2021年12月28日火曜日

ソーシャル・コンストラクショニズムと対人支援の心理学

1件告知です。

能智正博先生と大橋靖史先生の編集による書籍『ソーシャル・コンストラクショニズムと対人支援の心理学』が新曜社からもうすぐ発売されます。編集を担当した大谷さんが送ってくれた見本の奥付には2021年12月31日の発行日が記されています。大晦日!の発行です。発行日が大晦日に設定されることもあるんですね、珍しい。

ちなみに、この本もコロナ禍でかなり編集に時間がかかった1冊になります。もともとは2018年3月に『ソーシャル・コンストラクショニズム』で知られるヴィヴィアン・バー氏が来日した際のシンポジウムから始まって企画されたものですが、書籍の企画と刊行に三年半以上かかっています。ただ、時間をかけただけのことはあって、執筆陣はシンポジウムのメンバーから大幅に増員されていますし、内容も幅広く充実したものになっています。

田中も、シンポジウム当日の議論を大幅に増補して以下の原稿を寄稿しました。

第2章「現象学的心理学の立場から-ソーシャル・コンストラクショニズムとの対話と直接経験を超える心理学」

今回初めて「直接経験を超える心理学」という言葉を使いました。現象学的心理学はもともと「生きられた経験」を捉えることを得意としているのですが、この種の「直接経験」にこだわるのはいいとしても、そのこだわりだけが強すぎると、目の前で起こっていないことをトータルに想像することで経験の構造を見抜く力が弱くなってしまいます。この点を補完する上で役立つのがソーシャル・コンストラクショニズムの発想である、という趣旨の原稿です。現象学もソーシャル・コンストラクショニズムも、知覚される世界が客観的に実在するという発想を拒否するところに共通点はありますから、両者の間で対話は十分に可能なはずです。その対話に成功しているかどうかは、読者の判断に委ねます。

…というわけで、ぜひ本書を手に取っていただければ幸いです。

2021年12月26日日曜日

年を越したい…

いつ頃からか、 「年を越す」という感じを持てないまま毎年元日を迎えるようになった。「年を越す」という言葉の含意もいろんな読み解き方がある気はするが、少なくとも自分にとっては「気持ちを新たにして新年を迎える」という感じをともなう言葉である。年内に片付けるべき仕事を終えて「仕事納め」のような気持ちの区切りになる場面がないと「年を越す」という感じにならないのだ。

40代になった頃からだろうか。年末年始に何かしらまとまった仕事を抱えるようになって(仕事をいただくこと自体はもちろんありがたいことではあれど)、仕事納めもできないまま元旦になってしまい、結局「あ〜、また年をまたいで仕事することになってしまった…」と何やら情けない気分(かつ同居する家族に申し訳ない気分)になるのである。気持ちに区切りをつけて「年を越す」ではなくて、仕事も気持ちも区切りがつかないままずるずる「年をまたぐ」という感じ。

で、今年はなんとか「年を越す」を味わいたいのである。今日、とりあえず年内最後のトークを研究会で行った(PPP研究会という精神医学の哲学関連の研究会だ)。で、今週はその準備と同時進行で研究室の引っ越しが勤務先であったため、その最低限の荷解きを明日はする。その後は、認知科学の講座本の原稿書き。あと10000字ぐらい詰め込めば書き終わる。なんとか28〜31日の4日間で片付けられれば「年を越す」を久々に味わえるのだけれど…

2021年12月22日水曜日

「環境と文明」シンポジウム

いつもお世話になっている東海大学新聞の記者、川島省子さんが、先日開かれた東海大学文明研究所のシンポジウムの模様を記事にしてくれました。

2021/12/22「文明研究所が「環境と文明」をテーマに「『文明間対話』サテライト・シンポジウム」を開催しました

記事の冒頭にこんな風にあります--「本研究所は、本学が建学の理想として掲げている「調和のとれた文明社会の建設」を実現するための基礎的研究の場として1959年に創設。」

東海大学はもともと理工系の大学として始まった関係で、発展する近代の科学技術が地球の資源を大量消費することで成立していることに、創立者の松前重義が早くから危機意識を持っていたと聞きます。なので、日本が高度成長期にあった1959年(昭和34年)に早くも「文明研究所」なる組織を設置して、「調和のとれた文明社会の建設」に資する研究を後押ししようとしたのですね。

「文明研究所」という名称だけを聞いてもいまいちピンと来ない人が多いかもしれません。が、現代社会のさまざまな問題を「文明批判」という観点で読み解く、という文脈で考えれば、こういう組織にも大きな役割があるような気がします。環境問題はそうした文脈の代表なのでしょうが、「グローバリゼーションとナショナリズム」「生命・情報テクノロジーと人間の未来」など、考えるべき問題の文脈は他にいくつもありますね。

当日は環境問題がテーマで、私は久しぶりに東北のランドスケープの話をしました。2015年に、東日本大震災後の東北のランドスケープが防潮堤の建設で大きく変わっていく可能性があることを論文で指摘したのですが、今回、準備のために東北の現状を調べてみると、やはり明らかに悪い方向にランドスケープが変わっているように見受けられます。

石巻市雄勝町がもっとも分かりやすい事例ですが、ランドスケープを写真で見る限りほぼ別の村に変貌しています。10m近い防潮堤を陸と海の間に張り巡らせるのですから、そりゃあそうですよね。人口も震災以前の1/3以下に減少しています。津波対策で安全になったから良かったとも言えますが、そもそも住む人がいなくなれば防潮堤にも存在意義がなくなるってもんでしょ? 防潮堤で変貌した三陸のランドスケープ、いずれ自分の目で確かめに行きたいと思っています。

2021年12月14日火曜日

再掲:人間科学研究会(12/18オンライン開催)

 今週末に以下の内容で研究会を開催します。ご関心のある方はどなたでも参加できますので、以下のフォームからお申し込みください。「人間科学研究会」は、現象学的な方法にもとづく質的研究を、心理学・教育学・看護学・社会福祉学など対人支援分野で実践することを支援する研究会です。現場での現象学の応用に関心がある方々への参加を広くお勧めします。

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第2回人間科学研究会(共催:第89回心の科学の基礎論研究会)

2021年12月18日(土),13:30〜17:30

オンライン開催(Zoom利用)

申込方法:以下のフォームより、12月17日18時までにお申込ください。ZoomのIDは登録されたメール宛にお送りします。

→申込フォーム:https://forms.gle/JTgHL65hKnsCgdnJ9

<プログラム>

13:30-13:40 開会の挨拶「人間科学研究会とIHSRC開催の経緯」 田中彰吾

13:40-15:15 講演1「直接経験を超える質的心理学に向けて」 田中彰吾(東海大学)

 現象学的な質的研究では、生活世界における「生きられた経験」について、当事者へのインタビューを通じて接近することが試みられる。そこでは一般に、(1)記述的方法:データを読み込みながら心理学的意義を特定し、一般化できるような経験の構造を抽出する、(2)解釈的方法:データに表出しているさまざまなテーマを特定し、テーマの相互関係から経験の意味を全体として理解する、等の方法が用いられる。これらの方法によって各種の「生きられた経験」が明らかにされれば、対人支援の現場で役立つ知見を提供することができるだろう。ただし、こうした作業だけでは、経験をトップダウンに構造化する社会的な作用(時代的要因、社会的権力、文化的背景など)との関係で、人々の「生きられた経験」に迫ることはできない。この報告では、イギリスの現象学的心理学者ラングドリッジによる「批判的ナラティブ分析」を参考にして、「生きられた経験」に影響を与える社会的作用を可視化する方法とその意義について考える。

