としての現代的意味における実験が<心(ゼーレ)>そのものを対象にしておこなわれたことは、おそらく、かつて一度もなく、(自然科学におけるそれと同様の意味を持つ)近代的方法としての実験は、心理学にあっては、<心(ゼーレ)>そのものを追放したあとの「行動科学」においてのみ、はじめて可能となったのではないだろうか。むろん、この種の議論を(新行動主義者がしたように)”定義の問題”としてかわすことは簡単である。だが、ここでいう<心>とは、定義以前の、近代以降に生まれたわれわれの誰もが日常生活の中で”心得て”いる(暗黙のうちに了解し合っている)常識概念としての<心>、すなわち”内なる”(そして、さらにつけ加えて言えば”自律的な”)心であり、そのような<心>ないし<ゼーレ>を対象とする”実験”科学は、かつて一度も存在しなかった。】(第四章・第3節・4)
ここで著者が言っているのはこういうことです。デカルトが物心二元論によって見出したような「われ思う」を基本にする私秘的(プライベート)な領域ーー日常的な言葉で言うと「内面」のことですーーが心理学の対象である限り、それは決して実験科学の対象にはなりえない、と。内面としての心は、直接知覚できませんし、観察対象になりませんから、心を対象にする科学というのは成り立たないわけです。古くは哲学者のカントが、『自然科学の形而上学的原理』のなかで、類似する議論にもとづいて心理学が不可能だと述べています。
ただ、興味深いのは、だから心理学は実験をベースとする自然科学として成立しえないのだ、とは著者が必ずしも考えていない点です。巻末の解説で、渡辺恒夫氏もこう書いています。
【ただし著者は、行動主義やその延長にある生物学的心理学だけが唯一の科学的心理学だと言っている訳ではない。物心二元論の枠組みをもう一度認識論的に乗り越えたところに、「『科学』ではあっても、もはや『近代科学』とはその意味をまったく異にする新しい心理学」が成立しなければならないと言う。】
一体どのような心理学なんでしょうか?
著者も認めるように簡単な答えはありませんが、「心理学の哲学」「理論心理学」「心理学基礎論」などの名前で呼ばれる領域では、さまざまな議論が繰り広げられています。私自身も、認知神経科学の研究成果を現象学的な観点から理論的に整理したり、実験以前の探索的研究に質的なアプローチで迫ったり、といった仕事をしています。基本的には、デカルトまでさかのぼって身体との関係から心をとらえ直し、「心=内面」という発想を取り外すことが、最も重要なアプローチだと考えています。このページの趣旨でもある「エンボディード・アプローチ」ということになりますね。
いずれにしても、心理学はもともと、「何を心とするのか」「どのようにアプローチするのか」「他者の心は知りうるのか」といった方法論的に難しい課題を多く抱えているということです。なので、実験や臨床や質的研究に深く取り組もうとすればするほど、認識論的な根拠について考えることを求められる、ということなのです。
た
2017年3月31日金曜日
大文字の問い
単著の二度目の校正が終わりました。
いつも論文ばかり書いている関係でなかなか形にできていなかったのですが、今回の著作では意識して取り組んでみたことがあります。
それは、文献の裏付けが取れないポイントについても踏み込んで書くこと。ここ5年ぐらい固めの学術論文しか書いていなかったので、引用文献がないことは書くのを控える、みたいな保守的な書き方が習慣化していましたが、今回そういう「自主規制」は少し緩和しました。
原稿を書いている最中に架空の読者が頭に浮かんできて、「そうそう、読者がここで期待するのは〇〇が▲▲でこう言ってる」とか「〇〇の××年の論文にこういうデータがある」みたいなことじゃなくて、本文を読みながら考え始めた「大文字の問い」についてもっと踏み込んで考えるのを後押ししてくれる言葉なんだよな…と思って書き改めた箇所がいくつもありました。
(まあ、そうはいっても学術書なので一定の文献情報はちゃんとつけてあります--文献やデータをちゃんと調べずに書かれたいわゆる「アカデミック・エッセイ」は評価しないクチなので)。
それが一番色濃く出ているのが、各部の終わりに補足して書いた箇所です。今回の本は3部構成で各部3章ずつになっているのですが、それぞれの部の最後に「問いと考察」として、本文中での問いかけをもっと掘り下げる話を書いてあります。「問いと考察」の「考察」は出版されてから読んでいただくとして、「問い」だけここでご紹介すると、
----------------------------------------
『生きられた<私>をもとめて』
(北大路書房・シリーズ「心の科学のための哲学入門」4・近刊)
第1部:自己の身体性
Q1-1) 身体のない自己というものを考えることはできるだろうか?
Q1-2) 身体を部分的に失うと、自己には何が起きるのだろうか?
Q1-3) 死ぬことで身体が失われると、自己はどうなるのだろうか?
第2部:意識と脳
Q2-1) 意識は、脳の活動から生じるのではないのか?
Q2-2) 心は脳に宿っているのではないのか?
第3部:他者の心
Q3-1) 他者理解の発達的な起源はどのようなものだろうか?
Q3-2) ミニマル・セルフの成立にとって他者は不必要か?
Q3-3) 他者と出会うことで自己はどのように変化するのか?