15:15-15:30 休憩

15:30-17:30 講演2「生態学的現象学とポスト現象学」 河野哲也(立教大学)

 生態学的現象学は、現象学とJ・J・ギブソンの生態心理学を融合させた立場である。現象学は、経験がその当事者にとっていかなる意味を持って現れるのかを、一人称的な視点から記述しようとするものである。現象学では、経験の当事者とは身体的主体であり、主体を取り巻く世界は「私はできる」という運動志向性の相関項として現れる。それに対して、ギブソンの生態心理学は、動物を取り巻く環境をアフォーダンスに満ちたニッチとして捉える。私見では、運動志向性とアフォーダンスは対をなしており、これらの相関を分析することで環境と身体の相補性が理解でき、これを人間科学の基本的な方法論として考えることができる。さらに人間は、テクノロジーにより自らの身体性を拡張し、メディアにより人間関係を拡張する。テクノロジーにより拡張した主体を研究対象とする「ポスト現象学」(アイディ、ヴァービーク)と生態心理学が組み合わさることで、環境―技術―身体を分析できる人間科学の視座を獲得できるだろう。


リンク「心の科学の基礎論研究会」

https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro?authuser=0

本研究会の関連科研費:研究課題17H00903,20H04094,21K01989 

2021年12月13日月曜日

訳者みずからレジュメ作り(5)

今回はヒューバート・ドレイファスを扱った第8章。どうぞ。

ヒューバート・ドレイファスと認知主義への現象学的批判

ドレイファスが現象学の入門書に一章を占めるような時代になったのだなぁ。自分が院生だった頃はいまだ「現象学はドイツ語かフランス語で学ぶもの」という雰囲気が強くて、英語圏から入ってくる現象学の書はあまり信用されない傾向が残っていたように思う。当時『コンピュータには何ができないか』の翻訳もあったけど、現象学者としてのドレイファスが日本できちんと評価されているようには見えなかった。

私自身がドレイファスの書くものの価値を理解できるようになったのは、彼のスキル論の論文を読んでからだったと思う。ドレイファスの議論はメルロ゠ポンティの身体論を多く引用しているのだが、的確かつ一貫した読み方でメルロ゠ポンティを受容していて、ドレイファスの議論に頷くだけではなくて、メルロ゠ポンティの理解を深めるきっかけをもらった。

今となっては、ドレイファスから受け取った反表象主義的な身体と世界の見方からどうやって抜け出すかが自分の課題になってしまっているぐらいだ。

2021年12月8日水曜日

初校おわった!

気分がいい。単著の初校を220ページ分ぐらい日曜から三日間で一気にやり終えた。縦書きになって読むゲラは、自分で横書きで執筆しているときとはまた印象が変わる。著者の手を離れて少し距離ができると言えばいいだろうか。

あれこれ書く時間がないのでちょっとだけ頭出し。タイトルは『自己と他者-身体性のパースペクティヴから』。東京大学出版会から刊行される予定の「知の生態学の冒険」シリーズの1冊になる。遠からず出版会のホームページ等でシリーズ全9巻の執筆陣やタイトルなど告知が出るはず。その頃には目次など紹介できると思うので、お楽しみに。

2021年12月4日土曜日

息する身体

久しぶりに人体科学会の大会に参加中。10年ぶりぐらいかもしれない。いま博士課程で指導している院生の謝淇榕さんが呼吸について発表を行う予定があったからだ。

フロイトのヒステリー論に見られる心身論を「悪しき呼吸」の学習過程ととらえ、それを「良い呼吸」の学習へと転換する方法を探るというのが彼女の主なアイデア(私が指導した部分もあるので1/3ぐらいは私のアイデアでもある)。

発表の内容は以前から知っているので、彼女の発表を聴きながら、少し違うことを考えていた。呼吸は、自律神経が支配する不随意な過程であると同時に、体性神経の支配も受ける随意的な過程だ。

だとすると、一種の「運動」としてとらえていいことになる。普通の運動行為のように、何らかの対象に向かってはたらきかける(例えばコップをつかむように)、という契機がはっきりしないが、空気を取り入れて吐き出すという運動であるには違いない。

メルロ゠ポンティは、フッサールの志向性をインプリシットな行為の次元で捉え直して「運動志向性」を提唱しているが、もしかするとその延長で呼吸もまた運動志向性の一種として考えることができるのではないか。普通の運動志向性が、コップをつかむように、特定の対象へと向かっていく作用だとすると、呼吸の場合その対象は「空気」である。
 
この、呼吸が運動志向性を通じて向かっていく先の「空気」は、文脈に応じてさまざまな現れ方をするだろう。現象学的に言うと、それが「気」として感じられるものの正体ということになるかもしれない。呼吸を志向性として位置付けることで「気の現象学」を考えてみることができそうだ。

2021年11月28日日曜日

訳者みずからレジュメ作り(4)

すっかり定着したこのシリーズ。今回は第6章。

コイファー&チェメロ『現象学入門』

第6章 ジャン゠ポール・サルトル――現象学的実存主義

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現象学的認知科学を目指す本書にとっては、サルトルを扱った6章はやや中途半端な作りになっているかもしれない。

ただ、1節で論じられる「無」の概念を追いかけていくと、サルトルの独特の立ち位置がよくわかると思う。サルトルは、私が現在なそうとしている行為と、過去の事実とのあいだにそのつど「無」の隔たりがあるという。だからひとは自由であると同時に、自分自身を絶えず作り直さねばならない。「無」の隔たりがとても大きいとき、ひとは自由であるとともに不安をおぼえる。

サルトルはメルロ゠ポンティのように、知覚と行為が緊密に連動する姿を重視しながらも、両者がやはり「無」によって隔てられていることを重く見ている。知覚は、アフォーダンスのように行為への誘引を感じさせるが、実際の行為そのものとは異なる。現実の行為は、本人の選択によって実現されねばならない。だから知覚と行為のあいだにもやはり「無」の隔たりがあるということになる。

行動の自由と、それにともなう決断を強調する点で、サルトルは言ってみればとても倫理的なのだと思う。が、これでは「習慣」のように知覚と行為が一体化して、身体が世界になじんで生活が進行していく次元は記述できない。それはサルトル風に言うと一種の「自己欺瞞」ということになってしまう。

こういう捉え方は、一般的な認知科学の枠組みより、精神医学的な症状の記述のほうが使えそうな気がする。現在の一瞬一瞬に「無」が滑り込むという時間意識は、言ってみれば離人症の時間意識に近く見える面もあるし。そのうちちゃんと考えてみたい。

2021年11月18日木曜日

人間科学研究会(12月18日オンライン開催)

以下の内容で研究会を開催することになりました。ご関心のある方はどなたでも参加できますので、以下のフォームからお申し込みください。「人間科学研究会」は、現象学的な方法にもとづく質的研究を、心理学・教育学・看護学・社会福祉学など対人支援分野で実践することを支援する研究会です。現場での現象学の応用に関心がある方々への参加を広くお勧めします。

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第2回人間科学研究会(共催:第89回心の科学の基礎論研究会)

2021年12月18日(土),13:30〜17:30

オンライン開催(Zoom利用)

申込方法:以下のフォームより、12月17日18時までにお申込ください。ZoomのIDは登録されたメール宛にお送りします。

→申込フォーム:https://forms.gle/JTgHL65hKnsCgdnJ9

<プログラム>

13:30-13:40 開会の挨拶「人間科学研究会とIHSRC開催の経緯」 田中彰吾

13:40-15:15 講演1「直接経験を超える質的心理学に向けて」 田中彰吾(東海大学)