----------------------------------------
どうでしょう。「大文字の問い」がたくさん並んでいますよね。各章を読んでいるうちに、おのずとこういう問いが気になって考えてしまうような構成にしてみたつもりです。以前ここで紹介した目次と並べて見てもらうと、この本がいかにこの種の深い問いに魅せられ、「答えがない」と思っていてもやっぱり考えてしまう「青い読者」に向けて書かれているかがわかってもらえるかと思います。
た
いつも論文ばかり書いている関係でなかなか形にできていなかったのですが、今回の著作では意識して取り組んでみたことがあります。
それは、文献の裏付けが取れないポイントについても踏み込んで書くこと。ここ5年ぐらい固めの学術論文しか書いていなかったので、引用文献がないことは書くのを控える、みたいな保守的な書き方が習慣化していましたが、今回そういう「自主規制」は少し緩和しました。
原稿を書いている最中に架空の読者が頭に浮かんできて、「そうそう、読者がここで期待するのは〇〇が▲▲でこう言ってる」とか「〇〇の××年の論文にこういうデータがある」みたいなことじゃなくて、本文を読みながら考え始めた「大文字の問い」についてもっと踏み込んで考えるのを後押ししてくれる言葉なんだよな…と思って書き改めた箇所がいくつもありました。
(まあ、そうはいっても学術書なので一定の文献情報はちゃんとつけてあります--文献やデータをちゃんと調べずに書かれたいわゆる「アカデミック・エッセイ」は評価しないクチなので)。
それが一番色濃く出ているのが、各部の終わりに補足して書いた箇所です。今回の本は3部構成で各部3章ずつになっているのですが、それぞれの部の最後に「問いと考察」として、本文中での問いかけをもっと掘り下げる話を書いてあります。「問いと考察」の「考察」は出版されてから読んでいただくとして、「問い」だけここでご紹介すると、
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『生きられた<私>をもとめて』
(北大路書房・シリーズ「心の科学のための哲学入門」4・近刊)
第1部:自己の身体性
Q1-1) 身体のない自己というものを考えることはできるだろうか?
Q1-2) 身体を部分的に失うと、自己には何が起きるのだろうか?
Q1-3) 死ぬことで身体が失われると、自己はどうなるのだろうか?
第2部:意識と脳
Q2-1) 意識は、脳の活動から生じるのではないのか?
Q2-2) 心は脳に宿っているのではないのか?
第3部:他者の心
Q3-1) 他者理解の発達的な起源はどのようなものだろうか?
Q3-2) ミニマル・セルフの成立にとって他者は不必要か?
Q3-3) 他者と出会うことで自己はどのように変化するのか?
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どうでしょう。「大文字の問い」がたくさん並んでいますよね。各章を読んでいるうちに、おのずとこういう問いが気になって考えてしまうような構成にしてみたつもりです。以前ここで紹介した目次と並べて見てもらうと、この本がいかにこの種の深い問いに魅せられ、「答えがない」と思っていてもやっぱり考えてしまう「青い読者」に向けて書かれているかがわかってもらえるかと思います。
た
2017年3月26日日曜日
blooming, buzzing confusion
ウィリアム・ジェームズが『心理学原理』の中で「blooming, buzzing confusion」という言い方をしている箇所があるらしい。赤ちゃんの経験しているだろう知覚世界を引き合いに出して、感覚印象が多種多様でとりとめがない様を指してこう言っているとのこと。
日本語で何と訳すべきかよく分からず調べてみたのだが、英語ではよく引用される有名な表現らしい。こんなページが見つかった。いやぁ、恥ずかしながら知らなかった。
The "blooming, buzzing confusion" of William James
日本語で何と訳すべきかよく分からず調べてみたのだが、英語ではよく引用される有名な表現らしい。こんなページが見つかった。いやぁ、恥ずかしながら知らなかった。
The "blooming, buzzing confusion" of William James
で、Principles of Psychologyの488ページにあることがわかったので、岩波文庫版の『心理学』で対応箇所を探してみたら…ない。うーん、こういうのは痛い。邦訳は1890年の『原理』ではなくて1892年に発表された『要録』なのでしょうがないといえばしょうがないが、ジェームズの残したフレーズとして英語では有名になっているものが日本語で参照できないのはまずいだろう。
どっちもイマイチしっくりこないので考えました田中訳。「ひどくやかましい混乱」でどうでしょう。「ひどく」のところはbloomingなので、花がいっせいに開花するようなイメージを持たせたもっといい訳ができそうですが。
た
2017年3月20日月曜日
Civilization Dialogueの余波
前回の更新からなんとなく時間がたってしまいました。気づけば2週間以上更新していなかったんですね。
この間、もっぱら3-4日にコペンハーゲン郊外で開催した「2ND CIVILIZATION DIALOGUE BETWEEN EUROPE AND JAPAN」と、その余波であれこれ事務的な仕事をしていました。
余波のひとつは学術交流協定です。東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターとの間で近く正式な協定を結ぶことになりそうで、合意書の内容をあれこれ検討していました。2016年7月に東海大で開催した文化心理学ワークショップがかなり盛況だったのに続いて、今回のCivilization Dialogueも(参加者は少なかったですが)議論が活発で内容面でも噛み合っていたので、正式な協定を結んで研究上のやり取りをもっと増やすことになった次第。
もうひとつの余波は文明研究所の機関誌『文明』での特集です。当日の各自の発表内容をを論文にして特集号を組むことになったので、その原稿募集の段取り。〆切とかワード数とか執筆規定とか査読とか、もろもろ事務的なことを盛り込んだCall for Papersを作って皆さんにお送りしました。前回のCivilization Dialogueの後も『文明』で特集は組んだのですが(ここで読めます)、今回はかなり本格的に編集委員会を組むことになりました。Valsiner先生とTateo先生がゲストエディターとして加わってくれるという豪華さです。
この仕事、私にとっては個人的な研究上の関心を離れる面がだんだん大きくなってきているのですが(身体論や心理学と直接に関係のない議論も多いので)、学生さんや関係する若手のために人文系〜学際系の議論の場所を残しておきたいという気持ちでやっています(昨今人文系は予算がどんどん削減される一方で、活気のある組織が急激に少なくなっているので)。東海の文系大学院で学んでいる方、これから進学を考えている方は、ぜひCivilization Dialogueのイベントに加わってください。もちろん、他大の関係者も歓迎です。
た
この間、もっぱら3-4日にコペンハーゲン郊外で開催した「2ND CIVILIZATION DIALOGUE BETWEEN EUROPE AND JAPAN」と、その余波であれこれ事務的な仕事をしていました。
余波のひとつは学術交流協定です。東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターとの間で近く正式な協定を結ぶことになりそうで、合意書の内容をあれこれ検討していました。2016年7月に東海大で開催した文化心理学ワークショップがかなり盛況だったのに続いて、今回のCivilization Dialogueも(参加者は少なかったですが)議論が活発で内容面でも噛み合っていたので、正式な協定を結んで研究上のやり取りをもっと増やすことになった次第。
もうひとつの余波は文明研究所の機関誌『文明』での特集です。当日の各自の発表内容をを論文にして特集号を組むことになったので、その原稿募集の段取り。〆切とかワード数とか執筆規定とか査読とか、もろもろ事務的なことを盛り込んだCall for Papersを作って皆さんにお送りしました。前回のCivilization Dialogueの後も『文明』で特集は組んだのですが(ここで読めます)、今回はかなり本格的に編集委員会を組むことになりました。Valsiner先生とTateo先生がゲストエディターとして加わってくれるという豪華さです。
この仕事、私にとっては個人的な研究上の関心を離れる面がだんだん大きくなってきているのですが(身体論や心理学と直接に関係のない議論も多いので)、学生さんや関係する若手のために人文系〜学際系の議論の場所を残しておきたいという気持ちでやっています(昨今人文系は予算がどんどん削減される一方で、活気のある組織が急激に少なくなっているので)。東海の文系大学院で学んでいる方、これから進学を考えている方は、ぜひCivilization Dialogueのイベントに加わってください。もちろん、他大の関係者も歓迎です。
た
2017年3月2日木曜日
オールボー滞在記
1週間強のオールボー滞在もほぼ終わり。明日はコペンハーゲンを経由してベズベックに移動します。
とにかく、フォーマルな場面でもインフォーマルな場面でも議論を重ねた1週間でした。キッチン・セミナーで自分が話すのに始まって、L・タテオ、P・マルシコの二人とは夏の理論心理学会の打合せを兼ねてずっと議論ともつかない議論をしていたし、ヴァルシナーさんのお宅を訪ねて研究に関する疑問をぶつけたりもしました。身体性から始める一階のアプローチが、概念や記号のような高階の認知と出会う場面を模索したくて、セミナーの続きをやった感じでした。
週が変わって27日になると、文化心理学研究センター主催のニールス・ボーア・レクチャーがあり、二日間、かなり豪華な顔ぶれの議論に触れることもできました。これ、レクチャーと銘打ってはいますが、実質的にはカンファレンスで、最初の基調講演のあとはいろんな人が登壇して最初の講演に対する指定討論を行うという、なかなか日本では見ないスタイルのものでした。私は自分の次のイベントの準備に追われて会場にフルでいられず、基調講演+αぐらいしか聞けなかったのが残念でした。
The Fifth Annual Niels Bohr Lecture in Cultural Psychology
基調講演はいわゆる「拡張した心」のパラダイムを記憶に持ち込む内容のもので、考えさせられました。「拡張した心」は、認知活動を「脳内」から「脳・身体・環境」というシステムに拡張して考えるのですが、しかしその場合、個別の認知活動のユニットをどこに見出すのかで議論が割れます。記憶の場合、「思い出す」という想起の活動に着目すると、環境に宿るというよりは「思い出す」過程を経験するエージェントが明確に存在するように思えます。しかし、人々の記憶がナラティヴとして保存されるアーカイブを念頭に置くと、身体よりは環境の側にアクセスすべき記憶が宿っているとも言えます。記憶はどの程度セッティングに依存するのか、そもそも記憶はどこかに保存される性質のものなのか、思い出す主体にどのくらい依存する認知活動なのかをめぐって、記憶を語る言語やナラティヴの役割はどう位置付けるべきか等々、指定討論の内容も分かれている様子でした。
ちなみに、レクチャーの会場では、日本から来ていた尾見先生とも話ができて面白かったです。日本の「部活」について研究されているそうで、部活をめぐっていろんな話を伺ったのですが、部活に流れるエートスを読み解くと「日本的なもの」の正体がかなり読み解けそうな面白さがありました。
ともあれ、そんなこんなであっという間に1週間。議論の合間にこの週末のベズベックでのイベントで話す準備をするというハードかつ楽しい日々が過ぎていきました。この間、日本にいる元教え子から具合の悪そうなメールが立て続けに入っていて心配になったのですが、彼は大丈夫なんだろうか...
た
とにかく、フォーマルな場面でもインフォーマルな場面でも議論を重ねた1週間でした。キッチン・セミナーで自分が話すのに始まって、L・タテオ、P・マルシコの二人とは夏の理論心理学会の打合せを兼ねてずっと議論ともつかない議論をしていたし、ヴァルシナーさんのお宅を訪ねて研究に関する疑問をぶつけたりもしました。身体性から始める一階のアプローチが、概念や記号のような高階の認知と出会う場面を模索したくて、セミナーの続きをやった感じでした。
週が変わって27日になると、文化心理学研究センター主催のニールス・ボーア・レクチャーがあり、二日間、かなり豪華な顔ぶれの議論に触れることもできました。これ、レクチャーと銘打ってはいますが、実質的にはカンファレンスで、最初の基調講演のあとはいろんな人が登壇して最初の講演に対する指定討論を行うという、なかなか日本では見ないスタイルのものでした。私は自分の次のイベントの準備に追われて会場にフルでいられず、基調講演+αぐらいしか聞けなかったのが残念でした。
The Fifth Annual Niels Bohr Lecture in Cultural Psychology
基調講演はいわゆる「拡張した心」のパラダイムを記憶に持ち込む内容のもので、考えさせられました。「拡張した心」は、認知活動を「脳内」から「脳・身体・環境」というシステムに拡張して考えるのですが、しかしその場合、個別の認知活動のユニットをどこに見出すのかで議論が割れます。記憶の場合、「思い出す」という想起の活動に着目すると、環境に宿るというよりは「思い出す」過程を経験するエージェントが明確に存在するように思えます。しかし、人々の記憶がナラティヴとして保存されるアーカイブを念頭に置くと、身体よりは環境の側にアクセスすべき記憶が宿っているとも言えます。記憶はどの程度セッティングに依存するのか、そもそも記憶はどこかに保存される性質のものなのか、思い出す主体にどのくらい依存する認知活動なのかをめぐって、記憶を語る言語やナラティヴの役割はどう位置付けるべきか等々、指定討論の内容も分かれている様子でした。
ちなみに、レクチャーの会場では、日本から来ていた尾見先生とも話ができて面白かったです。日本の「部活」について研究されているそうで、部活をめぐっていろんな話を伺ったのですが、部活に流れるエートスを読み解くと「日本的なもの」の正体がかなり読み解けそうな面白さがありました。
ともあれ、そんなこんなであっという間に1週間。議論の合間にこの週末のベズベックでのイベントで話す準備をするというハードかつ楽しい日々が過ぎていきました。この間、日本にいる元教え子から具合の悪そうなメールが立て続けに入っていて心配になったのですが、彼は大丈夫なんだろうか...