 現象学的な質的研究では、生活世界における「生きられた経験」について、当事者へのインタビューを通じて接近することが試みられる。そこでは一般に、(1)記述的方法:データを読み込みながら心理学的意義を特定し、一般化できるような経験の構造を抽出する、(2)解釈的方法:データに表出しているさまざまなテーマを特定し、テーマの相互関係から経験の意味を全体として理解する、等の方法が用いられる。これらの方法によって各種の「生きられた経験」が明らかにされれば、対人支援の現場で役立つ知見を提供することができるだろう。ただし、こうした作業だけでは、経験をトップダウンに構造化する社会的な作用(時代的要因、社会的権力、文化的背景など)との関係で、人々の「生きられた経験」に迫ることはできない。この報告では、イギリスの現象学的心理学者ラングドリッジによる「批判的ナラティブ分析」を参考にして、「生きられた経験」に影響を与える社会的作用を可視化する方法とその意義について考える。

15:15-15:30 休憩

15:30-17:30 講演2「生態学的現象学とポスト現象学」 河野哲也(立教大学)

 生態学的現象学は、現象学とJ・J・ギブソンの生態心理学を融合させた立場である。現象学は、経験がその当事者にとっていかなる意味を持って現れるのかを、一人称的な視点から記述しようとするものである。現象学では、経験の当事者とは身体的主体であり、主体を取り巻く世界は「私はできる」という運動志向性の相関項として現れる。それに対して、ギブソンの生態心理学は、動物を取り巻く環境をアフォーダンスに満ちたニッチとして捉える。私見では、運動志向性とアフォーダンスは対をなしており、これらの相関を分析することで環境と身体の相補性が理解でき、これを人間科学の基本的な方法論として考えることができる。さらに人間は、テクノロジーにより自らの身体性を拡張し、メディアにより人間関係を拡張する。テクノロジーにより拡張した主体を研究対象とする「ポスト現象学」(アイディ、ヴァービーク)と生態心理学が組み合わさることで、環境―技術―身体を分析できる人間科学の視座を獲得できるだろう。


リンク「心の科学の基礎論研究会」

https://sites.google.com/site/epistemologymindscience/kokoro?authuser=0

本研究会の関連科研費:研究課題17H00903,20H04094,21K01989 

2021年11月15日月曜日

訳者みずからレジュメ作り(3)

コイファー&チェメロの『現象学入門』、今回はメルロ゠ポンティを扱った5章のレジュメ。

第5章 モーリス・メルロ゠ポンティ――身体と知覚

私自身がメルロ゠ポンティを研究しているので細かいところで本書の記述に言いたいことがないわけではないが(メルロ゠ポンティを紹介するのにハイデガーに寄せ過ぎではないかという点)、やはりハイデガーの章に続いて入門書としてはよく出来ていると思う。シュナイダー症例については、昔なら木田元『メルロ゠ポンティの思想』がメルロ゠ポンティ自身の著作に当たる前のいい入り口になってくれていたが、本書はさらにコンパクトでかつ分かりやすい。

疑問が残るのは最後の4節か。知覚の恒常性の向こうに垣間見えており、知覚主体を離れて存在しているように見える「自然的対象」もまた、身体から切り離されてそれ自体として存在しているのではない、とコイファー&チェメロは解説している。が、他方で、あらゆる経験の地平として統一された世界があり、それが自然的対象を理解可能なものにしている、との記述を与えている。どう理解すればいいか、読者自身で確かめてみていただきたい。

2021年11月9日火曜日

途中経過

しばらく前に、認知科学の講座本に寄稿する予定の目次を記しておいた(「やっと少し時間がとれた」)。11月に学園祭期間で数日休みができたおかげで原稿を半分くらい実際に書くことができたので、今日はその経過報告。こんな感じで進んでいる。

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章題:「身体性に基づいた人間科学に向かって」
 
1節:心の科学と身体性の問題
 ・認知科学の始まりをふり返る
 ・行動主義と認知主義
 ・哲学的に整理すると…
 ・心身二元論がもたらした問題
 ・「私は考える」から「私はできる」の認知科学へ
 
2節:身体性認知とは何か
 ・認知は身体性に依存する
 ・ヘルドとハインの古典的実験
 ・概念化仮説
 ・置換仮説
 ・構成仮説
 ・4E認知

とりあえずここまで書いた。続きの節はこうなる見込み。
 
3節:これからの身体性認知を展望する
4節:来るべき人間科学のために

与えられた文字数が23000字なのだが、2節まで書いたところですでに14000字を超えている。このままで行くと3節まで書くとほぼ終わりになってしまうので、当初予定していた3節と4節はまとめて3節にして、あとは「結論」みたいな短い節にするほうがいいかもしれない。

前回も書いたけど、講座本に収録される原稿なのだから、きっちりと書くべき論点を整理して10年くらいは読むに堪えるものを書いておきたいと思っている。とくに、認知科学に関心のある人たち、研究をやってみたいなと思っている人たち向けに、しっかりした歴史的回顧と、魅力的な将来展望に満ちたものを書いておきたい。
 
そういう趣旨の文章を書くには、書き手の頭の中で哲学的な論点が整理できていなければならないのだが、書いてみてわかるのは、やはりメルロ゠ポンティが『知覚の現象学』でやろうとしていたプロジェクトが身体性認知科学を強く予見していたということ。加えて、今回改めて1節を書いていて気づいたのは、ギルバート・ライルが『心の概念』で試みていることは部分的にかなりメルロ゠ポンティの議論に近いということ。二人とも、スキルフルな身体的行為として実現されているものを「心的なもの」として理解しようとした先駆者だったのだ。

2021年11月6日土曜日

シンクロする身体…

明日、同名のシンポジウムがあるのだが、連想して少し思うことがあるのでメモしておく。現代日本に生きる人々の多くは、個体にもなりきれていないし、他者とシンクロすることもままならない、じつに中途半端な身体を生きていると思う。

シンクロする身体というと、他者と同調するイメージだけが先行するが、現実には、他者の身体とシンクロできるのは他者と差別化された個としての身体を持ち合わせている場合だけである。個体として成立していない身体は、どこまでいっても自他が分化されない「群れ」として生きざるを得ない。

群れとして生きる身体ほど危ういものはない。なんとなくその場の空気に流され、楽しく盛り上がっていたかと思うと、異他的な存在を見つけて群れで攻撃行動に走ったりもする。そういえば、ドゥルーズとガタリが「群れ」、ネグリとハートが「マルチチュード」という概念を使っていたが、ああいう概念で現代の民主主義を語るのはとても危うい。

戦略的に群れを実践できる主体が存在するならともかく、現実には個体にもなりきれず他者との協調もできないまま事実上の「群れ」として生きざるを得ないところに追い込まれているのが現代人である。そんな現代人にとっては、動物化する「群れ」を肯定する思想より、改めて個体性を引き受ける実存主義のほうが大事なのである。

2021年10月30日土曜日

「筋肉の鎧」

ヴィルヘルム・ライヒという風変わりだが興味深い思想家がいる。すでに60年以上前に亡くなっているが、性を媒介にして精神分析とマルクス主義を架橋する思想を構想した人物である。『セクシュアル・レボリューション』という著作が1970年前後の左翼運動の文脈でよく読まれていたと聞く。
 
私は彼の革命思想には興味がないが、その身体論に大学院生の頃関心を持って一時期よく読んだ。とくに『オルガスムの機能』は(タイトルが怪しいが)、フロイトがヒステリーや神経症を介して取り組んだ身体の問題の向こう側まで正確によく捉えている良書だと思う。フロイトはトラウマの経験とそれに続く神経症を「抑圧」という観点で理解したが、ライヒは抑圧がたんに心的な経験としてだけでなく、身体的な対応物として筋肉の緊張と習慣的な硬化をともなうことを指摘している。
 