た
2017年2月24日金曜日
論文2件
昨日発表が終わったので、次の仕事までの合間に論文を2件。
1件は査読。…なので詳細はここに書けないけど、なんだか散漫。このブログを読んでいる人の論文ではないはず(英文の、理論系のジャーナルから回ってきたものなので)。許容範囲でグチを書かせてもらうと、扱っているトピックはすごく興味深いのに、切り口も論旨も明晰さを欠いていて、読んでいて腑に落ちない。推敲が不十分で、書き散らかしたような印象を受ける。大量に論文書きまくっているタイプの著者じゃないか、と文体から判別できるものだった。こういう業績稼ぎの査読に付き合わされるのはつらい。依頼を引き受けなきゃ良かった。…我慢してちゃんとコメント書いて送ったけど。
もう1件は査読じゃなくて文面の確認。ドイツに来る直前に大学院生のEさんからインタビューを受けたのだが、自分の発言が収録された箇所に関する確認依頼。論文は、駒場の科学技術インタープリター養成プログラムの研究の一部で、内容は心理学における量的研究と質的研究・理論的研究に関するもの。某研究会でお世話になっているAさんと私と、二人が量的研究と理論研究のコラボの事例としてインタビューに登場している。あぁー、インタビューを丁寧に文章に書き起こされてしまうと自分の語りってこんなに不明瞭なのかー、とちょっと赤面する。でも論文自体はとてもよく書けていて、研究方法が異なる者が相互に連携する必要性と困難を、具体的な点までけっこうよく分かって書いてるんだなと感心する。「実際に連携を行う中でも、専門性が不十分な研究者同士の連携からは有意義な議論が生まれない」…ってEさんが書いていて、そうそうこれは本当にその通りなのだよ代弁してくれてありがとうインタビュー受けて良かったよAさんとやってる研究会ももっと結果出したいよな…なんてことを思う。
た
昨日の残響
Kitchen Seminar、楽しかったです。ドイツで私が行く研究会はどちらかというと開始までみんなやや緊張気味で静かにしているところが多いのですが、昨日は最初からわいわいしていました。研究会そのものが懇親会的、といえばいいんでしょうか。
議論のクオリティも低くなかったです。学際系の研究会はオーガナイズする人の知識と経験がその場の議論のクオリティに直結してしまうので、ダメな研究会はアカデミックな雑談に流れたり、的外れなディベートに終始したりすることが多いのですが(そうならないように私も自分の研究会では気をつけています)、ここはそういう意味では良くオーガナイズされていました。誰かが発言した後で、それに関連する過去の研究についてヴァルシナーさんが言及する場面が何度かあって、彼の博識が議論のクオリティを支えているのが伝わってきました。
場の作り方もユニークで、会場はラウンドテーブルで10人も座れば満席なのですが(昨日もちょうど10人でした)、オンライン・システムでどこからでも参加できるようになっていました。昨日もブラジルとアメリカの研究者が参加していました。画面の向こう側から議論に割って入るのは実際には難しそうですが、聴講する分には問題なくできるみたいです。議論の交通整理は、夏に日本に来てワークショップをやってくれたタテオ先生とマルシコ先生が主にやっていました。
とはいえ、基本的なアプローチの違いについて当面埋まりそうにない溝もはっきりしました。私のように身体性認知に立ち位置がある研究者は「知覚と行為」という一階の経験から始めますが、文化心理学は、心的過程が記号によって媒介されていることを前提として話を始めます(とくにヴァルシナーさんの立場はそうです)。昨日は離人症を題材に心身関係を考える話題だったのですが、文化心理学的には症状の「意味」のほうにダイレクトに関心が向かってしまい、身体経験の感覚・知覚レベルでの変異から始めて症状の核心に迫りたい私からすると、議論すればするほどアプローチの違いが浮き彫りになる印象でした。
それで、後になって思い出したのが2013年の札幌での心理学会です。文化心理学と生態心理学をテーマにしたシンポジウムが心理学会であって、あのときは、ギブソンの著作に出てくるポストの知覚をめぐって、「ポスト」という記号的意味に媒介された知覚が重要なのか、光学的流動を通じてポストの投函口のアフォーダンスが知覚できることが重要なのか、突っ込んだ議論になっていた記憶があります。企画に関わっていた先生たちも豪華で、かなり刺激的な議論を聞けました。
このあたりのアプローチの違いは、昨日も議論していて思いましたが、心身問題にどのくらい重きを置いて心理学を見るか、という方法論的な違いと深く関係するので、簡単な答えはなさそうです。ですが、心理学方法論に関する大事な論点ではあるので、引き続き考えたいと思っています。
た
議論のクオリティも低くなかったです。学際系の研究会はオーガナイズする人の知識と経験がその場の議論のクオリティに直結してしまうので、ダメな研究会はアカデミックな雑談に流れたり、的外れなディベートに終始したりすることが多いのですが(そうならないように私も自分の研究会では気をつけています)、ここはそういう意味では良くオーガナイズされていました。誰かが発言した後で、それに関連する過去の研究についてヴァルシナーさんが言及する場面が何度かあって、彼の博識が議論のクオリティを支えているのが伝わってきました。
場の作り方もユニークで、会場はラウンドテーブルで10人も座れば満席なのですが(昨日もちょうど10人でした)、オンライン・システムでどこからでも参加できるようになっていました。昨日もブラジルとアメリカの研究者が参加していました。画面の向こう側から議論に割って入るのは実際には難しそうですが、聴講する分には問題なくできるみたいです。議論の交通整理は、夏に日本に来てワークショップをやってくれたタテオ先生とマルシコ先生が主にやっていました。
とはいえ、基本的なアプローチの違いについて当面埋まりそうにない溝もはっきりしました。私のように身体性認知に立ち位置がある研究者は「知覚と行為」という一階の経験から始めますが、文化心理学は、心的過程が記号によって媒介されていることを前提として話を始めます(とくにヴァルシナーさんの立場はそうです)。昨日は離人症を題材に心身関係を考える話題だったのですが、文化心理学的には症状の「意味」のほうにダイレクトに関心が向かってしまい、身体経験の感覚・知覚レベルでの変異から始めて症状の核心に迫りたい私からすると、議論すればするほどアプローチの違いが浮き彫りになる印象でした。