とくに性にまつわるトラウマ的経験の抑圧は、たんにそれを無意識に追いやる心的メカニズムだけでなく、骨盤周辺の筋肉の硬直や横隔膜の硬化によって、いわば「感じない身体」を生理学的に作ることでも実現されている。硬直した筋肉のブロックは「筋肉の鎧」として身体に沈澱し、性を介して他者と世界を生き生きと経験することを妨げる。逆に、筋肉の硬直を体系的に取り除くことは、精神分析より直接的に抑圧を除去し、無意識と自我を再統合する機会を作る。この発想は、身体にはたらきかける心理療法として現在盛んに実践されている「ボディサイコセラピー」の源流になっている。
 
ライヒの身体論は20代のころ修士論文で踏み込んで取り上げたのだが、久しぶりにまとまった文章を書いた。いずれ出版する単著の一部である。刊行されるのはまだかなり先になりそうだが、とりあえず原稿を書き終えた余韻ということでここに記しておく。

2021年10月24日日曜日

なぜか「である調」

10月に入った頃からメインのホームページをこの場所に戻すことにして、画面のレイアウトや各ページを改めて整えた。で、ページ右下に「人気の投稿」を組み込んでみたのだが、それを見ると上位3記事はすべて「である調」で書かれている記事だった。
 
なぜなのだろう? 理由はよく分からない。たまたま検索されやすいワードが入っている記事だったのかもしれない。…が、とにかく上位に並ぶ記事は私がたまにしか使わない「である調」で書かれた記事である。
 
普段「です・ます調」で書いてきたのは、このページを訪れてくれる人への私なりの配慮のつもりだった。というのも「です・ます」は一種の丁寧表現で、読者と著者の二人称的な関係性が語尾に織り込まれているからだ。「である」は基本的には三人称的な立ち位置にある読み手に向けて使用される書き言葉なのに対して、「ですます」で書かれる文章は読者との関係をより強く意識している。
 
だが、こういう個人的な情報発信ページでその種の気遣いはそもそも不要なのかもしれない…と思い立ったので、しばらく「である調」で書いてみる。このほうが読み手に気兼ねすることなく自分の考えを独白できそうな気もするし、きっと書くことを通じて考える手助けになるだろう。上位記事が「である調」なのは偶然にすぎないと思うが、しばらく意図的にこれを使うことで散発的な思考を補助する手段にしてみる。

2021年10月23日土曜日

訳者みずからレジュメ作り(2)

コイファー&チェメロの『現象学入門』、前回のフッサールに続いて今回はハイデガーを扱った3章のレジュメを作りました。

S・コイファー&A・チェメロ『現象学入門――新しい心の科学と哲学のために』

第3章 マルティン・ハイデガーと実存的現象学

本書のハイデガーの解説は出色だと思います。『存在と時間』の核になるアイデアをこれだけ分かりやすくかつ端的にまとめたものに私は出会ったことがありません。本文がわかりやすいので訳者の私があえてレジュメを作る必要はないのかもしれませんが、本文を読むお供にご利用ください。

それにしても、本文最後にも書いてありますが、技能を根幹に据えて哲学を展開したハイデガーが「身体」も「知覚」もほとんど論じていないのは不思議です。身体や知覚を主題にすると近代哲学の主観・客観の二元論の落とし穴にはまり込んでしまうように考えていたからかもしれませんね。

2021年10月19日火曜日

イベント案内:シンクロする身体(11/7)

大学のメールボックスに差出人不明の怪しい封筒が届いていたので開封したらイベントのお知らせでした(笑 私も参加している科研費・新学術領域「顔・身体学」主催のシンポジウムが11月7日(日)に開催されるそうです。

公開シンポジウム「シンクロする身体-ポストコロナ社会における身体の未来像」

(オンライン開催、11/7(日)、14:00〜16:30、参加費無料)

シンクロする身体、タイトルが魅力的ですよね。タイトルだけではなくて、シンクロナイズド・スイミングで活躍された小谷実可子さん、田中ウルヴェ京さんのお二人もゲストで参加されるそうです。パネリストのお一人の東京大学の工藤和俊先生の研究室にアップされたポスターを見つけたので、上のリンクをたどってご覧ください。

引き込みや同調のような「関係を作る身体性」についての研究は今後ますます盛んになっていくと思います。このシンポでどんな議論が展開されるのか、要注目ですよ。

2021年10月17日日曜日

やっと少し時間がとれた

 …ので、自分の文章の執筆に取り掛かりました。といっても今日は目次を考えるだけ。東大出版会で認知科学の講座本を出す企画が進行中ということで、私も1章を寄稿する機会をいただきました。盟友の嶋田総太郎先生が編集を担当されるとのことで巻のタイトルもそのものずばり「心と身体-身体性認知科学」です。

自分の担当章の節立てはだいたいこんな感じでいこうかと思います。

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「身体性に基づいた人間科学に向かって」

1) 心の科学と身体性の問題

2) 身体性認知とは何だったのか

3) 心身と世界の相互作用

4) 来るべき人間科学のために

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なんだかこうやって書き出してみると尖りが足りないというか、いかにも常識的な節立てのような気がしてきますね。でも講座本ですし、むしろこういう平凡な見た目にしておいて文章の中身で攻める感じを出すほうがいい気がします。いずれにしても、せっかくの講座本なので10年ぐらいは読むに耐えるものを書けるよう努力しないと、ですね。

また査読した

先週末に引き続いて今週末もまた査読。今回のは自分の問題意識にけっこう近いものでした。自分にとっても学びになる論文の査読はいいですね。ブラインドレビューなので多言はできませんが。

それにしても、私に査読がこれだけ回ってくるということは、近しい分野の人たちはコロナ禍で執筆にたくさん時間が取れているんだろうと想像します。ほんと、いいなぁ。

2021年10月10日日曜日

気を取り直して

…自分の論文を投稿しました。今回は邦文、共著です。今年で最終年度になる科研費の共同プロジェクトが2件あるのですが、その成果を見据えて書いたものです。
・対人援助とセラピーにおける対話実践の身体性と社会性:対話空間のオラリティ研究
・困難を示す生徒・学生のための生態心理学的アプローチによる学習環境デザイン
 
今回は後者の研究代表者、札幌学院大学の森直久先生との共著です。共同研究を具体的に進めるあたりからコロナ禍になって学習環境が遠隔に変わってしまったので、対面とオンラインの会話の基礎的条件の違い、それがもたらす会話の質的差異について比較する研究に計画を切り替えました。論文では、対面での会話とZoomを使ったオンラインでの会話、1件ずつのデータを観察して分析しています。これは前者の「オラリティ研究」の趣旨にもぴったりです。
 
現物のデータを見ると、会話が進行するさいのキューやターンテイキングがいろいろ異なっているのがよくわかるのですよね。オンラインでは視線がキューにならないので、それに起因して発話者と聴取者の関係がうまくリンクしない点が対面とはいちばん違っていました。このあたりを「間身体性」というメルロ゠ポンティの概念で整理するのが今回の論文の眼目です。
 
今度は自分が査読を受ける番ですが、果たしてどんなお返事が返ってくるのやら。いずれにせよ、いい論文に仕上げて出版したいと思っています。
 

査読した

今年はやたらと査読の依頼が多いです。大半は英文誌ですが邦文も合わせると月1〜2回は必ず依頼が来るぐらいのペースです。おそらく、コロナ禍で引きこもって執筆に時間を費やしている同業者が増えているんだろうと思います。コロナ禍で大学の仕事が増えて執筆の時間が減っている私とは大違いで羨ましい限りです。
 
で、貴重な週末の時間を使って読んだ論文があまりにも不出来なのでリジェクトしました。私はかなり建設的な査読者なのでどこをどう直せば通るのかという視点でまずは読むのですが、こんなに出来の悪い論文を読んだのも久しぶりかも。内容は意識の進化についてのもので(詳しくは書けませんが)、自明なことばかりツラツラと書かれていました。依頼元の雑誌のクオリティを下げられないので理由をきっちり書いて却下。
 
…時間を無駄にしたというグチでした。

2021年10月8日金曜日

訳者みずからレジュメ作り

3年前に刊行したコイファー&チェメロの『現象学入門』ですが、今学期、某所で担当している大学院の授業で初めて教科書として使っています。教えるために自ら読み直す作業を行なっているのですが、その一環でみずからレジュメを作ってみました。
 
 
訳者みずからが作るレジュメですが、要約する過程で多少は中身を端折ってあります。ですが本書を初見の方にとっては、手元で参照しながら本文を読んでもらうと理解が早いのではないかなと思います。本文を読むお供にご利用ください。

『他者のような自己自身』第9研究

手短に。

同僚でフッサール研究者の村田憲郎氏と続けている読書会、ポール・リクール『他者のような自己自身』ですが、ようやく第9研究まで読み終えました。6月から第9研究を読み始めたのですが、ページ数が長いうえにお互い学内業務で忙しく、結局この章を読むだけで4ヶ月かかってしまいました。

第9研究(リクール『他者のような自己自身』)

レジュメだけでじつに19ページの長さです。こんなものを読む人はいないかもしれませんが、しかし、いつか誰かが見るかもしれないので公開しておきます。こういうものを置いていても物理的な空間を占めないところが電子ファイルの良さですね。

2021年9月18日土曜日

アイデア満載の論文

以前このブログで理化学研究所の入來篤史先生のラボを訪問したさいのことを書きました。

 「入来ラボを訪ねました」 

ご一緒した青山学院の鈴木宏昭先生も交えて、人類進化についていろいろと根源的な事柄を議論させてもらいました。その際の議論を入來先生が中心にまとめられた論文が出版されました。京都大学が発行している心理学の欧文誌「PSYCHOLOGIA」に掲載されています。J-STAGEからアクセスできます。 

THE SAPIENT PARADOX AND THE GREAT JOURNEY: INSIGHTS FROM COGNITIVE PSYCHOLOGY, NEUROBIOLOGY, AND PHENOMENOLOGY 

Atsushi IRIKI, Hiroaki SUZUKI, Shogo TANAKA, Rafael BRETAS VIEIRA, Yumiko YAMAZAKI 

副題に「認知心理学、神経生物学、現象学からの洞察」とある通り、人類進化をめぐって学際的な議論が展開されています。焦点は、ヒトはなぜアフリカを出て地球上の広範囲に生息地を広げたのか、さらには文明を各地で同時多発的に形成し始めたのか、という点にあります。 

「三元ニッチ構築」(神経ニッチ、認知ニッチ、環境ニッチが相互作用しつつ全体として進化する)という理論を入來先生は以前から展開されていますが、田中は「環境ニッチ」に対応する論考を分担しました。 

身体性認知から見ると、脳は「身体-環境」の相互作用の文脈に埋め込まれることでその機能を発揮しているように見えます。ヒトならではの「身体-環境」の相互作用には、直立二足歩行したこと、それにより前後軸-上下軸が分岐して「地平線」を発見したことがあります。 

直立して歩くには自己の立脚点を参照し、自己身体を世界空間内に明示的に位置づける必要があります。これは、自己身体を対象化し(身体イメージを作る)、さらに自己を世界に投射(プロジェクション)して位置付ける認知活動と密接に関わっていると思われます。つまり、身体認知、自己意識、世界内存在という一連の認知能力はすべて「直立二足歩行」という連環のなかにあるわけですね。 

こういう議論は、1980年代に活躍した身体論研究者の市川浩がすでに着想として持っていたのですが、人類進化という文脈に落とし込んで議論した現象学者は皆無だったと思います。 

詳細はぜひ上記論文をご覧ください。二次体性感覚野の神経科学研究、認知におけるプロジェクション科学の研究と連動して人類進化の問題が論じられています。これだけ文理融合的で豊かなアイデアを高いレベルで統合している論文はなかなか例がないだろうと思います。

2021年9月12日日曜日

備忘録

前回の更新が7月17日で2ヶ月近く経っているので備忘録を書いておきます。
 
この間とにかく雑多な対応で追われておりました。もともとコロナ絡みで大学の業務が増えているのに来年からカリキュラム改編が同時進行ということで、変更後の教養科目の内容を考えたり時間割を考えたり配置する教員の計画を立てたり、教務関係の対応だけで今年はエフォートの50%は取られています。
 
加えて私の場合は大学の業務が増えても研究は減らさない主義なので(というかもともと研究を続けたくて大学に残ったのだから学務のために研究できないなんて本末転倒もいいとこですし)、発表だったり執筆だったり査読だったり打合せだったりと、研究は研究で以前と同じように時間を取っています。
 
…そういう生活がたたるんでしょうね、職域接種でワクチンの二回目を打ったら副反応でダウンしました。関節痛と発熱で寝込んでしまい、副反応が過ぎた後も全身の倦怠感がお盆休みぐらいまでダラダラと続きました。なんとなくやる気が出ない状態でも、執筆とか査読とか「○○までに××を終える」というスケジュールが事前に決まっていると、自分の体調で変えられるわけでもないので、だる〜い体感を引きずりながら締め切りに合わせてずるずるといろんな仕事をしていました。
 
とはいえ、怪我の巧妙なんでしょうか、間延びした時間のなかで仕事をするとあっちこっちに思考が飛ぶし(いわゆるマインドワンダリングです)、そうするうちに突然蘇ってくる記憶がたくさんあったりして、思わぬしかたで人生をふり返る時間にもなっています。雑念が雑念を呼び込んで自分のライフストーリーをもういちど確認するような作業を意図せずやっている、というと良く言い過ぎている感じもしますが、それに近い状態です。天候不順もこれに輪をかけています。すっきり晴れない曇り空を見ていると、ぼんやりと考え事をする状態に入りやすいですよね。
 
ちなみに、間延びした時間の中でいろんなことを考えながら仕事をする状態、8月ほどではないものの今も続いています。これを機に仕事のスタイルが変わっていくのかもしれません。
 

2021年7月17日土曜日

Philosophy & Cultural Embodiment

身体性に関心のある若手研究者の皆さん向け情報。科研費・新学術領域研究の「顔・身体学」のプロジェクトで欧文誌が新たに創刊されました。研究者の方ならどなたでも投稿できますので、ぜひ原稿をお寄せください。

Philosophy & Cultural Embodiment

文化について身体性の観点から考察したい方、逆に身体性について文化の観点から考察したい方、哲学分野に限らず投稿を受け付けています。編集長に立教の河野哲也先生、ボードメンバーにはアントニー・チェメロやショーン・ギャラガーの名前も並んでいますよ。

創刊準備号(Vol.1, No.1)

上のリンクから創刊準備号をご覧になることができます。田中も「Boyond the "body-in-the-brain"」というタイトルで寄稿しました。幻肢を脳内現象に還元する見方を批判して、中枢-末梢を統合する見方を追求しています。また、幻肢を動かせることの意味や、幻肢の形の知覚についても見解を提示してあります。

ぜひご覧ください。

2021年7月6日火曜日

オックスフォードから出版されました!