それで、後になって思い出したのが2013年の札幌での心理学会です。文化心理学と生態心理学をテーマにしたシンポジウムが心理学会であって、あのときは、ギブソンの著作に出てくるポストの知覚をめぐって、「ポスト」という記号的意味に媒介された知覚が重要なのか、光学的流動を通じてポストの投函口のアフォーダンスが知覚できることが重要なのか、突っ込んだ議論になっていた記憶があります。企画に関わっていた先生たちも豪華で、かなり刺激的な議論を聞けました。
このあたりのアプローチの違いは、昨日も議論していて思いましたが、心身問題にどのくらい重きを置いて心理学を見るか、という方法論的な違いと深く関係するので、簡単な答えはなさそうです。ですが、心理学方法論に関する大事な論点ではあるので、引き続き考えたいと思っています。
た
2017年2月17日金曜日
2/22 K-Seminar@Aalborg University
すでに来週に迫っていますが、デンマークのオールボー大学で話をしてきます。文化心理学研究センターの関係者がやっている「Kitchen Seminar」という研究会です。
Centre for Cultural Psychology / Kitchen Seminar
初めて参加する研究会なのでどういう趣旨の場なのかよく知らないのですが、もともとはヴァルシナーさんがアメリカのクラーク大学にいた頃に始めたらしいです。執筆中の論文のアイデアを持ち寄って自由に意見を出し合うのが慣例なんだとか。「キッチン」はそういう意味でのフランクな議論を象徴する場所なんでしょうか。日本語で言うと「井戸端会議」っぽいですね、なんとなく。しかし「井戸端会議」なんていう名称の研究会は端的に「ない」ですね。
私は書き上げたばっかりの離人症がらみの論文について話してきます。文化心理学の議論とは一見したところあまり関係がないので、問題意識を共有してもらうのに丁寧に時間を使うほうがよさそうです。
た
Centre for Cultural Psychology / Kitchen Seminar
初めて参加する研究会なのでどういう趣旨の場なのかよく知らないのですが、もともとはヴァルシナーさんがアメリカのクラーク大学にいた頃に始めたらしいです。執筆中の論文のアイデアを持ち寄って自由に意見を出し合うのが慣例なんだとか。「キッチン」はそういう意味でのフランクな議論を象徴する場所なんでしょうか。日本語で言うと「井戸端会議」っぽいですね、なんとなく。しかし「井戸端会議」なんていう名称の研究会は端的に「ない」ですね。
私は書き上げたばっかりの離人症がらみの論文について話してきます。文化心理学の議論とは一見したところあまり関係がないので、問題意識を共有してもらうのに丁寧に時間を使うほうがよさそうです。
た
3月3-4日:シンポジウム「Civilization Dialogue」
来月3-4日、コペンハーゲン郊外にある東海大学ヨーロッパ学術センターで、以下のイベントがあります。
2nd Civilization Dialogue between Europe and Japan
リンクをたどるとプログラムの詳細が見られます。今回は、東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターの共催イベントにしていただきました(感謝です)。
プログラムは、3日が文化心理学系の議論が中心、4日が文明研究系の議論が中心です。4日は、平野葉一先生が文明研究所で推進している「超領域人文学」プロジェクトに関連する議論が中心です。
2015年11月に続いてこれが2度目なのですが、前回は初回なのに予想以上に議論がかみ合っていました。残念ながら関係者以外の一般の参加者の方々とほとんど話ができなかった(というか来賓の対応で手一杯だった)ので、どういう方がオーディエンスとして来ていたのか詳細はわからずじまいでした。しかし、的を得た質問は多く出ていたので、大学院生や研究者が多そうではありました。
今年はもうちょっと来場者の方々と交流してみたいと思っています。たぶん、日本語・日本文化に関心のある方が多いのだと思いますが、その関心をいい意味で打ち破りたいなと思っています。エキゾティシズムに乗っかるイベントってつまらないので。
た
2nd Civilization Dialogue between Europe and Japan
リンクをたどるとプログラムの詳細が見られます。今回は、東海大の文明研究所と、オールボー大学の文化心理学研究センターの共催イベントにしていただきました(感謝です)。
プログラムは、3日が文化心理学系の議論が中心、4日が文明研究系の議論が中心です。4日は、平野葉一先生が文明研究所で推進している「超領域人文学」プロジェクトに関連する議論が中心です。
2015年11月に続いてこれが2度目なのですが、前回は初回なのに予想以上に議論がかみ合っていました。残念ながら関係者以外の一般の参加者の方々とほとんど話ができなかった(というか来賓の対応で手一杯だった)ので、どういう方がオーディエンスとして来ていたのか詳細はわからずじまいでした。しかし、的を得た質問は多く出ていたので、大学院生や研究者が多そうではありました。
今年はもうちょっと来場者の方々と交流してみたいと思っています。たぶん、日本語・日本文化に関心のある方が多いのだと思いますが、その関心をいい意味で打ち破りたいなと思っています。エキゾティシズムに乗っかるイベントってつまらないので。
た
2017年2月14日火曜日
青い読者に届きますように。
離人症関連の論文はあっさり第一稿を書き終わってしまいました。リライトまでしばらく原稿を寝かせておくことにして、次の仕事。単著の初校です。
出版社(今回は北大路書房さんから出ます)から縦書きに変換して送られてきたPDFファイルを読む。読みながら「あ〜自分の書いた文章だわー、これ」と再認識。横書きのものが縦書きになっても「自分っぽさ」はぜんぜん変わりませんね。むしろ縦書きではその印象が強まるようです。