前回記事からもう1ヶ月以上過ぎてしまいました。前回はあっという間に6月になっていたのですが、6月は5月よりさらに学内業務に追われてあっという間に7月が来てしまいました。ご無沙汰していてすみません。

それで、近況をここにつらつら書く暇もないので端的にお知らせを。3年越しで盟友のY・アタリアとS・ギャラガーとともに編集に取り組んでいた「Body Schema & Body Image」がついにオックスフォード大学出版局から刊行されました!

Yochai Ataria, Shogo Tanaka, & Shaun Gallagher (Eds.), (2021). Body Schema & Body Image: New Directions. Oxford, UK: Oxford University Press.

自分の業績を過去3年ぐらい振り返ると、間違いなくこれが一番の目玉になる仕事だと思います。目指したのは、身体性に関連する分野の研究者、とくに身体図式または身体イメージに関連する仕事を手がける研究者にとって里程標になるような仕事です。今後、body schemaまたはbody imageというテーマで研究している人はこの書に収録されている関連論文を読まないと最前線には立てませんよ!ぐらいの内容を目指しました。本当にクオリティの高い原稿を集めたので、実際そういう内容になっています。若手で頑張っているみなさんは、ぜひこの書に収録されている諸々の論文を乗り越えて先に進んでください。本書を無視して身体図式や身体イメージをうんぬんする研究者は今後モグリ扱いですよ〜

世界の第一線で活躍する研究者の原稿に混じって、日本で研究している自分の仲間たちの原稿をこの本に収録できたことも、個人的にはとても誇りに思っています。もちろん、私自身も「Body schema and body image in motor learning」というタイトルで1章を寄稿しています。皆様ぜひ目次だけでもご覧ください。

OUPウェブサイトのTable of Contentsに進むと目次が見られます

お知らせを書く時間しか本当に取れないので、今日はこれにて。

2021年6月3日木曜日

リクール『他者のような自己自身』第8研究

あっという間に6月。来年度のカリキュラム改革準備とコロナ対応とで大学の仕事に追われているうちに5月は過ぎてしまいました。グチってる暇もなく日々が過ぎていくばかりです。こんなことばかりに追われていると自分がだんだんアホになっていくような気がするので、気を取り直して読書会の話題を。村田憲郎先生による力作の『他者のような自己自身』第8研究のレジュメをアップしました。

ポール・リクール『他者のような自己自身』第8研究

「良い生き方」という倫理的目標が、「なすべきこと」という道徳的規範のテストにかけられる、というのがざっくりとした第8研究の趣旨です。…が、うーん、この章は今まで読んできた中で一番難解でした。カントの道徳理論が主題的に取り上げられているのですが、カントそのものというよりリクールのカント解釈が延々と繰り広げられていて、門外漢の私はついていけませんでした。それでなくても日々の業務でアホになっている中で読書会に合わせて自分を学者モードに戻すのは本当に大変です。

ただ、よく理解できた(気がする)のは、カントが「自律」「目的としての人格」「定言命法」から始めて理性によって基礎づけようとした道徳が、そのままでは完結できないというか、感性や情動や受動性といった次元を巻き込まざるを得ないような穴を持っているということです。まあ、当然といえば当然のことかもしれませんが、裏を返すと、道徳的規範もまた身体的存在としての人間どうしの関係から基礎付ける必要があるということです。それは一般的な関係性の中にある道徳を考えるときには当然の問題なのですが、他者のレベルが抽象化して「制度のレベルでの正義」を考えるときにはカントのやり方とは違った難しさをともなうはずです。メルロ゠ポンティのように身体的存在から始める哲学者が、社会契約や国家についてうまく語りきれていないように見えるのも、この点に関連しているように思います。

2021年5月15日土曜日

博士論文ってたいへん

昨年以降、大学院で博士論文の審査を引き受けるようになりました。昨年度は東海大学の同僚でもある鷹取勇希さんが文明研究専攻に提出された学位論文の主査をお受けしました。英文で300ページ近い大作で、最初から最後まで読み込むのが大変でした。もちろん書いている本人はもっと大変なのでしょうけれど、より良い論文にするために隅々まで読み込んでコメントする作業もなかなか大変でした。

どこまで改訂すれば学位に値するのかという判断をつけながら全体を読み込んで不足箇所を指摘するのは、ある意味で自分がどのような基準で学問をとらえているのかを自覚する作業でもあります。他人の学問への甘さは自分の学問への甘さであり、他人の学問への厳しさは自分の学問への厳しさでもあります。甘さと厳しさの両極のあいだで、「何が学位に値するか」を考えながら読み込むのは自分にとって新たな発見が多くありました。

また、仕事をお受けして、改めて自分の博士論文を審査した先生方も大変だったのだろうなと思いを馳せました。とくに私の博士論文はユングの共時性といういわば「鬼門」にあたるテーマを扱っていたので、なおさらだっただろうと思います。学位を取得して20年近くたって、改めて指導していただいた先生方に深く感謝した次第です。

…で、なんでこんな記事を書いているのかというと、ただいまカリフォルニアにある某大学院の学生の博士論文のexternal reviewer(学外の副査)をお受けしているからです。ちょうど明日までに全体を読み込んでコメントを返さねばならないので、昨日今日で「ボディワークにおける触れる経験」についての長大な博士論文を読んでいました。ワンテーマで書かれた200ページ以上の論文を読んでいるとさすがに頭の中がその主題一色になりますね。上がりきった脳内のボルテージを下げるために、ここに記事を書いて気分転換してみたのでした。

論文はハンズオン・ヒーリングにおける「触れる」経験を扱っているのですが、ボディワーカーにインタビューした内容を質的に分析していて、ものすごく深い内容になっています。どうやら、触れる経験というのは「気がふれる」という言い方にもあるように、狂おしいくらい深く傷つく経験をもたらす場合があるようです。ただ、その分、とても深く愛されていることを実感する癒しの経験でもあるということなんでしょうね。論文を読んで、触れることにともなう暴力と癒しの両義性を再発見した次第です。

さて、では本人向けにコメントを書くことにしましょうか…

2021年5月4日火曜日

「コミュニケーションの再考」記事

GWということでようやくまとめて原稿を書くモードに入っている田中ですこんにちは。以前こちらでも紹介しましたが、2月に登壇したイベントの記事がアップされたそうなのでご紹介します。

コミュニケーションの再考 / Frontier Session #2

このイベントは、オフィスデザインを手がける会社「フロンティア・コンサルティング」の社員さん向けトークセッションでした。パンデミックのためテレワークが広がり、仕事のスタイルが大きく変わりつつあります。そんな中で、オンラインとオフラインのコミュニケーションをどう考えればいいのか、身体性の観点からいろいろと話題提供しました。もちろん私も答えは持っているわけではありませんが…

当日お話したことの中には記事になっていないものも結構あったように記憶していますが、2時間弱のセッションをすべて文字化するのも難しいのでしょうね。上記リンク先はいわば当日のハイライトになっています。

当日、セッションでもご一緒した後尾志郎さんが開発された「tonari」というオンラインコミュニケーションのシステムを見学しました。フロンティアの社内に設置されているのですが、これがなかなか画期的でした。ほぼ等身大の大画面で大阪と東京のオフィスが画面を介してリアルタイムでつながっています。もちろん音声もかなり自然にやりとりできるという優れもの。上のリンク先で実際のイメージを見られます。