何がか、というと… 全編を通じていろんなトピックに話が及ぶのですが、最後に必ず「いま・ここ・私」に問いが戻って来てしまうところが、なんとも「自分っぽい」のです。わたしの場合、研究を支える初発の動機が「実存」にあるところが昔から何も変わっていなくて、それが今回の著作でも随所に現れています。
もっとも、今回はそれを自覚して書いたものではあります。今回の著作のテーマは「自己アイデンティティ」ですからね。
ただし、アイデンティティ論といっても、従来の議論はすべてご破算にして書いてあります。エリクソンのような青年期の発達という観点もないですし、ジェンダーやエスニシティや階級のように、準拠集団との関係からアイデンティティを論じたものでもありません。近代的自己の話でもありません。そういうのはすべて脇にどかして、それでも残る「自己」に焦点を当てて書いてあります。
で、何が残るのかというと、「生きられたもの」としての自己です。学術的には「ミニマル・セルフ」です。自己を支える物語的な要素をすべて取り払ったとしてもまだ残る「自己」。それは、いまここで事実として生きられている自己に他なりません。
いつ、どこで、何をしているときであっても、ひとはそこに「私」が存在することを暗に感じています。どんな経験であれ、それは「私の経験」として生じてきますから。
これは「自分さがし」や「自己形成」という言葉で考えられている自己とは対極的です。その種の自己論は、自己を「探すべきもの」「作られるべきもの」として念頭に置いてしまいますが、ミニマル・セルフは最初からそこにあります。暗黙のうちに生きられているので、反省的な意識がそこに及びにくいだけのことです。
というわけで、今回の単著では、探したり作ったりする前にそもそも「生きられている自己」について、心の科学から関連する数多くのトピックを取り上げて考察しています。目次は固まっているので、以下、ご紹介。
---------------------------------------------------
『生きられた<私>を求めて』
第1部:自己の身体性
1章:身体と物体
2章:自己の身体と他者の身体
3章:鏡に映る身体
問いと考察
第2部:意識と脳
4章:意識・夢・現実
5章:脳と機械を接続する
6章:共感覚
問いと考察
第3部:他者の心
7章:問題としての他者
8章:心の科学と他者問題
9章:他者理解を身体化する
問いと考察
「自己」をめぐる議論って、ある面ではとても青くさい(青年期の発達課題として関心を持つ人がやっぱり多いテーマなので)のですが、それでもそういう議論って大事だよね、と思っている方々の元に届くよう願っています。いい意味で「青い」読者に届きますように。
ああ、でも…。こういう青さって、「厨二こじらせました」みたいなのと紙一重かもしれませんね(笑
た
出版社(今回は北大路書房さんから出ます)から縦書きに変換して送られてきたPDFファイルを読む。読みながら「あ〜自分の書いた文章だわー、これ」と再認識。横書きのものが縦書きになっても「自分っぽさ」はぜんぜん変わりませんね。むしろ縦書きではその印象が強まるようです。
何がか、というと… 全編を通じていろんなトピックに話が及ぶのですが、最後に必ず「いま・ここ・私」に問いが戻って来てしまうところが、なんとも「自分っぽい」のです。わたしの場合、研究を支える初発の動機が「実存」にあるところが昔から何も変わっていなくて、それが今回の著作でも随所に現れています。
もっとも、今回はそれを自覚して書いたものではあります。今回の著作のテーマは「自己アイデンティティ」ですからね。
ただし、アイデンティティ論といっても、従来の議論はすべてご破算にして書いてあります。エリクソンのような青年期の発達という観点もないですし、ジェンダーやエスニシティや階級のように、準拠集団との関係からアイデンティティを論じたものでもありません。近代的自己の話でもありません。そういうのはすべて脇にどかして、それでも残る「自己」に焦点を当てて書いてあります。
で、何が残るのかというと、「生きられたもの」としての自己です。学術的には「ミニマル・セルフ」です。自己を支える物語的な要素をすべて取り払ったとしてもまだ残る「自己」。それは、いまここで事実として生きられている自己に他なりません。
いつ、どこで、何をしているときであっても、ひとはそこに「私」が存在することを暗に感じています。どんな経験であれ、それは「私の経験」として生じてきますから。
これは「自分さがし」や「自己形成」という言葉で考えられている自己とは対極的です。その種の自己論は、自己を「探すべきもの」「作られるべきもの」として念頭に置いてしまいますが、ミニマル・セルフは最初からそこにあります。暗黙のうちに生きられているので、反省的な意識がそこに及びにくいだけのことです。
というわけで、今回の単著では、探したり作ったりする前にそもそも「生きられている自己」について、心の科学から関連する数多くのトピックを取り上げて考察しています。目次は固まっているので、以下、ご紹介。
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『生きられた<私>を求めて』
第1部:自己の身体性
1章:身体と物体
2章:自己の身体と他者の身体
3章:鏡に映る身体
問いと考察
第2部:意識と脳
4章:意識・夢・現実
5章:脳と機械を接続する
6章:共感覚
問いと考察
第3部:他者の心
7章:問題としての他者
8章:心の科学と他者問題
9章:他者理解を身体化する
問いと考察
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「自己」をめぐる議論って、ある面ではとても青くさい(青年期の発達課題として関心を持つ人がやっぱり多いテーマなので)のですが、それでもそういう議論って大事だよね、と思っている方々の元に届くよう願っています。いい意味で「青い」読者に届きますように。
ああ、でも…。こういう青さって、「厨二こじらせました」みたいなのと紙一重かもしれませんね(笑
た
2017年2月10日金曜日
3/5 シンポジウム「精神医学の哲学」
某MLでI先生(って別にイニシャルで書かなくてもいいのか、石原孝二先生です)から下記の情報が回ってきました。3月5日(日)、駒場でシンポジウムがあるとのこと。
シンポジウム「精神医学の哲学」2017年3月5日(日)9:30~17:30
東京大学駒場Iキャンパス18号館ホール
シリーズ『精神医学の哲学』の刊行記念イベントです。フックス先生の論文の訳者として私も企画に加えていただいたので、このイベント、日本にいれば参加したかったです。ちなみにフックス氏の論文は、シリーズ第1巻「精神医学の科学と哲学」に収められています(第4章「現象学と精神病理学」)。
いわゆる「現象学的精神病理学」の近年の成果をコンパクトにまとめた論文で、訳していてとても勉強になったのですが、やや気になったことがありました。
これは現象学的精神病理学の全体に当てはまる論点でもあるのでしょうけれど、患者の視点に沿って一人称的に症状や疾患を記述しているようでいて、どうしても記述が本質主義に流れそうな場面があります。
つまり、記述が行き届いているほど「統合失調症とは〜である」「自閉症とは〜である」という書き方で、症状の向こう側にあたかも「本質」があるかのように記述される部分があり、実際の症状の多様性がともすると見えない記述になってしまう欠点があるのですね(フックス氏本人はこの点の問題はよく自覚している方と思いますが)。
そもそも、精神疾患の症状は(同一の名称で診断される状態だとしても)きわめて多様で、本人にとってさえ言葉にするのは容易ではありません。このあたりの多様性を見ていくには、当事者と協力して語りの地平を拡大して記述を豊かにすることが必要でしょう。
また、それによって疾患の概念を考え直すこととか、日常的経験と精神疾患との連続性を見出していく、といった作業も大切だと思います。日常性とは断絶した「狂気」という本質があるかのような見方を取らないためにも、これは重要です。
現象学的には、精神病理学の知見は本来、「間主観性」の地平を日常性の側から外に向かって広げていくうえで大事なのであって、「狂気」という本質を向こう側に立てて日常性の側を維持することが大事なのではない、ということです(少なくとも私はそう思います)。
…あ、精神科医でもない人間が口を出しすぎましたね。このへんでやめておきます。ともあれ、『精神医学の哲学』は、「当事者」という切り口も含めて、とても重要なシリーズになっていると思います。ご一読のほどを。東京大学出版会から出ています。
た
シンポジウム「精神医学の哲学」2017年3月5日(日)9:30~17:30
東京大学駒場Iキャンパス18号館ホール
シリーズ『精神医学の哲学』の刊行記念イベントです。フックス先生の論文の訳者として私も企画に加えていただいたので、このイベント、日本にいれば参加したかったです。ちなみにフックス氏の論文は、シリーズ第1巻「精神医学の科学と哲学」に収められています(第4章「現象学と精神病理学」)。
いわゆる「現象学的精神病理学」の近年の成果をコンパクトにまとめた論文で、訳していてとても勉強になったのですが、やや気になったことがありました。
これは現象学的精神病理学の全体に当てはまる論点でもあるのでしょうけれど、患者の視点に沿って一人称的に症状や疾患を記述しているようでいて、どうしても記述が本質主義に流れそうな場面があります。
つまり、記述が行き届いているほど「統合失調症とは〜である」「自閉症とは〜である」という書き方で、症状の向こう側にあたかも「本質」があるかのように記述される部分があり、実際の症状の多様性がともすると見えない記述になってしまう欠点があるのですね(フックス氏本人はこの点の問題はよく自覚している方と思いますが)。
そもそも、精神疾患の症状は(同一の名称で診断される状態だとしても)きわめて多様で、本人にとってさえ言葉にするのは容易ではありません。このあたりの多様性を見ていくには、当事者と協力して語りの地平を拡大して記述を豊かにすることが必要でしょう。
また、それによって疾患の概念を考え直すこととか、日常的経験と精神疾患との連続性を見出していく、といった作業も大切だと思います。日常性とは断絶した「狂気」という本質があるかのような見方を取らないためにも、これは重要です。
現象学的には、精神病理学の知見は本来、「間主観性」の地平を日常性の側から外に向かって広げていくうえで大事なのであって、「狂気」という本質を向こう側に立てて日常性の側を維持することが大事なのではない、ということです(少なくとも私はそう思います)。
…あ、精神科医でもない人間が口を出しすぎましたね。このへんでやめておきます。ともあれ、『精神医学の哲学』は、「当事者」という切り口も含めて、とても重要なシリーズになっていると思います。ご一読のほどを。東京大学出版会から出ています。
た
2017年2月5日日曜日
編集作業の一日
や〜っと終わったよ〜
朝から編集作業。さっき日付が変わってしまったので、休憩時間をのぞいても結局12時間ぐらい作業してたことになるのか。あぁ、土曜日を丸一日事務作業に費やしてしまった。
何をしてたかというと、来月3-4日に東海大の文明研究所が主催する国際会議の予稿集の編集です。
1年前に初めて、コペンハーゲン郊外にある東海大のヨーロッパ学術センターで「日欧間の文明対話」と題する二日間のイベントを組んだのですが、学内外でけっこう反響があったので今年度もかの地で開催する運びになった次第。
それはいいのですが、予稿集を編集していて改めて気になったことが。
わたしは、所属先の大学の付属研究所である「文明研究所」で「所員」という任務を拝命して今年で3年目になるのですが、「文明」って自分にはいまだに難しいのですよね。なんというか、概念としてすっきり理解できないのです。
もちろん、文明に直結するイメージはあるのですよ。わたしの場合は「近代文明」というイメージが強くて、都市化、産業化、科学知と技術の進歩、人権や民主主義の思想、個人主義、政教が分離した近代国家、などなど。これらは、古代文明や地域文明よりも、自分の中ではずっと突出したイメージになっています。
ただ、こういうイメージの問題じゃなくて、そもそも「文明」ってどう定義できるの、というところですっきりした考えが持てないのです。