これだったら遠隔地の研究室と常時接続にしていろんな共同研究ができるなぁ、とうらやましくなりました。といっても、帰り際に後尾さんに導入費用をそれとなく聞いてみたら私がもらっている科研費より0の数が一個多い金額なので「やっぱダメか…」となったのですが。そのうち科研費の基盤Aとか取れるようになったらうちの研究室にもtonariを入れたいです。

2021年4月26日月曜日

研究者向け:ECogS 2021

前回の投稿からあいも変わらず新年度のもろもろの業務に追われている田中ですこんにちは。

今回は、身体性認知の分野に関心のある大学院生やポスドク向け情報です。沖縄にあるOIST(沖縄科学技術大学院大学)で身体性認知の国際会議が11月に予定されています。対面かオンラインか併用か、実際の運営はまだ検討中とのことですが、発表の募集が始まっています。

ECogS 2021 (International Conference on Embodied Cognitive Science 2021)

キーノートのメンバーがすごく豪華です(除く私)。この面々を見てください。これ、OISTに身体性認知の研究を牽引するトム・フロースさんがいるから実現できた企画なんだろうな。私にとっても、いろいろ話を聞いて学ばせてもらう機会になりそうです。

パンデミックが下火になれば沖縄で参加できる可能性もあるみたいなので、楽しみです。11月1日〜5日、沖縄のOISTにて。

2021年4月12日月曜日

動画を作ってみました


こんにちは。四月になって年度が変わり、あっという間に時間が過ぎていきますが皆さんお元気ですか。私もご多分にもれず毎日すごい量の仕事に追われっぱなしなのですが、その合間をぬって動画を作ってみました。


この本を書いたきっかけ

 

「この本」というのは拙著『生きられた〈私〉をもとめて-身体・意識・他者』(北大路書房・2017年)のことです。友人がツイッターで作ってくれた本書のbotにもフォロワーさんが増えてきたのと、今学期は大学の授業で初めてこの本を授業の教科書として使いたいというのとがあって、これから本書を手に取ってみようと思っている方のために簡単な案内動画を作りました。

動画でもお付き合いいただけると幸いです。

2021年3月22日月曜日

『他者のような自己自身』第7研究

研究アーカイブのページにリクール『他者のような自己自身』第7研究のレジュメを追加しておきました。

『他者のような自己自身』第7研究

この章では「善い生き方」が探究されます。生き方を考えるというのは昔から哲学の主題のひとつだったわけですが、リクールはこれをたんに個人の問題とはとらえず、他者との関係、制度との関係まで視野に入れて論じています。章の途中では「友愛」を題材にして他者との関係で「善い生き方」に考察がおよび、最後の節では「正義」を題材にして制度との関係で「善い生き方」についての考察がなされています。
 
現代人は、自分という個人の問題に切り詰めて生き方の問題を考えてしまいがちですが、自己が物語的なものであり、物語が言語によって語られるものだとすると、それは必ず語りの相手先である他者を必要とするわけです。したがって、善い生き方や「幸せ」はたんに個人や主観の問題ではなく、少なくとも他者との共生的関係が視野に入ったものでなくてはならないはずです。さらに言うと、他者は必ず共同体の一員としての他者でもありますし、自分の人生を語るストーリーは共同体の中での標準的な語りとの関係において実質的な意味を与えられる(他人のストーリーとの比較の中でしか自分のストーリーは際立った意味を持たない)わけですから、自己の生き方は他者や共同体のあり方とも切り離せないのですよね。…そういったことを考えさせられる章になっています。
 
ところで、本書を読んでいるとときどき抱く感慨があります。哲学者って良くも悪くも厨二病っぽいテキストを残す人物が多い(とくに著名な人物ほど)と思うのですが、リクールにはそういうところがまったくありません。文章に派手さやカッコ良さを感じることはないのですが、じつに味わい深い文章の書き手です。噛むほどに味が出るスルメみたいな哲学者ですねぇ。



2021年3月13日土曜日

書影が出ました:Body Schema and Body Image

ようやくアマゾンのページに書影が出ました!

Yochai Ataria, Shogo Tanaka, & Shaun Gallagher (Eds.). Body Schema and Body Image: New Directions. Oxford University Press.

盟友のヨハイ・アタリア、ショーン・ギャラガーとともに「身体図式と身体イメージ」と題する書籍を編集しました。当初からの念願かなってオックスフォードから出版します。単著を書くまでには及びませんが、共編著を学術書の最高峰から出版できるのはとっても嬉しいです。

長い道のりでした。「Body Schema & Body Image」と題する国際シンポジウムを東大の駒場で開いたのが2018年3月末。そこから出版企画書を書いて、執筆人から原稿を募って、出版社とやりとりして、原稿の査読と編集を重ねて、自分自身も原稿を書いて、さらに編者三人でイントロダクションを書いて、ゲラの校正をやって…と遠大な作業の連続がようやく終わりにさしかかっています。

でも、丸3年でここまでできたのだから、同種の書籍としては早かったかもしれません。そもそも企画書が通らないとか、原稿が集まらないとか、集まった原稿が使えないとか、いろいろな理由でこの手の書籍は途中でお蔵入りになってしまうことのほうが多いですし。まさに関係各位の協力の賜物です。

目次や内容のことなど、また追ってご紹介できればと思います。ひとまずご報告まで。


2021年3月1日月曜日

「第三種接近遭遇」シンポジウム動画

あっという間に三月ですね。

1週間前のイベントでしたが、YouTube上でシンポジウムの動画が公開されているのでご紹介します。

アカデミックとVRユーザをつなぐ学術イベント「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」第三部 (2021年2月21日)

3時間を超える長いシンポですが、後半のディスカッション部分はアバターの未来を考える面白い内容になっているんじゃないかと思います。ちなみに私が登壇した前週に行われた第二部も公開されています。

アカデミックとVRユーザをつなぐ学術イベント「Close Encounters of the Third Kind(第三種接近遭遇)」第二部 (2021年2月13日)

こちらは「顔・身体学」の山口先生も登壇されていて文化との関連への言及もありました。

VRに関心のある皆さま、ぜひお楽しみください。



2021年2月9日火曜日

イベント紹介

2月は例年入試の業務がありますが、その合間にいろいろとイベントに顔を出します。

 

その1。

こちらはすでに終了しましたが、4日にオフィスデザインを手がける会社「フロンティア・コンサルティング」の社員さん向けトークセッションにお邪魔してきました。テーマは「コミュニケーション再考」ということだったので、パンデミックで仕事のスタイルが変わるなかでオンラインとオフラインのコミュニケーションをどう考えるか、身体性の観点からいろいろと話題提供しました。詳細は近いうちに広報誌の「Worker's Resort」の記事になると思いますので、またご紹介します。

 

その2。

Close Encounters of the Third Kind (第三種接近遭遇)

なんだかタイトルが怪しげな魅力を放っていますが、アカデミックと現場をつなぐ学術イベント、とのことです。VTuberのよーへんさんが企画されています。VRユーザとVRに関心を持つ研究者でおしゃべりするイベントみたいです。

第一部〜第三部まであって、第一部はVRユーザによるアバター体験のプレゼン、第二部(2/13)、第三部(2/21)は研究者を交えたディスカッションという構成。田中は21日の第三部に出ます。鈴木宏昭先生(青学)、鳴海拓志先生(東大)、小鷹研理先生(名古屋市立)という面々とご一緒します。第一部には、科研費の新学術「顔・身体学」でお世話になっている中央大の山口真美先生も出られます。当日はYouTube上で生配信があるそうなので、お時間のある方はご覧ください。