さしあたりの解答としていつも念頭に置いているのが、「文明」じゃなくて「Civilization」という英語。人間を「Civilize」するものが「Civilization」だとして、そもそも「Civil」って公共的な市民のことを言うんでしょうから、公共の場所で市民として生活を送れるような状態に人を変えていくさまざまな慣習、規範、制度、組織、権力などの集合をCivilizationと考えてみようと。
こういう見方を取ると、身体論的には多少すっきりします。要は、いまだ公共化されていない乳児(だけに限らず)の身体を、他者との関係のなかでCivilizeしていくものをCivilizationと見ればいい。すると、Civilizationとは、身体に内在して、公共的な身体として成立させているいろいろなコードや力として見えてきそうなのですよ。
衣服、性規範、テーブルマナー、しぐさ、などなど。肌をどう隠すかとか、誰とセックスするかとか、みんなで何を食べるかとか、そういうミクロな行為のなかに、人々がみずからの身体に内在化させた「文明」なるものを理解する手がかりが潜んでいそうですよね。身体論的には、「その行為」をすることで公共の一員になれる行為の集合=文明、とさしあたり言えるかもしれない。フーコーから学べるものがたくさんありそうですね。
予稿集を編集していて、そういう「さしあたりの解答」を改めて考えていました。
もちろん、原稿にはそれとは全然ちがったしかたで文明について「おっ」て思わせてくれる発表もいくつかあったので、当日が楽しみです。
た
朝から編集作業。さっき日付が変わってしまったので、休憩時間をのぞいても結局12時間ぐらい作業してたことになるのか。あぁ、土曜日を丸一日事務作業に費やしてしまった。
何をしてたかというと、来月3-4日に東海大の文明研究所が主催する国際会議の予稿集の編集です。
1年前に初めて、コペンハーゲン郊外にある東海大のヨーロッパ学術センターで「日欧間の文明対話」と題する二日間のイベントを組んだのですが、学内外でけっこう反響があったので今年度もかの地で開催する運びになった次第。
それはいいのですが、予稿集を編集していて改めて気になったことが。
わたしは、所属先の大学の付属研究所である「文明研究所」で「所員」という任務を拝命して今年で3年目になるのですが、「文明」って自分にはいまだに難しいのですよね。なんというか、概念としてすっきり理解できないのです。
もちろん、文明に直結するイメージはあるのですよ。わたしの場合は「近代文明」というイメージが強くて、都市化、産業化、科学知と技術の進歩、人権や民主主義の思想、個人主義、政教が分離した近代国家、などなど。これらは、古代文明や地域文明よりも、自分の中ではずっと突出したイメージになっています。
ただ、こういうイメージの問題じゃなくて、そもそも「文明」ってどう定義できるの、というところですっきりした考えが持てないのです。
さしあたりの解答としていつも念頭に置いているのが、「文明」じゃなくて「Civilization」という英語。人間を「Civilize」するものが「Civilization」だとして、そもそも「Civil」って公共的な市民のことを言うんでしょうから、公共の場所で市民として生活を送れるような状態に人を変えていくさまざまな慣習、規範、制度、組織、権力などの集合をCivilizationと考えてみようと。
こういう見方を取ると、身体論的には多少すっきりします。要は、いまだ公共化されていない乳児(だけに限らず)の身体を、他者との関係のなかでCivilizeしていくものをCivilizationと見ればいい。すると、Civilizationとは、身体に内在して、公共的な身体として成立させているいろいろなコードや力として見えてきそうなのですよ。
衣服、性規範、テーブルマナー、しぐさ、などなど。肌をどう隠すかとか、誰とセックスするかとか、みんなで何を食べるかとか、そういうミクロな行為のなかに、人々がみずからの身体に内在化させた「文明」なるものを理解する手がかりが潜んでいそうですよね。身体論的には、「その行為」をすることで公共の一員になれる行為の集合=文明、とさしあたり言えるかもしれない。フーコーから学べるものがたくさんありそうですね。
予稿集を編集していて、そういう「さしあたりの解答」を改めて考えていました。
もちろん、原稿にはそれとは全然ちがったしかたで文明について「おっ」て思わせてくれる発表もいくつかあったので、当日が楽しみです。
た
2017年2月2日木曜日
真っ赤。
論文、書いてます。
ガチで書いてます。離人症の経験の意味について。
完全に「ギアが入った状態」と言えばいいんでしょうか。
今週は頭の中がほとんど「真っ赤」になった状態で書いてます。
「赤」…別に政治的な意味はありません。
「血まなこ」という「眼」のメタファーを「頭」に置き換えると「頭の中が真っ赤」という感じなのです。
しかし、こういうタイミングに限っていろいろ茶々が入るのですなぁ、不運なことに。
なぜだか、事務的な対応が必要な案件が次々やってきます。しかも日本から。
英語で論文書くのとは明らかに脳内の違う場所を使ってるのが体感できますな。
こういう事務作業、気分転換にうまく使えるようになるといいんですが。
論文とか著作を書くのが早い先生たちは、事務作業をうまく執筆の気分転換に使ってるんだろうなぁ。
K先生とか上手そうだもんなぁ、こういう作業の切り替え。
見習わねば。
た
ガチで書いてます。離人症の経験の意味について。
完全に「ギアが入った状態」と言えばいいんでしょうか。
今週は頭の中がほとんど「真っ赤」になった状態で書いてます。
「赤」…別に政治的な意味はありません。
「血まなこ」という「眼」のメタファーを「頭」に置き換えると「頭の中が真っ赤」という感じなのです。
しかし、こういうタイミングに限っていろいろ茶々が入るのですなぁ、不運なことに。
なぜだか、事務的な対応が必要な案件が次々やってきます。しかも日本から。
英語で論文書くのとは明らかに脳内の違う場所を使ってるのが体感できますな。
こういう事務作業、気分転換にうまく使えるようになるといいんですが。
論文とか著作を書くのが早い先生たちは、事務作業をうまく執筆の気分転換に使ってるんだろうなぁ。
K先生とか上手そうだもんなぁ、こういう作業の切り替え。
見習わねば。
た
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