●YouTube「Holographicチャンネル」で生配信

第一部 : [https://youtu.be/9MDKvzKGt90](https://youtu.be/9MDKvzKGt90)

第二部 : [https://youtu.be/Y6cY-IgRbNs](https://youtu.be/Y6cY-IgRbNs)

第三部 : [https://youtu.be/DZoknaDJzis](https://youtu.be/DZoknaDJzis)

 

その3。

WHAT'S NEXT: The Future of Embodiment

こちらはシンシナティ大学による哲学イベント。オンラインで、米国、アイルランド、エストニア、日本を結んで開催されるそうです。フライヤーをいただいたので下に貼っておきます。日本からはトム・フローゼさん(OIST)、河野哲也先生(立教大)、野中哲士先生(神戸大)が出られます。日本からの登壇者が並ぶ「PANEL 3」は、アメリカ時間だと午後4〜6時でいかにもシンポジウムにふさわしい時間ですが、日本では2月28日(日)の朝6時〜8時です。起きられるかな…。










2021年2月3日水曜日

河合塾「みらいぶっく」

河合塾、経産省、内閣府が連携して企画しいるウェブサイト「みらいぶっく」に田中の研究が取り上げられました。

からだが知っている! ~からだに宿る知性「身体知」の研究

最初に取材の問い合わせがあったのはいつだったか…なんかもう遠い記憶のかなたですが、ドイツで2回目の在外研究に行ったころだと思うので2016年ぐらいだろうと思います。その後紆余曲折があって企画が止まっていたようですが、ようやくページができたんだそうです。

高校生向けのページらしいのでこのブログの読者にはあんまり関係なさそうですが、いちおう広報ということでご紹介しておきます。研究者になりたいお子さんが周りにおられる方は、「みらいぶっく」のトップページを紹介してあげるといいかもしれません。

そういえば、高校生の頃の私は研究者になるなんてまったく考えてなかったなぁ。将来何になりたいのか考える前に、ひたすら暗く自分の実存的な悩みに打ちひしがれていたような記憶しかありませんね…。サルトルの『嘔吐』を最初に手に取ったのが高校2年の頃だったと思います。暗い高校生だな…思いだすのも恥ずかしい。


2021年1月24日日曜日

『他者のような自己自身』第6研究

リクール読書会も第6研究まで終わりました。長大な著作の半分は読み終えたことになります。村田憲郎氏による充実したレジュメをいただいたのでシェアしておきます。

リクール『他者のような自己自身』第6研究

ナラティヴ・セルフについて考えるうえでは、第5研究とこの第6研究が中核的な箇所になりそうです。重要な箇所を引用してみます。

「人生の物語的統一という概念については、やはりそこに作話の働きと生きた経験との不安定な混合を見るべきである。現実の生のまさににげやすい性格のゆえに、われわれはその生を事後に回顧しながら編成するために、フィクションの助けを必要とするのであり…」(209ページ)

なにげなく経験されている日々の出来事はそれ自体としては不安定だとリクールは見るわけですね。(瞬間ごとに生成する「生きられた私」を肯定する田中としては必ずしもそう思いませんが、それはともかく)私が経験するさまざまな出来事に安定した意味を見出すには、フィクションの助けを借りてそこに「筋立て」を見出していく必要がある。それができると人生が安定した物語の流れのうえに位置づけられ、「私はどこから来て、どこへ行くのか」という人生の展望を持つことができる、というわけです。

コロナ禍で歴史の転換点にあるように感じられる現在も、さまざまな「筋立て」を借りて人類が自分たちの物語的=歴史的な展望を描こうとしているように見えます。私たちは、どこへ行こうとしているのでしょうか。ソーシャルディスタンスもテレワークも遠隔授業も、人と人との「距離」をめぐる物語になっているように思います。生活のさまざまな面で、この距離が人と人との「分断」を肯定する物語として機能し始めているようにも見えるので、近頃かなり危惧を感じるようになりました。


2021年1月5日火曜日

明けましておめでとうございます

パンデミックに明け暮れた2020年がようやく終わりました。新型ウイルスの感染はまだ落ち着きませんが、ひとまず年が変わったことで鬱屈していた気持ちが少しは明るくなりました。

ところで、年始にたまたまこんな動画を見かけたのでその話題を。『サピエンス全史』で有名なユヴァル・ノア・ハラリの5年前のトークです。

New Religions of the 21st Century | Yuval Harari | Talks at Google

「21世紀の新しい宗教」と題されていますが、宗教というよりはテクノロジーの話でした。以下、話が面白くなってくる後半の要約です。

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近代に確立されたリベラリズムの価値観を打破するような宗教的価値観はあるだろうか。リベラリズムは政治や経済や倫理や教育など、社会のあらゆる面において、個人を価値の源泉とみなす考え方である。旧来型の宗教はリベラリズムに外側から修正を加えることはあっても内側から打破することはないだろう。

むしろ、個人を価値の源泉とみなすリベラリズムに対して、個人そのものを生化学的なアルゴリズムの集合に還元して理解するバイオテクノロジーの出現こそ、新しい宗教を準備するのではないか。産業革命の引き起こした変化に対抗して共産主義が新しい価値を打ち出したのと同じで、21世紀に新しい宗教があるなら、それはバイオテクノロジーの引き起こす革命に対応するものになるだろう。

バイオテクノロジーは個人の主観的な感情さえも生命科学的な法則性に還元し、個人の感じ方の正否を客観的に判定する。それはかつての宗教的権威が本人の行為の善悪を本人より良く判断できたのにも似ている。

たとえば、乳がんになるかどうかは今や遺伝子と確率の問題に還元されつつある。同様に、「何を読むべきか」「誰と結婚するか」といった個人的な判断は、本人の主観よりもデータベースと人工知能の判断に置き換えられつつある。つまり、「自分がどう感じるか」は自分自身の主観によるよりも、徐々に生命と情報のテクノロジーによって決定される方向に移行している。

ところで、生命はそもそも生化学的アルゴリズムの集合に還元できるのか。ハードプロブレムとして知られる問題は、生命の科学的法則がどのように主観的経験を生み出すのかを問うている。意識科学でハードプロブレムに答えが出されたわけではない。将来その答えに漸近するのかもしれないし、主観的経験は生化学的アルゴリズムに還元できないという結論に至るのかもしれない。

ただし一方で、宗教は、必ずしも真実を正しく伝える必要がないことも考慮するべきだろう。キリスト教の世界像は正しい世界像を伝えて来たわけではないが、正しい宗教として人々に信じられている時代があった。同様に、真実を正確に伝えるものになっていないとしても、生命と情報のテクノロジーが宗教のようなものになり、人々に信じられるることはあるのかもしれない。

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筋トレしながら聞いていたので必ずしも正確なまとめではないので悪しからず。ともあれ、ハラリは個人の主観にものごとの正否の判断をゆだねるリベラリズムの考え方に、生命と情報の科学・技術が挑戦することになる未来を予告しています。

しかし、生命と情報のテクノロジーが個人の主観に取って代わることにはならないでしょう。もちろん、個人の主観がだんだん外部のアルゴリズムに置き換えられる事態は進行するでしょうが、アルゴリズムの判断に沿って行為することで満足するかどうかというのは再び個人の主観の問題になるので、主観的判断と科学技術とのあいだでぐるぐると循環するループがどこまでも続きながら技術が進歩していくということにしかならないと思います。

むしろ恐ろしいのは、主観性と科学技術の循環するループが権力と結びつくときには簡単に全体主義的なディストピアが出現してしまいそうなことです。2021年の中国で起こっている個人情報の国家的管理はそういうディストピアに相当近づいているのではないでしょうか。